1 思い出したレイ
春先の雪解け水で増水した川は、まだ冷たかった。
五歳児にしては妙に長い手足をばたつかせながら、痩せた金髪の少年が犬かきをしている。
「のだっ、のだっ、のだっ♡」
ばしゃばしゃ。
泥まみれの岸辺には、継ぎ接ぎだらけの麻布服と、拾った骨で作った玩具が転がっていた。遠くでは牛が鳴き、さらに遠くでは領主の風車がぎいぎい回っている。
村の名前はシェロヴォ。
地主の広大な麦畑にしがみついて生きる、貧しい農奴たちの集落であった。
そしてその中でも、特に嫌われている一家がマカロン家である。
「あの家の息子は将来絶対ろくでもない」
「まだ五歳なのに、もう物を隠す癖がある」
「この前なんて、鶏に酒を飲ませて大騒ぎになったぞ」
そんな噂をされている問題児こそ、今川で犬かきをしているレイであった。
「のだぁ〜♡魚いないのだぁ〜♡」
川を漂いながら、レイは呑気に空を見ていた。
青空。
白樺林。
冷たい風。
農村は貧しかったが、自然だけは妙に美しかった。
――その時である。
上流から流れてきた木の枝が、レイの後頭部に直撃した。
「のだっ!?」
ごつん。
一瞬、視界が真っ白になる。
そして。
「…………のだ?」
頭の奥で、何かが弾けた。
煌びやかなシャンデリア。
金細工。
香水。
葡萄酒。
毛皮。
舞踏会。
女たちの笑い声。
毒。
契約書。
遺言状。
銃声。
叫び声。
大量の記憶が洪水みたいに脳へ流れ込んできた。
「……の、だ……?」
川に浮かんだまま、レイは固まった。
自分が誰だったのか。
何をしていたのか。
どうやって死んだのか。
全部、思い出してしまった。
「のだっ!?!?」
レイは突然川の中で暴れ始めた。
「遺産相続の暗殺合戦に負けたのだぁあああああ!!!!」
ばしゃあああん!!
鳥が一斉に飛び立った。
岸辺で洗濯していた老婆が十字を切った。
「またマカロン家のガキが狂ったぞ……」
しかしレイはそんなことを気にしていなかった。
「くっそぉおおおお!!あのクソ兄貴ぃいい!!毒入りワインとか卑怯なのだぁあああ!!しかも吾輩の愛人まで買収してぇええ!!信じられないのだぁああ!!」
五歳児とは思えない恨み言が川辺に響く。
前世のレイは、巨大商会を持つ超大富豪の末息子だった。
腹違いの兄弟姉妹が十数人。
愛人は数えきれず。
屋敷では毎日のように陰謀と裏切りが飛び交っていた。
そして父親が死んだ瞬間、遺産を巡る戦争が始まったのである。
「ぐぬぬぬぬ……!!」
レイは川に浮かびながら歯ぎしりした。
「吾輩、かなり頑張ったのだぁ!!料理人を買収したり!護衛を増やしたり!愛人に宝石配ったり!怪しい叔父を階段から落としたりしたのにぃ!!」
完全に碌でもない。
「なのに最後は負けたのだぁああ!!」
しかも死因が情けなかった。
信用していた愛人に抱きつきながら毒を盛られ、そのまま泡を吹いて死んだのである。
「女は怖いのだぁああああ!!」
川の中で大泣きする五歳児。
すると岸辺から声が飛んできた。
「レイ!また川で遊んでるのかい!」
振り向くと、頭巾を被った痩せた女が立っていた。
母親のマリアである。
頬はこけ、指は荒れ、靴もぼろぼろだった。
だが目だけは優しかった。
「風邪引くよ!早く戻ってきな!」
「のだぁ……」
レイは川から上がった。
びしょ濡れで震えながら歩く。
泥。
牛糞。
古い荷車。
前世の豪邸とは比べものにならないほど貧しい。
だが。
小さな木造小屋へ入った瞬間、香ばしい匂いがした。
「!」
レイの目が輝く。
「黒パンなのだっ♡」
焼きたてではない。
硬い。
酸っぱい。
少し焦げている。
だがレイはこの黒パンが好きだった。
前世では毎日山ほど高級料理を食べていたが、妙にこの味だけは心に刺さるのである。
「今日はちょっと麦を多めに入れられたんだよ」
母親が照れ臭そうに言った。
「領主様の倉庫仕事を手伝ったら、余った粉を分けてもらえてね」
「のだっ♡」
レイは黒パンにかぶりついた。
硬い。
しかし噛むほど甘い。
「……うまいのだ」
前世の記憶を取り戻した今だからこそ、余計にそう思った。
前世では料理人が百人いた。
銀の皿で肉料理が出た。
葡萄酒も飲み放題だった。
だが。
誰も信用できなかった。
兄弟は敵。
愛人は裏切る。
使用人は買収される。
笑顔の裏に全員毒を持っていた。
しかし今。
この貧しい小屋には、毒も陰謀もない。
せいぜい隣人が芋を盗む程度である。
「…………」
レイは黒パンをもぐもぐしながら考えた。
「のだぁ」
そして。
「吾輩、今回こそ生き残るのだぁ」
真顔で言った。
母親はきょとんとした。
「?」
「前世では油断したのだぁ。愛人に情を持ったのが失敗だったのだぁ。やはり大事なのは金と食糧と武力なのだぁ」
「何言ってるんだいこの子」
「まずは黒パンを増やすのだっ♡」
五歳児の目とは思えないギラギラした光が宿る。
「そして将来的には地主になってぇ♡美人を囲ってぇ♡豪邸を建ててぇ♡」
少し考える。
「……いや、やっぱり豪邸は危険なのだ」
前世の記憶が蘇る。
広すぎる屋敷。
多すぎる相続人。
終わらない暗殺。
「中くらいの屋敷が一番安全なのだぁ……」
妙に現実的だった。
その夜。
藁の寝床で眠りながら、レイは天井を見ていた。
隙間風が寒い。
鼠が走っている。
遠くで狼が吠えている。
「のだぁ……」
だが不思議と嫌ではなかった。
前世の最後は、豪華な寝室で毒に苦しみながら死んだのだ。
それに比べれば。
空腹と寒さの方が、よほどマシだった。
「次は失敗しないのだぁ……」
五歳児は小さく呟く。
「今度こそ、最後まで生き残ってやるのだぁ……」
その顔は、農奴の子供とは思えないほど邪悪で。
同時に、妙に嬉しそうでもあった。




