5-6 復讐者
ナツキは豪雨を切り裂きながら、最高速度で飛行していた。
視界の端を流れる海面も、叩きつける雨粒も、今はほとんど認識できない。
困惑していた。
背後から迫るアンノウンに、ではない。
自分の中で渦を巻き始めた、得体の知れない感情に。
胸の奥で何かが軋む。
憤怒。
憎悪。
敵意。
嫌悪。
怨嗟。
名前を付けられる感情だけではない。もっと濁った何かが底なし沼のように湧き上がり、心の内側を満たしていく。
その全てが、一つの方向だけを指していた。
――戦え。背後の存在を殺せ。そうすれば、この黒い濁流は収まる。
そんな確信だけが、理由もなく胸に居座っている。
「……違う」
小さく首を振る。
違う。これは自分の感情ではない。もっと別の、何か本能のような、決して抗えないものだ。
戦わなくてはならない。あの存在を消さねばならない。
だが──勝てない。まだ勝てない。このままでは勝てない。
その言葉だけが、誰かに囁かれるように脳裏へ浮かぶ。
何かが足りない。
何かが目覚めていない。
思い出せ。
戦え。
思い出せ。
戦え。
記憶の底で、誰かが何度も叫び続ける。
その声へ意識を向けた瞬間だった。
「っ!」
身体が不意に後方へ引き戻された。
猛烈な減速。
首が締め付けられるような衝撃に呼吸が止まる。
反射的に振り返る。
アンノウンの右腕から伸びた細長い触腕が、フライト・レガリアへ幾重にも巻き付いていた。
「うわっ!」
次の瞬間、身体が宙へ放り上げられる。
風。
浮遊感。
そして衝撃。
海面へ叩き付けられる寸前、水柱が視界を覆う。
息を吐く暇もない。
再び空へ。
そして、もう一度。
海。
空。
海。
空。
まるで玩具でも振り回すかのように、アンノウンは片腕だけでナツキを何度も叩き付けていく。
衝撃の度に白い飛沫が爆ぜ、豪雨と海水の境界が消えていった。
──
その光景へ追い付いたセイナは、一瞬だけ言葉を失った。
赤銅色の異形が、片腕だけでナツキを振り回している。
抵抗する暇すら与えない。殺そうと思えば、いつでも殺せる。
それでも止めを刺さない。
叩き付ける。
持ち上げる。
また叩き付ける。
その一連の動作には効率も合理性もなく、ただ苦しむ様子を眺めるためだけに繰り返しているように見えた。
喉の奥で何かが音を立てる。
けれど、不思議と頭は冷えていた。
焦りもない。恐怖もない。未知の存在への混乱もすっと引いている。
思考だけが、氷を流し込まれたように澄み切っていく。
これが怒りなのだと、妙にはっきり理解できた。
ケイロンを構える。
呼吸は乱れない。照準も揺れない。
視界の中には、ナツキへ巻き付く触腕だけが映っていた。
「……殺す」
その言葉は、自分でも気付かないほど静かに零れていた。
直後、三度。
閃光。
放たれたエーテル弾は豪雨を切り裂き、吸い寄せられるように触腕だけを正確に撃ち抜く。
雨は、先ほどよりもさらに勢いを増していた。
分厚い雲が空を覆い隠し、昼だというのに世界は夕暮れのように薄暗い。叩き付ける雨粒が海面を無数の波紋で埋め尽くし、吹き上がる飛沫が白い霧となって視界を曇らせていく。
そんな嵐の只中を、二つの光が駆け抜ける。
一つは赤銅色。
一つはターコイズブルー。
数十メートル遅れて飛ぶセイナは飛行姿勢のままケイロンを構え直した。
細長い銃身が音もなく左右へ展開し、内部に格納されていた増設砲身がせり出してくる。各部のエーテル導管をターコイズブルーの光が奔り、狙撃銃だったシルエットは重火器へと姿を変えた。
バーストモード。
命中精度と引き換えに、火力だけを極限まで高める対大型戦闘形態である。
照準を合わせる。
距離百二十。
風速補正。
降雨補正。
弾道演算、完了。
「──ッ!」
引き金を絞る。
轟音と共に放たれた閃光は、雨の壁を真正面から貫いた。
直撃。銅色の身体から火花が散り、装甲片が弾け飛ぶ。だが、アンノウンは減速すらしなかった。
巨大な複眼だけがゆっくりとセイナを映す。
見られている。
そう思った次の瞬間には、その視線はもう彼女から外れていた。
「……!」
赤銅色の身体が進路を変える。
向かった先は海面。
海面に叩きつけられたことで、スーツに備わった救命具に身を預けるナツキだった。
「やらせるかッ!」
セイナが横合いから割り込む。
連続射撃。
アンノウンの肩、腕、腹部へ次々とエーテル弾が叩き込まれ、赤銅色の破片が豪雨の中へ飛び散る。
それでも止まらない。攻撃を受けていることなど意にも介さず、その複眼はナツキだけを追い続けていた。それが異様であった。まるで、他は全て背景だと言わんばかりだ。
セイナは舌打ちをする。射線へ割り込み、また撃つ。雨粒がターコイズブルーの閃光に照らされ、一瞬だけ宝石のような煌めきを見せた。
着弾。それでも、アンノウンの軌道はほとんど変わらない。その異様さに、背筋へ冷たいものが走る。こちらを排除する気がない。
狙いは最初から一つ。
ナツキだ。
『セイナちゃん』
通信が入る。海上を漂いながらも、その声は思いのほか落ち着いている。
『こんにゃろう、ボクしか見てないね。それでさ、作戦なんだけど……』
その内容を理解する。
「わかった」
豪雨の向こうで、アンノウンが再び進路を変える。
一直線。
迷いがない。
セイナはその前へ滑り込むように飛び込み、エーテル弾を連射する。
轟音と閃光。火力だけなら狙撃形態を大きく上回る。それでもアンノウンは砲撃を受けながら、なおナツキへ向かっていた。
空気が震える。豪雨を切り裂くように青い光が幾筋も放たれ、その全てが赤銅色の異形へと降り注いだ。
その間に視界の端で、四機のドローンが静かに軌道を変える。豪雨へ紛れるように高度を落とした一機が海面すれすれを滑り、残る三機は上空から大きく弧を描く。索敵用に組み上げられた演算装置は、アンノウンの飛行速度、姿勢変化、回避可能な軌道を絶え間なく更新し続けていた。
それらを一定の位置で静止させる。
あとは敵を誘導するだけだ。
アンノウンは加速しながら一直線に海面へ降下する。その複眼が映しているのは、黒いレガリアを身に纏い、救命具へ身を預けるナツキだけだった。
海面との距離、三十メートル。
二十。
十。
水飛沫を尾のように引きながら、その長い腕がゆっくりと持ち上がる。
アンノウンの指先が開く。
細く長い五本の指は、生物というよりも鋭利な鉤爪そのものだった。
ナツキは逃げない。救命具で浮かんだまま、じっとアンノウンを見上げている。
その姿を見て、セイナはほんの一瞬だけ胸の奥が締め付けられるのを感じた。小さく息を吐く。
アンノウンの腕が振り下ろされる。その瞬間。
「――今ッ!」
セイナが引き金を絞るのと同時に、四機のドローンが一斉に軌道を変えた。
上空。
左右。
そして海面すれすれ。
四方向から包み込むように飛来した機体は、回避という選択肢そのものを奪うようにアンノウンへ殺到する赤銅色の複眼が初めて周囲を見回した。
遅い。
ドローンは索敵機だ。だからこそ軽く、速い。
そして――躊躇なく、衝突した。




