第8話 ルシエラという「バッテリー」を失ったブラック実家の末路
その日、ルミナス伯爵家は朝からどんよりとした、ひどく淀んだ空気に包まれていた。
「……遅いわね。本当に気が利かない」
朝食の席で、セレフィナが苛立たしげに空のティーカップをソーサーに打ちつけた。
普段なら、とっくにルシエラが完璧な朝の支度を整え、最も香りの立つタイミングで紅茶を淹れ、好みに合わせた焼き菓子を用意し、ついでにセレフィナのドレスの皺まで一切の妥協なく整えている時間だった。
だが、今日に限って、いつまで経ってもあの薄汚い姉の姿が見えない。
「お姉様は何をしているの? 私の朝の支度を待たせるなんて、万死に値するわ」
「さあ……? 屋根裏部屋にもおりませんでしたが」
侍女が困惑したように答えると、セレフィナは不機嫌そうに美しく整えられた眉を吊り上げた。
「信じられない。まさか寝坊? あの無能が?」
「い、いえ、そのようなことは今までただの一度も……」
「なら、どこかで怠けているのよ。まったく、少し甘い顔をすればすぐに調子に乗って。見つけたら絶対に食事を抜いてやるわ」
セレフィナは鼻を鳴らし、乱暴に椅子へ背を預けた。
自分がどれだけ姉を虐げてきたかなど欠片も自覚せず、ただ「自分の所有物が思い通りに動かない」ことへの不満だけを募らせる。
だが、その瞬間だった。
ジジッ……ぱちっ。
部屋の隅で、昨日まで眩いほど輝いていた魔石灯が、力なく明滅したのち、すうっと完全に消え去った。
「……え?」
セレフィナが目を瞬かせる。
魔石灯は、伯爵家全体を覆う結界と同じく、屋敷内を循環する清らかな『光の魔力』によって極めて安定していたはずだ。これまで一度だって、こんなふうに朝から魔力切れを起こすようなことはなかった。
侍女も戸惑ったように辺りを見回した。
「お、おかしいですね……魔石は先週ルシエラ様が交換されたばかりのはずですが……」
「何がおかしいの? さっさと予備を持ってきなさいよ。薄暗くてイライラするわ」
苛立ちを隠そうともしないセレフィナの横で、今度は廊下の向こうから、ばたばたと悲鳴のような足音が響いてきた。
「大変です、旦那様! 奥様!」
食堂の重厚な扉が勢いよく開き、血相を変えた初老の執事が転がり込んでくる。
優雅に朝食をとっていた伯爵夫妻が、ぎょっとして顔を上げた。
「何事だ、騒々しい! 朝から下賤な声を出すな!」
「け、結界が……!」
「結界が何だ」
「屋敷の外周結界が、今朝から急激に弱まっております! すでに一部は完全に消滅状態に!」
その場の空気が、ぴしりと凍りついた。
◇ ◇ ◇
ルミナス伯爵家が『聖女の生家』として、王都の貴族社会で並び立つ者のない権勢を誇ってきた理由のひとつに、領地全体を覆う強力な光の加護があった。
下級の魔物を決して寄せ付けない鉄壁の結界。
疫病を退ける清浄な気。
そして、屋敷の隅々にまで満ちる、呼吸をするだけで心が洗われるような清らかな光。
それらはすべて、百年に一度の天才聖女であるセレフィナの力によるものだと、誰もが信じて疑わなかった。
もちろん、伯爵一家も、セレフィナ自身も。
「馬鹿な……! セレフィナの力に限って、そのようなことがあるはずがないだろう!」
伯爵は顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
だが、執事の顔色は死人のように青ざめたままだ。
「し、しかし事実でございます! 庭園の魔物避けの護符も完全に効力を失い、すでに北側の柵付近では、生えるはずのない瘴気草が群生し始めており……!」
「ええい、五月蠅い! そんなもの、セレフィナの浄化の光で一瞬で焼き払ってしまえばよいでしょう!」
甲高い声を上げたのは、伯爵夫人だった。
彼女の視線を受け、セレフィナは椅子を蹴るように立ち上がった。自信満々に、その可憐な顔に傲慢な笑みを浮かべて。
「見ていなさい。どこかでサボっている無能なお姉様がいなくても、私さえいれば何の問題もないわ」
彼女は高らかに宣言し、片手を掲げた。
その掌に、いつものように太陽のような眩い光が灯る。
……はずだった。
ぽっ。
生まれたのは、小さな、ひどく頼りない光だった。
まるで、夜道の足元を照らすだけの豆電球のような、か細く惨めな光。
しかもそれは数秒も保たず、ジジッと音を立てて、ふっと消えた。
沈黙。
セレフィナの顔から、さっと血の気が引いた。
「…………え?」
伯爵夫人が震える声を出す。
「セ、セレフィナ……? 今のは、冗談よね……?」
「ち、違うの! 今のはたまたまよ! ちょっと、朝で調子が悪かっただけで――」
セレフィナは顔をひきつらせながら、慌てて何度か手を振るい、もう一度魔力を練り上げる。
ぽっ。
しゅん。
やはり、豆電球だった。
しかも、さっきよりもさらに弱々しい。
「…………」
「…………」
「…………」
食堂にいた全員が、息をすることすら忘れたように静まり返る。
あれだけ毎日、王都の貴族たちに見せびらかすように大仰に輝いていた彼女の光魔法が、今や安物のろうそく以下になっている。
伯爵夫人が、化粧の剥がれた顔で引きつった笑いを浮かべた。
「ど、どういうこと……? セレフィナ、出し惜しみしないで頂戴」
「し、知らないわよ! できないの! こんなの、初めてだもの!」
「お前、まさか昨日何か変なものを食べたのか!? 聖女の力に傷がつけばどうなるか分かっているのか!」
「食べてないわよ! 何もしてない!」
セレフィナは半ば錯乱したように悲鳴を上げた。
だが、彼らが現実逃避している間にも、屋敷のあちこちで恐ろしい異変が同時多発的に進行し始めていた。
廊下に飾られていた高価な清浄花が、一斉に黒ずんで萎れる。
窓辺の空気が淀み、じめりと重く、息苦しいものへと変わっていく。
昨日まで神殿のように輝いていたシャンデリアの魔石が、濁ったガラス玉のように黒ずむ。
まるで、屋敷そのものが急速に『死』に向かって腐敗していくようだった。
そして極めつけに、庭から使用人の鼓膜を裂くような絶叫が響いた。
「きゃああああっ!? か、カビが!」
「何!?」
「壁が、壁が急に黒ずんで……っ、腐臭がします!」
伯爵一家は慌てて窓辺へ駆け寄った。
庭園の美しい噴水まわり、北側の白亜の外壁、日陰になっている石畳の隅。
そこかしこに、黒ずんだ汚泥のような汚れと、ぬめるような悪性のカビが、じわじわと侵食するように広がっている。
昨日まで、あれほど清潔で、神聖で、塵一つなく輝いていた屋敷が。
たった一晩で、目に見えてスラムの廃屋のようにくたびれ始めていたのだ。
◇ ◇ ◇
「ルシエラはどこへ行ったの!?」
結局、一番最初にヒステリックな声を上げたのは伯爵夫人だった。
その叫びに、部屋の空気がまた一段階冷える。
そう。おかしいのだ。
あの、逆らうことしか知らなかった『奴隷』――ルシエラがいない。
朝になっても起きてこないどころか、カビ臭い屋根裏部屋にもおらず、広大な屋敷のどこにもいない。使用人に探させても、靴すらない。痕跡すら見つからない。
そんなことは、ルシエラが物心ついてから今まで、ただの一度もなかった。
どれだけ雑に扱っても、暴力を振るっても、どれだけ理不尽な仕事を押しつけても、あの無能な娘は黙って朝から晩まで這いつくばって働いていたのだ。
勝手に消えるなど、思い上がりも甚だしい。
「まさか……逃げたの?」
「逃げる? あの無能で臆病な役立たずが?」
「でも、いないのよ! 実際に!」
伯爵夫人は髪を振り乱して叫ぶ。
伯爵も苦々しげに顔をしかめた。
「使用人風情の真似事ばかりしていた腰抜けに、家を飛び出すような度胸があるとは思えんが……」
「しかし旦那様。ルシエラ様が不在となった今朝から、あまりにも異変が重なりすぎております」
執事の震える言葉に、全員がぴたりと口を閉ざした。
それは、誰もが薄々、直感的に感じ始めていた恐ろしい事実だった。
ルシエラがいなくなった。
その途端、天才聖女であるはずのセレフィナの魔法が、豆電球レベルにまで急激に弱まった。
屋敷の清浄も失われ、鉄壁の結界も崩れ、魔石灯すら機能しなくなった。
偶然にしては、悪趣味なほどできすぎている。
「…………そんなわけ、ないわ」
セレフィナが、かすれた声で呟く。その目は恐怖で見開かれていた。
「お姉様は魔力ゼロよ。ずっとそうだったじゃない。私の魔法の引き立て役で、何の取り柄もないゴミで……」
「そ、そうだとも! あれにそんな価値があるものか! ただの穀潰しだ!」
伯爵が、自分自身を納得させるように怒鳴る。
だがその声は、決定的な焦燥に震えていた。
執事は慎重に、主人の機嫌を損ねないよう言葉を選びながら続けた。
「ですが……ルシエラ様が日々、この屋敷のほぼすべての『実務』を担っておられたのも事実です」
「それは誰にでもできる雑務だろう!」
「雑務だけではございません。領地の帳簿管理、備品発注、庭師への専門的な指示、魔石の交換時期の緻密な記録、結界札の配置と魔力補充の確認まで……」
「は?」
「すべて、ルシエラ様が、たったお一人でなさっておりました」
伯爵夫人が絶句した。
セレフィナも、ぽかんと口を開けている。
そう。彼らはまったく知らなかったのだ。
ルシエラが、ただ命じられた雑用を言われるがままにこなしていただけではないことを。
誰にも言われず、誰にも褒められず、傲慢な家族が贅沢を謳歌できるように、屋敷が崩壊しないように、裏で膨大なタスクを完璧に拾い続けていたことを。
そして、致命的なまでに知らなかったのだ。
魔力ゼロだと蔑んでいたルシエラ自身が、無自覚に垂れ流していた『神聖魔法』こそが、この屋敷の清浄を保つ最大の“基盤”だったということを。
「……ま、まさか」
伯爵夫人の真っ赤な口唇が震える。
「ルシエラが……セレフィナの力を……支えていたとでも言うの?」
「そんなはずないわ!!」
セレフィナが狂ったように叫んだ。
だが、その叫びは確信を突かれた者の、哀れな自己防衛だった。
なぜなら、否定しきれないからだ。
あまりにも、辻褄が合ってしまう。
ルシエラが屋敷で懸命に働いている間だけ、セレフィナの力は安定していた。
ルシエラが過労で倒れそうになるほどひどく疲れている日ほど、セレフィナは妙に強い光魔法を放出できていた。
そして、ルシエラがいなくなった途端、すべてが崩れ去った。
それはまるで――。
「まるで、ルシエラという巨大な“バッテリー”から、セレフィナが無意識に魔力を吸い取っていただけみたいじゃない……」
伯爵夫人の核心を突いた呟きに、誰も、何一つ反論することはできなかった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、ルミナス伯爵家はさらなる地獄の釜の底へと転がり落ちた。
屋敷の北側の結界がついに完全に崩壊し、近隣の森から瘴気混じりの小型魔物が数匹、堂々と敷地内へ侵入してきたのである。
「きゃあああ! 魔物よ!」
「誰か、騎士団を呼べ!」
「庭師が噛まれたぞ!」
屋敷中が大パニックに陥った。
これまでルミナス伯爵家の敷地には、下級の魔物すら近づくことはなかった。聖女の絶対的な加護があるからだと、誰もが誇らしく、そして傲慢に語り継いできた。
それが今や、たかが下級魔物数匹に右往左往である。
伯爵は慌てて見栄えだけの剣を抜こうとして腰を痛め、伯爵夫人は悲鳴を上げながら侍女の影に隠れ、セレフィナは「私が浄化してあげるわ!」と前に出たものの、出てきたのはやはり豆電球程度のちっぽけな光だけだった。
「な、なんでよぉぉぉ! 私の力がぁぁ!」
半泣きでへたり込むセレフィナを見て、逃げ惑う使用人たちの目に、初めて、明確な『疑念』が灯った。
あれ。おかしくないか。
私たちの聖女様、ただの村娘よりも弱くないか。
そして、その疑念が一度生まれてしまえば、すべてが崩れるのは早かった。
廊下は数時間で埃が溜まり、悪臭を放ち始める。
美しく磨かれていた銀器は鈍く錆びる。
厨房では食材の在庫管理が完全に破綻し、晩餐の準備すらまともにできない。
洗濯物は仕分けされず山積みになり、領地の帳簿は未処理のまま放置され、貴族からの重要な客への返書も忘れ去られた。
花瓶の水は腐り、屋敷全体がみるみるうちに廃墟のように荒れ果てていく。
使用人たちも、ようやく気づき始めていた。
あれだけ当然のように美しく整っていた日常は、自分たちの手柄などではなく、誰かひとりの異常な献身と労働によって支えられていただけなのだと。
そしてその“誰か”が、今はもう、どこにもいないということに。
「……ルシエラ様がいらっしゃった時は、こんな恐ろしいこと、一度もなかったのに」
「しっ。奥様に聞かれたら鞭打ちよ」
「でも、本当でしょう? 朝の支度だって、領地の帳簿だって、あの美しいお茶会の準備だって、全部あの方がたったお一人で……」
「それに、最近のセレフィナ様、ルシエラ様が傍にいない時は魔法が不安定だった気が……」
「もしかして、本当の聖女様は……」
ひそひそ声が、淀んだ屋敷のあちこちで、毒のように囁かれ始める。
その囁きはやがて、伯爵一家にとって最も直視したくない残酷な真実へと変わっていく。
――本当の『当たり』は、姉の方だったのではないか。
――私たちはとんでもない至宝を、ゴミとして扱っていたのではないか。
――いや、むしろ搾り取りすぎて、自らの手で壊してしまったのではないか。
ルミナス伯爵家の空気が、じわじわと、だが確実に絶望へと変わっていく。
偽りの栄光と傲慢に満ちていた家が、今や焦燥と疑心暗鬼の泥沼に飲み込まれ始めていた。
◇ ◇ ◇
その夜。
セレフィナは埃っぽくなった自室で、半ば錯乱したように鏡の前に立っていた。
「どうして……どうしてよ……!」
何度歯を食いしばって光を出そうとしても、掌に浮かぶのは頼りない小さな灯りだけ。
いつものように眩くきらめく聖女の光は、もうどこを探してもない。
鏡の中の自分は、髪はパサつき、ひどく顔色が悪く、醜く見えた。
いや、顔色だけではない。なぜか部屋そのものが薄暗いのだ。空気が重く、肌寒く、カビの臭いがする。
昨日までは、こんなことなかったのに。
私が一番美しくて、私が一番愛されていて、世界は私のために回っていたのに。
「……全部、お姉様のせいだわ」
セレフィナは、血が滲むほど強く唇を噛んだ。
認めたくない。絶対に認めたくないけれど、胸の奥ではもう、嫌というほど分かっている。
ルシエラがいなくなってから、すべてがおかしくなったのだ。
なら、答えは簡単だ。
「そうよ……お姉様が悪いのよ。私の引き立て役のくせに、勝手にいなくなるから、私の力が乱れたんだわ……!」
醜い責任転嫁を自分に言い聞かせるように呟いて、セレフィナは狂気を帯びた瞳で顔を上げた。
そうだ。悪いのはルシエラだ。
姉のくせに、魔力ゼロの無能のくせに、私の許可なく勝手に消えるなんて絶対に許されない。
今すぐ引きずり戻して、今まで通り馬車馬のように働かせればいい。
そうすれば、私の力も屋敷も、全部元に戻るはずだ。
「お父様に言わなきゃ……。お姉様を探し出して、首に縄をつけてでも連れ戻させないと……!」
一方その頃、伯爵夫妻もまた、全く同じ愚かな結論に達していた。
荒れ果てた食堂の長机に肘をつき、疲れ切った顔で向かい合いながら。
「……ルシエラを探せ」
「あの役立たずを?」
「役立たずでも何でもいい! 今のままでは貴族社会での外聞が悪すぎる! 聖女の家としての支援金も打ち切られるぞ!」
「ですが、どこへ行ったのか……」
「知るか! 王都中、いや国中を探させろ! 賞金を懸けてでもだ!」
伯爵の怒声には、もはや以前のような絶対的な余裕はなかった。
あるのは、己の地位が脅かされることへの焦燥と、身勝手な苛立ちだけだ。
伯爵夫人も、綺麗に整えられていたはずの爪をガリガリと噛みながら頷く。
「そうよ……早く戻しなさい。あの子はこの家のために、死ぬまで働くのが役目なんだから……!」
なんという図々しさだろうか。
自分たちで限界まで搾取し、無価値なゴミと決めつけて虐げ、いなくなった途端に自分の都合だけで「必要だ」と喚き散らす。
あまりにも醜悪で、あまりにも滑稽な泥舟の乗組員たち。
けれど彼らは、まだ知らない。
彼らが見下していたルシエラが、もう二度と、理不尽な命令に黙って従うだけの『社畜令嬢』ではないことを。
そして彼女の傍らには、彼女を傷つけるすべてのものを容赦なく排除する、王国最強の『氷の死神』が、抜刀状態で控えていることを。
自分たちが自らの手で手放した“至宝”は、もう二度と、都合のいいバッテリーには戻らない。
傲慢な寄生虫たちが、身の程を知り絶望に染まる日は、もうすぐそこまで来ていた。




