第12話 リッチと不死③
「先生」
返事はない。
「先生」
再び呼ぶ。
それでも返事はなかった。
研究室の奥。
無数の魔法陣と書類に囲まれた机で、ノワールはひたすらペンを走らせていた。
弟子のアリアはため息をつく。
「昼食です」
机の横へ皿を置く。
ノワールは顔も上げない。
「そこに置いておいてくれ」
「昨日の昼食も残っていました」
「そうか」
興味なさそうな返事だった。
アリアは悲しそうに目を伏せる。
昔は違った。
研究の話をした。
失敗を笑い合った。
新しい発見があれば皆で喜んだ。
だが今は。
研究しか見えていない。
◆
半年後。
ノワールの名声は魔界中へ広がっていた。
魔力循環理論。
革新的な研究成果。
歴史的発見。
学会は大騒ぎだった。
「天才だ」
「偉業だ」
「数百年に一人の研究者だ」
称賛の声が飛び交う。
だが。
研究室は静かだった。
かつて五人いた弟子は二人になっている。
理由は単純だ。
ノワールが何も見なくなったから。
研究以外を。
◆
「先生」
アリアが書類を持ってくる。
「学術院から招待状です」
「置いておけ」
「祝賀会の案内です」
「必要ない」
即答だった。
「皆、先生を祝いたいんです」
「時間の無駄だ」
アリアは黙る。
少し前なら考えられない言葉だった。
◆
その夜。
研究室にはノワールだけが残っていた。
机に積み上がる論文。
新たな理論。
未解明の問題。
やることはいくらでもある。
時間はいくらあっても足りない。
だが。
不思議だった。
以前より成果は出ている。
以前より順調だ。
それなのに。
達成感が薄い。
完成しても次がある。
発見しても次がある。
終わりがない。
どこまでも続く。
◆
一年後。
研究はさらに進んでいた。
魔界の歴史に残るレベルの成果が次々と生まれる。
誰もがノワールを称賛した。
だが。
祝う者は減っていた。
弟子は一人になった。
アリアだけだった。
◆
「先生」
ある日。
アリアが頭を下げた。
「今日で研究室を辞めます」
ペンが止まる。
数か月ぶりだった。
ノワールが研究以外へ意識を向けたのは。
「なぜだ」
「分かりませんか?」
アリアは悲しそうに笑った。
「先生は変わりました」
「変わっていない」
「変わりました」
即答だった。
「昔の先生は研究が好きだった」
「今の先生は研究しかありません」
ノワールは反論しようとした。
だが言葉が出ない。
◆
「先生は覚えていますか?」
アリアが言う。
「私が初めて論文を書いた日」
ノワールは黙る。
覚えていなかった。
「失敗して泣いた時」
覚えていなかった。
「学会で発表した時」
覚えていなかった。
「先生と一緒に喜んだのに」
静かな声だった。
ノワールは言葉を失う。
本当に覚えていなかった。
研究成果は覚えている。
論文も覚えている。
理論も覚えている。
だが。
そこにいた人たちのことは。
◆
「ありがとうございました」
アリアは深く頭を下げる。
「先生に出会えたことは感謝しています」
「待て」
思わず声が出た。
アリアが顔を上げる。
ノワールは何か言おうとした。
だが。
言葉が出ない。
何を言えばいいのか分からなかった。
引き止める理由も。
謝る言葉も。
何も。
◆
扉が閉まる。
静寂。
研究室にはノワールだけが残された。
ふと周囲を見る。
広い部屋だった。
昔は狭く感じた。
弟子たちがいたから。
皆で議論したから。
笑い声があったから。
今は広い。
あまりにも広い。
◆
机の引き出しを開く。
そこには古い写真が入っていた。
弟子たちとの集合写真。
昔の研究仲間。
学会の記念写真。
若き日の自分。
皆笑っている。
ノワールは写真を見つめた。
そして気付く。
名前が思い出せない者がいる。
顔は分かる。
だが名前が出てこない。
研究内容は覚えているのに。
◆
その瞬間。
脳裏に蘇る。
魔界スキル商店。
アルトの言葉。
――このスキルは、お客様から”終わり”を奪います。
あの時は意味が分からなかった。
だが今なら分かる。
【不死】は研究を続けるための障害を消した。
疲労。
老化。
迷い。
休息。
そして。
人との時間も。
◆
ノワールは立ち上がる。
ふらつく。
何年ぶりだろう。
研究室の外へ出るのは。
窓の外を見る。
夕日が沈んでいた。
美しい。
そう思ったのも久しぶりだった。
研究以外に目を向けたのも。
そして。
ノワールは決める。
行かなければならない。
あの店へ。
魔界スキル商店へ。
願いを叶えた代償について。
あの商人と話すために。
そして。
自分が本当に欲しかったものを知るために。




