第9話 勇者、最終フロアへ。システムメモリ96%
世界終了まで、あと71日と4時間。
魔界における、火曜日の午後。忌まわしい勇者のパーティが第七ダンジョンの最上階層(第一層)に足を踏み入れてから、実に17日という膨大な時間が経過していた。それはガルムにとって、永遠にも等しい地獄の連続だった。
第七ダンジョン管理室の空気は、大魔導コアが発する排熱により、物理的な質量を持つほどの熱気を孕んでいた。呼吸をするだけで、肺の粘膜が焼け焦げるような錯覚を覚える。
コンソールの前に座るガルム・フォン・アッシュの姿は、もはや生きた屍と呼ぶにふさわしいものだった。両の頬は極限までこけ、落ち窪んだ眼窩の奥には狂気のようにギラついた瞳だけが据わっている。制服の白衣は度重なる徹夜とコーヒーの染みで薄汚れ、シャツからは酸っぱい汗と古い防腐剤が混ざったような悪臭が漂っていた。
何より悲惨なのは、彼の頭頂部の防御力(毛量)だった。激務とストレスによる魔力逆流による抜け毛は留まる所を知らず進行を続け、もはや残存率は数パーセントというレッドゾーンに突入している。指で髪を梳くたびに、パラパラと数本の頼りない毛が抜け落ちていく現象は、今のガルムにとって物理的なダメージ以上に深刻なメンタル破壊を引き起こしていた。
「……ようやく、来たか」
ガルムのひび割れた唇から、砂を噛むような掠れた声が漏れた。
メインモニターの中央。
勇者のパーティが、ついに第七ダンジョンの最後尾、第七層『魔王城直通ゲートフロア』へと続く重厚な扉の前に到達した瞬間だった。
彼らはこの二週間あまり、隠しフロアでのバグじみたレベリング(異常な経験値稼ぎ)と、中ボスからのレアアイテムの無差別な乱獲、さらには壁抜けの物理演算バグを利用したショートカットを繰り返し、当初の想定(システム設計の規定値)を遥かに超越する暴力的なステータスへと変貌を遂げていた。
彼らが歩くたびに、システムの想定限界を超えるオーバーフローの警告音が、ガルムの脳髄を直接チクチクと刺し続けている。
パァァァァァァァァァンッ!!
最終フロアへと続く重い両開きの扉を押し開け、勇者アレンが堂々たる足取りで足を踏み入れた瞬間だった。
彼が右手に構える聖剣が、画面のコントラスト設定を破壊するほど真っ白に染め上げる、強烈な常時発光エフェクト(オーラ・オブ・ライト)を放ち始めた。
さらに最悪なことに、後衛の魔法使いエリアが身を守るため、七色の光を複雑に交差させて放つ無詠唱の多重魔力シールドを展開する。
それだけではない。僧侶のセシルからは光の波動が絶え間なく発生し、戦士のガロンが歩くたびに火花と衝撃波のパーティクルが足元の石畳から際限なく散るのだ。
それは、ただの歩行ではない。
彼らが一歩前に進むごとに、聖剣の莫大な光の演算(動的ライティング)、七色のシールドの半透明バッファの重なり(アルファ透過度計算)、波動エフェクトの環境マッピング、そして足元の石畳との衝突判定(コリジョン計算)とパーティクル生成が、一秒間に数千回、数万回の単位で爆発的に発生しているのだ。
彼らは存在しているだけで、周囲の空間というシステムリソースを暴力的に食い荒らす、極彩色のマルウェアそのものだった。
ビーーーーッ!! ビーーーーッ!!
管理室の赤いパトランプが、狂ったように回転を始めた。
「システム負荷、急上昇! 大魔導コアのメモリ使用率……88%……92%……」
コンソールの隣で、ゴブ太が泣き叫ぶような声で数値を読み上げる。彼の顔面もまた、過労によって緑色から青白い土気色へと変色していた。
「96パーセントを突破しました!! これヤバいです、コアの冷却水が沸騰して熱暴走しちゃいます!!」
第七ダンジョンの心臓である大魔導コアが、地鳴りのような咆哮を上げ、巨大なクリスタルの表面を赤熱させ始めた。
100パーセントに到達すればどうなるか。
ダンジョンシステム全域が処理限界を迎え、融解してクラッシュする。それは即ち、ダンジョンの空間を構成する壁や罠の当たり判定がすべて無効化され、崩落し、勇者の目の前に「魔王城の玉座への直通ルート」がガラ空きになることを意味していた。
世界崩壊までの残猶予日数が、一気にゼロへと早送りされるのだ。
「描画処理が追いつかない! メモリが足りない!」
ガルムは血を吐くような悲鳴を上げ、コンソールに血の滲む両手を叩きつけた。
指先が摩擦で発火するほど文字通り発煙しながらの速度で、タイピングを開始する。
この絶対的な死地を生き残る手段は一つしかない。
無駄なデータの強制解放(極限の断捨離)だ。
「ゴブ太! 他の奴らも気合いを入れろッ! 第一層から第六層までの、もう勇者が通り過ぎたフロアのデータを全部パージ(消去)しろ!」
「だめですPLさん! 消したらダンジョンが真っ暗になっちゃいます! それにまだ低層には迷い込んだ普通の冒険者が……!」
「知るか! 全消灯でいいんだよ! 物理的な光源を全部落とせ! すべてのメモリ領域を最終フロアの勇者周辺に集約しろ!」
ガルムの血管がブチ切れるかのような怒号に応え、ダンジョンの下層から順に、松明の灯りがプツン、プツンと連鎖的に消去されていく。暗闇に取り残された下位モンスターや冒険者たちが混乱する様子がサブモニターに映るが、確認している余裕はない。
「まだ足りない! モンスターの待機モーション(呼吸や瞬き)をすべて無効化しろ! 今すぐただの置物に変更だ!」
「テクスチャメモリが限界突破しそうです!!」
「背景の流れる水の映像と、第七層特有の『煮えたぎる溶岩のエフェクト』を、全部一律で低解像度の『静止画(1枚絵)』に差し替えろ! アニメーション(フレーム計算)を殺せ!! 光の反射もオフだ!!」
それは、クリエイター(ダンジョン設計者)としての魂を安値で売り払う行為だ。
威厳に満ちた美しいダンジョンの景観、生き生きと動くモンスターの恐ろしい挙動。そのすべてを「カクカクの低解像度のポリゴンの塊」や「ピクセルが粗い、動かない静止画」へとダウングレード(描画スキップ)していくという、涙ぐましい地獄のリファクタリング(最適化処理)。
だがあいつらの放つ無駄に豪華なエフェクトがシステム全体のメモリ容量を食い尽くしている以上、ダンジョン自身の装飾を削って耐え凌ぐしかなかった。
「94パーセントに下がりました! ……いや、ダメです! また一気に上がってます!!」
モニターの中で、勇者アレンが最終フロアの扉を守る巨大な漆黒のドラゴンに向けて、大上段に聖剣を振りかぶった。アレンの瞳が、何かを確信したように不敵に輝く。
見せてやるぜ……! 俺たちの絆が生み出した、究極の光を! 喰らえ、究極奥義……エターナル・ノヴァ・ブレイク!!
ドンッッ!!!!
画面が、億万の光の粒子によって真っ白に塗りつぶされた。
勇者の究極奥義エフェクト。無数の光の柱が天から降り注ぎ、空間を歪ませ、星が爆発するようなエフェクトが何重にもオーバーラップする。
それはもはや攻撃魔法という名の、描画エンジンへの致死量の負荷そのものだった。
「メモリ、98パーセント……99パーセント!!」
ゴブ太の悲鳴に近い報告と同時に、大魔導コアの各所から赤い火柱が上がり、部屋の温度がサウナをも超える超高熱へと跳ね上がった。ガルムの白衣の端がチリチリと焦げ始め、強烈なオゾンの悪臭が肺を焼く。
「PLさん! 逃げてください! コアが爆発します!!」
「ここで逃げて……ここでダンジョンを沈めて……誰が魔王様を守るんだよッ!!」
ガルムはコンソールの上に身を投げ出し、大魔導コアの中枢へと直結している極太の魔力ケーブル(主電源線)を、素手で直接鷲掴みにした。
「ぐァァァァァァアアアッ!!!!」
壮絶な絶叫が管理室に響き渡る。超高圧・超高熱の魔力が、ケーブルからガルムの手のひらを焼き、神経を沿って肉体の内部へと暴力的に逆流してくる。
ガルムは自らの生命力を物理的に削り出し、システムへ強引に注ぎ込む強制限界突破を実行したのだ。魔力という名のアドレナリンが強制的に静脈へと叩き込まれ、心臓が早鐘のように自己主張を始める。
彼の肉の焦げる匂いが充満する。視界が真っ赤な血の色に染まり、鼓膜はすでに破れ、自分の悲鳴すら聞こえない。
脳髄が沸騰し、そして――。
彼の頭部でギリギリの攻防を繰り広げていた、最後に残っていた細い髪の毛たちが、凄まじい魔力の奔流と極限のストレスに耐えきれず、パラパラと無情な灰になって散っていく。
誇りも、髪も、命も、すべてをシステムに捧げる。たった数分のバグの暴走を抑え込むために、自分の全存在を犠牲にする。それが運用保守の、泥臭くも崇高な意地だ。
「俺の髪が……俺の人生が全部吹き飛ぼうと……俺のダンジョンだけはッ!!」
「落ちろォォォォォォ!!」
ガルムの血を吐くような咆哮と共に、右手が巨大なエンターキー(魔力注入の起爆スイッチ)へと振り下ろされた。
勇者の放った極大の光と、大魔導コアの放つ緑色の光が、モニターの中で、そしてシステムの深層(メモリ空間)で正面から激突し、バチバチと火花を散らした。
互いのメモリ領域を喰い合う、ゼロコンマ1秒の極限の攻防。
聖剣の光粒子と、ダンジョンの座標計算が、クロックサイクルの中で凄惨な取っ組み合いを演じる。
そして。
バァァァーーン……ッ!!
門番の巨大な漆黒のドラゴンが、勇者の放った無慈悲な光の中に包み込まれ、何百万ものポリゴンの破片となって美しい幾何学模様を描きながら消滅した。
イベントフラグ完了:最終フロアボス撃破。
勇者パーティの戦闘状態を解除します。不要な描画エフェクトのメモリ領域を、強制解放します。
シュゥゥー……。
そのシステムアナウンスと共に、猛獣のように轟いていた大魔導コアの唸り声がピタリと静まり、赤熱していた筐体から白い排熱の蒸気を吹き出しながら急速に冷却されていく。
限界を指していた負荷メーターの針が、100の壁を叩くわずか数ミリ手前で止まり、一気に40パーセント台という安全圏まで急降下した。
「……ははっ」
ガルムは、黒焦げになった両手をだらりと垂らし、激痛の走る胸を押さえながらケーブルから崩れ落ちた。
仰向けに倒れた彼の視界はすっかりぼやけ、もはや色を失ってモノクロームの世界に変わっている。
「PLさん!! PLさん!! 死なないでください!!」
ゴブ太が涙と鼻水を撒き散らしながら駆け寄るが、ガルムの瞳の焦点は合っていない。システムダウンは見事に免れた。大魔導コアは守られた。だが、システムも、ガルムの肉体(そして完全に枯野と化した毛根)も、文字通りの半死半生だった。
モニターの中では、致命的な激戦を何一つ苦労した様子もなく終えた勇者アレンが、光の粒子が舞い散る石畳の上に剣を誇らしげに突き立て、息を整えていた。後ろでは僧侶のセシルがアレンの汗を拭い、エリアとガロンが勝利のハイタッチを交わしている。
よし。この門を越えれば、ついに魔王城だ。俺たちの手で、世界に平和を取り戻すぞ!
アレンの、何も知らない純粋で暴力的な、ひたすらに傲慢なセリフが、管理室に虚しく響く。
七階層からなる巨大なダンジョンを、すべて突破された。
だが、彼らは「システム(世界)を完全に破壊すること」だけはできなかった。ガルムという一人の名もなき技術者が、毛根を含む己のすべてを犠牲にして、文字通り身を挺してシステムを支え抜いたからだ。
だが、安息は決して長続きしない。勇者はやがてその重い扉を開け、魔王の間へと歩みを進めるだろう。システムとして最後に用意された、最大の決戦場へと。
モニターの片隅。
世界終了のカウントダウンが、冷ややかな赤い文字へと変わり、無情にも最終決戦への本格的な秒読みを告げている。
世界終了まで:71日と2時間。




