第11話 新世界(Ver2.0)へようこそ。バグはもう直っていません
次期システム(Ver2.0 平和な世界) 本番稼働まで:あと5分。
次期システム(Ver2.0 平和な世界) 本番稼働まで:あと3分。
次期システム(Ver2.0 平和な世界) 本番稼働まで:あと45秒。
次期システム(Ver2.0 平和な世界) 本番稼働まで:あと10秒。
そして。
次期システム(Ver2.0 平和な世界) 本番稼働まで:――0秒。
チロリロリロリロ〜ン♪ ピロリロリン♪
何の意味もない、頭の悪そうな能天気なファンファーレが、新しく再構築された新システムの空のテクスチャの向こうから唐突に鳴り響いた。
Welcome to Ver2.0! 本環境は正常にリリースされました。魔王の脅威は完全に削除され、新しく平和になったアルゲリアの世界をお楽しみください。Thanks for playing!
絶対的な管理者権限による強制的なデータ移行処理が終わると同時に、それまでガルムたちの視界を覆っていたワイヤーフレームの不気味なノイズが晴れ、ガルム・フォン・アッシュの網膜に新しい景色のテクスチャが次々とレンダリングされていった。
チカッチカッと明滅していた光が完全に収まる。徐々に物理的な輪郭と色彩を取り戻していく視界。
ガルムはゆっくりと両目を開き、自分が転送された先の新環境の仕様を確認した。
そこは、石造りの陰気な地下室だった。
旧第七ダンジョンの管理室よりもさらに壁が狭く、不快なほど湿気が強い。窓は一つもなく、外界の光や新鮮な空気の演算プロパティは完全に遮断されている。
壁のあちこちには、申し訳程度にアルゲリア王国の紋章が描かれた安っぽいタペストリーが掛けられているが、その物理演算の隙間からは緑色のカビが元気よく繁殖していた。部屋の中央には、前任者がコーヒーをこぼした痕跡がくっきりと残る古びた木製の長机と、ギシギシと異常な衝突音を鳴らすガタのきいたパイプ椅子が数脚。
そして机の上には、旧環境からそのまま雑にパッケージ移動されてきたであろう、大魔導コアのサブターミナル――ホコリまみれの魔導水晶ディスプレイと、キーが三つ外れたコンソール板――が、すでに致命的な不吉なファンの駆動音を高らかに鳴らして鎮座していた。
壁に貼られた、真新しい羊皮紙のプレート。そこには、美しい王室書体でこう記されていた。
人間の国・アルゲリア王宮直属トラブルシューティング部門(旧・魔王軍インフラ保守チーム再就職先)
「……ああ。終わった」
ガルムのひび割れた唇から、魂の抜け殻のような、乾いた音声データが漏れた。
彼はゆっくりと壁際に歩み寄り、冷たい石壁に額をコツン、と当てた。
「終わった。俺の人生は完全に詰んだ。魔王という明確なボスがいなくなり、平和という名目のもとに、今度は『人間の王宮』が俺たちの直接の顧客になったのか。一番厄介で、一番仕様変更が激しく、一番技術の基礎すら理解していないクレーマーの集まり……それが王宮の連中じゃないか。そこで、一生トラブルシューティングだけをやらされるってのか……」
ガンッ。ガンッ。
ガルムは壁に後頭部を激しく打ち付けながら、自らの絶望を物理的な痛みの数値に変換していた。魔王城のシャットダウンを見届けたあの圧倒的な解放感と感動は、わずか5分で遠い過去の幻想データへと変わり果てていた。
「やったぁぁぁぁっ!! PLさん! 見てくださいこれ!!」
その真後ろで、同じく強制転送されてきたゴブリンの若手技術者、ゴブ太が、パタパタと両手を羽ばたかせながら狂喜乱舞して部屋を走り回っていた。
「綺麗なタペストリー! 人間の王宮の地下室! 魔王軍のダンジョンの底より百倍快適です! それに聞いてください、さっき廊下を通りすがった人間の騎士のおじさんが、『王宮の社員食堂は福利厚生で無料だぞ』って教えてくれたんです! 無料ですよ、無料!! 昨日の晩ごはんは、ダンジョンで拾った味のしない回復ポーションの泥水煮込みだったのに!! これからは毎日ふかふかのパンとお肉が食べ放題です!!」
「うるさいゴブ太。黙れ。お前は業界構造の闇を何も分かっちゃいない」
ガルムは焦点の合わない死んだ魚のような目で、無邪気な部下を一瞥した。
「福利厚生が用意されている現場なんてのはな、開発費の余りなんかじゃない。十中八九『家に帰さず、ずっとここで飯を食わせて働かせる』ためのデスマーチの撒き餌に決まってるんだよ……!」
「えっ? いやいやPLさん、ネガティブすぎる考えすぎですよ。だって極悪非道な魔王は倒されて、世界はついにVer2.0の平和環境になったんですよ? 大規模な戦闘の物理演算も無いし、勇者の放つ極悪なエフェクト処理も無いんです。これからは定時退社で、毎日美味しいご飯が……」
ビーーーーッ!! ビーーーーッ!!
ゴブ太の希望に満ちたフラグ発言を真っ二つにへし折るように、机の上の魔導水晶ターミナルから、旧環境で幾度となく聞いたお馴染みの「脳髄を直接突き刺すようなアラート音」が、部屋中に鳴り響いた。
「ひっ!?」
驚いて飛び上がり、天井の低い梁に頭をぶつけるゴブ太。
「……ほら見ろ。言わんこっちゃない。リリース直後のシステムが、神の手によるものだろうがなんだろうが、最初からまともに動くわけがねぇんだよ!! 平和になったら仕事が減る? 馬鹿を言え、平和になったら『今まで戦闘の中では無視できていた小さなバグ』が全部目につくようになるんだ!!」
ガルムは血走った眼剥き出しでコンソールに飛びつき、外れかけたエンターキーを拳で完全に叩き割る勢いで受話した。
通話コネクション確立。王宮システム管理部からの緊急コールを受信しました。
水晶の画面に、煌びやかな金糸の刺繍が施された王宮の制服を着た人間の男――親のコネで入社したといった風情の新人システム管理者――の顔が映し出される。その端正な顔は、パニックで紙切れのように青ざめ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
あ、あんたらか! 神様が用意したっていう旧魔王軍のトラブルシューティング部門の奴らは! ここは王室インフラ管理庁の総責任者室だ! た、助けてくれ!! 城下町がおかしいんだ!
「落ち着け。エラー内容と発生箇所を具体的に言語化して報告しろ。「おかしい」や「動かない」はエンジニアには通じない。俺は魔法使いじゃない、インフラ屋だ。感情論でシステムのバグは直せんぞ」
ガルムは努めて冷静に、長年培ってきた底辺カスタマーサポートの平坦な声色で返す。
だから、城下町だよ! 王宮のすぐ外の、メインストリート第三区画全域だ! 噴水の水が、上に向かって落ちていて……市場のリンゴ屋のリンゴが、空中で激しく振動してて……とにかく、世界の法則がめちゃくちゃなんだ!! 早く直してくれ! 王様がカンカンに怒ってるんだよ! このままだと俺の首が飛ぶ!!
「噴水の水が……空へ? リンゴのコリジョンの突き抜け振動……?」
ガルムは片手で額を押さえた。重度の偏頭痛が、物理的なハンマーで殴られたかのように彼を襲う。
「おい、新人管理者。お前ら、旧環境からこの新環境に全面移行するにあたって、事前に統合テストや負荷テストはしっかりやらなかったのか? 検証用の中間独立世界で万物の物理エンジンの挙動確認はしたのか? 重力ベクトルの基本変数はちゃんと引き継いでるんだろうな!?」
テ、テスト……? 変数? 何を言ってるんだお前は。意味の分からない呪文を唱えるな! 神様が直々に新世界への移行ボタンを押したんだぞ!? 偉大なる神の御業にバグなどあるはずがないだろう!! つまりこれは、貴様ら魔王軍の残党の劣悪な呪いに違いない!! 貴様らの仕業だな!?
「ふざけるなッ! ソフトウェアに神も悪魔もあるか! 全ては『書かれたコード通り』にしか絶対に動かないんだよ!! 神だろうがなんだろうが、テストせずに本番環境へそのまま全データ一発稼働させるアホがどこにいる!! この業界の基本のキも知らん素人が管理層に座ってんじゃねえぞ!!」
ガルムは水晶モニターに向かって渾身のマジギレ怒号を浴びせ、通信を強制的に叩き切った。
「PLさん、ガチギレしちゃってどうします……!?」
怯えてオロオロとするゴブ太。
「行くに決まってるだろうが! リリース直後のクリティカル・イシューだ。放置すればリンゴ同士の衝突判定が無限ループして、連鎖的に城下町のメインメモリが食い潰されて、王都のサーバーがクラッシュするぞ!!」
ガルムは白衣のポケットに、旧第七ダンジョン環境からこっそり持ち越したボロボロの汚い鉄のハンマーを突っ込み、地下室の鉄扉を乱暴に蹴り開けた。王宮の社員食堂でふかふかのパンを食べるという夢は、早くも新世界開始5分で粉々に打ち砕かれたのだった。
王宮の地下深くから続く暗い螺旋階段を駆け上がり、煌びやかな城の正門を抜けると、そこはアルゲリア王国の心臓部たる巨大な城下町だった。
レンガ造りの美しい家並み、広く滑らかな石畳の大通り。旧魔王軍の薄暗いダンジョンとは比べ物にならないほどリッチで高解像度なテクスチャが貼られた、平和の象徴たる美しい街並み。
だが、その光景は、技術者の目を通して見れば「純度100%の狂気」そのものだった。
「きゃあぁぁっ! リンゴが! 私の売り物の高価なリンゴが!!」
大通りのど真ん中。木箱いっぱいに積まれたリンゴ屋の屋台で、中年の女主人が頭を抱えて悲痛な悲鳴を上げている。
見れば、木箱の中の真っ赤なリンゴたちが、物理法則を完全に無視して、空中で凄まじい騒音を立てながら、毎秒数百回という超高速のフレームレートで上下左右に激しく振動しているではないか。周囲の空間のポリゴンがその振動に引っ張られ、グニャグニャと歪んでしまっている。
「なんだあれは……!? 悪魔の呪いですか!?」ゴブ太が息を呑んで後ずさる。
「オブジェクト同士の衝突判定の貫通バグだ!」
ガルムは全速力で走りながら怒鳴る。
「新環境の物理エンジンが、リンゴと木箱の当たり判定の計算に失敗している! リンゴが木箱の壁に深くめり込み、反発の力が無限に働いて無理やり押し出され、今度は隣の別のリンゴにめり込む……その一秒間に何万回もの無限ループ計算処理が、あの異常な振動を生み出してるんだ!」
ガルムがリンゴ屋に駆け寄ると、女主人がすがりついてきた。
「兵隊さん! 近衛兵さん助けて! このままじゃリンゴが爆発してあたしの店が吹き飛んじゃう!」
「俺は兵隊じゃない、インフラ保守担当だ! 素人は下がってろ!!」
ガルムは懐から鉄のハンマーを引き抜き、激しく震えるリンゴの山のど真ん中に向かって、思い切り振り下ろした。
管理者権限発動。対象群Apple_001〜085の物理演算を一時的に無効に設定オーバーライドします。
バキンッ!!
ハンマーの重い一撃と共に、空中でド派手に荒れ狂っていたリンゴたちが、突如としてすべての時間を剥奪されたかのように一切の動きを停止し、ピタリと空中に静止した。
重力すらも完全に無視して、リンゴが空中に固定されたまま奇妙な角度で浮いている。極めて不気味な光景だが、少なくとも無駄な衝突演算によるメモリの圧迫と、鼓膜を破るような騒音は止まった。
「ほらよ。とりあえずこれでリンゴが暴れて周りの店を巻き込んでポリゴン崩壊することはねえ。応急処置だ。あとは後日、王宮の開発部に当たり判定の数値をミリ単位で修正させろ」
「あ、ありがとうございます……? でもこれ、どうやってお客に売ればいいのよ……空中にくっついたまま、引っ張ってもビクとも動かないんだけど……」
女主人が恐る恐る静止したリンゴに触れようとし、渾身の力で引っ張るが、空間に固定された石のようにビクともしない。
「知るか! それは現状の仕様だ!! 俺はインフラ屋だ! お客様の最優先のサーバークラッシュ要因バグ修正にはお答えしたが、その後のフロント側の運用フローは管轄外だ!」
ガルムが吐き捨てて振り返った瞬間、今度は広場の中央から、別の群衆のパニックを知らせる悲鳴が上がった。
「うわあああっ! 噴水の水が! 神聖なる噴水の水が空に向かって落ちていくぞ!?」
ガルムとゴブ太が見上げると、巨大な大理石の勇者記念噴水から噴き出した水が、重力の影響を完全に逆転して受けており、地面の受け皿に落ちるのではなく、果てしない青空に向かって、細い滝のようにドバドバと逆流して飛んでいく光景があった。空の彼方で水が雲にぶつかり、奇妙な水泡のエラーオブジェクトを作り出している。
「……オブジェクト単位の重力ベクトルの係数設定を、あの素人ども、マイナスとプラスで間違えやがったな……!」
ガルムは髪をかきむしる。いや、元から過酷な激務で髪はないので、焦げた頭皮を虚しくギシギシと擦るだけだ。
「ゴブ太! 噴水の根本の大理石をハンマーで剥がせ! 水のパーティクル発生装置の座標コードを直接エディタで書き換えるぞ!!」
二人が噴水に向かって走り出した直後。
キャン! キャンキャンキャンキャン!!!
今度は足元の路地裏から、野良犬のけたたましい鳴き声がした。
だが、単なる犬の声ではない。一匹の小さな茶色い犬が口を開くたびに、その頭上に『Error:音声ファイルがディスク上に見つかりません。参照パスを確認してください』という赤黒いテキストとHexアドレスが書かれた半透明のウィンドウが、ポンッ、ポンッと無限にポップアップし続けるのだ。
どうやら旧環境で魔物をベースに犬の音声を作っていたらしく、そのパスが切れたままリリースされたのだ。犬が吠え続けるたびに空中にエラーウィンドウが増殖し、広場の視界が赤黒い文字の羅列で埋め尽くされていく。ウィンドウの増殖によって、周囲の人々の動きが目に見えてカクカクと重たくなってきた。
「ああっ、ダメだPLさん! これ以上ウィンドウオブジェクトが増殖したら、メモリのヒープ領域が完全にパンクして、この区画全体の人間の描画がクラッシュする!!」
ゴブ太が涙目で悲鳴を上げる。
「くそったれがァァァァァァッ!! なにが平和な新世界だふざけんな! 魔王のダンジョンの方が、バグがない分だけまだ何百倍もマシだったじゃねえか!!」
ガルムは叫びながら、左手で犬の口を強制的に押さえ込んで塞ぎ、鳴き声変数を一時無効化(強制ミュート)し、右手でハンマーを振り回して空中に溢れかえったエラーウィンドウのオブジェクトを次々と物理的に破壊していく。
その光景のさらに奥の城壁際では、村人NPCの一部が、一切の歩行アニメーションを再生しないまま、両手を左右に水平に広げた十字架のような姿勢で、石畳の上をスーッ……と不気味に滑るように高速移動している。
彼らは挨拶のタイミングで発話すべきテキスト変数が空になっており、null 素晴らしい朝ですね null 様。私のIDは#4509ですという破損した文字列を宙に浮かべ、そのまま建物の壁にめり込んで激突しては、同じ場所を延々と滑り続けていた。
純然たる狂気。圧倒的な無秩序。終わりのないカオス。
これが、十分な品質保証テストを怠り、神の威光というふざけた名目で強行リリースされた「未完成の平和な世界(Ver2.0初期リリース版)」の真実の姿だった。
「ぜぇ……はぁ……ぜぇ……はぁ……」
数時間の後。
ガルムとゴブ太は、這うような足取りで、カビ臭い王宮の地下管理ルームに帰還していた。
どうにか城下町の進行不能バグ――メモリを食い潰す無限エラーウィンドウの破壊や、空に飛んでいく噴水の水の強制停止、壁に挟まっていたNPCの座標リセット(崖下に落として強制リスポーンさせた)――だけを、洗練されたコードなどではなく「インフラ屋の力技」で取り除き、辛くも王都サーバーのダウンだけは開始初日で防ぎ切ったのだ。
パイプ椅子に泥のように崩れ落ちたガルムは、引き出しを乱暴に開け、旧環境から大切に持ち越してきた「強力な中和剤」を取り出すと、蓋も開けずに瓶の首を机の角で叩き割り、中身の泥のような液体を一気飲みした。
ガリッ。
「ぷはぁーっ……!! 胃壁が溶ける味がするぜ。だが、この極度の疲労と痛みこそが、皮肉にもインフラエンジニアが生きている証拠だ……」
魔導水晶ターミナルから、ポンッ、という場違いに軽い通知音が鳴る。
画面には、王宮システム管理部からの新規緊急対応依頼が、山のように赤文字で積まれていた。
緊急:南の森にて、昼と夜の天候システムが1分ごとに異常ループしています。住人が寝不足で暴動寸前です。すぐに対応求む。
大至急:西の海の水がすべて青色のスライム素材に置換されており、漁師の網がスライムで埋め尽くされて大混乱しています。早急な復旧を。
厳命:王様が夕食の超高級肉にナイフを入れた瞬間、肉が巨大なポリゴンとなって大爆発し、王宮の大食堂が半壊しました。原因究明と再発防止策のレポートを明日朝の会議までに提出せよ。
「…………」
ガルムは黙って新しい予備の魔導端末を引き出しから引っ張り出し、ゴブ太の胸の真ん中へと乱暴に叩きつけた。
「ひっ! や、休ませてくださいPLさん! もう体力も空っぽです! 社員食堂に行くって言ったじゃないですかぁぁ!」
「甘ったれるなゴブ太ッ!! そんなものはない!!」
ガルムは立ち上がり、血走った眼剥き出しで、そして口の端に狂気じみた笑みを浮かべながら新人ゴブリンに詰め寄った。
「魔王がいようがいまいが関係ない! 勇者が平和をもたらそうが関係ない! 俺たちエンジニアの戦場は常にここにあるんだ! このクソッタレな新世界……いや、この欠陥だらけでリリースされたふざけた未完成アルファ版環境に、俺たちの命を懸けた終わらない防衛戦を開始する!!」
「いやだああああああっ! 平和な世界って嘘だったんですか!! むしろ前より残業増えてるうえに、人間からの理不尽な報告書要求まで増えてるじゃないですかああああ!!」
ゴブ太の腹の底からの悲痛な泣き声が地下室に響くが、ガルムにはもう立ち止まる気はなかった。
絶対的な絶望の中にあっても、彼の技術者としてのドス黒いプライドの炎だけは、決して消え去ってはいなかった。前任者が残したバグを潰す快感。システムを自分たちが支えているという狂気の使命感。
完璧に見えた平和世界の裏側で、運用保守エンジニアたちの終わらないトラブルシューティングの地獄が今、華々しく(そして壮絶に炎上しながら)幕を開けたのである。




