16 母親の心配
夜。
マカロン家の小屋には、今日も小さな火が灯っていた。
ぱち、ぱち。
湿った薪が鳴る。
外は冷えていたが、小屋の中はほんの少しだけ暖かい。
「のだぁ〜♡」
レイは上機嫌だった。
今日はかなり働いた。
畑仕事。
接待試合。
魚捕り。
さらに夕食までしっかり食べた。
農奴の五歳児としては満足度の高い一日である。
「うむ♡」
レイは小屋の裏へ移動した。
いつもの切り株。
いつもの木片。
そして炭。
「のだっ♡」
周囲を確認する。
誰もいない。
ロイはすでに半分寝ている。
マリアは鍋を洗っている。
「今こそ文学の時間なのだぁ♡」
意味不明である。
しかしレイ本人はかなり真剣だった。
さらさらさら。
炭が木片を滑る。
もちろん、この国の文字ではない。
レイだけが知っている文字。
そして内容もいつも通りだった。
『本日のレイ、貴族を完全接待』
『吾輩、空気を読む天才』
『転び方が上手すぎた』
『泥だらけでも輝いていた』
「うむ♡」
満足げに頷く。
さらに続ける。
『本日のお貴族様、ちょっと困っていた』
『吾輩の演技力が高すぎた可能性』
「のだっ♡」
完全に調子に乗っている。
しかも本人はかなり文学的なつもりでいる。
「ふむ……深いのだぁ……」
全然深くない。
すると。
「レイ」
「のだっ!?」
レイは飛び上がった。
振り向く。
マリアだった。
「な、なんなのだぁ!?」
慌てて木片を隠す。
藁の隙間へ突っ込む。
マリアは少し不思議そうな顔をした。
「また変な遊びかい?」
「のだぁ!?」
レイは露骨に目を逸らした。
「べ、別になんでもないのだぁ!」
怪しすぎる。
だがマリアは深く追及しなかった。
「そんなことより」
マリアはしゃがみ込んだ。
「こっち来な」
「のだ?」
レイは首を傾げながら近づく。
すると。
ぎゅっ。
「のだぁっ!?」
突然抱きしめられた。
「な、なんなのだぁ!?」
マリアは何も言わなかった。
ただ、ぎゅっと抱きしめる。
レイは完全に困惑していた。
「のだぁ?」
マリアの手が、レイの腕や頬をそっと触る。
確認するように。
「…………」
レイは数秒考えて。
「のだっ!」
理解した。
「接待試合の確認なのだぁ♡」
「接待って言うんじゃないよ……」
マリアは疲れた顔になった。
しかし本当に心配だったのである。
今日の相手は貴族の子供。
しかも剣を持っていた。
たとえ遊びでも、農奴が傷つけられても誰も文句は言えない。
「痛いところないかい?」
「のだっ♡」
レイは得意げだった。
「完璧に負けたから無傷なのだぁ♡」
「そういう問題じゃないよ」
マリアはため息をつく。
しかし少し安心していた。
本当に怪我はない。
泥だらけだが、擦り傷すらほとんど無い。
「のだぁ♡」
レイは抱きしめられたまま、妙に満足そうだった。
最近、マリアは時々こうする。
抱きしめる。
頭を撫でる。
妙に確認する。
レイはなんとなく分かっていた。
心配されている。
貴族たちに。
魔法に。
自分の力に。
「…………」
マリアはレイの髪へ顔を埋めた。
土の匂い。
草の匂い。
泥。
完全に農奴の子供の匂いだった。
なのに。
今日、貴族の子供と“勝負”をさせられた。
「…………」
怖かった。
本当に。
もし気まぐれで本気を出されていたら?
もし騎士が止めなかったら?
もしレイが怒っていたら?
想像するだけで胃が冷える。
「のだぁ?」
レイは抱きしめられながらぽけっとしていた。
すると。
「にいちゃん!!」
どたどた。
ロイが眠そうな顔で走ってきた。
「ずるい!!」
「のだぁっ!?」
そのままレイへ抱きつく。
小さい。
温かい。
「吾輩、潰れるのだぁ!!」
「うそ!!」
ロイがきゃっきゃ笑う。
マリアも少し笑った。
「ほら、レイが困ってるよ」
「のだぁ……」
しかしレイもそこまで嫌ではなかった。
むしろちょっと得意げだった。
「うむ♡」
偉そうに頷く。
「吾輩は家族に大人気なのだぁ♡」
「その言い方やめな」
マリアが呆れる。
でも。
少しだけ安心した。
レイはいつも通りだ。
泥だらけで。
食い意地が張っていて。
変なことばかり言う。
魔法なんて使っていても。
結局、中身は農奴の五歳児だった。
「のだっ♡」
レイは突然思い出したように言った。
「今日の接待、かなり上手かったのだぁ♡」
「接待って言うんじゃないって」
「でも吾輩、超自然に負けたのだぁ♡」
「全然自然じゃなかったよ……」
マリアは頭を抱えた。
実際かなり酷かった。
途中から貴族の坊ちゃんの方が困っていた。
「のだぁ?」
レイ本人は全く理解していない。
「難しいのだぁ……」
そして妙に真剣な顔で言った。
「もっと自然に負ける練習しないとなのだぁ」
「そんな技術磨かなくていいんだよ」
ロイが笑う。
レイも笑う。
小屋の中へ、小さな笑い声が広がる。
「…………」
マリアは二人を見ながら、静かに息を吐いた。
怖いことは沢山ある。
貴族。
魔法。
将来。
でも今だけは。
少なくとも今夜だけは。
この子たちを抱きしめていられる。
「ほら、そろそろ寝るよ」
「のだっ♡」
「はーい!」
兄妹が返事する。
レイは藁の寝床へ潜り込みながら、ちらっと小屋の裏を見た。
隠した木片。
今日の詩。
『本日のレイ、無傷で接待完了』
そんな文字がまだ残っている。
「のだっ♡」
レイは満足げに丸くなった。
そして数分後には、もう寝息を立てていた。




