5-1 監査
ストレスの発散方法は人それぞれである。
買い物をして財布の紐を緩める者もいれば、甘い物をやけ食いする者もいる。身体を動かして汗を流す者、友人へ延々と愚痴をこぼす者。世の中には実に様々な方法がある。
そして、真弓セイナのストレス発散方法は――料理だった。
業務用スーパーで安売りされている食材を大量に買い込み、ひたすら刻み、炒め、煮る。
ただ無心に、余計なことを考えず目の前の調理だけに集中する。
野菜を切る。
肉を焼く。
味を調える。
それを繰り返しているうちに、不思議と頭の中も整理されていく。
本来、セイナはそれほどストレスを溜め込む性格ではない。
多少のことなら「仕方ない」と割り切れるし、感情を引きずることも少ない。しかし今回は違った。
監査に向けた膨大な事務作業。
撃破数を稼ぐため増え続ける出撃。
出勤途中、通り過ぎた車に盛大な泥水を浴びせられたこと。
お気に入りだったトレーニングウェアが、スクワット中に「ビリッ」と無情な音を立てて裂けたこと。
細かな不運が積み重なり、ついに限界を迎えたのである。
巨大な鉄板の上で麺が踊る。
香ばしいソースの香りが事務所いっぱいへ広がり、湯気がもうもうと立ち上る。
キャベツ。
もやし。
豚肉。
そして大量の麺。
フライパンでは到底追いつかず、ホットプレートを総動員して焼き続ける姿は、もはや屋台の店主だった。
キッチンからはヘラが鉄板を叩く音と、包丁で野菜を刻む音が交互に響いている。
普通なら食欲を刺激する匂いなのだろう。しかし、ここまで大量に作られるとさすがに胸焼けしそうになるが、ナツキはそんなことなどお構いなしだった。
「うめ、うめ……!」
焼きそばを頬張りながら、幸せそうに頬を緩ませる。
「今回は焼きそばかぁ……」
「はい、食べな」
「わぁい!」
皿が置かれた瞬間には箸が動いている。その速度が落ちることはない。
「この薄くて小さい身体のどこに入るんだか……」
アズサは感心半分、呆れ半分で呟く。
ナツキは既に四杯目へ突入していた。対するアズサは二杯でギブアップである。
「……まあ、一応男の子だからか」
そう結論づけるしかなかった。
セイナは相変わらず無言で焼き続けている。
その手は止まらない。ストレスが消えるまで、この焼きそば製造機は止まらないのだ。
アズサは湯飲みに口を付けながら、小さくため息をつく。
突然告げられた監査基準の厳格化から二週間。
各事務所は撃破数を稼ぐため、可能な限り出撃回数を増やしていた。
当然ながら、考えることはどこも同じ。
リヴォラが確認されれば複数の事務所が殺到し、現場はちょっとした争奪戦になる。
撃破数は監査へ直結する。だから誰も譲らない。中小事務所同士は友好的な関係を築いているが、今回ばかりはそうも言っていられないのだ。
その状況が、セイナにとっては最悪だった。
彼女の最大の武器は、長距離狙撃。
数キロ先からでもリヴォラの核を正確に撃ち抜く、その技量は協会でも高く評価されている。
本来なら、大手事務所に所属していても何ら不思議ではない実力だ。しかし、それを誰もが知っている。それが問題だった。
だ他事務所のアストレアたちは、セイナが狙撃体勢へ入る前に一斉にリヴォラへ接近戦を仕掛ける。「先に倒した者勝ち」という暗黙の了解の中では、ルール違反ではない。
そうなると、苦しくなるのはセイナだ。味方が乱戦を繰り広げる場所へエーテル弾を撃ち込むわけにもいかない。フレンドリーファイアは絶対に避けなければならない。
結果として、彼女は狙撃の機会を失い、本来の力を十分に発揮できずにいた。そして、そのしわ寄せは、こうして大量の焼きそばとなって事務所へ積み上がっていくのである。
──
昼食を終えたアズサは、一人で事務所をあとにした。
セイナとナツキには、本日の出撃を禁止してある。監査まで残された時間は少なく、撃破数のノルマも依然として重くのしかかっているが、だからといって焦って出撃を重ねられるほど単純な話ではない。
アストレアには、一日あたりの出撃時間に厳格な上限が設けられている。
エーテルへの長時間曝露は身体への負担が大きく、判断力や集中力の低下を招く危険があるためだ。そのため協会では一日の累計出撃時間を細かく管理しており、これを超えれば強制的に出撃停止処分となる。監査を目前に控えた今、そのような記録を残すわけにはいかなかった。
もっとも、セイナがそんな無茶をする娘ではないことはよく分かっている。
年齢に似合わぬほど冷静で、自分に出来ることと出来ないことを正確に見極める。戦場でも日常でも、その判断を誤る姿を私はほとんど見たことがない。
私には過ぎた部下だ、と時折思ってしまうほどだった。
そして、もう一人。
ナツキに関しては、正直なところ今でも掴み切れていない。
無邪気で、人懐っこく、初対面の相手とでもいつの間にか打ち解けてしまう。その反面、時折こちらが息を呑むほど鋭い勘を見せることもある。
記憶喪失だからなのか、それとも元々そういう性格なのか。いったいどこから流れ着いたのだろうか。
答えの出ない疑問がグルグルと脳内を巡り続けるまま艦内列車に乗り込み、窓際の席へ腰を下ろす。
列車はゆるやかに高度を上げながら、ノアの上層区画へと向かっていく。停車駅を重ねるたび車内は少しずつ混み始め、やがて吊革は埋まり、通路にも人が立ち並ぶようになった。
上層区画は行政機関や企業本社が集中する、いわばノアの中枢部だ。
スーツ姿の男女は誰もが無表情で、タブレットを操作するか、あるいは虚空を眺めたまま目的地へ運ばれている。その景色を見ていると、自分には到底向いていない生活だな、と苦笑が漏れた。
私はやっぱり、あの薄汚れた事務所でソファに寝転がっているくらいが性に合っている。
タブレットを開き、予定表と業務報告書を確認する。
監査まで残り五日。
必要撃破数まで、あと二十体。
一人一日二体程度の討伐を続ければ、数字だけなら十分届く。だからこそ、序盤のうちに出来るだけ数を稼ぐ方針だった。
後半になればなるほど各事務所の追い込みが始まり、オーダーの奪い合いになることは容易に予想できたからだ。
しかし、その読みは半分だけ当たり、半分は外れた。
予想以上にセイナへの警戒が強かったのだ。
遠距離から確実に戦況を制圧する狙撃能力は、この艦でも指折りだ。少なくとも私は真弓セイナ以上のスナイパーを見たことがない。
しかし、その能力の高さ故、マークが激しくなる。彼女が射線を確保する前に接近戦へ持ち込み、討伐権を奪うことを優先していた。
露骨な妨害ではある。
だが、味方同士で戦うわけにもいかず、誤射の危険がある以上、セイナも無理には撃てない。
結果として、本来なら最も討伐数を伸ばせるはずの切り札が、その実力を十分に発揮できずにいた。
完全に、私の読み違いだった。
列車が目的地へ滑り込む。
改札を抜けると、見慣れた場所とはまるで別世界だった。
磨き上げられたガラス張りの高層ビルが立ち並び、樹木の植えられた遊歩道には一片のゴミも落ちていない。大型ディスプレイには企業広告や行政広報が絶え間なく映し出され、人々はそれらに目もくれず足早に通り過ぎていく。
「……やだやだ」
思わず口から零れた。都会の空気は、どうにも肩が凝る。
目的地は、この区画の中央にそびえる行政施設――『ノア中央管理庁』である。
ノア全体の運航、行政、治安維持、資源管理、そしてアストレア協会との連携まで担う中枢機関であり、艦長や各部門長の執務室もここに集約されている。
駅前から真っ直ぐ伸びる大通りを歩き、自動ドアを抜けると、受付で本人確認を済ませる。
来訪者証を受け取り、そのまま最上階行きのエレベーターへ乗り込んだ。
ゆっくりと上昇する箱の中で、ガラス越しに景色が変わっていく。
高層ビル群の向こうには、どこまでも続く青い海。
巨大な艦橋のさらに先では、陽光を受けた波が細かな鱗のようにきらめいていた。
チン、と軽やかな到着音が鳴る。
扉が静かに左右へ開いた。
足元には毛足の短い深緑色のカーペットが真っ直ぐ伸び、その先には装飾こそ控えめながら、一目で高級品と分かる木製の扉が据えられている。
私は迷うことなくその前まで歩き、ノックもせずに扉を押し開けた。
「うひゃあっ!?」
室内に甲高い悲鳴が響く。
デスクの向こうには、リムレスグラスを掛けた女性が立ち上がりかけた姿勢で固まっていた。
前髪は几帳面なほど左右に分けられ、スーツには皺一つない。胸元には役職を示す徽章が幾つも並び、窓から差し込む光を受けて小さく輝いている。
「やっほー、ぱるぱる」
そう声を掛けると、女性は数回まばたきを繰り返したあと、小さく咳払いをした。
「……失礼ですよ、八雲ヶ原さん。ノックくらいしてください」
取り繕うように眼鏡の位置を直す。
「私とぱるぱるの仲じゃーん?」
「ぱるぱるではありません。艦長です」
「ははっ、東谷ハル艦長殿」
無駄に凝り固まった態度を見せると、眉間に皺を寄せたまま東谷ハルは諦めたように肩を落とし、部屋の奥に置かれた応接用ソファへ私を案内した。
「どうぞ」
「お茶でいいよ」
「……私が淹れるんですか」
「他に誰がいるのさ」
「……ですよね」
観念したように給湯室へ消えていく背中を眺めながら、私はソファへ身体を預けた。
もう一度ため息。
観念したように給湯室へ向かう後ろ姿は、どこか学生時代と変わらない。
ほどなくして湯呑みが置かれ、湯気が静かに立ち上る。
しばらくは、二人とも何も話さない。
緑茶を一口含み、ようやくアズサが口を開いた。
「どうよ最近。これは艦長じゃなくて、幼馴染として聞いてる」
ハルは湯呑みを持ち上げる。しかし口元まで運んだところで止まった。
「……大変」
ぽつりと落ちる。
「急に全部押し付けられた私の身にもなってほしい」
その声には、艦長としての威厳はなかった。一人の娘が漏らした本音だった。
「おじさんは?」
「命に別状はないわ。でも右目は見えなくて、右手も思うようには動かないって」
「脳梗塞かぁ……」
東谷キシロウ。前艦長。
豪快に笑い、誰よりも現場を歩き回っていた男。若い頃は整備員として汗を流し、艦長になってからも自ら現場へ足を運ぶ。
特権階級らしさなど欠片もない人だった。
だから皆が慕った。だからこそ、倒れたその日、後任として最初に名前が挙がったのは娘である、東谷ハルだった。
「正直ここまで早いとは思ってなかった」
ハルは窓の外へ目を向ける。海の向こうで、一隻の輸送艦がゆっくり航路を進んでいた。
「まだ、この席に座ってる自分が変な感じよ……アズサ、そっちはどう?」
湯呑みを手に取りながら、ハルがようやく仕事の顔に戻る。
「お、それ聞いちゃう? 本題に入っちゃうけど」
「のんびり雑談してる時間がないの。こっちは毎日が火事場なんだから」
化粧で隠してはいるものの、目元には薄く疲労が滲んでいる。艦長という肩書きを背負ってまだ日が浅い。その重圧は、幼馴染であるアズサにも十分伝わっていた。
「はいはい。じゃあ、これ」
タブレットをテーブルへ滑らせる。
表示されているのは、先日通知された監査要項だった。
「ぱるぱるさぁ、今回の監査、ちょ~~っと厳しくない?」
ハルは受け取ったタブレットへ目を落とし、静かにスクロールしていく。
「昨今、助成金目当てで設立される実態の乏しいアストレア事務所が増えています。その整理が目的です」
「こらこら。私とぱるぱるの仲でしょ? 本当の目的を言ってよー」
言葉が途中で止まる。ハルは一度視線を伏せ、観念したように小さく肩を落とした。
「……整理だけではありません」
「だよねぇ」
アズサは湯呑みを置き、背もたれへゆっくり身体を預けた。
「公開されてる資料を見れば分かる。助成金の不正受給は確かに問題だけど、全体から見れば微々たる数。それに、本気で潰す気なら監査なんて回りくどい真似はしない。会計監査と立入検査だけで終わる話だよね」
ハルは否定しない。それだけで十分だった。
「今回は違うよねー」
アズサは画面を指先で軽く叩く。
「例年なら設備、安全管理、労務、会計……そういう総合評価なのに、今回は異様なまでに撃破実績へ比重が寄ってる」
去年の監査資料を呼び出し、二つの画面を並べる。
「以前にも似たことがあったよね」
「……」
「たーしーかー、資源回収量を重点評価した年だったかな?」
ハルの眉がわずかに動く。
「あれは翌年にノア全体の大規模改修が控えてたから。監査を利用して、実働部隊を選別した。」
そこまで言ってから、アズサは静かに笑う。
「ぱるぱる、近いうちに『戦闘』があるね?」
沈黙。
時計の秒針だけが静かな部屋へ響く。
やがてハルは苦笑しながら額へ手を当てた。
「……昔から敵わないなぁ」
「図星?」
「守秘義務があります。なので、これは独り言です」
「うん、聞こえない聞こえない」
ハルは小さく息を吐くと立ち上がり、室内の照明を操作した。
柔らかな昼の光がゆっくり落ち、天井から大型スクリーンが降りてくる。
タブレットを接続すると、部屋は青白い映像だけに照らされた。
「これは数日前、大規模資源回収作戦の候補地を調査していた観測班の映像です」
動画が始まる。
上空から森林を映すドローン映像。
鬱蒼とした木々の中、時折映り込む崩れた建築物。
「候補地周辺には、飛行型リヴォラであるオクルスが生息しています」
映像がゆっくり旋回する。
「そのためまずはオクルス種を撃破します。ですが、ほぼ間違いなく攻撃種であるリヴォラ・ランツェ、リヴォラ・トレーラーも現れます。それらを撃破しつつ安全を確保。後に資源回収班を投入します」
人類は海へ逃れた今なお、地上資源へ依存している。農業艦を維持するための土壌を回収しなければならない。
そのすべては、アストレアたちが切り拓く回収ルートによって支えられていた。
「オクルス自体は脅威ではありません」
ハルが映像を止めないまま続ける。
「機動力はありますが装甲は薄く、アストレアはもちろん、艦載兵器でも十分対処できます。ランツェも数が揃えば危険ですが、そもそも彼らは飛べませんから。脚部を切断すれば無力化できます。しかし」
その瞬間だった。
画面の端を、黒い影が横切る。
一瞬。本当に一瞬だった。
撮影者も異変へ気付いたのだろう。
ドローンが急旋回する。
映像が激しく揺れる。
ノイズ。
木々。
空。
そして、空中で静止している何かのシルエット。
腕があり、脚があり、頭部がある。画質は荒く、輪郭はぼやけている。
それでも、"人型"であることだけは誰の目にも明らかだった。
次の瞬間。破裂音。
映像が白く弾けた。通信はそこで途切れる。
部屋へ静寂が戻った。
アズサは腕を組んだままスクリーンを見つめ続ける。
ぽつりと呟く。
「人型のリヴォラ、ね」
ハルは頷いた。
「ええ、完全な新型です。そしてあれは……」
「戦闘を想定した形状。つまり、アストレアを狙って進化した可能性がある」
誰もすぐには口を開かなかった。
「現在確認されているのは、この一体だけ。けれど」
ハルが静かに続ける。
「能力は不明。生態も不明。戦闘能力も不明」
スクリーンには静止した人型だけが映り続けている。ハルはこちらへ真っ直ぐ視線を向けた。
「だからこそ、今回の監査では、実戦能力を最優先します。来月予定されている大規模資源回収作戦は、農業艦への土壌供給を左右する重要任務です。もし失敗すれば、影響は一年後ではありません。数か月以内に、各ノアの食料生産そのものへ波及します」
アズサは静かに湯呑みを持ち上げ、一口だけ茶を含む。
渋みが口いっぱいへ広がる。
「……なるほど。」
そう呟いた声は、先ほどまでの軽薄さをどこかへ置いてきたようだった。




