第18話 コアの封印を、俺の手で開ける
新世界(Ver2.0)アルゲリア王宮の神聖なる最上層部から、最下層のトラブルシューティング部門までの道のりは、ガルムとって、冷たい大理石の階段が果てしなく続く無限ループのようだった。
彼の脳裏に、かつての元上司にして、新王宮の『筆頭システムアーキテクト』に居座る冷酷な男――オーウェン・ヴィンセントの氷のように淀みない声が、逃れられない呪縛のように何度も何度もリフレインしていた。
『ディープ・メモリー・コアの封印を、君のその手で開封し、パッチの導管を接続しろ。断れば、可愛い部下たちのアカウント(存在証明)を、私が今すぐ消去する』
自分たち王宮上層部の綺麗で純白な神官の手は一切汚さず、万が一コアから致死性の未知のエラーが暴走したとしても、地下の連中を防波堤として切り捨てるための、冷酷で完璧なスケープゴートの論理。
ガルムの右手の拳は、自身の無力さに対する絶望と、理不尽な神のシステムに対する激しい怒りで白く鬱血し、爪が掌に食い込んで血が滲むほど硬く握りしめられていた。
(……俺は、また守れないのか。またあの惨劇を、システムに逆らえずに繰り返すのか……!)
やがて、重い足取りで王宮地下の最深部、ひどくカビ臭くて見慣れた鉄扉の前に辿り着く。
そっと扉を開けると、そこには、数時間前の地獄のような死線と静けさとは打って変わった、温かく、泥臭く、しかしどこか誇らしげな宴の風景が広がっていた。
「おお! 帰ってきたぜ俺たちのPL(技術長)!!」
ドワーフのドランが、安物のエール(魔力回復ポーションを水で薄めたもの)の入った巨大な木製ジョッキを両手でバンザーイと掲げて、煤けた顔で大声で笑った。
「ほらお前ら、起きろ! 大将の帰還だぞ! 昨日アホみたいに発生しまくった四つの大規模バグを、見事あのクソ白服(PM)抜きで俺たちだけで完封した『第一回・王都同時多発インシデント防衛戦・祝賀会』の続きといこうぜ!!」
ドランの陽気な声に呼応して、床で鼾をかいていた蜥蜴人のネットワークエンジニアや、ダークエルフのセキュリティ担当も、のそりと起き上がって金属のマグカップを打ち鳴らした。
あの凄惨な第三インシデントの生き残りとして、他人に背中を預けることを極端に恐れ、一人で責任を抱え込むソロプレイに固執していた彼ら。それがたった一日、ガルムという圧倒的な司令塔のタクトによって結びつき、今や完全に一つの強固なインフラチームとしての絆を完全に取り戻していた。
「PLさん! お疲れ様ッス!! はい、これ冷たいおしぼり! 首の後ろを冷やすと、徹夜上がりの熱暴走する脳のデバッグに効くッスよ!」
ゴブ太が、ホカホカに温かい笑顔で、一生懸命に水で絞ったボロ布を渡してくる。
「……あっ、ああ……悪いな。すまない」
ガルムは引きつった笑顔を無理やり作り、おしぼりを受け取った。
彼らの無邪気で誇りに満ちた笑顔、仲間としての無条件の信頼の眼差しを見るほどに、ガルムの胸の奥が鋭い氷の刃で何度も何度も無残に抉られるように痛んだ。
この最高の笑顔を、たった今、自分は上層部の神(管理者)に全て売り渡して帰ってきたのだ。俺のせいだ。俺がかつてオーウェンの実験のスケープゴートにされたという、トラウマから逃げ切れなかったせいだ。
「どうしたんだ、PL? まるで死人のような顔色だぞ。いくらなんでも昨日の無茶な連続徹夜が響いたか? それとも胃が痛いのか? 万が一胃の粘膜がバグってんなら、俺が回復魔法を直接胃袋にかけてやるぞ?」
ドランが不思議そうに首を傾げ、本気で心配するようにガルムの顔を覗き込む。
他の仲間たちも、次第にガルムの尋常ではない蒼白な表情の変化、一切生気を感じさせない絶望の瞳の色に気づき、一人、また一人とジョッキを下ろし、次第に執務室から陽気なざわめきが波が引くように消えていった。
ガルムは無言のままゆっくりと執務室の中央へと進み出た。
そして、手元にあった魔導水晶ターミナルに静かに両手を触れ、王宮の最上位ネットワーク全体との『物理的および論理的な完全遮断コマンド(アイソレーション)』を、管理者権限を用いて強引に実行した。
ガチャン、ドン、と重々しい音を数度立てて、執務室の分厚い鉄扉に何重もの強固な物理・魔力セキュリティロックがガチガチにかかり、部屋の魔導ランプが危険を知らせる赤い非常用の明滅する光へと切り替わった。
「……PLさん? なにを……いくら何でも出入り口の物理層だけでなく外部通信の全てのポートを全部切っちまって……どうしたんスか?」ゴブ太が、ただならぬ空気に恐怖を覚え、不安そうに後ずさる。
「……よく聞け、お前ら」
ガルムは、地の底から絞り出すような、ひどく掠れて重い涙を押し殺した声で口を開いた。
「まず初めに事実を言う。昨夜上層部から降りてきたディープ・メモリー・コアへのRoot権限委譲という、あのアホらしい特秘通達。……あれは、ルシアンが言っていたような王宮からの信頼の証でも、出世でも昇進でもなんでもない。俺たちを、致命的なバグの爆発から王宮を守るための、使い捨ての泥まみれのモルモットにするための計算され尽くした上からの死の命令だ」
ガルムはそこから包み隠すことなく全てを打ち明けた。
先ほど王宮の最上層部に強行突破で直談判に行った結末。
そこに、かつての魔王軍における彼らの絶対的な上司であり、あの凄惨なシステム崩壊を意図的な実験として引き起こし無数の同僚を死に追いやった男、オーウェン・ヴィンセントが『筆頭アーキテクト』として全てを取り仕切る神の座に君臨していたこと。
そして明朝に控えるかつてない超大型の『Ver2.1パッチ』適用のために、エラー暴走の致死的なリスクがある最深部のコアの開封作業を地下の自分たちに物理的に強要してきたこと。
「……そ、そんな……そんな横暴が……神様のやることッスか……」ゴブ太が信じられないというようにへたり込む。
ドランの丸太のように太い腕が怒りに小刻みにガクガクと震えだした。トカゲ男もダークエルフも激しい憤怒の表情を浮かべてギリリと奥歯を噛み締めている。
だが、それは序の口に過ぎなかった。ガルムは血の滲むような声で、決定的な絶望の事実を口にした。
「……オーウェンの野郎は俺に神の管理者権限のメインコンソールを見せやがった。そこには、すやすやと寝こけているお前たちの姿が映っていた。……お前たち四人全員のこの世界におけるアカウント(魂の存在証明)を、奴はすでに人質に取ってロック・オンしている。俺がコアを開けることを一秒でも拒否すれば、あるいは俺たち全員で王宮を脱走しようと目論めば、奴は直ちにお前らを遠隔のエンターキーひとつで一切の痛みもなくフォーマット(初期化消去)すると宣告した」
「――ッ!」
重苦しい、システムという巨大な死のような沈黙が、赤いランプに照らされた地下の執務室を完全に支配した。
それは、どう足掻いても現場の末端である彼らには抗うことのできない完全なる神の暴力の宣告だった。
「……だから」
ずっと俯いていたガルムがゆっくりと顔を上げた。
その双眸には、決死の覚悟と彼らを絶対に守り抜くという悲壮な光が狂気のように激しく宿っていた。
「だからお前らは今日、この瞬間をもってトラブルシューティング部門をクビ(解雇)だ」
「……な、に?」ドランが素っ頓狂な間抜けな声を出した。
「さっき、俺のターミナルから王宮外のギルド・ローカルネットワークへお前ら四人の所属アカウントの移行申請をオフラインで叩き込んでおいた。本来なら承認に何日もかかる仕様だが、俺の技術長の権限で強制的に通した。……今ならまだオーウェンの管理者権限の監視網の隙間を突いて、お前らの存在データだけを王都の外へログアウトさせることができる」
ガルムは白衣のポケットから四輪の小さな不可視の魔導転送石を取り出し、机の上に放り投げた。
「これを使って、今すぐ王都の外へ飛べ。そして二度と戻ってくるな。……俺は一人でここに残り、明朝、奴の命令通りにディープ・メモリー・コアの扉を開ける。万が一そこに致死性のエラーが詰まっていたとしてもお前らが遠くに逃げていれば巻き添えは防げる。あの自己中なオーウェンは遠くへ逃げたエラー管轄外のモブの処理までは追わない。全責任は俺一人で取る」
静寂。
それは何にも勝る痛切で不格好な最高の上司からの究極の愛情と自己犠牲だった。
「……さあ、時間が惜しい。早く行け」
静かな、だが決して譲らないガルムの宣言。
いつもなら「ならしょうがない」と諦めていた彼らだったかもしれない。かつての彼らなら我先にと石を奪い合って暗闇の王都の外へ保身のために逃げていただろう。
だが。
ドグァァッ!! と。
ドランの太く短い丸太のような剛腕が、手加減なしにガルムの頬を容赦なく殴り飛ばした。
「ぐふぉッ!?」
完全に無防備だったガルムは大きくふっ飛ばされ、壁のスチールロッカーに背中から激突し派手な音を立てて床に崩れ落ちた。
「……ド、ドラン……テメェ……人がせっかく腹くくってやってるのに……突然なにを……」
口の端を切って血を流すガルムの胸元を、怒髪天を衝く勢いのドランが両手で強引に引きずり起こした。
「いい加減にしろ!! このクソッタレで過去を引きずったカッコつけの三流リーダー野郎がぁぁぁ!!」
ドランの怒号は王宮の地下室の厚い壁を震わせるほど強大で痛切だった。
「ふざけんじゃねえぞ! お前、昨日俺になんて言った!? 『一人で抱え込んで死ぬつもりか』ってあの強大なバグの直前で俺の目を覚まさせてくれたじゃねえか! 俺たちが過去のトラウマにビビって単独行動してた時、俺たちの連携を信じて俺たちの背中を叩いてくれたのは他でもないテメェだったろうが!! なんで今また自分だけ一人で綺麗な死に方を選ぼうとしてやがる!!」
「そうだ!!」
トカゲ男の蜥蜴人が、太い尻尾を床に叩きつけて吠える。
「俺たちはただの使い捨てのモブ変数じゃねえ!! あんたの指示の下で昨日あの絶望的な四つのバグを同時に叩き潰したあんたの最高のパケット裁きの手足だ!! あんたが俺の一族特有の千手入力を信じてくれたから俺は最高の仕事ができたんだ!!」
「我ら一族のファイヤーウォールを舐めるな。お前だけを死なせて逃げるような恥晒しな真似をするくらいならここでシステムと一緒に名誉ある消去を選んでやる! お前一人で防護壁を作れるほど甘い世界ではないだろう!」
ダークエルフも誇り高く腕を組んでガルムを睨みつけた。
「PLさん!!」
ゴブ太が大粒の涙と熱い鼻水をボロボロと流しながら、床に座り込むガルムの足に力強くしがみついた。
「俺、馬鹿だから難しいコマンドとか全然わかんないッスけど! でも、あんたが世界で一番末端の俺たちに優しい技術長だってことは分かるッス。そんなあんたを見捨てるってことだけは絶対にあり得ないッス!! 俺たちチームじゃないッスか!! 何がエラー暴走ッスか! どんな恐ろしいバグが飛び出してきてもいつもみたいにみんなで徹夜して死に物狂いでぶっ叩けばいいだけでしょうが!! 違うんスか!?」
「お前、ら……」
ガルムは目を見開き、自分を取り囲む仲間たちの一切の逃げ場を捨てた真っ直ぐな瞳を見た。
誰も逃げようとしていない。
机の上の魔導転送石など誰も見向きすらしていない。
誰もシステム(神)の理不尽な脅迫に屈していない。
彼らは皆、かつての一人で責任を抱え込んでいた恐怖を完全に乗り越え、自らの意思でこの泥臭いインフラ部門に留まり、ガルムというリーダーと共に戦うことを選択したのだ。
「……俺たちをナメんじゃねえぞ、ガルム。あのクソ生意気なアーキテクトの上司に俺たち現場の底力を教えてやろうぜ。机の上で設計図ばっかり書いてる現場知らずの能書き垂れの神様より、泥にまみれてエラーコードを叩き直してきた俺たちインフラ屋の方が万が一の大規模バグに直面した時に何百倍もしぶとくて強いってことをな!」
ドランがニッと白い歯を見せてガルムに向けて太い拳を真っ直ぐに突き出した。
ガルムの胸の奥で強張って張り詰めていた冷たい恐怖の糸がプツンと音を立てて切れ、代わりにどうしようもないほどの熱い嗚咽が込み上げてきた。
「……バカどもめ。お前ら全員、死んでも文句言えねえぞ」
ガルムは血の混じった唾を床に吐き捨てると涙を隠すように乱暴に目元を拭い、自らの拳をドランの太い拳に力強く打ち合わせた。
「……上等だ。お前らの命、全部俺が背負ってやる。あのクソッタレな神様の思惑通りになんか絶対にさせてたまるか。明日、全員でコアを開けて全員でどんな致死バグだろうが叩き落として全員で明日の朝日を拝んでやる!!」
「おおおおおッッ!!!」
地下の執務室の暗い空間に、彼らの高らかな反逆と絆の雄叫びが響き渡った。
そして運命の翌朝。
王宮地下の最深部、さらにその奥。普段は何重もの神聖な物理ロックと結界がかけられている王都の最重要重要区画「ディープ・メモリー・コア・アクセスルーム」。
巨大な銀色の円筒形をしたコア本体の前に、完全武装のインフラチーム五人が円陣を組むようにして立ち塞がっていた。
いよいよVer2.1パッチ適用のための下層からの手動ゲート完全開錠の時間が来たのである。
「……いくぞ、お前ら。一ミリ秒先のことは誰にも分からない。扉が開いた瞬間コアの黒い奥底から何が吹き出してこようが全力で抑え込め! 死んでも通すな!」
ガルムは震える右手を伸ばし、魔導水晶ターミナルと直結させたコア・システム・ロック解除の実行キー(エンター)の上にゆっくりと指を置いた。
ドランが重いレンチを構える。レイナ、トカゲ男、ゴブ太も、息を殺してその指先に全神経を集中させる。金属の擦れる音とコアの重低音のノイズだけが響く。
ガルムが覚悟を決めてその鍵を押し下ごうとした。
まさにその一ミリ秒の直前――。
ピロリン、と。
極めて場違いな、気の抜けた着信音が響いた。
『強制割り込み発生。外部ネットワークへの緊急接続を受諾しました』
完全に物理的・論理的に外部と遮断処理を施していたはずのガルムとドランたちのターミナル全画面に。
あり得ない速度で、見開くような紫黒色に輝く極度の暗号化魔導通信ウィンドウが何重ものシステムのセキュリティの壁を紙屑のように突き破り強制的に全画面ポップアップしたのである。
「な、なんだ!? 外部からのハッキングか!? オーウェンの先行攻撃か!?」
ドランが叫んだ。全員が瞬時に身構える。
だが表示されたそのメッセージを見てガルムの目は驚愕に信じられないものを見るように極限まで見開かれた。
『――私たちの可愛い部下を虐めるようなクソ面白くもない官僚のシステムなんて、私たちがずっと上から粉々にぶち壊してあげるわ』
それはかつて魔王軍時代ガルムが最も恐れ同時に強烈に畏敬の念を抱いていた恐るべき絶対強者。
『第三軍団長(幻将ソシア)』の隠蔽不可能な魔力シグネチャを持った王宮監査室の暗号化念話プロトコルだった。
『だからパッチの適用ゲートは開けたフリをしてそのままもう数分だけ時間を稼ぐか適当に遊んでいなさい、お坊や』
そのメッセージと極太の暗号化の筆跡を一瞥した瞬間。
ガルムの背中を支配していた世界システムの絶対的権力(オーウェンと神)への重い絶望が一瞬にして音を立ててひび割れ砕け散っていった。
なるほど、オーウェン・ヴィンセントは確かにこの新世界の神の座にチャッカリと居座っている絶望的な天才アーキテクトだ。
だがこの平和な世界に退屈しながら天下りしているあの魔王軍の最凶最悪の理不尽な化物たちのトップが、自分たちの可愛い元部下へのそんな安い陰謀をただ黙って見過ごすはずがなかったのだ。
最強の味方(旧・四天王たち)がついに王宮の最上層部で実力行動で動き出したのだ。
「……言ってくれるぜ。あのドSのクソお局のくせによ」
ガルムは押しかけていたエンターキーから静かに指を離し、画面越しに反撃の狼煙を力強く受け取り口の端をニヤリと吊り上げた。
「どうした、PL! 敵のハッキングか!? おい、何か指示をくれ!」
「いや……違う」
ガルムは、かつての最凶の組織で最高のサバイバーとして生き抜いた部下としての最高に野蛮で不敵な笑みを浮かべ震える仲間たちを振り返った。
「反撃の始まりだ。俺たちはここで世界最高のサボタージュを決めてやるぞ」




