第25話 72時間デスマーチ、開始
新世界アルゲリア王宮の最下層、トラブルシューティング部門。
カビと安いコーヒーと機械の油の焦げた匂いが混ざるこの薄暗い巨大な地下室は今、かつてないほどの熱気と異様な高揚感に包まれていた。
部屋の正面の壁には、ガルムさんが魔法で投影した巨大な赤いデジタル時計が空中に浮かんでいる。
『71:40:59』
それが、神から勝ち取った俺たちの世界が初期化されて完全に消滅するまでの命のタイマーだった。
「いいか、よく聞けェ!!」
一番奥にある仕様書の山に埋もれたデスクの上に立ち上がり、我らがプロジェクト・リードであるガルムさんが怒鳴った。
その声は拡声魔法を通じて地下室に密集した数十人のインフラ担当の魔物たち、そして王宮中に繋がれた通信網の向こう側にいる協力者全員の耳へとビリビリと響き渡る。
「あと七十一時間と四十分後、この世界の基幹システムを構築した神が俺たちの中枢サーバーに対して完全な初期化パッチを無慈悲に当ててくる! オーウェンとかいう小者が企んでいたのとは次元が違う、世界そのもののガチの抹消だ!! ゴミデータとして俺たちの存在ごとな!!」
地下室に集まったドワーフや蜥蜴人たちから重いどよめきが起きる。
世界そのものの強制終了。そんな途方もないスケールの絶望を前にしてしかし怯えて泣いている者はこの部屋には誰一人としていなかった。
ここ数ヶ月、オーウェンというアホな上司の無茶振りにひたすら耐え理不尽な仕様変更とバグの大波を最前線の泥水の中で凌ぎ続けてきた彼らの顔には、「また特大の面倒くさいトラブルかよ」というウンザリした表情と歴戦の猛者特有の不敵な笑みが浮かんでいたのだ。
「だが、俺は神と交渉の取引をして勝った! パッチが自動適応されるまでのこの三日間の間に俺たち現場の手でシステムの根幹プログラムを完全に無停止手動リファクタリングして、バグや矛盾を一つ残らず綺麗にデバッグしてやれれば、世界崩壊は白紙撤回される!!」
ガルムさんはヨレヨレの白衣コートをバサリと翻し、ドンッと自分の胸を強く叩いた。
「俺たちのシステムは神様なんかに頼らなくても、俺たち自身の手で正常に回せるってことを証明してやるんだよ! やることはいつもと同じだ! マニュアルを疑え! ログを読め! コンパイルを通せ! 赤いエラーを憎き親のツラだと思って緑色に変えろ!! 全員、指から血が出るまでキーボードを叩け!!」
「「「ウオオオオオオオオオッッ!!やってやるぜェェ!!」」」
地下室が物理的に揺れるほどの凄まじい歓声と咆哮が上がった。
それは恐怖への悲鳴などではない。自分たちの生きる場所を自分たちの力で守り抜くための、誇り高き職人たちの魂の鬨の声だった。
「……全く、世界そのものを手動で書き換えるなどと、相変わらず無茶を通り越して狂っているとしか思えん提案だ」
ガルムさんの背後のモニター群の一つが切り替わりそこに腕を組んだザルガン指揮官の厳めしい顔が映し出された。
最上層での一件以降、彼らもまた非常回線を通じてこの未曾有の作戦会議に全面参加している。
「近衛騎士団及び王宮物理セキュリティ部隊は、すでにこの王宮の上層階を完全に物理封鎖した。オーウェンなき今、残されたアーキテクト局のポンコツ貴族どもが慌てて無用なシステム干渉をしてこないように私が剣と筋肉で情報統制と隔離を行ってやる。お前たちは無能な連中の顔色や背後を気にせずただコードの修正だけに完全に集中しろ」
『ふふっ……魔力通信ネットワークの最適化なら私に任せなさい』
別のモニターには王立魔法研究所のトップに君臨している女傑、レイナが妖艶に微笑んでいた。
『世界中から送られてくる膨大な修正パッチを統合し中枢サーバーへ遅延なく転送するための専用の太いパイプラインを組んであげるわ。……あの憎きオーウェンの残した鬱陶しい監視プログラムなんて私の蜘蛛の糸で一瞬にして絡め取ってデッドロックさせてやるわよ』
『リソースの確保は既に全て完了している』
財務通信用の小さなモニターからは真面目すぎる四角い眼鏡をかけたドレインが、分厚い予算書の束を片手に冷たく言い放つ。
『王国の国家予算の六十パーセントを緊急事態条項として私の権限で即座にロックし、市場に出回っている全ての予備魔導回路、冷却液、LANケーブル、そして最高級のコーヒー豆と魔力回復薬を限界まで買い占めた。もはや金に糸目は全くつけん。お前たちトラブルシューティング部門の活躍に無限の兵站を約束しよう』
『キャハハ! 広報と大衆の扇動ならアタシの出番だね!』
机の上におやつのマカロンを山積みにしてかじりながらモニターに映るのは情報統制局のトップ、ソシアだ。
『世界中の一般市民や末端の魔物たちには、この三日間の謎の通信障害や天変地異は新時代の幕開けを祝う王室の特別魔法イルミネーションイベントってことにして大々的なプロパガンダを流しといたよ! 赤い空は祝賀の証しってね! 民衆がパニックを起こしてトラフィックを無駄に圧迫する心配はないから心置きなくリファクタリングをやっちゃいな!』
かつての魔王軍。
かつては世界を力で滅ぼそうとしていた最強の四天王たちが今、それぞれの持ち場で最高の能力と権限をフル活用し、この理不尽なシステムを神の初期化から守るために俺たちのリーダーの背中を全力で支えようとしていた。
王宮の全機能が地下のトラブルシューティング部門というちっぽけな部署のたった一つのデスクに集約されていく。
鳥肌が立つほどの震えるような総力戦の陣立てだった。
「……恩に着るぜ、四天王の元幹部様たち。お前らのおかげで俺の肩書きは今だけ一時的に神と同格の全権限管理者ってわけだ」
ガルムさんが獰猛にニヤリと笑いモニターに向かって軽く手を挙げた。
「よし。それじゃあ世界救済のための七十二時間無停止デスマーチ、第一フェーズを実行に移す!!」
ガルムさんがパイプ椅子に深く腰掛け、両手をキーボードの上に置いて激しい打鍵を鳴らした、その瞬間だった。
地下室の右半分を占拠している巨大な警告用モニターが一斉にピーーッ! ピーーッ!とけたたましいアラートを鳴らし始め、画面の端から端までが真っ赤なエラーメッセージで埋め尽くされた。
「ヒィッ!? いきなり何事ッスか!?」
俺が抱えていたコーヒー豆の袋を思わず落としそうになると、蜥蜴人の先輩が目をひん剥いてコンソールをバシバシと叩いた。
「ガルム! まずいぞ、システムの根幹コードの書き換え準備のためにメインメモリ領域を確保しようとした途端、長年使われていなかった深層のゴミデータ群が一斉にアクティブ化しやがった! 膨大な数の孤立プロセスがメモリを異常な速度で食いつぶしてる!!」
「ちぃっ……! オーウェンとかの歴代のポンコツ設計者たちが面倒くさがって綺麗に消去せずに『とりあえず残して不可視化』にして逃げていた、旧バージョンの残滓の塊か!」
ガルムさんが奥歯をギリッと噛み締める。
「メモリの使用率が九十五パーセントを超えた! サーバーの熱量が異常上昇してる! このままじゃコードを一文字修正するためのコンパイル領域すら確保できずに、世界が重すぎてフリーズしちまうぞ!!」
ドワーフのドランさんが太い腕で頭を抱える。
それは古いパソコンで重いソフトを何十個も同時に立ち上げた時のように。
システムの中の使われていない見えないデータが処理能力を圧迫し新しいことを何もできなくさせてしまう、極めて致命的でアナログなバグだった。
サーバー機材が放つ尋常ではない熱気で地下室の温度がサウナのように上がり始め、ゴブリンの俺ですら汗が止まらなくなってくる。
「何ペタバイトあると思ってんだこのゴミデータの山! コマンド一つでデリートするには大きすぎて一括処理なんて回してる時間はねえぞ! どうする、リーダー!」
刻一刻と天井のカウントダウン時計の数字が減っていく。
誰もが絶望的な顔になりかけた、その時。
「……待てよ。手動で消去コマンドをチマチマと流すより、圧倒的に早く無駄なデータを物理的に破壊してデリートできる存在が、今この地下室に一人いるじゃねえか」
ガルムさんが悪魔のような、いやそれ以上にたちの悪い顔でニヤリと笑った。
そしてガルムさんの視線が向いた先。
地下室の分厚い防護ガラスの向こう側。隔離用テスト空間の中で。
「アァァァァァァァッ!! ヒカリアレェェェェェ!!」
一切の感情の無い虚無の笑顔を張り付けたまま、手にした伝説の聖剣をブンブンとフルスイングし続け、俺たちが生成するスライムを無限に叩き斬り続けていた男。
デバッグ用の初期設定勇者、HERO-010だった。
「えっ? 勇者お兄ちゃんを使うんスか!? でもあいつはただ目の前にポップした敵性モブをオートで攻撃するだけの哀れなバグキャラッスよ!?」
俺の言葉にガルムさんはキーボードを恐ろしい速度でタイピングしながら答えた。
「そうだ。あいつは仕様もロジックもないただのバグの塊だ。だがなその意味もなくカンストした過剰な超火力と、疲労を一切感じずに延々と攻撃し続ける無限のスタミナだけは今のこの新世界で文字通り最強のチートだ!! パソコンのコマンドでの論理処理が間に合わねえなら、あいつの脳筋演算に全てを任せる!!」
ガルムさんがガターン!と豪快にエンターキーを叩き込んだ。
「ドラン! トカゲ! お前らは俺が指定する『メモリ内で無限に増殖しているゴミデータ群』の座標を、全て隔離室の空間座標へとパイプで繋げ!!」
「なッ!? まさかゴミデータを全部勇者の部屋に送り込むってのか!?」
「そうだ! ただの数字の羅列じゃ勇者の攻撃判定には引っかからねえから、データの一番外側にスライムのテクスチャとタグだけを強制的に被せてラッピングして、隔離室の中に片っ端から実体化させろ!!」
その指示の意味を理解した瞬間、ドランさんとトカゲの先輩はマジかよと呆れながらも悪役のような極上の笑顔を浮かべて作業に取り掛かった。
「そういうことか! 無敵のチート火力を持った勇者にゴミデータを片っ端から物理的に殴り倒させて、システム側から討伐データとして消滅させるって腹だな!?」
「世界最強のデバッガーを利用した究極の物理ガベージコレクションってわけだ! 最高に胸糞悪くて最高にクールなアイデアだぜリーダー!!」
数秒後。
分厚い防護ガラスの向こう側にある隔離室の中にシステム内を圧迫していたペタバイト級のゴミデータたちが、次々と半透明のスライムの姿を与えられてギュルンギュルンとすさまじい勢いで実体化し始めた。
その数は数百、数千、いや数万匹。文字通り足の踏み場もないほどのスライムの大波が防護ガラスの向こうの隔離室を埋め尽くしていく。
「アハッ……! テキ、ミツケタァァァァッ!!」
HERO-010の死んだような目にギラリと狂気の光が宿った。
彼は一切の躊躇なくただシステムに与えられた目の前の敵を殴るという強迫観念だけに従って、伝説の聖剣を高く振りかざした。
ズドォォォォォォォォッッ!!
隔離空間全体を揺るがす神話レベルの極大の一撃が、何千匹というスライムをごっそりと消滅させる。
普通のシステムへの負担を考えればあり得ない処理の強制力だが、あいつは神のパッチの残滓から生まれたイレギュラーな存在だ。システムの論理法則を半ば無視してただ純粋な消去の暴力として機能する。
「す、すげぇッス……! 勇者お兄ちゃんが剣を一振りするたびにメインモニターのメモリ使用率が目に見えてゴリゴリ減っていくッス!!」
俺が歓声を上げると隣でトカゲの先輩が冷や汗を拭いながら笑った。
「だが補填も負けちゃいねえぞ! システムの奥底に眠ってたクソみたいな大量の没イベントデータや使われなくなった村のテクスチャを、俺が全部スライムの皮を被せて勇者の部屋に放り込み続けてるからな! 勇者のアホ火力と無限のゴミデータの終わりのない耐久レースだ!」
「アァッ! モット、モットダ、モットタオセルゥゥゥゥッ!!」
防護ガラスの向こうではHERO-010が剣の振りすぎで腕のポリゴンが一部バグって黒く千切れかけながらも、最高に嬉しそうな狂気の笑顔を浮かべてゴミの山を粉砕し続けていた。
彼ら勇者はシステムのエラーで生まれたどうしようもない存在でしかない。
誰にも必要とされずただ魔王を倒すためだけに作られ、魔王がいない世界で狂うしかなかった哀れなデバッグ用データ。
だけど今、王宮の最下層のこの小さな隔離室の中で彼は間違いなく、世界を重たいエラーから救うための本物の勇者として立ち回っていた。
「よし! ガベージコレクションが追いついてきた! メモリ使用率、四十五パーセントまで低下! 今ならメインの基幹コードを展開して俺のエディタで上書き処理をかけられるだけの隙があるぞ!!」
ガルムさんが歓喜の叫びを上げ愛用のキーボードに指を這わせた。
カタカタカタカタッ……!
滝のように流れるコードの海。ガルムさんの瞳は俺たちには見えないシステム全体の論理の糸を全て把握し、ほつれた部分を一本一本正確に結び直していく。
それはまさに神が作ったアルゴリズムに対する、インフラ屋の叡智と泥臭い執念の結晶だった。
「ゴブ太! コーヒーだ!! 今すぐ市場に出回ってる中で一番濃くて砂糖をありったけぶち込んだ泥水みたいなカフェインを持ってこい! 思考をブーストさせる!!」
「はいッス!! ロジスティクス兵站の要・ゴブ太に任せるッス!! 特製の回復ポーション割りカフェイン満載コーヒーを持ってきたッス!!」
俺は台車に山積みになったマグカップを手にガルムさん、ドランさん、トカゲの先輩、そして部屋中のインフラ部員たちの間を縫って走り回る。
誰もが極限のプレッシャーの中にいるはずなのに。
神という絶対存在からの世界初期化の予告という首輪を嵌められているはずなのに。
みんなの顔は驚くほど活き活きとしていた。
誰もが俺がバグを潰してやるという使命感と頼りになる仲間たちとの連携を楽しんですらいた。
神様が呆れた泥水すすって生きてきた歴史のフルパワーが、今この地下室で大爆発しているのだ。
「よし! 第一層ルーティングエラー修正完了、コンパイル通った! 緑だ!!」
ガルムさんがエンターキーを強く叩き、一つ目の巨大なバグの山が消滅した。
地下室全体からおおおおっ!!という歓声と拍手が巻き起こる。
だが安堵する間も無く、次の瞬間には別のモニターで『Error 404』の赤いログが数百行単位で新たに滝のように流れ始めた。
「甘えんなクソ共! 休む暇はねえぞ! 第二層、オブジェクトの物理演算競合だ! ドラン、トカゲ、配線の第六番から十一番の優先度を物理的に下げろ! ソシア、情報のトラフィックを五分だけ制限しろ! ゴブ太、コーヒーおかわりだ、急げ!!」
ガルムさんはもう何日徹夜しているのかわからないほどひどく黒い隈の刻まれた顔を上げ、目を血走らせて叫んだ。
「……絶対だ」
そしてマグカップに並々と注がれた特製泥水コーヒーを一気飲みしながら、誰に言うでもなく呟いた。
「これが終わったら……俺は絶対に上層部を脅迫して一週間の有給休暇をもぎ取って、誰もいない海辺の宿で死ぬほど寝てやるからな……ッ!」
それは全てのシステムエンジニアたちの魂の叫びだったかもしれない。
カタカタカタカタカタカタカタァァンッ!!
ガルムさんは休むことなく即座にタイピングの神速で、果てしない次のバグの山へと飛び込んでいった。
天井の赤いタイマーは『69:10:22』を刻んでいる。
世界のデータを懸けた俺たちの狂った72時間のデスマーチは、まだ始まったばかりだった。




