第10話 マイグレーション完了。でも次の世界にも俺たちは必要らしい
世界終了まで、あと0日と2時間。
魔界の中心にそびえ立つ、すべてを統べる絶対なる魔王の居城。その最深部たる玉座の間において、ついにあの理不尽なまでの厄災――勇者アレンのパーティと、この世界システムに君臨するメインプロセスである大魔王による、己の存在を賭けた最終決戦の火蓋が切って落とされていた。
第七ダンジョンの最下層にある薄暗い管理室は、大魔導コアの駆動音が完全に沈黙し、不気味なほどの静けさに支配されていた。
あの致死量のメモリ逼迫から実に71日が経過し、世界終了のカウントダウンが極限までゼロに近づいた今、この第七エリアにはもう防衛すべき要素は何一つ残されていない。
すべてのリソース、すべての演算回路は魔王城というグランド・フィナーレのイベント空間に極集中されており、ガルム・フォン・アッシュたちインフラ運用保守チームの役割は、もはや「防衛ラインの死守」ではなく、「メインプロセスが終了し、世界というシステムが正常にシャットダウン処理へ移行するのを監視すること」へと変わっていた。
「……すごい光景ですね」
傍らでモニターを見つめるゴブ太の声が、静かな室内に溶けていく。
「ああ。俺たちが今まで管理してきたどんな激重エフェクトの処理も、あれに比べれば児戯に等しいバグだ」
ガルムは腕を組み、モニターの向こうで行われている光と闇の激突を、まるで他人事のように穏やかな瞳で見つめていた。
魔王の玉座の間では、勇者アレンの振るう完全覚醒した聖剣と、魔王が放つ世界そのものを書き換える暗黒呪縛が、一秒間に数億回という宇宙的な規模で物理演算と魔法演算の衝突を繰り返している。空間のテクスチャが歪み、背景のポリゴンが剥き出しになり、世界の境界線そのものがバグのように明滅している。
通常であれば、これほどの負荷がかかれば第七ダンジョンの大魔導コアは1秒を持たずにメルトダウンするだろう。だが今の世界システムは、自らの死を前提とした最後のリソース解放を行っており、いくら負荷が高まろうとも一切のエラーを吐き出すことなく、ただその運命の時を静かに待っていた。
その時。
勇者アレンの聖剣が、世界で最も重く、美しく、そして致命的な一閃を放った。
モニターの画面から音すら消え去る。アニメーションのコマ送りが、コンマ数秒の世界で完全に停止したかのように見えた。
静止した時間の中で、真っ白な一直線の光の束が、魔王の巨大な身体の胸元にある漆黒のコアを、寸分の狂いもなく貫き通していく。
パァァァァァァァァァァァァァン…………ッ!!!
モニター越しに、鼓膜を突き破るのではなく、直接データそのものを揺るがすような深い破裂音が鳴り響き――直後、魔王の身体が、そして玉座の間のすべてが、無限の白い光に包み込まれて消失した。
Fatal Error:メインプロセスの停止を確認しました。
無機質で、どこか美しさすら感じさせるシステムアナウンスが、管理室の虚空から静かに響き渡る。
これより、現行世界(Ver1.0)のすべての事象を停止します。シャットダウンシーケンスへと移行します。
その瞬間、ガルムの視界の前で、絶対なる世界の崩壊が始まった。
管理室の強固な石造りの壁が、重厚な鉄の扉が、足元の冷たい石畳が、一瞬にしてその質感と色彩を失い、緑色の線だけで構成された骨組み(ワイヤーフレーム)へと分解していく。
崩壊していくのは物理世界だけではない。彼らの大魔導コアに接続された外界のカメラモニターには、空の青色が剥がれ落ちて黒いターミナル画面の背景色に変異し、森の木々や川のせせらぎが、1と0の無機質なデータコードの羅列となって天へと昇っていく様子が映し出されていた。
それは恐怖すべき世界の終末であるはずなのに、どこか完成されたプログラミングコードのように、無駄がなく、恐ろしく美しい光景だった。
世界中のありとあらゆるオブジェクトが、役目を終えた変数としてメモリ領域から順番に消去されていく。
「……ああ。私たちも、消えちゃうんですね……」
ワイヤーフレームへと変質し始めた自分の手を見つめながら、ゴブ太が大粒の涙をポロポロとこぼした。彼の涙の滴すらも、床に落ちる前に緑色のデジタルノイズとなって空間に溶けていく。
「これでお別れなんですね、PLさん。未熟な僕を、今日まで見捨てずに使ってくれて、本当にありがとうございました……」
ゴブ太の深々と下げる頭。周囲の中堅ゴブリンや新人たちも、次々とその身体の輪郭をノイズに変えながら、ガルムに向かって静かな敬礼を送っていた。
「……泣くことはねえよ。俺たちにとって、これは最高の結末じゃないか」
ガルムは自分の胸ポケットから、最後の1本となる安物の葉巻を取り出し、指先の小さな魔力で静かに火を点けた。
深く紫煙を吸い込み、ワイヤーフレームの天井に向かってゆっくりと吐き出す。肺を焼くタールの匂いと、心地よいニコチンの酩酊感。その五感の働きすらも、徐々に薄れていくのが分かった。
「勇者というバグに世界を壊される前に……俺たちは、あいつらを正規のルートで魔王の討伐というエンディングまで導いた。システムをダウンさせることなく、最後まで世界という巨大なサーバーを安定稼働させてみせたんだ」
ガルムの口元に、着任して以来、一度として見せたことのない、憑き物の落ちたような穏やかな笑みが浮かんでいた。
「誰にも評価されなかった。誰にも感謝されなかった。怒鳴られ、板挟みにされ、何日も寝ずに汚いコードの泥を啜り続けてきた。……だがな、俺たちはこの世界を支え抜いたんだ。運用保守チームとしての、俺たちの長く、つらいデスマーチは……今日、ここで完遂されたんだよ」
ガルムの言葉に、消えゆくゴブ太たちの顔に涙まじりの誇らしげな笑顔が浮かぶ。
ガルム自身の身体もまた、足元から徐々にデータコードの海へと解け始めていた。消滅への恐怖は一切ない。残業代は1ゴールドも出なかったが、すべての仕様書を書き終え、すべてのバグを潰し、無事にプロジェクトの納品を終えた技術者だけが知る、静かで圧倒的な達成感と解放感だけが、彼の心を優しく満たしていた。
さらばだ、美しいクソ世界。
お前たちとの地獄のような日々も、終わってみれば悪くない暇つぶしだ――。
ガルムが静かに目を閉じ、自らの強制消去を受け入れようとした、まさにその時だった。
システム権限の最上位オーバーライドを確認。Top-Level Administratorが介入します。
「……は?」
消えかけていたガルムの身体が、ピタリと停止した。それどころか、ワイヤーフレームへと分解中だった彼の右腕が、不自然な巻き戻し処理を受けたかのように、再び物理的な肉感と白衣の質感を取り戻していく。
ズッギャァァァァァァァンッ!!!!
崩壊していく世界の空を割って、データの大海の底から、文字通り絶対的な光が降臨した。
それは天使のような輪郭を持つが、その実体は人の認知を超えた神々しい情報量の塊だった。
神。あるいは、この世界というサーバー環境を所有する創造主。システムのすべてを決定づける権限を持つ、絶対なるトップエンドユーザー。
勇者アレンよ。真によく戦い抜いた。汝の剣により邪悪なる魔王は討たれ、世界は救済の時を迎えた。
脳内に直接響き渡る、荘厳な神の声。それは勇者への賞賛の言葉であり、現行の魔王支配下世界の正式なグランドフィナーレの宣言だった。
これより、すべての人々に平和と安寧を約束された、光放つ新たなる次元……次期新世界環境(Ver2.0)への移行を開始する!
勇者たちが光に包まれ、新しい世界へとデプロイされていくのが見える。
「これでいい。勇者はあっちの世界で英雄として暮らせ。……さあ、俺たちという古い世界のゴミデータのDeleteコマンドを実行しろ」
ガルムは葉巻の煙をふかしながら、再び目を閉じようとした。
だが、降臨した絶対的な神の瞳が、なぜか真っ直ぐに、彼方にある第七ダンジョンの地下管理室――つまりガルムたちのいるモニター群へと向けられた。
そして……魔王軍のインフラ部門、ならびに運用保守プロジェクトチーム・第七班の諸君。
「…………へ?」
ガルムの口から、間の抜けた声が漏れる。口に咥えていた葉巻が、ポトリと床の中途半端なノイズの上に落ちた。
実に、実に見事な稼働率であった。前任者が逃亡した大穴を埋め、勇者の引き起こす致死的な異常負荷を幾度となく凌ぎ、精霊ベンダーや人間クライアントとの理不尽な板挟みにも折れず、自らの毛根を犠牲にしてでもこの過酷なサーバー環境をダウンさせなかった。その技術的執念と職人の誇り……余は、遥か高みからすべて評価していたぞ。
「ひょ、評価……? 神様が、俺たちの運用業務を? いや、それは光栄ですが、俺たちは魔王軍で、あなたは勇者を導く神で……」
ガルムの背筋を、過去に味わったどのエラーよりも恐ろしい、冷たい悪寒が駆け抜けた。技術者が、上の立場の非エンジニアから過剰に褒められる時。それは歴史上、たった一つの最悪のフラグを意味している。
うむ! そこで余は決断した! これから移行する次期環境(Ver2.0)も、初期リリース直後でありシステム的にはまだまだ不安定極まりない! 平和になり魔王がいなくなっても、天候操作バグ、精霊との通信エラー、街のNPC商人の在庫フリーズなど、さまざまなインシデントのリスクが予測される!
ガルムの顔面から、全ての血の気が急速に引いていく。
「ま、待て。待ってください、神様。おっしゃる意味が……」
神の、慈愛に満ちた無慈悲な笑顔が、空を満たした。
よって! この世界の旧オブジェクトはすべてDeleteするが、君たち「極めて優秀な魔王軍の運用保守チーム全員のデータ」だけは、そのまま管理者権限でサルベージし、次期新世界環境の王宮直属トラブルシューティング部門として、強制デプロイすることとする!!
「は……?」
魔王という存在は消え去る! だがな……君たちの素晴らしい仕事は、永遠に終わらない! 新しい平和な世界でも、君たちのその卓越したリカバリー技術と、何日徹夜しても倒れない強靭なタフネスに大いに期待しているぞ!!
「う、嘘だろおおおおおおおおおおっっ!!??」
ガルムの絶叫が、崩壊する空間を引き裂いた。
今しがたまで彼を優しく包み込んでいた「遂に仕事から解放される達成感」は一瞬にして雲散霧消し、代わりに「新しい現場へ右も左も分からないまま丸投げされる、終わらないデスマーチへの絶対的な絶望」が彼を蹂躙した。
魔王がいなくなっても、馬鹿なバグとクレーム対応は続くのだ。新環境へ移行されたとしても、結局インフラエンジニアの扱いは、どこに行っても泥水を啜る底辺の歯車でしかない!
「やったぁぁぁぁっ!! PLさん、神様が僕たちをヘッドハンティングしてくれました!! 神様直属ですよ! また明日から、一緒に楽しく残業できますね!!」
完全にデータに戻りかけていたところを神にサルベージされたゴブ太が、両手をパタパタと振り回して無邪気に歓喜の声を上げる。
「ふざけるなッ! 誰がまたてめえらと一緒に炎上プロジェクトの尻拭いなんかァァァァァ!!」
オブジェクト移行処理を開始します。対象:ガルム・フォン・アッシュほか運用部門一同。
有無を言わさぬ神の処理コマンドによって、管理室の下から眩いコンバートの光がガルムたちの足元を包み込み、容赦なく上空へと引きずり上げていく。
「いやだ! 俺の有給は! 髪の毛に対する慰謝料は! せめて連休をくれェェェェェ!!」
絶叫。血を吐くような悲痛な叫び。
だが、その絶叫の中心にいるガルムの瞳の奥には、ほんのわずかながら、隠しきれない技術者としての厄介な性が宿ってしまっていたのも事実だった。
(平和な新世界(Ver2.0)の天候バグだって? 精霊の通信エラー?……まったく、新しい開発チームの連中はどいつもこいつも素人揃いかよ。俺が直接コードの配列を組んで、完璧に最適化してやらねえと、三日で新サーバーが落ちちまうじゃねえか……)
絶望の中にあっても、システムを守り、世界を陰で支え続ける技術者の「決して消えないプライドと依存性」。
誰にも評価されなくてもいい。誰にも見られなくてもいい。ただ、自分の目の前にあるシステムが、世界が、美しく完璧に稼働し続けるために――俺たちは、次なる戦場の炎上案件へと向かう。
眩い光が、魔王軍最後の中間管理職たちを飲み込み、完全な白い閃光となってすべてを刈り取った。
アルゲリアの世界(Ver1.0)のシャットダウン処理が完了した。
誰もいなくなった瓦礫とワイヤーフレームの虚空で、モニターの端に表示されていた世界終了までのバグじみたカウントダウンが、無機質なシステムの手によって全く新しい文字列へと静かに書き換えられる。
次期システム(Ver2.0 平和な世界) 本番稼働まで:あと5分




