第21話 王宮中枢が、勝手に動き始めた
新世界(Ver2.0)アルゲリア王宮最下層、トラブルシューティング部門。
この日も薄暗くカビ臭い地下執務室には、絶望的な社畜の死にそうな悲鳴が谺していた。
「あああああ! もうダメッス!! 指が、俺の緑色の可愛い指がもげるゥゥゥッ!!」
ゴブリンの雑用係、ゴブ太が自らの魔導コンソールの巨大なエンターキーを親の仇のように狂った速度で連打しながら半泣きで絶叫した。
彼の目の前のひび割れた液晶モニターには、執務室のさらに奥に設置された分厚いコンクリートの部屋、隔離室の内部映像が映し出されている。
『ウオオオオオオオッッ!! そこか魔王軍の刺客!! 邪悪なるゼリー状の魔物め!!』
隔離室の中では、数日前にスポーンしたばかりの目的のないデバッグ用新勇者が、初期設定の無機質な笑顔を顔に張り付けたまま伝説の聖剣をブンブンとフルスイングで振り回していた。
彼が全力で、文字通り神話レベルのチートな一撃を以って真っ二つに叩き斬っているのは、ゴブ太がターミナルからマニュアル操作で汗だくになって出現させているLv1のテスト用スライムである。
「よしゴブ太! いいぞ、勇者の野郎の手が少し止まりかけた! 夕ゲがぶれて壁の判定殴りに移行する前に、今すぐ追加でスライムを五匹……いや、ここは奮発して機材庫の古いデータパックから毒持ちの巨大コウモリを十匹ポップさせろ!!」
「無理ッスよドランさん!! 俺の末端権限の安物コンソールじゃ、そんな複雑なAIコードの敵を三秒おきに出現させるマクロなんて組めないッス!!」
「甘えるな! 生成間隔を三十七・五秒に保て! それ以上早いと隔離室の物理演算処理がパンクして熱暴走するし、それ以上遅いとアイツは飽きて防護壁をブチ壊し始めるんだぞ!!」
「手動で生成実行ボタンをジャストのタイミングで一匹ずつ連打するしかないなんて、完全な拷問なんスよォ!! 誰か俺に自動連打の魔法薬をくれッス!!」
ゴブ太は目から血の涙を流しながら、ターンッ! ターンッ! と指から摩擦の煙が出そうな速度でエンターキーを叩き続けた。
これこそが、最悪のアーキテクトの失脚により一時的に平和になったはずのトラブルシューティング部門に新たに課せられた、地獄の新勇者接待ミッションであった。
地下の隔離室に閉じ込めたHERO-010は、デバッグ用の特権アカウントであるため、末端のインフラ系技術者からはハッキングによるシステム的デリートをすることが絶対にできない。
しかも彼は魔王を倒すという目的以外を持たず、無限のスタミナとALL 999という異常な攻撃力を誇っている、まさに歩くチートバグだ。
もし彼が『倒すべき敵がいない』とシステムエラーで認識してしまえば、勇者の理不尽な思考AIはよし別のエリアに魔王を探しに行こうと判定し、隔離室の分厚い魔力防護壁すらも素手で粉砕して再び王都の市街地へと魔王探しの虐殺お散歩に繰り出してしまう危険性が極めて高かったのだ。
それを防ぐための唯一のソリューション。
それは、インフラチームのメンバーが過酷な交代制の当番スケジュールでコンソールに張り付き、新勇者に向けて絶え間なく適当なザコ敵を生成し続け、彼の承認欲求を満たしてやるという気が狂うほど単調で途方もなく過酷な手動デバッグ作業だった。
「……はぁ。この世の全ての贅肉と創造性を削ぎ落としたような、純粋な虚無の作業だな」
ガルムは背もたれの壊れたパイプ椅子に深く沈み込み、甘すぎるブラックコーヒーを啜りながら地獄のエンターキー連打ゲームを強いられているゴブ太を深い哀れみを持った瞳で見つめた。
「全くだ。昨日は俺が当番だったが、十五時間ぶっ続けでスケルトンとゴブリンの交互の生成ボタンを押し続けたせいで、夢の中で無限に沸き続ける骨と緑色の小人にキーボードで追いかけられる最悪の悪夢を見たぞ」
蜥蜴人のネットワークエンジニアが、痙攣する己の指先を特大の保冷剤パックで冷やしながらげっそりと呟く。
「おいガルム。なんとかアイツのAIプログラムの挙動を騙して、自動でスライムが発生し続けるループ罠みたいなものを組み込めねぇのか?」
ドランが巨大な魔導レンチでバキバキと悲鳴を上げる肩を叩きながらガルムにすがるように尋ねた。
「それができりゃ俺も苦労しねえよ。隔離室の空間座標をシステム上『魔王城のダンジョン』に無理やり偽装している以上、その中のネットワーク空間は非常に不安定なブラックボックスになっている。俺たちの末端ツールで組む自動マクロ程度のスクリプトは干渉エラーですぐに弾かれちまうんだ。結局のところ、手動で直接パケットを送り込む物理的アプローチしか確実な手段がないんだよ」
ガルムは深い溜息をついて、机にだらんと両腕を投げ出した。
「とはいえいつまでもゴブ太たちの指先の腱と労働の精神力を無駄に犠牲にするわけにもいかねえ……。なんとか上層部のルート特権に裏口からアクセスして、あのポンコツ勇者のアカウント属性そのものを無害なモブ村人あたりにダウングレードするパッチを作るしかなさそうだな。それまではとにかく力技で耐えてくれ」
オーウェンが幻将ソシアの手によって完全に脅迫されアーキテクト局の全ての権力を実質的に剥奪されてから、王宮の上層部はひどく静かだった。
指示を出し現場への仕様変更という名の無理難題を押し付けてくる絶対的な神を失ったシステム部門は、一時的な機能不全状態に陥っており、ガルムたち地下のインフラ屋に無茶な新規開発の命令が降りてくることは綺麗に無くなっていた。
平和と言えばこれ以上ない平和な日々だ。接待の手癖さえつけば夜はぐっすりと眠れる。
ガルムは魔導水晶ターミナルの右側に開いていた手動生成パネルのウィンドウを最小化し、本命である王宮最上層部・メインサーバーの監視ログの画面をデスクトップの中央に大きく展開した。
彼はオーウェンが残した不完全なパッチや、まだシステム内に残っているかもしれない厄介な仕様の穴を完全に根絶するため、こうして少しでもヒマを見つけては王宮のネットワーク全体をクリーニングする地道な作業を行なっていたのだ。
「……ん?」
その時。ガルムの瞳孔が微かに収縮した。
彼は淹れたてのコーヒーカップを直感的な悪寒と共にデスクの上に無造作に置き、モニターの端に小さく流れていた何万行もの緑色の文字の滝の一角にマウスカーソルをスッと合わせた。
そこにあるのは、王宮最上層部に敷き詰められた第九区画・論理演算メインサーバー群のステータスウィンドウだ。
現在オーウェンが不在のために王宮のシステムプロジェクトは全て凍結されており、そのサーバー群へのアクセスは物理的にも論理的にも完全に遮断され、CPU使用率および魔力消費量は0.00%で永遠に推移しているはずだった。
だが。
ガルムの目の前で監視ツールの最下層の数値が、チカッ、と微かなノイズを立てて不自然に跳ねたのだ。
『CPUロード:0.01% …… 0.05%』
『第一魔力供給ライン:メインバルブ開放シーケンス開始』
「……なんだ? これ」
ガルムは眉間に深いクレバスのような皺を寄せた。
システムに誰かがアクセスした形跡は一切ない。アーキテクト局の人間は誰も出社していない。それなのにサーバーの深部の一部がまるで見えない幽霊に撫でられたかのように、自律的に起動の準備を始めている。
「トカゲ。第九区画のサーバーに、何かの定時実行タスクが残ってたか?」
ガルムの低く鋭い声にトカゲ男が保冷剤を放り投げて即座に自分のターミナルを猛烈な速度で叩いた。
「いや……昨日の夜、俺が全てのスケジュールスタックを強制キャンセルして一切合切を綺麗にクリアしたはずだぞ。今あのサーバー内で単独で動く条件を示すプログラムはただの一つもねえよ」
『CPUロード:0.15% …… 0.8% …… 1.2% …… 2.5%』
数値の上昇は微かだが完全に規則的なアルゴリズムの波を伴って、まるで生えかけの心筋の鼓動のように脈打ちながら着実に上がり続けていた。
「……ログを直接追う。ゴブ太、勇者の接待はそのまま続けろ。何があっても手は絶対に止めるなよ」
「は、はいッス!! ターンッ! ターンッ! トマトゥンッ!」
ガルムはキーボードに両手を乗せ、自らの意識を完全に研ぎ澄ませて王宮の分厚いファイアウォールの隙間からその蠢き始めた不可視のプロセスの内部へと深く深く潜行していった。
暗号化された無数のパケットの壁を長年の技術屋としての直感とインフラ屋特有の物理的なコマンドの強引さで一枚ずつこじ開けていく。分厚いデジタルジャングルのツルをマチェーテで叩き斬るような荒々しい操作だ。
そしてその奥底で何が勝手に実行されようとしているのかの核心に到達した。
モニター一杯に広がる漆黒のコンソール画面に緑色の文字列があふれ出し、そして無慈悲な一点に収束する。
そこにあったのは、ガルムにとって最も見覚えのある、そして最も忌まわしい文字列の羅列だった。
「……バカな」
ガルムは画面の中央に血のように赤くハイライト表示されたその実行ファイルの名称を見て、背筋に冷たい氷柱を直接突き立てられたような暴力的な悪寒を覚えた。
『Deployment_Package_Ver_2.1_Core_Update.exe』
「……お、おいガルム。そのファイル名って……」
画面を隣から覗き込んだドランが目をひん剥いてごくりと息を呑んで後ずさった。
「この間ソシアたち四天王がオーウェンを脅迫して止めて、強制的に白紙撤回させたはずの……新世界のクソみたいな大型アップデートパッチじゃねえか!! なんでそいつの死骸が今になって勝手に再起動して実行されようとしてんだ!!」
「わからない……!! 俺の手元にあるシステム管理者権限でスキャンしても、このプロセスの起動命令がどこから、あるいは誰から発行されたのかが全く追えない! 誰のユーザーIDでもないんだ……まるでシステムそのものが内側から全く別の『自己の意志』を持ってアップデートを渇望して自動でパッチを当てようとしているみたいだ!!」
ガルムは額に脂汗を滲ませながら猛烈な速度でターミナルを叩き、その自動実行プロセスに対して緊急停止コマンドや物理遮断パラメーターを何十発も休むことなく叩き込んだ。
『Error:Access Denied(その命令は神聖なるプロセスによって拒絶されました)』
『Error:Access Denied(その命令は神聖なるプロセスによって拒絶されました)』
だが、ガルムの放ったその全てのカウンターコマンドが権限エラーという残酷な赤い文字で非情に弾かれた。
「エラーだと!? ふざけるな、俺はこの王宮ネットワークの全域に対するインフラのシステム管理者権限を持ってる現場のトップなんだぞ!! 俺の権限で止められないプロセスなんてあのオーウェンが直接かけた理不尽極まりない絶対ロックの仕様以外に存在しないはずだ……っ!!」
そこまで言って、ガルムのタイピングの手がピタリと空中で凍りついた。
彼は弾かれたエラーメッセージの奥の階層に一瞬だけノイズのように表示されたある特殊な暗号キーの形状に完全に目を奪われたのだ。
「……違う」
ガルムの口から無意識のうちに唸り声のような言葉が漏れた。
「ガルム……? 違うって何がだ?」
「この実行パッチを強引に動かそうとしている、背後にあるロックの記述だよ。……オーウェンの野郎の書くコードはもっと効率的で冷酷で一切の無駄を省いた美しくて残酷な完璧主義な構造をしている。俺はあいつのコードを何年も嫌というほど見てきたから絶対に間違えるはずがない」
ガルムは画面の奥深くで黒いタールのようにドロドロと蠢くその未知のエラーコード群を這うように指差した。
「でもこのプロセスの奥底に潜んでいる絶対に我々に実行を止めさせないための異常なロックは……明らかに違う。単なるパスワード化されたテキストなんかじゃない。それはまるで古代の楔形文字のようで、現代のIDEのシンタックス・ハイライトすらも全て血のような赤色に染め上げてしまうほど、ひどく淀んでいて狂気じみている」
ガルムはその文字を直視しただけで激しい吐き気を催しそうになった。
「誰も読み解けない古臭く難解な設計思想で編み込まれているんだ。俺たちの時代の言語コンパイラの手法じゃない。まるで初代魔王が世界を支配していたシステム創生期の呪いのような記述だ」
「古い時代の言語……? じゃあ現在の最高権威の天才であるオーウェンが組んだプログラムじゃねえって言うのか?」
ドランが信じられないというように大きく目を見開く。
「……あいつがVer 2.1 パッチの表向きの体裁をしたのは間違いない。だがこのパッチの最深部に巧妙に隠されている絶対に止められない自動実行スクリプトを仕込んだのは……オーウェンじゃない」
ガルムの脳裏に一つの恐ろしい仮説が組み上がっていく。
王の勅命としてオーウェンに下された、新世界をアップデートせよという神からの絶対の啓示。
オーウェン自身は自分の天才的な才能と驕りでその新世界の設計書を組み上げたつもりでいたのかもしれない。だが実際にはその設計書の根底にはあの傲慢なるオーウェンですら気づかない、あるいは無意識のうちに神として利用された、別の何者かの悪意が開発プロセスの最初から密かに混入していたとしたら?
「……まさか。これは……あのオーウェンですらより巨大で途方もない何かの思惑で動かされた、ただのダミーの実行犯に過ぎなかったってことか……?」
誰もいない王宮の静寂な上層部で。
システムの中枢プロセスは1.2%から3.0%へ、そして8.5%へと、微かだが確実にその暴力的な大いなる鼓動のスピードを速めていた。
それはまるで地下の隔離室でただひたすらに見えない敵を探して暴走し、壁を殴り続ける目的のないバグ勇者のように。
世界を破壊して新しく作り直すという真の目的なき暴走を、王宮の暗闇の中で静かにそして完全に自律的に開始しているようだった。
「……おい、ガルムさん」
ただならぬシリアスな嫌な沈黙に耐えきれず、ゴブ太がエンターキーの手動連打を続けながら震える声で後ろを振り返った。
「なんか……またとんでもなくヤバい、俺たち末端のインフラ部門じゃどうにもならないスケールのシステム崩壊レベルの特大インシデントの気配がするんスけど……これ、気のせいッスかね?」
「……あぁ、気のせいだといいな」
ガルムはすっかり冷え切って不味くなった甘いコーヒーを胃袋に流し込みながら、一切笑えない目で暗闇の不気味なモニターを見つめ返した。
「だが、うちの部署の泥臭い仕事に、気のせいなんて甘い言葉はただの一文字も実装されちゃいねえんだよ」
平和なドタバタ接待コメディの裏側で、システムの深淵に潜んでいた真の悪意は誰にも気づかれることなく静かに、そして確実にその巨大な運命の歯車を回し始めていた。
新世界(Ver2.0)完全崩壊へのカウントダウンは最大の元凶と思われていたオーウェンが失脚した今もなお、決して止まってなどいなかったのだ。




