Chapter 5
あの日以来、少年はイルカのお見舞いに毎日欠かさず病院へと通い続けました。少年のひたむきな祈りと熱心な看病に応えるように、イルカは驚くべき早さでぐんぐんと回復していき、ついに待ちに待った退院の日を迎えることができたのです。
ここは、陽の光が優しく差し込む朝のピリカ病院。少年はお母さんと一緒に、期待で胸を膨らませながら病院の大きな入口へと向かいました。すると、奥の扉から、
「キュイ~~~ン♪」
という、弾むような元気いっぱいのイルカの声が響き渡りました。少年の姿を見つけたイルカは、嬉しさのあまり一目散に少年の元へ向かって空中を泳いでいき、少年の胸元へと勢いよく飛びつきました。
「よかったわねぇ、これでまた、毎日一緒に遊べるわね。」
隣でその様子を見ていたお母さんが目を細めてそう言うと、少年の瞳からは、安堵の笑顔と大粒の涙が同時に溢れ出しました。少年は今度こそ離さないとばかりにイルカをぎゅっと抱き締め、そのまま幸福感に包まれながら帰路に着きました。
イルカは帰り道でも嬉しくてたまらない様子で、少年の周りをはしゃぎ回っております。
「キュイン♪キュイン♪キュ~~♪」
宙を舞いながら少年の周りをずっとくるくると回り、片時も少年のそばを離れようとはしません。
ようやく我が家に到着し、玄関の扉をパタンと閉めると、少年は自分の部屋にイルカを連れて入り、そのまま静かに引き籠りました。ベッドにごろんと横になると、張り詰めていた緊張が一気に抜けていきます。引っ越してきたばかりの部屋は、静まり返っていました。
「キュキュ~~?」
静寂を破るように、イルカの愛らしい鳴き声が部屋に響き渡りました。どこか心配そうに顔を覗き込んでくるイルカに、少年はこれまで誰にも言えずに胸の奥底へ閉じ込めていた秘密を、ぽつりぽつりと打ち明け始めました。
以前まで暮らしていた街の学校で、ひどいいじめに遭っていたこと。友達が一人もできなかったこと。それなのに先生からは毎日のように理不尽に罵られたこと。勉強もついていけず、成績がどうしても学年でドンケツだった事——
堰を切ったように溢れだす悲しい過去を、少年は涙を堪えながら、イルカにすべて話しました。
「キュ~~ン⋯⋯。」
イルカは切なげに声を漏らし、少年の傷ついた心を慰めるように、自身のヒレで少年の頭をそっと、優しく撫でてくれました。その温もりに触れ、少年は、初めての友達ができた。と、心の底から実感することができたのです。
でも、一度植え付けられた恐怖は簡単に消えるものではありません。嫌われてしまったらどうしよう。という少年が胸に燻る不安を正直に伝えると、イルカは顔を上向かせ、力強く鳴きました。
「キュイン、キュイ~ン!!」
それはまるで、大丈夫、僕がついてる。何があっても君のことが大好きだよ。と、言ってくれているようでした。
《ここから先は、イルカの鳴き声を、少年の心に直接届く『普通の言葉』として書き記します。》
少年は更に俯きながら話を続けました。
イルカは少年の言葉を一つひとつ、真剣な眼差しで受け止めていました。
「そうなんだね⋯⋯。話してくれて、本当にありがとう。僕、君のお話を聞いてて胸がぎゅっと苦しくなっちゃったよ。そんなに酷い人たちが居たんだね。」
イルカは少年のこわばった頬にそっと寄り添い、続けてこう言いました。
「でも、もう大丈夫。これからは僕がずっと隣についているし、この新しく移住してきた街には、君をいじめるような人なんて一人も居ないよ。だから、安心していいんだよ。」
イルカのその言葉はとても温かく、少年の心をじんわりと包み込みました。けれど、明日から始まる新生活を思うと、どうしても不安が勝ってしまいます。明日からは、新しい学校である「ピリカ小学校」へ登校しなければならないのです。もしまたいじめられてしまったらどうしよう。という懸念を伝えると、イルカはパッと瞳を輝かせて言いました。
「大丈夫、大丈夫!知ってる?ピリカ小学校ではね、みんな自分のアミキティアと一緒に登校しなきゃいけない決まりなんだよ。だから僕が、学校でもずーっと君のそばにいて、何があっても絶対に守ってあげる!」
イルカはそう言って胸を張り、少年の不安を吹き飛ばすように無邪気に笑いました。その心強い言葉に、少年は「一人じゃないんだ」と、ようやく少しだけ安心することができました。
二人が心を通わせているうちに、気が付けば窓の外はもう真っ暗な夜へと変わっていました。その時、リビングから、トントンという包丁の音と共に明るい声が響いてきました。
「ごはんよ~!」
と、お母さんの声が聞こえ、二人はベッドから起き上がってすぐにリビングへと向かいました。
「今日は、あなたの大好きな唐揚げよ。」
テーブルの上には、カラッと揚がった出来立ての香ばしい唐揚げが、大皿に山盛りに並んでいました。
美味しそうな匂いにつられて、イルカは「わあぁ!」と喜びながらパクパクと勢いよく食べ始めました。しかし、少年は明日の登校のことを考えると、どうしても食欲が湧いてきません。
「食べないの?とっても美味しいよ!」
イルカが心配そうに声をかけてくれますが、少年は箸を進めることができず、ほんの二口ほど無理に口に運んだだけで、食器を片付けてしまいました。そして俯いたままトボトボと自分の部屋へと戻ってしまったのです。
イルカは、すっかり沈んでしまった少年の顔がやっぱり心配でたまりませんでした。自分の分を急いで食べ終えると、すぐに少年の部屋へとピタピタと向かいました。
「ねえ⋯⋯ やっぱり明日の学校のことが心配?」
部屋の隅で膝を抱える少年に、イルカはそっと尋ねました。少年は何も言わず、ただ小さく、黙って頷きました。さらに、過去のトラウマだけでなく、あの悲惨な交通事故の光景が頭をよぎり、少年の心臓は今もドキドキと激しく波打ったままだったのです。
「大丈夫だよ。大丈夫、大丈夫。」
イルカはそう優しく語りかけながら、怯える少年の背中を何度も優しく撫でました。その規則正しい温もりに包まれているうちに、少年の張り詰めていた心と身体は少しずつ解きほぐされ、いつしか深い眠りへと落ちていきました。
静かな寝息を立て始めた少年を確認すると、イルカはそっと添い寝をするように寄り添いました。
「おやすみ」
心の中で大好きな少年にそう告げて、イルカも静かに目を閉じ、二人で温かい春の夜の眠りにつきました。




