Chapter 9
少年には、最近とても辛いことがありました。胸が張り裂けそうな程の悲しみと、どうしようもない理不尽さに、小さな心は押し潰されそうになっていたのです。そんな少年の様子を、イルカのアポロは心配そうに、丸く優しい目で見つめていました。なんとかして少年を慰めようと、アポロは少年の視界の横から少年の顔を覗き、優しい声をかけます。
「どうしたんだい?そんなに悲しい顔をして。僕がずっとそばにいるから、何でも話してごらん?君の味方だよ。」
しかし、少年の心の中にある怒りと悔しさは、もう手の付けようが無いほどに膨れ上がっていました。誰の言葉も耳に届きません。少年は感情を爆発させ、アポロに向かって大声で怒鳴り散らし、その小さな拳で何度もアポロのツルツルとした体を叩きつけました。叩けば叩くほど、少年の中で抑えきれない怒りがエスカレートしていきます。それでもアポロは逃げ出さず、少年の激しい感情をどっしりと受け止めながら、静かに、しかし穀然とした強さを持って言葉をかけました。
「どれだけ怒ってもいい。でも、自分を傷つけたり他の人を悲しませるのだけはやめるんだ。君がどんなに荒れても、僕の君を信じる気持ちは絶対に変わらないから。」
少年は、辛い現実をもう二度と見たくありませんでした。全てを投げ出してしまいたい衝動に駆られ、更に激しく、もう一発アポロを叩こうと腕を振り上げました。その瞬間、アポロは自分の前ヒレで少年の腕をガシッと力強く掴みました。それは暴力を止めるためではなく、少年を現実の暗闇から繋ぎ止める為の、温かく力強い抱擁のような拒絶でした。アポロは少年の目を真っ直ぐに見つめ、心からの、本当に本当に寄り添う言葉を贈りました。
「もういいんだよ、もう頑張らなくていい。そんなに一人で苦しまないで。君がどれだけ傷ついて、どれだけ悔しかったか、僕はちゃんと分かっているから。涙を流したっていい、怒ったっていいんだ。僕はどこにも行かない。君の心の痛みが消えるまで、ずっと、本当にずっと、ここに一緒にいるからね。」
感情をぶつけられ、アポロは少し困り気味な表情になってしまいましたが、アポロをただのイルカだと思ってはいけません。彼はどうでしょう、実は不思議な事に魔法が使えるのです。アポロは少年の涙を拭くようにキュキュッと鳴いて微笑むと、この重苦しい現実から連れ出すための、魅力的な提案をしました。
「ねえ、ここにいたら悲しい事ばかり考えてしまうよね。ちょっとだけ、僕と一緒に誰も知らない特別な場所へ、心の度に出かけないかい?きっと素敵な気分転換になるよ。」
アポロはそう言うと、静かに魔法の呪文を唱えました。すると、きらきらとした光の粒が弾け、二人の目の前にピカピカに輝く真っ赤なオープンカーが現れたのです。少年が驚き、不思議そうに目を丸くしていると、アポロは「一緒に行こう」と前ヒレで助手席を指さし言いました。
「さあ、ドライブに行こう!」
アポロがそう言って車のエンジンをかけると、エンジンの重低音が響き渡りました。車が滑らかに発進すると、いよいよ二人の特別なドライブの始まりです。流れる景色と心地よい風が、少年の逆立った髪を優しく撫でていきます。
ドライブの最中、アポロはヒレで器用にハンドルを握りながら、静かに少年に尋ねました。
「僕に何があったのか教えてくれるかい?君の苦しみを、少しでも僕に分けてほしいんだ。」
アポロは優しく問いかけましたが、少年はまだ固く心を閉ざしたままでした。もう誰とも口を利きたくなかったのです。言葉にすれば、あの辛い現実を再び突きつけられるような気がして、思い出すことさえ耐えられませんでした。そんな少年の頑なな横顔を見て、アポロはそっと車を止め、これ以上ないほど優しい言葉をかけました。
「話したくないなら、無理に話さなくていいんだよ。言葉にできないくらいの傷なんだよね。何も言わなくていい。ただこうして僕の温もりを感じていて。」
アポロは少年を大きなヒレで優しく抱き締めました。そして、自分のヒレを使って、少年の小さな背中を優しく、ゆっくりと「トントン、トントン」と叩き続けました。その規則正しい温かなリズムに包まれているうちに、少年の凍り付いていた心は、少しずつ、少しずつ落ち着きを取り戻していきました。
アポロは、胸の中にいる少年が愛おしくてたまりませんでした。少年を包み込むアポロの口から、溢れんばかりの熱い想いが言葉となってこぼれ落ちます。
「僕はね、君の事が本当に、本当に大好きなんだ。君が笑っている時も、今日みたいに怒って泣いている時も、どんな君の事も世界で一番愛しているよ。好きすぎて、どうにかなっちゃいそうなくらいなんだ。だから、君は絶対に一人じゃない。僕の全存在をかけて、君をずっと大好きで居続けるからね。」
その深い愛の言葉に守られるようにして、少年は深い安心感に包まれていきました。
気付けば、少年はアポロと一緒に、いつの間にか自分の部屋のベッドに横たわっていました。あんなに激しく高ぶっていた心はすっかり静まり返り、少年はいつの間にか心地よい眠りについていました。アポロは少年の寝顔を愛おしそうに見つめ、「おやすみ」と小さく囁きました。きらめく尾びれをゆらゆらと動かしながら、アポロは、少年の枕もとのランプの紐を、ヒレで引っ張り、電気を消して、静かな夜を少年にプレゼントしました。




