第28話 勇者(バグ)は、なぜ泣くのか
神様が空の彼方の純白の空間で冷たく宣言し、アルゲリア新世界というこの箱庭全体に設定された絶対的な完全初期化。
そのどうしようもない絶望へのカウントダウンを刻む、不吉な赤い巨大タイマー。
王宮のどん底にあるトラブルシューティング部門の低い天井で、それは休むことなく重く不快な命の数字を無機質に吐き出し続けていたッス。
『20:56:10』
それは絶望的だったスパゲッティコードの山の解消率が五十パーセントの折り返しを見事に超え、人間側の泥臭い処理スピードがついにシステムエラーの自然増殖を論理的に上回ったという希望の歓声が巻き起こった直後のこと。
この最高に油臭くて最高に居心地のいい薄暗い地下室は今、前代未聞の限界突破の追い上げの熱狂に包まれていたッス!
「ウェェェーイ! 第四層の複合ネットワークエラー、また俺の神速コンパイルで完壁に潰したぜェ! これでシステム全体の根幹コード修正完了率、一気に六十一パーセント突破だ! もう神様だろうが何だろうが誰も俺のタイピングを止められねえぞ!!」
ガルムさんが目の下の真っ黒に色素沈着したクマを吊り上げながら、ランナーズ・ハイを超越しきった何かひどく危ないテンションで、愛用のキーボードを真っ二つに叩き割らんばかりの勢いでタイピングしているッス!
「ギャハハハ! いいぞガルム! 俺たちの物理配線組み替えスピードも歴史上最高の絶好調だ! ほらトカゲ、もたもたしてっとお前の細い尻尾がメインサーバーの高速放熱ファンに巻き込まれてミンチになって千切れるぞ!」
「うるせえヒゲ亲父! 俺の立派な尻尾はただのトカゲじゃねえ、由緒正しきドラゴンの末裔の神聖な尻尾だ! 俺の神聖な配線作業の邪魔をするなら、お前のその無駄に立派なヒゲを全部むしり取ってネットワークの予備導線のハンダ代わりに使ってやる!」
ドランさんとトカゲの先輩も顔やら服やらを油とホコリと汗で真っ黒に汚しながら、ゲラゲラと嬉しそうに軽口を叩き合って笑っているッス。
ほんの数時間前までは世界がフォーマットされて今日で全て跡形もなく消えるという途方もない絶望の重圧に誰もが心を押し潰されそうになっていたのがウソみたいッスよ。俺たちのこの汚れた手でこのエラーだらけのふざけた理不尽な世界を直している。救っている。その確かな手応えがみんなの限界の疲労痛を麻痺させて異常な力に変えていたッス。
俺ももう短い腕が肩から丸ごともげるんじゃないかってくらいボロボロになった台車を全速力で押して、みんなに特製の劇物コーヒーやら重たい予備のケーブルやらを配って回るのに必死だったッス。
でも。
俺にはこの最高の熱狂の中で一つだけ、どうしても気になって胸の奥に引っかかっていることがあったんスよ。
みんなの背中の後ろ、分厚い防護ガラスで隔てられた冷たくて無機質な空間。
このデスマーチの裏の絶対的な立役者であり、システムを重くするペタバイト級のゴミデータを延々と物理的に粉砕し続けて、強引にこのデスマーチのためのメモリの空きを作り出してくれている存在。
新勇者、HERO-010の閉じ込められている隔離室ッス。
俺は忙しく走り回る合間を縫って、ガルムさんに監視だけは画面の端で続けろと厳命されていた裏モニターの別ウィンドウのステータス画面をちらりと覗き込んだッス。
「……えっ?」
俺は持っていた波打つコーヒーのマグカップを思わず床に落として割りそうになったッス。
モニターの隅に出ている隔離室のガベージコレクション稼働率の折れ線グラフが。
ついさっきまで限界の天井に張り付いて狂ったようにカンストし続けていたはずのその元気な数値が。
突然切り立った崖から何かに突き落とされたように真っ逆さまに急降下し。見間違いようのない稼働率ゼロパーセントという信じられない底のラインに張り付いて完全に停止していたからッス。
「嘘ッスよね……?」
俺は慌てて台車から手を離して振り向き、分厚い防護ガラスの向こう側の空間を直接この目で目視したッス。
そして信じられない光景を見てヒュッと喉の奥で息を呑んだッス。
HERO-010は。
自分の足元に群がり彼を攻撃しようとポヨポヨと殺気立って跳ねている何万匹というスライムの群れを完全に無視して……ずっと手放すことなく硬く握りしめていた最強の武器である伝説の聖剣を、カランッ……と隔離室の冷たい床に手放して落としていたんスよ。
「お、おい! ガルム! メインサーバーの使用領域からメモリ使用率が急激に赤字に跳ね上がったぞ! なんだこれ、空き容量がみるみる食い潰されてる! このままじゃコードのウィンドウを開いて一文字も書き込めなくなるぞ!」
トカゲの先輩が手元のターミナルの警告を見て血の気の引いた青ざめた声で叫んだッス。
「なんだと!? まさか裏でずっと回してる勇者のガベージコレクション処理が急に止まったのか!?」
ガルムさんもキーボードを火が出るような勢いで叩いていた両手をピタリと止め、勢いよくパイプ椅子ごと振り返ったッス。
そして俺たち現場の全員がガラスの向こう側に釘付けになったッス。
自分の命とも言える剣をあっさり捨てたHERO-010は、スライムの山を波のようにゆっくりと掻き分けながらカシャ……カシャ……と、無機質で重い足音を立てて俺たちを隔てている分厚い防護ガラスの目の前まで歩み寄ってきたんス。
このアルゲリアの世界でカンストした異常極まりないステータスを持つ勇者が、俺たちという小さな存在をじっと無言で見下ろしている。その異様で圧倒的な光景に歴戦の猛者であるドランさんでさえ冷や汗を流して一歩後ずさったッス。
ガラス越しに勇者のお兄ちゃんと完全に真正面から目が合ったッス。
いつものハイライトの完全に消えたシステムの歯車の虚無の瞳。感情を見せない作り物のお人形のような絶対の笑顔。……そうじゃない。今の彼はそれらとは全く違う。
まるで初めてこの世界の色を見た迷子のように怯えたような、自分の存在が不確かなようなひどく頼りない顔をしていたッス。
「アナタハ……」
分厚いガラス越しに隔離室に設置されたマイクから彼の呟く声が、微かなノイズ混じりで地下室のスピーカーに重く響いたッス。
「アナタハ……テキジャ、ナイノカ……?」
不完全なカタカナ混じりのどこかシステム音声のような不器用な声。
完全に神様の作ったシステムの絶対ロジックから外れた、ただのオートの戦闘用プログラムであるはずの彼が、他者が敵かどうかを自問し確認するというプログラムとしてはあり得ないはずの行動。
それに得体の知れない恐怖と同時にどうしようもない動揺を強く覚えた俺は思わず反射的に叫んでいたッス。
「ガ、ガルムさんッ!! 勇者のお兄ちゃんが、なんか変ッス!!」
天井の赤いタイマーの数字が『17:45:30』を無慈悲に刻む中。
ガルムさんは黙ってパイプ椅子を蹴るように立ち上がり、手元の特濃泥水コーヒーを床に置くと少しも慌てることなくゆっくりとした足取りで防護ガラスの目の前へと歩いていったッス。
一枚の分厚い透明なガラスを挟んで。
いつもシステムの底辺で泥水をすすって文句ばかり言っている薄汚い白衣の青年と。
本来なら世界の中心で光り輝き誰からも愛されて賞賛されるはずだった、システムに目的を殺された孤独な純白の戦士が、真正面からじっと向き合ったッス。
「オレハ、ナゼ……ウマレタ?」
HERO-010がひどく悲しそうな今にも崩れ落ちそうな顔でガラス越しにガルムさんの目を見つめて問いかけたッス。その声にはバグキャラクター特有の不快な機械の擦れるようなノイズが悲鳴のように混ざっていた。
「マオウモ、イナイ。オレノ、セカイニハ、タオスベキ、テキモ、イナイ。ソレナノニ……オレハ、タダ、コンナクラヤミデ、スライムヲ、キル……イミモ、ナク。ダレモ、ミテナイノニ」
勇者は自分のバグってポリゴンがひび割れ黒いモザイクが侵食し始めている右腕を、大事なものを傷つけないように撫でるように左手でそっと押さえたッス。
「オレハ……コノセカイニ、イラナイ……タダノ、バグ……ジャマナ、ゴミ……ナノカ?」
ドランさんもトカゲの先輩も俺も。そしてモニターの向こう側にいるであろう四天王の面々も。
誰も何も言葉を発せなかったッス。
だってそれは残酷だけど神様ですら見捨てた悲しい事実そのものだったからッス。彼は魔王を倒すためだけに用意された記号で魔王が初めからいないこの新世界では初めから存在意義を失ってしまっている。
ただの異常なはぐれエラーとして地下に隔離され、俺たちインフラ屋にゴミ箱のシュレッダー代わりに都合よく利用されているだけの哀れなプログラムなんだから。
俺が彼に同情の言葉をかけることすらおこがましい気がしたッス。
だけど。
ガルムさんはいつものふざけた悪態や貴族に向けるような皮肉な冷笑を一切顔に出さなかったッス。
彼にしては珍しくひどく静かで波一つ立てない真剣で深い目で、ガラスの向こうの彼を真っ直ぐに見つめ返したッス。
そしてガラス越しにそっと右の手のひらを大きく広げて合わせたッス。
勇者のお兄ちゃんもまた恐る恐る迷うようにしながら、ひび割れてノイズの走る右手をガラス越しにガルムさんの小柄な手に合わせたッス。
「ああ。お前はただのバグだ」
ガルムさんは残酷なまでにハッキリとスピーカー越しに逃げ場のない事実を告げたッス。
「仕様書から完全に見捨てられた、世界にとって何の役にも立たないかわいそうなゴミデータだ。魔王が初めからいないこんな世界じゃお前のその無駄に高いチート級の火力も、カンストした異常なステータスも、マジで何の意味もないタチの悪い無用の長物だ」
「お、おいリーダー! お前、いくらなんでも言い過ぎだぞ! こいつはただのプログラムだとしても俺たちのためにあれだけ戦って……!」
ドランさんが後ろから慌てて止めに入ろうとしたけど、ガルムさんはノールックで左手を出しそれをピシャリと強い意志で制止したッス。
「……ソウカ。ヤハリ、オレハ……イラナイ、バグ……セカイノ、バグ……ダナ」
勇者が壊れたおもちゃのように虚ろに呟いて深い絶望とともにうつむこうとした瞬間。
ドンッ!!
ガルムさんが防護ガラスを右の拳で思い切り強く叩いたッス。
「勝手に一人で落ち込んでんじゃねえ、バカ野郎。大人の話を最後まで聞け」
ガルムさんの荒い声は少しも怒っていなかった。むしろ今まで俺に見せたどんな顔よりも優しくて、同じシステムの底辺で泥水すすってる大切な仲間に向けてかけるような熱い体温がこもっていたッス。
「お前は神の綺麗な最初の設計図から完全に外れた異常なバグだ。……だがな。今この理不尽なクソみたいな世界をメモリのパンクによる崩壊の絶望から救い出すことができるのは、神の言う通りに綺麗に動くお利口な正規のプログラムなんかじゃねえ。お前なんだよ」
ガルムさんの力強い言葉にHERO-010がハッと息を呑むようにして顔を上げたッス。
「お前がただの仕様書通りのつまらない勇者だったら、あの異常な量のゴミデータを粉砕なんてできずにとうにフリーズして消えていたはずだ。お前が規格から外れたバグだから。意味もなく世界から外れて誰にも頼られずにその剣を血反吐吐いて振り回し続けていた異常な存在だから……俺たち現場の底辺インフラ屋と最高に相性がいいんだよ」
ガルムさんはガラス越しに彼を見つめ不器用なシステム屋にしか言えない最高にカッコいい、俺が一生忘れない言葉を投げかけたッス。
「お前はもうただのシステムに動かされるかわいそうな歯車なんかじゃない。俺たちの一番後ろの背中を支えてくれている、このアルゲリアという世界でたった一人の『世界を支える最高のデバッガー』なんだよ。お前の振るう剣の一段一回が今確かな意味を持ってこの世界を救い続けてるんだ」
世界を支える、最高のデバッガー。
その言葉が無機質な隔離室の中に魔法の呪文のようにすとんと落ちた直後。
ガラスの向こうのHERO-010の、虚無だった瞳のドットの奥から。
物理エンジンの描写エラーによる水滴のようなノイズの塊が。
ポロリ……と一つ、頬を伝って冷たい床にこぼれ落ちたッス。
それはただのプログラムの演算エラーによるバグだったのかもしれない。
でも俺にはどうして、彼が人間みたいに心の底から救われて泣いたようにしか見えなかったッス。
「オレハ……バグジャナイ。……デ、デバッガー……オレノ、ケンニ……イミガ、セカイヲマモル、イミガアル……!」
勇者のお兄ちゃんが震える自分の両手を見つめるッス。
すると彼の右腕のポリゴンのひび割れが淡い光を放ってピタッとその浸食を停止し、元の綺麗な形を取り戻したッス。
「……なぁガルムのへそ曲がり野郎、あんな心にもないこと言ってただ自分が少しでも長くサボって休みたいだけなんじゃねえのか? いい性格してやがるぜ」
「バカ言えヒゲ親父、あの小僧なりのはにかみ屋の不器用なラブソングみたいなもんだろ。見てみろよ、あのバグ野郎の満たされた顔を」
ドランさんとトカゲの先輩が泣きそうな顔を隠すようにわざとらしく小声でコメディみたいな憎まれ口を叩き合ってるッス。でも二人とも目は真っ赤だし鼻もすすってるッス。
「ワカッタ……。モウ、マヨワナイ」
ふいにガラスの向こうのHERO-010が凛としたそして驚くほどはっきりとした声を出したッス。
ノイズの消えた顔を上げ、彼はゆっくりと振り返り。
今まで落としていた伝説の聖剣を両手でしっかりと親鳥を抱くように握り直したッス。
その背中にはもう迷子のような怯えはどこにもなかった。そこにあったのは自分が何を守るべきなのかを確かに理解した、世界で一番誇り高い本当の勇者の背中だったッス。
「オレハ、オレノ、イシデ……コノ、セカイヲ、マモル……!」
その力強い宣言と同時に。
ズバァァァァァァァァンッッ!!!
彼が聖剣を一閃した瞬間、隔離室に山のように溜まっていた数千匹のスライムの群れが、たった一撃の光の奔流でチリのように消散しシステムから一瞬で完全に消去されたッス!
隔離室の強固な壁を物理的に揺るがす神話レベルの極大の一撃。しかしそれは今までのようなシステムに強制された哀れな暴発の暴力じゃない。彼が自らの意志として選び取った、世界を直すための正確無比で圧倒的なデバッグの剣だったッス。
「おい!! 見ろ! メインサーバーのメモリ空き容量がさっきまでの三倍の異常なスピードで急回復してるぞ!!」
トカゲの先輩がその恐るべき数値を見て狂喜の声を上げたッス。
「あいつ……ガベージコレクションの処理アルゴリズムを自分の意志で最適化しやがったのか!? プログラムの分際で化け物かよ!!」
「ハッ、なら俺たち人間と魔物も負けてられねえな!!」
ガルムさんが素早く踵を返しキーボードの前に飛ぶように戻ってきたッス。
「インフラ屋がバグの勇者様の足を後ろから引っ張ってたんじゃ笑い話にもならねえ。ドラン! トカゲ! ゴブ太! 全員フルスロットルだ! ここから本当にラストスパートかけるぞ!!」
「「「おうッス(おうよ)!!!」」」
俺たちは結び直された絆とともに再び自分の限界を打ち破るような異常な勢いで、世界を救う作業の海へと潜り込んだッス。
背後の隔離室からはもう奇声やノイズなんて聞こえない。ただ力強く正確に誰かを守るために迷いなく悪性データを粉砕し続ける頼もしい聖剣の風切り音だけが、俺たちのタイピング音と見事なセッションを奏で続けていたッス。
――そして。
赤いタイマーの数字が『14:59:59』を無常に割り込んだ瞬間。
『各部、朗報よ! システム全体の修正完了率がついに七十五パーセントに弾丸のように到達したわ!』
モニター越しにレイナさんのかつてないほど嬉しそうな歓声が響き渡ったッス。
八割近いデバッグ完了。俺たちの勝利が世界の維持がもう完全に手の届くところまで来……。
ブォォォォォォォン……ッ!!!!!!
突然。
王宮の地下室全体を今まで聞いたこともないような地の底から湧き上がるような地鳴りのような重低音のサイレンが揺るがしたッス。
全てのエラーモニターが一瞬にして電力を失ったかのようにブラックアウトし、次に血が凍りつくような真紅一色に染まったッス。
「な、なんだ!? 何が起きた!?」
ドランさんが慌ててレンチを構え、トカゲの先輩がキーボードをデタラメに叩くがシステムが一切の反応を示さない。
「……バカな。修正は順調に進んでいたはずだぞ……。この異常なサイレンとアラートの規模感は……まるでシステム全体そのものを一瞬で飲み込むような超巨大な質量が外部から一気に接近してきてるみたいだ……」
ガルムさんが震える手でコンソールを見つめながら歯を食いしばったッス。
エラーの中身すら特定できない。
ただ途方もなく巨大で絶望的な何かがフォーマットへのカウントダウンの終盤に合わせるかのように、俺たちの世界を完璧に消し去るためにシステムの深い海を越えて這い寄ってきている。
勝利を完全に確信した直後の地下室に底知れぬ恐怖と強烈な緊張の氷水が頭から容赦なくぶちまけられたッス。




