第82話 シャドウナインと影壁②
森を震わせたロックベアのブレスが完全に消え去る。
立ち込めていた土煙がゆっくりと晴れると、その場にいた全員が息を呑んだ。
「……無傷だ。」
レオンが信じられないという表情で呟く。
エミナもシャドウナインも、ほとんど傷一つ負っていなかった。
二人の前には黒い影で作られた巨大な壁が立ちはだかっている。
その壁は液体のように揺らめきながらも、確かな質量を持ってブレスを完全に受け止めていた。
「これが……私たちの力?」
エミナは目の前の光景が信じられなかった。
契約してまだ一か月。
つい先日まで臆病で、誰にも近寄れなかったシャドウフォックスが、今は自分を守るために堂々と立っている。
その姿に胸が熱くなる。
「シャドウナイン……。」
エミナがそっと名前を呼ぶと、シャドウナインは振り返り、小さく鳴いた。
「キュォ。」
その鳴き声には、「大丈夫」という意思が込められているようだった。
アルトは魔界スキル商店の観測水晶を見つめながら、帳簿へ新たに記録された情報を確認していた。
【種族:シャドウナイン】
【危険度:B】
【成長型特殊種】
【固有スキル:影壁】
【新規スキル:影渡り(未解放)】
「まだ能力を隠していますね。」
アルトが静かに呟く。
リリアは首を傾げた。
「影渡り?」
「おそらく移動系の固有能力でしょう。」
「まだ条件を満たしていないため発現していません。」
アルトは帳簿を閉じる。
特殊進化種は一般種と違い、成長するたびに新たな能力を獲得することが多い。
シャドウナインも、その典型なのだろう。
「本当に面白い才能です。」
リリアも頷いた。
「エミナさんだから、この子もここまで成長できたんですね。」
その頃、森ではロックベアが苛立ちを隠せずに咆哮を上げていた。
何度攻撃しても届かない。
目の前にいる小さな魔獣を倒せない。
それが怒りをさらに増幅させている。
巨体を揺らしながら突進を開始する。
今度は防御ではない。
全体重を乗せた体当たりだった。
木々をなぎ倒しながら一直線に迫る姿は、まるで岩山が転がってくるような迫力である。
「避けて!」
エミナが叫ぶ。
しかしシャドウナインは逃げない。
二本の尻尾がゆっくりと揺れ、足元の影が大きく広がっていく。
すると不思議なことが起こった。
影がまるで沼のように柔らかくなり、シャドウナインの身体がゆっくりと沈み始めたのである。
「え?」
エミナは目を丸くした。
一瞬後。
シャドウナインの姿は完全に消えた。
ロックベアは勢いを止められず、そのままエミナの目前まで迫る。
「しまっ……!」
レオンが剣を抜こうとした、その瞬間だった。
ロックベアの真下の影が大きく波打つ。
ズバッ!
漆黒の影からシャドウナインが飛び出し、ロックベアの腹部へ鋭い爪を叩き込んだ。
「ガアアアアッ!」
巨体が大きくよろめく。
そのまま勢い余って岩へ激突し、大きな音を立てて転倒した。
「今のは……。」
レオンは息を呑む。
「影の中を移動した?」
観測水晶を見ていたアルトの帳簿が輝く。
【固有スキル解放】
【影渡り】
【影と影を繋ぎ高速移動可能】
「やはり。」
アルトは満足そうに頷く。
条件を満たしたことで、眠っていた能力が目覚めたのである。
リリアも興奮気味に水晶へ顔を近付ける。
「すごい!」
「こんな能力、暗殺部隊なら喉から手が出るほど欲しがりますよ!」
「ですが。」
アルトは静かに首を横へ振った。
「この能力は戦うためだけではありません。」
「逃げることもできます。」
「仲間を助けることもできます。」
「危険地帯から脱出することもできます。」
スキルは使い方次第。
それはアルトが常に考えていることだった。
その時、倒れていたロックベアが再び立ち上がる。
全身は傷だらけ。
息も荒い。
しかしまだ戦意は失っていなかった。
「しつこいな……。」
レオンが剣を構える。
だが、その前にエミナが一歩前へ出た。
「もうやめよう。」
優しく声を掛ける。
ロックベアは唸り声を上げるが、エミナは逃げない。
「あなたも、お腹が空いていただけなんだよね?」
薬草採取に来た時から周囲の様子を見ていたエミナは気付いていた。
この辺りには獲物がほとんどいない。
怪我をした小鳥を狙ったのも、生きるためだったのだ。
敵意だけではない。
事情があったのである。
シャドウナインも主人の隣へ静かに立つ。
攻撃する様子はない。
ただロックベアを真っ直ぐ見つめていた。
数秒の沈黙。
やがてロックベアは大きく鼻を鳴らすと、ゆっくり背を向けた。
そのまま森の奥へ姿を消していく。
レオンは呆然としていた。
「倒さなかったのか……。」
新人冒険者なら、勝てる相手になった瞬間に追撃していただろう。
だがエミナは違った。
必要以上に傷付けることを選ばなかったのである。
その様子を見たアルトは小さく微笑む。
「だからこそ、魔物たちは彼女を信頼するのでしょう。」
帳簿には最後に一文だけ、新たな記録が浮かび上がった。
【契約者:エミナ】
【徳ポイント獲得】
【対象:野生魔物への慈悲】
その表示を見たアルトは少し驚く。
「……なるほど。」
「魔物との関わり方まで評価対象になるんですね。」
魔界スキル商店の帳簿は、また新たな可能性を示していた。
そしてエミナはまだ知らない。
この日の出来事が、後に「魔物に最も愛された魔物使い」と呼ばれる伝説の第一歩になることを。




