2
朝は暗いうちに始まる。
まだ空が青黒く、鶏すら鳴いていない頃。
マカロン家の小屋では、藁の寝床の中で丸まっていたレイがもぞもぞ動き始めていた。
「……のだぁ……寒いのだぁ……」
隙間風が酷い。
木板の壁は歪み、冬の名残の冷気が普通に入ってくる。毛布など高価な物はなく、古い麻布を何枚も重ねているだけだった。
隣では妹が寝息を立て、母親はすでに起きて竈の火を弄っている。
ぱち、ぱち、と湿った薪が鳴った。
「レイ、起きな。今日は水汲みもあるよ」
「のだぁ……」
五歳児にしては妙に不満そうな顔で起き上がるレイ。
前世では召使いが着替えを手伝っていた。
今は自分でぼろ布を巻きつけるしかない。
「吾輩、本来ならもっと豪華な人生だったのだぁ……」
「また寝言言ってるよこの子」
母親は呆れていた。
しかし村の大人たちは気づいていない。
この小生意気な問題児が、実は前世で毒殺される程度には巨大商会の跡取り争いに関わっていたことを。
もっとも、だから何だという話ではある。
今のレイは農奴の息子だ。
貴族でもなければ商人でもない。
地主の土地に縛りつけられた、ただの貧農である。
朝食は黒パンの切れ端だった。
硬い。
酸っぱい。
昨日よりさらに硬い。
しかしレイは好きだった。
「のだっ♡」
もぐもぐ食べる。
前世の料理は豪華だったが、逆に味が濃すぎた。
この粗末な黒パンは腹にたまる感じがして妙に安心するのである。
「今日は畑の石拾いだからね。ぼーっとしてるんじゃないよ」
「のだぁ」
外へ出る。
朝露。
泥。
家畜の臭い。
遠くには地主の屋敷が見えた。
白壁。
大きな窓。
煙突。
「のだぁ……」
レイは細目で眺める。
「絶対あそこ暖かいのだぁ……」
羨ましかった。
ただし前世の経験から、ああいう大きな屋敷には面倒も大量にあると理解している。
「でも屋敷が大きいと親戚が増えるのだぁ……毒も増えるのだぁ……」
五歳児の感想ではない。
畑へ着くと、村人たちはすでに働いていた。
春先の土は重く、靴はすぐ泥まみれになる。
大人たちは鍬を振り、女たちは雑草を抜き、子供たちは石拾いや水運びをする。
レイも小さな籠を抱えて石を集め始めた。
「のだぁ……」
ぽい。
ぽい。
しかしすぐ飽きる。
「つまらないのだぁ……」
前世では舞踏会に愛人に賭博に暗殺だった。
今は石拾いである。
落差が酷い。
レイは途中から石を積み始めた。
「のだっ♡城なのだっ♡」
「レイ!遊ぶんじゃないよ!」
「のだぁ!?」
母親に怒られた。
渋々作業再開。
だが数分後には今度は虫を観察していた。
「のだぁ……」
黒い甲虫をつつく。
「お主も農奴なのだぁ?」
「レイ!!」
「のだぁあああ!?」
また怒られた。
昼頃になると、村の空気に少しだけ余裕が出た。
皆、粗末な昼食を取り始める。
黒パン。
塩。
玉ねぎ。
たまに干し魚。
レイは小さな黒パンを齧りながら川の方を見ていた。
「のだぁ……」
腹が減る。
常に減る。
育ち盛りというのもあるが、農作業は普通に重労働だった。
しかもこの時代の農民は基本的に栄養不足である。
前世のレイは好き嫌いだらけだったが、今は食えるだけでありがたい。
「のだぁ……後で魚釣りしなきゃなのだぁ」
ぽつりと呟く。
村の子供たちは川や森で食料を補うことが多かった。
魚。
蛙。
木の実。
茸。
地主の畑だけでは食っていけないからである。
レイはこれが意外と嫌いではなかった。
前世では金で何でも買えた。
だが今は、自分で捕まえないと腹が減る。
それが妙にゲームっぽくて楽しいのである。
「今日は魚いると良いのだぁ♡」
すると近くで作業していた老人が笑った。
「お前は魚捕るのだけは上手いなぁ」
「のだっ♡」
レイは得意げになった。
実際、川遊びばかりしているせいで妙に水に慣れていた。
村の子供たちは溺れることも珍しくないが、レイは犬かきだけ異常に上手い。
「吾輩は水の王なのだぁ♡」
「馬鹿言ってないで働け」
「のだぁ」
午後になると空が曇り始めた。
冷たい風が吹く。
春とはいえまだ寒い。
大人たちの顔は疲れていた。
税。
地主への労働。
不作。
病気。
皆、生きるだけで精一杯だった。
レイはぼんやりそれを見ていた。
前世の自分なら、こういう農民は景色程度にしか思っていなかっただろう。
だが今は違う。
重い水桶を運ぶ腕の痛みも知っている。
腹が減る苦しさも知っている。
冬の寒さも知っている。
「……のだぁ」
少しだけ考える。
そして。
「やっぱりお金は必要なのだぁ」
結論が最低だった。
「でも大金持ちは暗殺されるのだぁ……困ったのだぁ……」
真剣に悩んでいる。
夕方。
仕事が終わると、レイは即座に川へ向かった。
ぼろ縄。
曲がった針。
餌用の虫。
村の子供らしい装備である。
「のだっ♡」
川辺へしゃがみ込む。
水は冷たい。
夕日が反射して赤かった。
しばらく静かに糸を垂らす。
村の喧騒が遠くなる。
「…………」
こういう時間は嫌いじゃなかった。
前世では常に誰かがいた。
護衛。
使用人。
愛人。
敵。
一人になれる時間などほぼ存在しなかった。
だが今は違う。
魚が餌をつつく感覚だけを待っていればいい。
それだけでよかった。
「のだぁ……」
ぽちゃん。
浮きが沈む。
「のだっ!?」
レイは慌てて引っ張った。
ばしゃっ!!
小さな川魚が跳ねる。
「釣れたのだぁあああ♡」
大喜びである。
「今日はご馳走なのだっ♡」
魚を掲げて笑うレイの姿は、前世で絹の服を着ていた頃よりずっと子供らしかった。
空は暗くなり始めていた。
遠くで狼が鳴く。
村には灯りが少ない。
だがレイは気にしなかった。
「のだっ♡帰るのだっ♡」
小さな魚を握りしめ、泥道を走る。
貧しくて。
寒くて。
腹も減る。
それでも今のところ、毒殺される気配だけは無かった。




