隣の芝生は青く見える。お兄様は自由に見える。
「……何故、こうなってしまったんだ?」
部屋に残されたヴァーミリオン先輩は、散らばった紙を前に呟いた。
「私が間違えていたのか? 自由なんて……私だけが、あの子と違って『自由』だと?」
その声は明らかに沈んでいた。
「すいません。半分は僕のせいです。でも、どうしてこれをここに置いていたんですか?」
「あの子を思うなら、捨てるべきだと思って整理していたんだ。でも、決心がつかなかった。あの子が茨の道を進むなら、それを止めるのも、兄としての情ではないかと」
彼の言葉に嘘はない。今の俺には、その顔を見ればわかる。
「私は、これからどうすればいい? 私は……あの子に嫌われてしまったら、生きていけない」
今なら分かる。この言葉も嘘じゃない。
俺は少し考えたあと、彼に言った。
「ただ、素直になればよいのではないでしょうか」
「――……『素直』、だと?」
これは正直、これまでの彼から一番遠い言葉だ。
彼は公爵令息として生きてきた。そのために幾重にも、仮面を重ねて生きてきた。
「何故そう言える?」
「時に当事者ではなく部外者のほうが、ものが見えることもあるということです。僕は貴方に、返すべきものがあります」
俺は鞄の中から本を取り出すと、彼に手渡した。
「この本は、もともとイザベラ様のために作られたもの。本当に貴方が勉強を教えたかったのは、僕じゃなくてイザベラ様だったんですよね?」
彼が書いた本を読んでいて、わかったことがある。
たぶん、この人は本当は天才ではなく秀才なのだ。
だから、俺にとってわかりやすい本が書けた。それは彼自身が、『わからない』誰かの気持ちを理解できたからだ。
ヒロインであるマリーさんは、知識と経験が足らないだけの天才型。そして、それはイザベラ様も同じで――。
「そうだ」
本を受け取った彼は、そっと背表紙を撫でた。
「でもあの子に、私なんて必要じゃなかった」
『いい兄になろう』
幼い彼はもしかしたら、イザベラ様にそう思っていたのかもしれない。
でも、イザベラ様には努力型の彼の手助けなんて、結局の所殆ど必要なくて。
妹ならできるから。妹なら選ばれるから。それが幾重にも積み重なって、いつしか歩幅は合わなくなる。
後ろを歩いていた小さな少女はいつの間にか、兄である彼を追い越して、彼は遠くから彼女を見つめることしか見つめることしかできなくなる。
『ありがとうございます。お兄様!』
幼い頃の彼女を彼がまだ覚えているのは、彼にとってその時間だけが、彼が本当の意味で『兄』であれた時間だったからかもしれない。
「今の貴方が素直に気持ちを話せば、僕はこの問題は解決できると思っています」
俺は、本来のこの世界の未来を知っている。
悪役令嬢、スカーレット・ヴァーミリオンが、何故王子の婚約者になろうとしたのか。
それは彼女の兄に、自分の存在価値を認めてほしかったからだ。
美しく賢い兄。ノクス・ヴァーミリオンは彼女にとって完璧な存在だった。
『私は、私こそが、この国の王妃に相応しい人間なのです!』
『何故、こんな事をした?』
『お兄様が……お兄様が、仰ったのではありませんか。そのために、そのためにこれまで、私は――』
『……私は、お前にこんな未来は望まなかった』
それが、『一〇〇本の薔薇を君に』に描写された、悪役令嬢とその兄の言葉。
俺だけが知る『物語《みらいのIF》』。
でも今の俺にとって、二人は身近な人間だ。二人がすれ違い不幸になる結末を、俺は望んではいない。
二人には幸せになってほしい。
……だから。
「ヴァーミリオン先輩。貴方が思う幸福は、本当に、彼女にとっての幸福ですか?」
「私は――」
俺は彼に、変わって欲しいと願った。
貴方が変われば、きっと未来は変わる。
大事なのは、誰かを想う気持ち。相手の幸せを願う感情だ。その感情からきっと、幸せな未来に繋がる言葉は生まれる。
「答えがもう出ているなら、今度は貴方が追いかける番です」
自分を追い越した妹を、こっそり遠くから見るのは今日で終わりだ。
「いってらっしゃい。お兄様」
とん、と軽く背中を押せば、ヴァーミリオン先輩は珍しく少しふらついて、一度俺の方を振り返むくと、決意した目をして頷いて、それから彼女を追いかけた。




