第22話 ゴブ太から見た世界は、いつも少しだけ温かい
俺の名前はゴブ太。
種族はゴブリン。職業ははじまりの森のチュートリアル用ザコモンスター……だったのは、ついこの間までの話だ。
今の俺は違う。世界で一番おっかなくて、面倒くさがりで、口が悪くて、だけど世界で一番かっこいい上司の元で働く、新世界(Ver2.0)アルゲリア王宮最下層・トラブルシューティング部門のプロジェクト・リード付き特別雑用係(自称)だ。
「よし、次は俺の番だな。おらゴブ太、代われ。お前はもう指が痙攣して限界だろうが」
ドワーフのドランさんが、太い丸太のような腕で俺の華奢で緑色の肩をポンと優しく叩いた。
俺は「あ、ありがとうございますッス……!」と涙声で礼を言いながら、コンソールの前の丸椅子から転げ落ちるように降りた。
俺の代わりに椅子にドカッと座った巨大なドランさんが、コンソールに繋がった巨大な赤いボタン(手動エンターキー)を、一定のリズムを刻みながらターンッ、ターンッと叩き始める。
モニターの向こうにある分厚い魔力防護コンクリートの隔離室では、今日もデバッグ用のポンコツ新勇者(HERO-010)が、初期設定の虚無のような笑顔を張り付けたまま、伝説の聖剣をブンブンとフルスイングで振り回している。
彼が全力で、文字通り神話レベルのチートな一撃を以って真っ二つに叩き斬っているのは、俺たちが手動でポンポンと生成しているスライム・テスト用・テクスチャ抜けだ。
彼が退屈エラーを起こして防護壁を物理的にぶち壊さないように、絶え間なく、そして早すぎない絶妙なペースで哀れなモンスターを与え続ける狂気の接待業務。それがここ数日、俺たちに課せられた一番大事な仕事だった。
「まったく、どうしてドワーフの最上位鍛冶職人だった俺様が、こんな薄暗い地下室で馬鹿な勇者の脳死おしゃぶり係をやらなきゃならねえんだ。俺の親父が知ったら自慢のヒゲを引きちぎって泣くぜ」
ドランさんは口ではブーブーと文句を言いながらも、その手つきは驚くほど正確で、ピッタリ三十七・五秒間隔でスライムを生成し続けている。名工の職人の意地というやつらしい。
「文句を言うな、ドラン。力仕事のお前か、若くて体力のあるゴブ太と俺が交代で倒れるまでやり続けるしかない。上の連中が残したウンコみたいなバグの尻拭いをするのが俺たち裏方インフラの宿命だ。それに、魔物のポップ間隔を維持し続けるなんて、本来はシステムの自動処理プロセッサがやるべきことで俺たち生身の人間がやることじゃない。文句なら死んだオーウェンに言え」
部屋の隅にある機材の山から首を出したのは、蜥蜴人の先輩だ。彼は青とか赤とかの細い蔓みたいな線――たしかLANケーブルって呼んでいた気がする――を、難しそうな黒い箱に何十本も繋ぎ合わせる作業をしている。
トカゲの先輩は冷たい氷の袋を頭に乗っけたまま、チロチロと舌を出して器用に線を編み込んでいく。
俺は熱を持った両手の指をパタパタと振って冷ましながら、彼らの背中を眺めた。
なんだか不思議な気分だった。
ほんの少し前まで、少し前のバージョン(Ver1.0)の世界で、俺は森の中で毎日毎日システムから「ここで勇者を待って、無様に斬り殺されてこい」と命令されて震えながら錆びた剣を握っているだけのただの『的』だったのだ。
勇者に斬られては真っ暗な虚無の世界に落とされて、何時間かするとまた森に立たされる。その無限のサイクル。
いつデータが消去されて完全な無に帰るか分からない恐怖。
それが俺たちザコモンスター全員に与えられた、逃れられない残酷な運命だった。
それが今では、王宮のきらびやかな上の階からは絶対に見向きもされない、カビと安いコーヒーと機械の油の焦げた匂いが混ざったこの薄暗い地下室で、ドワーフや蜥蜴人のすごい大人たちと一緒に働いている。
彼らが画面に打ち込んでいる緑色の文字の羅列は、俺には神々が使う魔法の呪文にしか見えない。
彼らが口にするルーティングだのトラフィックだのコンパイルだのという言葉は、俺の小さなゴブリンの脳みそでは全く理解できない未知の言語だ。
俺にわかるのは、「なんかあの黒いチカチカ光る箱から変な煙が出たらヤバい」とか「画面の文字が一斉に赤くなったら世界が終わる大ピンチ」とか、その程度のことだけだ。
だから俺は世界を救うような凄いコードは書けない。床の不気味な黒いシミをモップで磨いたり、誰も気にも留めないコーヒーメイカーの安い豆を補充したり、こうして赤いエンターキーをひたすら指がもげるまで連打したりすることしかできない。
でも俺はこのカビ臭い場所がたまらなく好きだった。
なぜならこの地下室には、俺を経験値稼ぎの塊としてしか見ない残酷な勇者もいないし、俺を使い捨てのチェスの駒以下としてしか見ない金ピカの王様たちもいないからだ。
そして何より、この部屋の一番奥にはあの人がいる。
俺はそっと視線を動かした。
地下室の一番奥にある、資料サイズの仕様書の山に完全に埋もれた巨大なデスク。
そこで背もたれの壊れた古いパイプ椅子に深く腰掛け、三枚の大きなモニターを鋭い鷹のような目で睨みつけている黒髪の男。
俺たちトラブルシューティング部門の絶対的リーダーであり、一番偉いのに一番貧乏くさい身なりをしたガルムさんだ。
ガルムさんは今、物凄い集中力で画面の中を流れる文字の滝を見つめている。
キーボードを叩く音すら響かない。ただ、モニターから放たれる青白い光が彼の鋭い瞳と、何日徹夜したのか分からない少し痩せた頬を照らしているだけだ。
俺がこの王宮の地下に放り込まれた初日のことを、今でも鮮明に覚えている。
俺はシステムのエラーで迷い込んだただのバグモンスターとして、上の階のきれいな兜を被った近衛兵たちに槍の石突で容赦なく殴られ、地下のゴミ捨て場のようなこの部屋の扉の前に蹴り落とされた。
「魔物風情が王宮に迷い込むとは不敬な。処分しておけ」と、冷たい声で言われたのを覚えている。
俺は床に這いつくばってガタガタと全身の骨を鳴らして震えながら、いよいよ俺の本当に短い命も完全にログアウトするんだと覚悟を決めて、きつく目を閉じた。
だが、降ってきたのは無慈悲な剣の刃ではなく、すこし生ぬるくて甘ったるい匂いのする紙コップだった。
『おい緑色。震え終わったらそのコーヒー飲んでさっさと立ちな。お前、手には奇形じゃなく五本指がちゃんとついてるし、怯えながらも言語判定も生きてるな? だったら今日からお前もうちの社畜だ。さっさとそのへんのホウキ持って、俺の足元に絡まった青いケーブルの山を掃除しろ。五分以内だ。遅れたら時給引くぞ』
恐る恐る目を開けると、そこには無精髭を生やし、白衣みたいなヨレヨレの防塵コートを羽織ったガルムさんが、ゴミでも見るような、それでいてどこか見透かしたような目で俺を見下ろしていた。
言葉は無茶苦茶乱暴で、ヤクザみたいな口調はめちゃくちゃに怖かった。
でも俺はあの時、ガルムさんの目尻が少しだけ、本当に少しだけ温かく笑っていたのを絶対に見逃さなかった。
あの時俺は生まれて初めて殺されるためではなく、生きるための切符をもらったのだ。
それからも本当に短い間に怒涛のように色々あった。
王宮の上層部にいる偉そうなアーキテクト局の人たちが、文字通り世界が狂うような無理難題を押し付けてきた時。
俺たちみたいな下っ端の魔物やドワーフのささいなミスを、まるで大罪人の首を取ったように嬉々として責め立ててきた時。
ガルムさんはいつでも、必ず俺たちと上の連中の間に割って入り、一番矢面に立ってくれた。
『仕様書も読めねえ無能なバカどもが安全圏の上の階でふんぞり返ってるせいで、うちの可愛い部下が不眠不休で迷惑してんだよ! 俺の部下に文句があるなら、俺の書いたコードを一字一句読んで論破してから出直してこい!』
上の階のエラいエリート騎士たちに向かって、分厚いファイルの束を机に叩きつけながら怒鳴り散らすガルムさんの後姿は、俺が今まで森で見たどんな伝説の魔王よりも圧倒的に大きくて、頼もしくて、泣きたくなるほどカッコよかった。
ガルムさんは絶対に仲間を切り捨てない。
どんなに口が悪くても、どんなにお前はお荷物だと愚痴っていても、夜中に俺がうっかり変なボタンを押して謎のシステムエラーを起こしてしまった時なんか、舌打ちしながら魔法のような指さばきで(本当に文字が並んだ板を叩くだけで真っ赤な画面を緑色に戻した!)三秒で直してくれて、最後に『次やったら今月の給料から天引きだからな。覚えとけ』とおでこを小突くだけで許してくれた。
不器用で、乱暴で、だけど世界中の誰よりも優しい。
だからドランさんもトカゲの先輩も、そして最近やってきた元四天王のプライドが高いおっかない人たちですら、心の底ではみんなガルムさんのことを深く信じているんだと思う。
「……ん?」
俺は雑巾を片手に部屋の隅を掃き掃除しながら、ガルムさんの様子がいつもと違うことに気がついた。
今日のガルムさんは全く喋らない。いつもの皮肉ひとつ言わない。
オーウェンという一番エラくて嫌な奴がいなくなって上層部からの理不尽な命令がパッタリと止んだから、今はうちの部署にとって最高に平和なボーナスタイムのはずだ。
現に、俺たちがバカな勇者の相手さえしていれば、他に世界が壊れそうな気配はどこにも見当たらない。
なのにガルムさんはまるで『見えない巨大な敵の首筋を、指一本でギリギリ押さえつけている』ような、そんな鬼気迫る恐ろしい顔をしてモニターを睨み続けている。
(ガルムさん、また一人でとんでもなくデカい特大のバグと戦ってるんスね。俺たちには見えない見せようとしないバケモノと)
俺は直感的にそう悟った。
技術のことは何もわからない。画面に流れる血のように赤い文字がどれだけ危険なのかも、数字が1から8へと跳ね上がったことの意味も読めない。
だけど、ガルムさんの背中が発している張り詰めた氷のような空気だけは、俺のゴブリンとしての野生の勘と、彼を誰よりも見つめてきた部下としての勘がビンビンに感じ取っていた。
あれは世界がひっくり返るような大事件の影をシステムの深淵に見つけた時のあの人の横顔だ。
俺は雑巾をバケツに放り込み、静かに音を立てないようにコーヒーメイカーへ向かった。
そして俺が知る限りガルムさんの疲労値を最も効率よく回復させると信じている、一番安いブラックコーヒーの粉に角砂糖を三つとミルクをドバドバとたっぷり入れた、特製の激甘コーヒーを淹れた。
抜き足差し足でガルムさんの背後へ忍び寄り、視界の邪魔にならないようにそっとデスクの一番手が届きやすい端のスペースにマグカップを置く。
「……」
ガルムさんはモニターから一切目を離さないまま、無意識のゾンビのように手を伸ばしてマグカップを掴んで口の中へ半分ほど流し込んだ。
そして少しの間を置いてから、ゴクンと喉を激しく鳴らして全ての重圧を吐き出すように大きく息を吐いた。
「……甘すぎだ、バカゴブリン。砂糖を致死量でも入れたのか」
振り向かずにそう言ったガルムさんの声は、信じられないほど掠れていてしゃがれていた。
どれだけ限界まで脳みそを回し続けていたのだろうか。
「す、すんません! でも、ガルムさんの脳みそには今はそれくらい劇薬の糖分が必要だって俺のゴブリン・ハイパー・センサーが強く告げてたッスから!」
俺が慌てて言い訳をすると、ガルムさんはふっと鼻で笑ってようやくクルリと椅子を回転させて俺の方を向いた。
その目の下にはひどく濃厚な紫色の隈が深く刻み込まれていたが、その瞳の奥には絶対にこの理不尽な世界を諦めないという強烈な光が炎のように宿っていた。
その顔を見た瞬間、ドランさんもトカゲの先輩も作業の手をピタリと止めてガルムさんの方を一斉に振り向いた。(ドランさんは慌てて勇者用のスライム生成ボタンを一回余分に叩いてからだけど)
「……お前ら。ちょっと今から、とんでもないことをするぞ。腹を括れ」
ガルムさんの低く静かな声が、カビ臭い地下室に重く響き渡る。
誰も口を挟まない。全員がリーダーの次の言葉を固唾を呑んで待っている。
「神様のクソッタレなお導きだか何だか知らねえが、どうやらこの王宮の中枢は俺たちの意思とは無関係に、勝手に世界を初期化しようと自律稼働を始めやがったらしい。オーウェンの野郎の仕業かすらも怪しい、古代の呪いのようなコードが深層で勝手に動いていやがる」
ガルムさんはマグカップを置き、両手の指をパキパキと大きく鳴らした。
「ターミナルからの論理的なアクセスは全部弾かれた。最高位の管理者権限もクソの役にも立たねえ。世界の真の創造主様が書いたスパゲッティコードが完全に俺たちのコントロールを離れて、王宮の上で暴走のカウントダウンを始めてやがる」
ドランさんがゴクリと重い唾を飲み込む。
トカゲの先輩が舌をチロチロと出しながら「……それで、ガルム。俺たちはどうするんだ?」と低く尋ねた。
ガルムさんはニヤリと、最大の獲物を前にした肉食獣のような獰猛な笑みを浮かべた。
「決まってんだろ。頭の良いやり方で弾かれるなら、こっちの泥臭い物理の土俵に引きずり下ろすまでだ。……神様の腹黒い心臓部までカチコミをかけて、物理的に何万本もあるLANケーブルをぶち抜いて電源を引っこ抜きに行くぞ。武器の準備しろ」
その言葉の意味の半分も俺は理解できなかった。
システムの中枢がどこにあるのかも、電源を引っこ抜くというのがどれほど物理的に無謀で王への反逆にあたる大罪なのかも。
だけど、俺にはそれで十分だった。
ガルムさんが行くぞと言った。ならそれはつまり『世界を直すための最高にカッコよくて最低に泥臭い、俺たちだけの特大のデスマーチ』の合図に他ならないのだから。
「……へへっ。ようやく俺の特製巨大レンチの出番ってわけだな。バカ勇者の単調な子守りよりは何万倍もマシだぜ」
ドランさんが嬉しそうに立ち上がり、バキバキと肩をぐるぐると回す。
「ケーブル切断なら俺のトカゲ族の専門分野だ。どんな分厚いファイアウォールの光ファイバーの束でも、俺のハサミで物理的にチョン切ってやるさ」
トカゲの先輩もしっぽを床にバンバンと叩きつけてテンションを限界まで上げている。
みんな絶対におかしい。
たぶんとんでもなく恐ろしい死地に向かおうとしているのに、誰も逃げようとしないのだから。
それどころか、ガルムさんの無茶苦茶な指示に従って巨大な事件に挑めることに、ワクワクすらしているように見える。
そしてそういう俺だって。一番弱くて本来なら真っ先に逃げ出す小ネズミのはずの俺の心臓だって、胸の奥が熱く焼けるようにドクドクと高鳴っていた。
「よし。この地下室の勇者隔離プロセスは完全自動化できねえが、ギリギリまで遅延をかけるスクリプトを組んで放置する。奴が虚無に耐えかねて壁を殴り壊して脱出してくる前にさっさと王宮の最上層に辿り着いて、中枢の息の根を物理で止めるぞ」
ガルムさんが立ち上がり、ヨレヨレの白衣コートをバサリと翻した。
「ゴブ太、お前は足手まといだからここで留守番……」
「行くッス!!」
ガルムさんの命令をひったくるように遮って、俺は気がつけば腹の底から大声で叫んでいた。
「俺も行くッス、PL! 俺にだって荷物持ちくらいはできるッス! コーヒーの補充だって、いざという時の防御用の肉壁にだってなるッス! だから……お願いだから俺を置いていかないでほしいッス!!」
俺は文字通り必死だった。
この人たちの背中を、誰よりも一番近くで見届けるのが俺の今の絶対に譲れない生きるタスクなのだから。
ガルムさんは少し驚いたように大きな目を丸くし、それから仕方ないというように乱れた黒髪をガシガシと掻いた。
「……肉壁に使うほどお前の耐久ステータス値は高くねえよ、バカゴブリン。……まぁいい、勝手に背中をついて来い。もし上の階の騎士どもに見つかったら、お前を容赦なく囮にして俺たちは逃げるからな。覚悟しとけ」
「はいッス!! 最高の待遇ッス!!」
俺は満面の笑みで、誰に教わったわけでもない不格好な敬礼をした。
世界はどうやら狂っているらしい。神様はシステムを勝手に壊そうとしているらしい。
だけど俺たちは負けない。
この冷たくて理不尽な新世界の地下室から見上げる真っ直ぐな景色は。
ガルムさんの背中越しに見るこの世界だけは、いつも少しだけ、泣きたくなるほど信じられないくらい温かいのだ。




