3 魔力の発現
夕暮れ時の村は暗い。
春とはいえ空気は冷え、湿った風が藁屋根を揺らしていた。
「のだっ♡魚なのだっ♡」
レイは上機嫌だった。
小さな川魚を紐にぶら下げ、泥道をぴちゃぴちゃ歩いている。今日の成果は二匹。小さいが、今のマカロン家にとっては立派なご馳走だった。
「ママ喜ぶのだぁ♡」
腹も減っていた。
焼き魚。
黒パン。
できれば温かいスープ。
そんなことを考えながら小屋へ近づいた、その時だった。
「……ですから、無理です」
母親の声。
だが妙に硬い。
レイは足を止めた。
「のだ?」
小屋の前には馬車が止まっていた。
地主屋敷の紋章入り。
嫌な予感がする。
レイは草むらへしゃがみ込み、そっと様子を覗いた。
そこには三人いた。
母親のマリア。
そして、毛皮付きの外套を着た太った男。
さらにその後ろに、棍棒を持った使用人が二人。
太った男は村の管理人だった。
名前はビリヤニ。
地主家から派遣されている、農奴管理の実務責任者である。
村人たちは皆この男を恐れていた。
労働配分。
麦の分配。
冬の薪。
徴発。
罰金。
生殺与奪を握っていると言ってもいい。
「無理では困るのですよ、マリア」
ビリヤニは脂ぎった顔で笑った。
「今年は働き手が足りません。あなたの家は夫もいない。なら、追加労働を引き受けてもらわないと」
「でも、子供たちが……」
「知りませんなぁ」
わざとらしく肩をすくめる。
「働かないなら、冬の薪の配分を減らすしかないでしょう」
マリアの顔が青ざめた。
薪を減らされる。
それはつまり、冬に凍えるという意味だ。
「そんな……」
「それとも麦の分配を減らしますか?」
ビリヤニはにやにやしていた。
「最近、倉庫の麦も足りませんしねぇ。まあ、あなた次第ですよ」
その言葉の意味は明白だった。
村では珍しくない。
管理人や徴税人が、立場の弱い女へ圧力をかける。
特に夫のいない家は狙われやすかった。
マリアは俯いた。
逆らえない。
農奴にとって地主側は絶対だ。
逆らえば飢える。
家を失う。
最悪の場合、鞭打ちすらある。
「…………」
草むらで見ていたレイの顔から笑みが消えた。
前世の記憶がざわつく。
あの目。
あの喋り方。
弱者を追い詰める時の顔。
商会の幹部たちにもいた。
税吏にもいた。
親戚にもいた。
力のない相手へだけ強気になる人間。
「のだぁ……」
レイの手が震えた。
五歳児の小さな拳。
しかしその中には、前世で裏切りと暗殺を経験した感情が詰まっていた。
ビリヤニはさらに一歩近づいた。
「まあ、私は優しいですからねぇ。少し話し合えば配分も考えましょう」
マリアが後ずさる。
その瞬間。
レイの中で何かが切れた。
「のだぁあああああああ!!!!」
草むらから飛び出す。
びしょ泥の五歳児。
しかし目だけが異様に鋭かった。
「ママから離れろなのだぁあああああ!!!!」
ビリヤニが呆気に取られる。
「……は?」
レイは地面を踏みしめた。
その瞬間だった。
どごっ。
地面が鳴った。
「!?」
全員の顔色が変わる。
土が盛り上がった。
小石が浮く。
そして。
地面から尖った土柱が突き出した。
「ぎゃああああっ!?」
使用人の一人が尻餅をつく。
馬が暴れた。
土がうねる。
地面が震える。
「のだぁああああ!!」
レイの足元から、さらに巨大な土塊が盛り上がった。
まるで怒りに反応しているようだった。
静寂。
誰も動けない。
マリアの顔が真っ白になる。
「レイ……?」
ビリヤニは数歩後退した。
顔色が変わっている。
「ま、魔力……?」
この世界で魔力を持つ者は特別だった。
基本的には貴族。
血統。
家系。
支配者階級。
農奴が魔法を使うなど、常識ではありえない。
しかも土を動かすほどの出力。
これは偶然では済まない。
「な、なんだこのガキ……!」
レイ自身も混乱していた。
「のだぁ!?」
手を見る。
地面を見る。
再び土が震える。
「のだぁああ!?!?」
本人が一番驚いていた。
前世では魔法なんてなかった。
だが、この世界には存在する。
そして今。
怒りをきっかけに発現した。
「怪物だ!!」
使用人が叫んだ。
「違うのだぁ!!」
レイも叫び返す。
「吾輩はただ怒っただけなのだぁああ!!」
どごん!!
また土が爆ぜた。
今度は小屋の横の地面が盛り上がり、石が吹き飛ぶ。
「ひぃっ!」
ビリヤニは完全に怯えていた。
しかし次の瞬間。
その目に別の感情が宿る。
恐怖ではない。
計算。
「……魔力持ちの農奴」
声が低くなる。
「これは……報告案件だな」
マリアの顔色がさらに悪くなった。
最悪だった。
魔力を持つ農奴など、普通ではない。
貴族に知られればどうなるか分からない。
連れて行かれるかもしれない。
研究されるかもしれない。
家族ごと処分される可能性すらある。
「レイ!」
マリアは慌てて抱きしめた。
「もうやめなさい!」
「のだぁ……」
レイは荒く息をしていた。
怒り。
混乱。
恐怖。
土の震えは少しずつ収まっていく。
しかし地面には、魔法の痕跡がはっきり残っていた。
ビリヤニはそれを見つめた。
そして。
「……今日は帰ります」
妙に丁寧な声になった。
さっきまでの態度とは別人だった。
「ですが、この件は地主様へ報告しなければなりませんなぁ」
その言葉に、マリアの体が震える。
「待ってください……!」
「規則ですので」
ビリヤニは後退しながらレイを見る。
その目には恐怖と欲望が混ざっていた。
農奴の子供。
魔力持ち。
土属性。
もし地主へ献上すれば。
自分の出世材料になる。
「では」
馬車が去っていく。
静寂。
風だけが吹いていた。
「…………」
レイは呆然としていた。
「のだぁ……」
足元の土を見つめる。
まだ少し盛り上がっている。
マリアは震える手でレイを抱きしめた。
「なんてことを……」
声が掠れている。
「なんてことになったんだい……」
その晩。
小屋の中は暗かった。
いつもの黒パンも、今日は味がしない。
レイは小さく丸まっていた。
「のだぁ……」
前世では暗殺された。
だが今世では。
もっと面倒なものに目をつけられた気がしていた。




