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写真で見た顔だった。近くで見ると、目の横に思っていたより細かい皺があった。
「お父さん。三浦」
成瀬が俺の方へ手を向けた。
「三浦直人です」
「成瀬です。今日はありがとう」
頭を下げると、向こうも少し頭を下げた。俺は鞄の紐を握り直した。
「あの、夏は、お世話になりました」
何か違う気がした。世話をしたのは叔母で、俺が世話になった相手は、隣にいる成瀬だった。
「それはこちらの方だね。叔母さんにも、よろしくお伝えください」
「はい」
父親は成瀬へ、まだ挨拶する人がいるかと尋ねた。
「うん。あと、着替えてくる」
「じゃあ、三浦君。少しだけ二人で話してもいいかな」
「はい」
成瀬が俺を見た。
「ここに戻ってくるから」
「分かった」
彼女が廊下へ戻り、俺たちは窓際から少し離れたところへ移った。父親は手にしていたプログラムを畳んだ。
「急に予定が変わったと聞いたときは、驚いたよ。レッスンに着いたと思っていたら、海の近くにいるというから」
「すみません」
「いや、真帆が自分で決めたことだから。君だけに謝ってもらう話ではないんだけどね」
俺は頷いた。
「ただ、心配はした。泊まるところが分かって、叔母さんと話せて、ようやく落ち着いたから」
「はい」
「また二人で出かけることがあれば、行き先と帰る時間は、家に知らせておいてほしい。途中で変わったときもね。真帆にも言ってあるけど」
「分かりました」
父親は頷き、プログラムを持った手を下ろした。
「それにしても、帰ってきてから、本屋の話まで聞くとは思わなかったな」
「本屋ですか」
「同じ本を二冊、ずっと比べていたそうだね」
俺は廊下の方を見た。成瀬はもう見えなかった。
「訳した人が違ったので」
「そう聞いた。表紙は、買わなかった方が好きだったとも」
「……そこまで話したんですか」
父親は小さく笑った。
「どちらを買ったかより、その話の方が長かったよ」
俺は自分の鞄を見た。あの日買った本は、もう家の棚にある。成瀬と話したことまで、彼女の家へ持って帰られていたとは思わなかった。
「ほかには、何を」
「海で濡れたとか、花ちゃんと遊んだとか。全部話すと、戻ってきたときに私が怒られそうだから」
そこで言葉を切られ、俺もそれ以上は聞けなかった。
父親は、廊下を通る人に軽く会釈をした。それから俺へ向き直った。
「最近は、何も入れない日を作っているんだ」
「休む日ですか」
「そうとも限らないらしい。何をするのか聞いたら、その日に考えるって」
朝起きて、今日は何をしようと考えることがあまりなかった。成瀬は宿で、そう話していた。
「前は、次の予定があるって言ってました。レッスンが終わっても、本番の準備とか」
「うん。何かに出れば、また声を掛けてもらう。本人も出たいと言うし、そのために練習も増やす。私も、やりたいなら応援しようと思っていた」
父親は一度、畳んだプログラムへ目を落とした。
「一つずつ聞けば、どれもやりたいことだったんだろうね。だから、少し間を空けようかとは、あまり考えなかった」
「宿にいたときも、自分で練習する部屋を借りてました」
「聞いたよ。楽器を持っていったのに弾かないのも嫌だった、って」
その言い方なら、成瀬の声で想像できた。
「今も練習はするし、出たい演奏会もある。ただ、空いている日を見つけると、そこはそのままにしておく、と言うようになった。今日も、終わった後に何か入れようとはしなかったから」
俺は頷いた。成瀬と会う約束はしている。でも、いつ、どう考えて今日の時間を空けたのかは、本人に聞いていなかった。
父親はホールの扉へ目を向けた。
「弾き方も、少し変わった気がする」
「帰ってきてからですか」
「うん。急に指が動くようになったとか、そういう話ではなくてね」
俺が黙っていると、父親はこちらを見て続けた。
「ここを聴いてほしいんだな、というところが、前より分かる。少し音を長く取ったり、次へ行く前に間を置いたり。前ならもう弾き進めていたところで、今は待つことがある」
「ゆっくりになったんですか」
「全部がゆっくりになったわけじゃないよ。むしろ、思い切りよく弾くところもある。どう聴かせたいかを、前より自分で決めている感じかな。私には、だけど」
成瀬が駅で、自分の好きなところを聴いている人にも分かってほしいと話していた。そのときも、初めて思いついたことのようには言わなかった。
同じことを大切にしていても、弾き方が変わることはあるらしかった。俺には、そこまでは聴き分けられない。
「数日で、急に上手になるわけではないからね。何か考えたことがあったのかもしれないし、向こうで人前に出たことも、よかったのかもしれない」
「本人には、言ったんですか」
「少しね。そうかな、と言っていたけど」
父親は笑って、それからしばらく黙った。
「ただ、少し嫉妬もするね」
俺が顔を上げると、彼は持っていたプログラムを両手に持ち替えた。
「ずっと聴いてきて、あれこれ言ってきたのに。外で過ごした数日の間に、自分で何か見つけて帰ってくるんだから」
俺は何と答えればいいのか分からなかった。父親も、俺の返事を求めているわけではなさそうだった。
「教えていると、つい、自分が教えられるつもりになるんだろうね。父親だと、なおさら」
「……そういうものですか」
「私の場合はね」
少し笑ってから、彼はホールへ目を戻した。
「でも、今の演奏も好きだよ。今日も、よかった」
「それ、成瀬にも言ってあげてください」
口に出してから、言い過ぎたかと思った。父親がこちらを見た。
「あの、前にそう言ってもらったこと、覚えてたので。嬉しかったって」
「そう」
彼はすぐには続きを言わず、指でプログラムの端を揃えた。
「じゃあ、ちゃんと言っておこう」
廊下の向こうにいた人が、父親に気づいて頭を下げた。彼も手を上げて応じた。
「引き止めてごめんね。私も、少し挨拶をしてくるから」
「はい。ありがとうございました」
俺が頭を下げると、父親はもう一度、叔母さんにもよろしく、と言って歩いていった。
成瀬が戻ってきたときには、白いシャツに着替えていた。ヴァイオリンケースを肩に掛け、衣装の入っているらしい袋を片手に持っていた。
「お待たせ。お父さん、何の話してた?」
「夏のこと。叔母さんによろしくって」
「うん。私からも言っといて」
「あと、本屋の話したんだって?」
成瀬の足が少し遅くなった。
「したけど」
「表紙のことまで聞いた」
「そこ話したの?」
「どっちを買ったかより、そっちの話が長かったって」
成瀬は廊下を振り返った。父親の姿はもうなく、こちらへ戻ったときには、少し口を尖らせていた。
「だって、結構迷ってたじゃん」
「うん。迷った」
俺が頷くと、彼女もそれ以上は言わなかった。入口へ向かいながら、袋の持ち手を握り直した。
「このあと、どうする?」
「行きたいところがある」
成瀬がこちらを見た。
「前に話した、家の近くの古本屋。ここから電車ですぐだから、一緒に行かない?」
「ああ、もっと古いのがあるって言ってたところ?」
「そう。ほかにも、見てほしいのがある」
成瀬は頷きかけ、入口の時計を見た。
「ここから、どのくらい?」
「電車がすぐ来れば、歩くの入れて二十分くらい。店は六時まで開いてる」
「六時までには、帰りの電車に乗りたいんだけど」
「それなら間に合う。駅の近くだから」
「じゃあ、行く」
成瀬はスマホを出した。お母さんに送っておく、と言って画面に指を滑らせたので、俺も母に、帰るのは夕方になると送った。
外へ出ると、まだ日が高かった。成瀬は眩しそうに顔をしかめ、建物の影へ寄った。
「あのさ。私、甘いものも食べたい」
「古本屋の近くに、ケーキの店ならあるよ」
「食べられるところ?」
「奥に席がある」
「じゃあ、そっちも」
俺たちは駅へ向かって歩き出した。成瀬の袋が膝に当たっていたので、持とうかと聞くと、ありがとう、と渡してきた。楽器のケースは、肩紐を直して自分で持った。
「ケーキ、先でもいい?」
「俺は本屋を先にしたい。食べてからだと、あんまり見られないかもしれないし」
「でも、本屋から三浦が出てこないかもしれないじゃん」
「出るよ」
「前も、ちょっと見てていいって言ってた」
そこは覚えがあった。俺は駅までの道を見てから、スマホで時刻を確かめた。
「じゃあ、四時半まで。それで本を決める」
「決まらなかったら?」
「今日はやめる」
成瀬は俺の顔を見た。まだ少し疑っているようだった。
「ケーキの店、五時には入れる?」
「うん。歩いてすぐだから」
「じゃあ、それで。五時まで本屋、にはしないでね」
「しないって」
返事をしながら、四時半までに店のどこを回ろうかと考えていた。成瀬は駅の看板を見つけ、あっちだね、と指した。
信号で足を止めると、彼女が顔を向けた。
「さっきの、どこが分かんなくなったの?」
「曲?」
「うん。ガヴォットの前?」
「その前。最初の速いのが終わって、ゆっくりになっただろ。その途中で、同じところをもう一回弾いた?」
「弾いたよ」
「じゃあ、そこで次の曲になったわけじゃないんだ」
「うん。そこは、まだ同じ曲」
「そっか。初めて聴いたのに、知ってる気がしたから」
成瀬は俺の顔を見て、それから小さく笑った。
「ちゃんと聴いてたんじゃん」
「聴いてたよ。どこで変わったか分かんなかっただけで」
「うん。じゃあ、あとで曲の名前、書くね」
信号が青になった。歩き出すと、成瀬も隣へ来た。
「本屋でさ、私のも選んでくれる?」
「どういうのがいい?」
「三浦が面白かったやつ。あんまり分厚くないので」
「短編集でもいい?」
「いいよ。表紙も見たいけど」
俺は頷いた。店の奥に置いてあった一冊が浮かんだ。まだ残っているかは、行ってみなければ分からなかった。
「あ、一冊だけね」
「まだ何も言ってないけど」
「今、何冊か考えてたでしょ」
「二冊」
成瀬は少し笑い、ケースの肩紐を持ち直した。
「じゃあ、見てから決める」




