第九十四話 嵐の気配
運河のほとりで、馬たちは草を食んでいる。その姿を見て、ルーネは頭に生えている小さな花を守るように手をかざす。
「レスリーお姉さん、お馬さんはお花も食べちゃうのですか?」
「……よっぽどお腹が空いてないと食べないと思う。普段は馬草を食べるから」
馬から降りて、近くにあった岩の上に布を敷いて座り、レスリーはルーネを膝に乗せて話している――いかにものどかな光景だ。
俺も馬から一度降りて、水際に近づく。図鑑で見たところによると水に棲む魔物もいるというが、水に触れて水中の藻に聞いてみたところ、危険な生物はいないようだ。
「……グラス、蓮の足場は作れますか?」
「はい、問題ありません。そういえばこんなに大きな河なのに、全く水棲生物を警戒していなかったなと思って……」
「この辺りにはいないようですね。敵襲があるために運河での漁業はできませんでしたが、船を作ることができれば始められそうです」
魚が獲れれば、確かに食事があれほど質素になることは無かっただろう。王都では魚は滅多に食べられない貴重品だが、隊商が売りに来るため、塩漬けにされて保存されたものなどは食べたことがある。
「それも、これからの局面を乗り越えてこそのことですが……」
「……殿下、ユーセリシスからの『神託』は、何を……」
「……東から、嵐が来ると」
「っ……!?」
東――西方領から見てその方向には、王都がある。
王都から来る『嵐』。俺はそう聞いて、一人の人物を連想せずにはいられなかった。
「ミレニア・ウィード。『翡翠の魔女』が、こちらに向かっています」
「ミレニア学院長が……どうして……」
「考えられることは一つです。ヴァイセック……カサンドラ殿下の命を受けて、私たちを挑発した彼が、自分の成功を確信していたとしたら。私が陛下に反逆したという名目で、アイルローズ要塞を……西方領を、接収しようと考えるでしょう」
「……そこまで見通されていても、ヴァイセックを捕らえるわけにはいかなかった。それ自体が、反逆になるから……そういうことでしょうか」
殿下は頷く。事態は全く芳しくはない――しかし殿下は、見ているだけでこちらが安堵するほどに穏やかな目をしていた。
「私たちがしていることが反逆となりえるか。それを見定めるのは、ヴァイセックではありません」
「……アスティナ殿下」
「そうそう、あたしには権謀術数……っていうの? そういうのはよく分からないけど、間違ったことをしてるつもりはないよ。殿下が間違ってるなんてありえないしね」
「……私も、誤りをすることはあります。自分が常に正しいと思うことは、してはいけないと思います」
それは、プレシャさんの言葉を否定するために言ったんじゃない。
殿下は俺のほうをうかがう――その涼やかな瞳は、俺が今の言葉をどう思ったかを言って欲しいと仰っているように思えた。
「殿下がそうお考えになっていることを領内の人々が知ったら、さぞ安心できることでしょう。勿論俺も、尊いことだと思っています」
「……尊い……それは、表現として少し大仰にも思えますが……」
「あたしも殿下のことなんて申し上げたらいいのかって思ってたんですけど……グラス先生の言う通りだと思います。殿下は尊いお方です」
プレシャさんまで同意してくれて、戸惑っていた様子の殿下は、俺が見ていると気づくなり目を逸らして、草を食んでいる馬の首元を撫で、食事を終えさせる。
「……グラス、その尊いというのは禁止にします。悪い意味ではないと分かっていますが、言われると落ち着きません」
「っ……も、申し訳ありません、殿下」
少人数での行動だからといって、殿下に対して不躾な発言だったと反省する。
「……そこまで恐縮することもないのですが。落ち着かないというだけで、嫌とは言っていません。あなたと私は神樹を介して繋がっているのに、尊いというのは距離を感じる言い方です」
「わ、分かりました。では、改めまして……俺は殿下のことを尊敬しています」
「……グラス兄、あんまり変わってないと思う」
「あははっ……先生だって、緊張して上手いこと言えないときってあるんだね」
俺はスヴェンと違って石のように落ち着いてるわけではない。しかし、常に張り詰めていると精神的な疲労も大きいので、束の間談笑できるというのは良いことだ。
周辺の偵察をしていたディーテさんたちが戻ってきて、皆が笑っていることに不思議な顔をしつつ、俺のところまでやってくる。
「周辺の偵察は終わりました。渡っている時に伏兵から攻撃されることは無いと思いますわ……アレハンドロを倒した今、ジルコニアの残存兵力はこの辺りにはいないのでしょう」
「ありがとうございます、ディーテ。グラス、それではお願いします」
「かしこまりました」
俺は流れる運河に手をかざす――俺の眼前に別の風景が浮かぶ。精霊界にあるエルミルの泉には、今も無数の『浮遊鬼蓮』が浮かんでいる。
「『深淵より湧きいずる霊泉に浮かび、舞い上がる睡蓮よ。一度現世に姿を現せ』」
運河のこちら側から対岸まで、大きな蓮が幾つも実体化する。何度か召喚したことで馴れてきて、それぞれの蓮が浮遊する高さを合わせて、石畳で作られた道のように敷き詰めることができるようになった。
俺は殿下の馬に乗るように言われているので、殿下が手を引いて引き上げてくれた。落ちないようにと、殿下は俺の手を自分の腰に回してくれる。
「では、出発します。少し風があるようなので、煽られないように気をつけてください」
「「「はい!」」」
殿下が声掛けをすると、近衛騎士たちも揃って返事をする。こうして声を聞くと、プレシャさんは飛び抜けて若いが、多くの騎士は二十台中盤くらいの年齢のようだ。
「……戦いが落ち着けば、年齢のこともありますので、騎士の中には引退を選ぶ者もいるのでしょうが。私はそうできるよう、務めなければなりません」
今のように殿下と近い状態では、考えが伝わりやすくなる。騎士たちの人生についても、アスティナ殿下は常に案じている。
そのお気持ちが伝わっているからこそ、殿下より年上の騎士たち全員が忠節を尽くしているのだ。
「……あなたは私を褒めるようなことを、どうしてそう頻繁に考えるのですか」
「っ……す、すみません。思考が伝わらないように努めます」
「いえ、怒っているわけではありません……私の考えが常にあなたに伝わっているのでなければ、良しとしましょう」
「それは問題ありません、俺も魔法士としての心得がありますから。魔力を介した思考の伝播については、防ぐ方法があります」
「……私にだけ、グラスの考えが伝わってきているのですね。やはり、少しグラスに魔法の手ほどきを受ける必要がありそうです」
話しているうちに、レスリーがこちらをつい、と振り返ってくる――俺と殿下の話が気になるということだろうか。あまりひそひそと話すのは良くないかもしれない。
「……聞いていましたか? 魔法の指導をお願いしたいと、そう言ったのですが」
「は、はい、勿論聞いています。殿下であれば、すぐにコツを掴まれると思います」
「そうなるよう努力します。そろそろ蓮の橋を渡り終わりますね……岸に降りたら、馬を駆けさせます。しっかり捕まっていてください」
「……っ!」
殿下は言った通り、岸に降りたところで、馬の首元を叩く。すると馬が徐々に加速し、駈歩を始める――しっかりしがみついていないと振り下とされそうだ。
レスリーも頑張ってプレシャさんに捕まっているので、俺も負けてはいられない。一人で騎乗しているディーテさんが先行して、軽やかに走っていく――彼女は一足先にアイルローズ要塞に辿りつくと、角笛を鳴らして合図をし、跳ね橋を降ろさせた。
要塞の中に入ると、一人の兵士が殿下に駆け寄ってくる。その顔は蒼白になっていた――やはり、何かが起きているのだ。
「殿下、ご報告申し上げます。西方領の関所に、中央から派遣された部隊が到着した模様です。指揮官はロートガルト将軍で、中央司令部からの命令書を持っていると伝えてきています。アスティナ殿下が戻られる前に、アイルローズ要塞に入れるようにと……」
「……その部隊の兵力は?」
味方の別部隊について、共同で作戦を行うわけではないのなら、兵力を確かめる必要はない――殿下はその質問で、友軍と敵対する可能性を示唆していた。
「関所からの早馬が今しがた到着したばかりなのですが、およそ三百ということです。殿下が早く戻られるとは知らなかったからか、すでにこちらに向けて移動を始めていると思われます」
「ここまで手を回しているなんて。あのヴァイセックという男は、初めから……」
ディーテさんは唇を噛む。今中央から派遣された将軍がこちらに来ているということは、事前から殿下の留守を突き、アイルローズ要塞に入る準備を整えていたとしか考えられない。
三百人という数は、アイルローズの兵をそのまま自分の指揮下に入れ、統治を継続することを視野に入れての数だろう。中央から多くの兵力を向ける必要はないという判断だと思われる。
「殿下……このままロートガルト将軍が到着すれば、おそらく元帥からの命令書を出されることになります。それを拒否すれば、レーゼンネイア王国軍の全てを敵に回すことになりかねません」
続けてディーテさんが殿下に上申する。こうなることは分かっていた――西方領の統治を続け、民の暮らしを良くし、平穏をもたらすためには、遅かれ早かれカサンドラ王妃の謀略を退けなければならない。
「……私が今の段階でここにいるということは、彼らの想定の外でしょう。そしてロートガルト将軍による干渉は、この西方領には必要ありません」
「殿下……」
「どんな理由で、こちらに向かっているのか。私を失脚させるための言い分があるのなら、それを聞きましょう。しかしそれは、土足でこの要塞に入る前のことです」
「……分かった。あたしは、殿下にどこまでもついていきます」
プレシャさんには迷いがない。近衛騎士たちも同じだ――しかしディーテさんは、すぐに同意することができずにいた。
「ディートリア……あなたがミューズ家に戻るとしたら、それは……」
「……今しか無いと。それはおそらく、間違いではありませんわ」
ディートリアというのは、ディーテさんの本名だろう。そしてミューズは、ディーテさんの生家の家名だ。
ミューズ伯爵家という名前は、王都にいた頃に聞いたことがある。現当主は王立劇場の支配人でもあり、広く商売にも関わっていて、国内の貴族では最上位の富豪だと言われている。
それほどの名家に生まれて、ディーテさんは騎士となる道を選んだ。しかしそれは、家を捨てたということを意味しない。
「……私が殿下の家臣としてロートガルト将軍と対峙することになれば、ミューズ家も何らかの罰則を受けるでしょう。しかし父には、私にもしものことがあればいつでも切り捨てるようにと伝えてあります。父も老獪ですから、簡単に取り潰しを受けるようなことはありませんわ」
「ディーテ……」
ディーテさんは迷っていたわけではなかった。その決意を口にすることで、殿下が、そしてプレシャさんが、彼女を案じることが分かっていたのだ。
「……ディーテさん、本当にいいの?」
「今から新しい将軍の下に組み込まれて生涯を終えることになるのは、可能性としてでも考えたくありませんわ。私は殿下に仕える騎士であり続けたいと、そう誓ったのですから」
「うん……あたしも。殿下、あたしたちを連れていってください」
騎士たちの心は一つだった。俺はそれを見ていて、眩しいと感じる――学院では、こんなふうに同じ場所を目指す仲間に出会うことができなかった。
「……グラス兄、羨ましいって顔してる」
「どちらかというと、憧れかな。でも……そうだな。俺には、レスリーとスヴェンがいたから」
「っ……そ、そう……そう思ってくれてるのなら……」
レスリーは何かを言っていたが、声が小さくて聞き取れない――きっと「そう思ってくれてるのなら良かった」とか、そういうことだろう。
しかしロートガルト将軍を足止めするためには、俺たちの人数は少ない。ジルコニアの砦を占領している兵を戻す時間も、今からでは残されていない。
「……この西方領で、私たちがしてきたことが芽吹いているのなら。何も案ずることはありません」
「殿下……そのお言葉により、私の内より迷いは消えました。ディートリア・ミューズ、アイルローズ要塞第一射手隊長。この身が朽ちるまで随伴させていただきます」
ディーテさんに殿下は頷きを返す――俺には、殿下がかすかに笑ったように思えた。ディーテさんも微笑み、騎士たちが再び要塞の外へと出ていく。
「アスティナ殿下、皆様方、どうかご武運を……!」
「――アスティナ殿下、騎士プレシャ殿、騎士ディートリア殿、ご出陣!」
友軍――いや。かつて味方だった軍と対峙するために、騎士たちは草原を駆けていく。
この先に何が待っているのか。義姉さんとも対峙することになるのか。
俺にできることは、何も失わないようにすること。それだけは違えないと、心に誓った。




