Chapter 3
新しい家での慌ただしい荷解きが一段落すると、家の中に静寂が戻って来た。少年は、まだ自分の匂いが馴染まない部屋のベッドにぽつんと腰掛け、ポケットからスマートフォンを取り出した。
役場で手渡された卵のケースには、一枚の小さな説明用紙が添えられている。少年はそこに印刷されたQRコードにスマートフォンのカメラを向け、画面に表示されたリンクをタップした。すぐに画面が切り替わり、『アミキティア育成マニュアル』という電子説明書の文字が浮かび上がる。
少年は熱心に画面をスクロールしながら、小さな文字を目で追いかけた。
そこには、卵を優しく温める孵化の方法から、毎日の食事、健康管理に至るまで、新しい相棒と暮らすためのルールが細かく並んでいる。しかし、熱心に読んでいた少年の指はある一節を目にした瞬間ピタリと止まった。
『万一、アミキティアの体調に異変があった場合の手続きについて』
「アミキティアはとても繊細な生き物です。万一、病気や予期せぬ事態でその命が失われてしまった場合は、決して一人で抱え込まず、直ちに役場の専門窓口へご相談下さい。街の医療チームが誠心誠意サポートし、次のステップへ向けて新しい命の誕生を再びお手伝いします。」
それは、不慣れな移住者を支えるための、街の最大限の配慮とサポートの言葉だった。しかし、これから初めて命を預かろうとする少年の目には、その言葉が「命を失うことの現実味」として、あまりにも重く響いてしまった。
(もし、自分のせいでこの小さな命を死なせてしまったらどうしよう。自分の未熟さのせいで、あの温かい鼓動が止まってしまったら——)
そんな恐ろしい想像が頭から離れなくなり、心臓がバクバクと激しく脈打ち始める。重すぎる責任感と恐怖心に押し潰されそうになった少年は、パニックのあまり、目から大粒の涙をポロポロと溢れさせた。
その時だった。
ピキッ⋯⋯。
静まり返った部屋に、小さな、けれど硬いものがひび割れる音が響いた。
少年がびっくりして涙を拭い、傍らの卵に目をやると、その表面に蜘蛛の巣のような細い亀裂が走っている。
ピキッ⋯⋯ ピキピキピキピキ!
音は瞬く間に大きくなり、ひび割れが卵全体へと広がっていく。そして—―
パカンッ!!
小気味良い音を立てて殻が大きく左右に割れ、中から眩しい光とともに、生まれたての瑞々しい「青いイルカ」のアミキティアが元気よく飛び出してきた。
少年は驚きのあまり、涙で濡れた目を見開いたまま固まってしまった。自分のアミキティアが、こんなにも神秘的で素敵な姿をしていたなんて、想像すらしていなかったからだ。
しかし、そんな少年の困惑を気にする様子もなく、生まれたばかりのイルカは、まるで重力を忘れたかのように宙を滑るようにして少年の胸元へと真っ直ぐ飛び込んできた。
「キュイン、キュイン!」
イルカは嬉しそうに高音の愛らしい声を響かせる。そして、少しひんやりとした、けれど不思議と内側に温かさを宿した滑らかな頬を、少年の頬にスリスリと寄せてくるのだった。
ちょうどその時、優しく部屋のドアが開き、様子を見に来たお母さんが顔をだした。
「あら、生まれたのね⋯⋯!なんて可愛い子かしら。」
お母さんは頬を両手に当て、我が事のように目を輝かせて歓声をあげた。
お母さんの明るい声とは裏腹に、少年の心の中は、依然として暗い不安の嵐が吹き荒れていた。
(もし、このアミキティアが病気になって死んでしまったら⋯⋯。自分のせいで死なせちゃったら、どうしよう)
頭の中は、最悪の結末ばかりがぐるぐると空回りしている。
しかし、そんな少年の硬くこわばった表情を覗き込むように、イルカはきらきらとした純粋な瞳を向けた。それはまるで、
「ねえ、一緒に遊ぼうよ!」
と、少年に一生懸命語りかけているように見えた。
そのまっすぐな温かさに触れた瞬間、少年の目から、溢れていた涙がさらに勢いを増して溢れだし、ついに声をあげて泣いてしまった。
(せっかく、自分に初めての友達ができたのに⋯⋯。万が一自分が何か失敗して、この子に嫌われちゃったらどうしよう⋯⋯。)
少年は怯えるように、けれど愛おしさを抑えきれずに、そっと震える指先でイルカの青い背中に触れた。
「キュイ~~ン⋯⋯。」
触れられたイルカは、優しく目を細め、少年の涙を拭うように歌うような声で鳴いた。言葉はなくても、その鳴き声ひとつで、イルカが少年に完全に心を開き、
「大好きだよ。」
と伝えてくれているのが痛いほど分かった。
そのぬくもりが、少年の不安を、春の陽気が雪を溶かすように、少しずつ、少しずつ溶かしていく。
少年は袖で涙をゴシゴシと拭くと、隣にいるお母さんを見上げた。お母さんが、そっと提案する。
「一緒に散歩して来たら?」
少年は言われた通り、イルカをそっと連れて、外の世界へと一歩を踏み出した。新しい生活を始める少年とイルカの足元を、ピリカ街の、少し涼しくて澄んだ春の風が心地よく吹き抜けていった。




