迷い。
自宅アパートに待つ人物の正体は!?
「お疲れ様でした。今日は正社員になるって言ってたから、そのお祝いにと思って、勝手にだけど手料理を用意しました。」
「あ、あぁ…、そ、そうだったのかぁ…、アハハ…、あ、ありがとう。」
昼間に記憶を取り込んだ事で、すっかり忘れていた。彼女の顔を見るまで、ボクはあちらの世界の伊町稜として思考を巡らせていたが、そうだ、この世界でボクにはお付き合いしている彼女がいるのだ。善さんが言っていた微妙にズレている事の意味がようやく理解出来た。
しかし、ボクの中に既に流れ込んできた洋子さんとの日々が強烈過ぎて、彼女を目の前にボクは洋子さんの事が気になって仕方がない。
「とうしました?そんなところに立っていないで、先にシャワーでも浴びてきて下さい。その間に支度を済ませておきますから。」
《おっと、いかんいかん…、彼女がせっかくお祝いしてくれると言うのに、ボクは何を考えているんだ。》
苦笑いで誤魔化しながら、ボクは先にシャワーを浴びる事にした。その間にこちらも心の整理をしなくては。狭い浴室に入ると、小さな洗濯機の上に着替えが用意してあった。彼女とお付き合いして半年になるが、こういう細かな気遣いが出来る、とても素敵な女性なのだ。
《あらあら、タイミングが…。きゃっ。恥ずかしい。》
全裸になりシャワーをしようと構えたところに、善さんの声が頭の中に流れ込んできた。にしても何が恥ずかしい…だ!それはこっちのセリフだ。
《ちょ、ちょっと善さん!?シャワーくらい落ち着いて浴びたいのですが。》
《あらあら、では沈黙を守りますのでどうかお気になさらずに。》
ボクの要望にそう答える善さんだが、ボクの全裸は見えているはずなので遠慮願いたいものだ。
《善さん、恥ずかしい気持ちはボクにもありますので、出直してきて下さいね。》
そうお願いしてみるが、返答は無かった。さすがにボクが少し怒っていたのが分かったのか、どうやらここには既にいない様子だ。ボクは気を取り直してシャワーを浴びた。
着替え終わり、寝室兼客間に行くと、趣味の悪いボクが選んだオレンジ色のテーブルには、彼女の頑張りが痛いほど伝わってくる数々の手料理が並んでいた。
《おやおやまぁまぁ…、お気に入りさんはかなり好かれているのですね。はぁ…。》
また突然頭の中に善さんの声が。まるで何か悪い霊にでも取り憑かれた気分になるが、ここで取り乱しては彼女に申し訳が立たないので、何も聞こえなかったフリをしてテーブルに着くボク。
「稜さん、正社員への昇格おめでとうございます。でも無理はしないで下さいね。その内、私もここに越して来たら、お家賃とか光熱費はお手伝いさせて頂きますから。」
何気なく彼女が先の事を口走るが、そんな約束をした覚えが全くない。それとも、別の記憶のせいで忘れてしまっているのだろうか。どう返答していいか分からず、彼女の顔をまともに見れないまま黙り込んでしまった。
「あ、私ったら!気が早いですよね…、えへへ。勝手に色々妄想しちゃいました。今のはお気になさらないで下さいね。…、ささっ、冷めない内に頂きましょう。」
彼女の健気なところが、今のボクには凄く痛い。彼女の事は勿論大好きだ。しかし、今は心の中にもう一人大切な人がいる。二つの世界での思いが、ぶつかり合って苦しくなる。
《善さん、数多の世界があるのならば、何故この世界のボクなのですか?こんな残酷な事って…》
《ごめんなさいお気に入りさん。この世界は、アタシの知るお気に入りさんの世界と一番似ていたのですよ。お気に入りさんにはどうしても幸せになってほしくて…。》
「そんなのこの世界のボクには関係ない!!放っておいてくれ!!」
思わず声に出して叫んでしまっていた。突然怒鳴ったボクを彼女が心配して抱きしめてくれる。
「ど、どうしたんです?私にどこか至らないところが…、あぁごめんなさい。本当にごめんなさい。」
「ううん、違うんだ…、違うんだ。ごめん、ボクの方こそごめんね。説明する事は出来ないけど、キミのせいじゃないから大丈夫。謝らないでくれよ。」
こんなの自分でもどうしていいか分からない。目の前の彼女を愛しているボク、別の世界のボクが愛した洋子さん、その思いをどうしていいのか分からない。記憶が流れ込む事さえ無ければ、ボクはこの健気な彼女と、共に幸せな道を歩いていけた事だろう。
しかし、別世界のボクの記憶は既にボクの物に。別世界のボクが乗り越えてきた洋子さんとの日々は、平穏なこちらの世界での彼女との生活よりも、遥かに重く濃いものだ。それ故に、今のボクにズッシリとのしかかってくるのだ。
言い方が悪いかもしれないが、目の前の彼女との日々は軽く薄いもので、洋子さんとの日々が重く濃厚なのだ。こんなに健気で心優しい彼女がいるのに、それを無下にしているボクの心が許せない。
せっかく彼女が用意してくれた昇格祝いの手料理も手付かずで、ボクはそのまま泣き疲れて眠ってしまったらしく、テーブルの上には彼女の書き置きが残されていた。
【 稜さんへ。余程心を痛める出来事がおありになったのですね。今日はこれで失礼しますが、貴方の側にはいつも私がいますよ。どんな小さな事でも構いませんから、私を必要とされるのであれば、いつでもお電話下さい。待ってます。お料理は温め直して食べて下さいね。本当におめでとうございます。】
何も知らされていない彼女に、こんな手紙を書かせてしまうボクは最低だ。しかし、本当の事を伝えて、彼女を傷つける事も出来ない。そして、善さんの気持ちも分かるから、善さんを責めたりも出来ない。
誰も悪くないこの状況をどうするべきなのか、答えは簡単だ。ボクが決断するしかない。本来ならば、この世界での彼女と幸せな道を歩くべきなのだろうが、今ボクの中には洋子さんと過ごした日々の愛が膨らんでいる。決断をしなくては。
《いや、ボクは彼女を傷つける事が怖いんじゃなく、その事で自分がどう思われるかを恐れているんだ。どこまで最低な男なんだろう…ボク。》
《その…、お気に入りさん。洋子の事なのですが、お気に入りさんと同様に、誰か愛する方がいたらどうしますか?アタシがこんな事を今更言うのもなんですが。》
善さんのその言葉にボクは動揺を隠せない。
《そ、その可能性もあるのですよね。出来れば…、洋子さんとまた…。だけど、ボクの様な辛い思いもしてほしくないです。もし相手がいるのならば、その相手も傷つく事になるのだろうし…。》
正直なところ、自分の事さえちゃんと出来ていないのに、洋子さんにもしも恋人、もしくは旦那さんがいたら?などと、他の事に気を回す余裕は無い。
しかし、このままではラチがあかない事も事実だ。ここは洋子さんに会って状況を確認した後、ボクが決断をする。これしかないようだ。
《洋子さんに会ってみる事にします…。それで状況をみて決断しますよ。》
《そうですか…、洋子はあの病院で看護師として働いているようです。お気に入りさん…、本当にごめんなさい。》
ボクはそれ以上何も頭に入らず、浮かばず、善さんとの会話はそこで終わりにした。洋子さんの居場所が分かり、この休暇を利用して、とりあえず会いに行く事に決めたのだった。
全く別の世界の自分の記憶で苦しむ、この世界の伊町稜。その記憶のせいで善の事も責める事が出来ない。自分の気持ちに整理をつける為にも、洋子に会いに行く事を決めるのだが…




