第7話 お飾り妻の予定が、四六時中抱っこの重役出勤
クロード様のお屋敷で朝を迎えて三日目。
私は、非常に深刻かつ、重大な問題に直面していた。
(……落ち着かない!)
とにかく落ち着かないのだ。
理由は明白だった。この屋敷、あまりにもホワイトすぎるのである。
朝は温かい出来たての朝食が供される。
昼は栄養バランスの完璧な、彩り豊かな昼食が出る。
夜は疲れた胃に優しい、最高級の食材を使った夕食が出る。
お茶の時間には、宝石のような焼き菓子まで添えられる。
寝具は雲のようにふかふか。湯浴みはいつでも可能。侍女さんたちは私を神像か何かのように丁重に扱い、誰も怒鳴らない。誰も物を投げない。誰も理不尽な追加業務を押し付けてこない。
おかしい。
ここは本当に私が生きていたのと同じ異世界なのだろうか。
しかもクロード様は、初日の宣言通り、本当に私に指一本動かさせなかった。
「働かなくていい」
「無理はするな」
「お前はただ、好きに過ごせ」
そう言われた初日は、正直、感動のあまり泣きそうになった。
二日目は、戸惑いながらも「ホワイト環境ってすごいなぁ、前世の社長に見せてやりたい」と噛み締めていた。
そして三日目の今――私は完全に、手持ち無沙汰で息絶えそうになっていた。
いや、正確には死にかけてはいない。むしろ体調は絶好調、魔力もみなぎっている気がする。
でも、心が落ち着かない。長年のブラック環境で骨の髄まで染みついた『社畜根性』が、「何もしなくていい」というバグみたいな状況に、まるで適応できないのである。
「ルシエラ様、どうかなさいましたか? お顔色が優れませんが……」
「い、いえ……ただ自発的に廊下の床を端から端まで磨きたくなる衝動と、必死に戦っておりまして……」
「滅相もございません! 磨かなくて結構です!」
「ですよね……」
侍女さんに本気で青ざめられ、私はしおしおと肩を落とした。
ちなみに、侍女さんたちは全員、私に対してびっくりするほど過保護だ。
最初は「最上級の客人扱い」というクロード様の厳命のせいだと思っていたけれど、どうやらそれだけではないらしい。
なぜなら、この屋敷の絶対的主であるクロード様ご本人が、日に何度も、何度も私の様子を確認しに来るからである。
朝食は残さず食べたか。寝具は体に合っているか。部屋は寒くないか。侍女の対応に不満はないか。少しでも疲れていないか。困っていることはないか。
何ということだろう。私が、まるで『人間』として扱われている。
その事実にいまだ慣れない私は、今日も最高級のソファに座りながら、そわそわと膝の上で手を組んでいた。
「……やはり、何か作業をした方が落ち着くのでは」
小さく呟いた、その時だった。
「なら、外へ出るか」
背後から降ってきた低い声に、私は「ぴゃっ」と変な声を上げて肩を跳ねさせた。
振り向けば、そこにはいつの間に現れたのか、漆黒の騎士服に身を包んだクロード様が立っていた。
「ク、クロード様!?」
「そんなに驚くな」
「気配がなさすぎるのです! 暗殺者か何かですか!?」
「そうか」
そうか、ではない。
心臓が危うく口から飛び出すところだった。でも顔が良いので全部許しそうになる。いけない。これは限界オタクの危険な思考回路だ。
クロード様は私の前まで歩いてくると、いつものように、逃げ場を塞ぐような熱を帯びた瞳でじっと顔を見下ろした。
「部屋にこもっていると、また余計なこと(労働)を考えるだろう」
「うっ」
「図星か」
「……若干」
「若干ではない顔をしているな」
さすが推し。私のようなモブの生態観察眼まで鋭い。
私は観念して小さく頷いた。
「その……少しだけ、落ち着かなくて」
「なら、庭を歩くか」
「お庭を?」
「ああ」
その提案自体はありがたい。
ありがたいのだが、私は一瞬だけためらった。
ここ数日、私はほとんど客間と食堂、それから浴室周辺の『安全圏』しか移動していない。
屋敷の中ですら広すぎて緊張するのに、外へ出るとなると、少しだけ勇気が必要だった。
だが、そんな私の逡巡を、クロード様は即座に別の意味(過剰な心配)に解釈したらしい。
「……疲れるか」
「え?」
「まだ本調子ではないなら、無理はしなくていい」
「い、いえ! 歩くくらいなら全然……!」
「そうか」
よかった。納得してくれた。
私はほっと胸を撫で下ろし、ソファから立ち上がろうとした。
立ち上がろうと、したのに。
「わっ」
ふわりと、体が宙に浮いた。
「……へ?」
視界が一気に高くなる。
次の瞬間、私は至極当然のように、クロード様の屈強な腕の中に横抱きに収まっていた。
◇ ◇ ◇
「えっ」
「行くぞ」
「えっ!?」
「庭だ」
「いえ、目的地は分かります! 分かるのですが、なぜ私を抱えるのですか!?」
「歩くのだろう」
「はい!」
「なら、この方が楽だ」
「楽なのはどちらですか!?」
「俺だ」
「クロード様が!?」
予想外すぎる返答だった。
私は目を白黒させたまま、反射的にクロード様の首元に腕を回してしがみついた。
いや、掴まないと落ちそうで怖いのだ。怖いのだが、それ以上に今の状況が恐ろしい。
なぜ私は、真っ昼間から推しに『お姫様抱っこ』されているのだろうか。
しかも場所は屋敷の広い廊下である。使用人さんたちが普通に行き来している。視線が痛い。いや、痛いというより、ものすごく生温かい気を遣われている感じがする。
「だ、抱っこは不要です! 私、自力歩行できます!」
「昨日、廊下でふらついたな」
「た、たまたまです!」
「一昨日は階段で立ち止まった」
「それは絨毯がふかふかすぎて感動していただけです!」
「昨日の朝は、立ち上がる時に一瞬よろけた」
「ベッドが良質すぎて反発に戸惑ったのです!」
「十分危なっかしい」
「判定が厳しすぎますぅ!」
ひどい。
確かに私は、このホワイト環境の快適さにいちいち限界社畜の感動を覚え、挙動が怪しくなっていた。
だが、それは慣れていないだけであって、身体機能に問題があるわけではないのだ。たぶん。おそらく。
けれどクロード様は、まったく譲る気がない顔をしていた。
「お前は、自分の消耗に鈍すぎる」
「うっ」
「今まで、あのゴミ溜めのような家で、限界を超えて無理をしすぎていた」
「うぅ……」
「だから、完全に慣れるまでは俺が運ぶ」
「運ぶ」
「ああ」
運ぶ、らしい。
私はもう、言葉を失った。
運ぶって。荷物を? 私を?
いや、実際に今、大切そうに運ばれているのだけれども。
しかもクロード様の表情は真面目そのものだ。
冗談でもからかいでもなく、本気で「これが一番安全で合理的(かつ俺の精神安定に良い)だ」と考えている顔である。
なんてことだ。
推しの過保護が、思ったよりずっと重機レベルで重たい。
廊下の向こうで侍女さんと執事さんが一瞬だけ立ち止まったが、すぐに恭しく頭を下げて道を開けた。
職業意識が高い。この屋敷の皆さん、主人の奇行(溺愛)に対する処理能力がカンストしている。
私は羞恥で顔を真っ赤にしながら、小声で訴えた。
「ク、クロード様……せめて、人目の少ない裏道とかで……」
「人目がある方がいい」
「どうしてですか!?」
「余計な虫が寄らない」
「虫」
「お前に近づこうとするもの、お前に視線を向けるもの、全部だ」
「駆除範囲が広すぎません!?」
だめだ。
会話のたびに、隠しきれない独占欲の圧が増している。
クロード様は平然としたまま、私を抱えた状態で、庭へ続く大きなガラス扉をくぐった。
春の柔らかな風が頬を撫でる。
空は高く青く、花壇には色とりどりの花が咲き乱れ、手入れの行き届いた広大な庭が一面に広がっていた。
「わあ……」
素直に感嘆の声が漏れる。
「きれい……」
「気に入ったか」
「はい、とても……!」
思わず身を乗り出しそうになって、はっとした。
いけない。今の私は抱えられているのだ。下手に動くと、余計に彼の胸板に密着してしまう。
……いや、もう十分すぎるほど密着して、彼の心音まで聞こえているのだが。
クロード様はそんな私の反応を見て、ほんの少しだけ、氷のような目を和らげた。
「なら、毎日ここへ来るといい」
「その際も抱っこで?」
「ああ」
「固定なんですか!?」
「当然だ」
「当然ではありません!」
私は全力で抗議したが、彼の腕の力が僅かに強まっただけで、まったく効いている様子はなかった。
◇ ◇ ◇
庭の中央には、白亜の美しい東屋があった。
クロード様はそこまで私を運ぶと、ようやく長椅子へそっと、壊れ物のように下ろしてくれた。
解放された瞬間、私はほっと息をつく。
が、安心したのも束の間だった。
クロード様は私の隣に腰を下ろすと、極めて自然な動作で、私の肩を抱き寄せたのである。
「ひゃっ」
「風がある」
「そ、それは分かりますが!?」
「冷えるだろう」
「いえ、今日は陽気もいいですし、そこまででは……」
「冷える」
断定された。
どうやらこの方の中では、「私が少しでも寒いかもしれない可能性」は即座に『排除すべき敵』として認識されるらしい。
危機管理能力が高すぎる。いや、過保護力が高すぎると言うべきか。
私はぎこちなく肩を竦めたまま、隣のクロード様をちらりと見上げた。
近い。相変わらず近い。
でも、不思議と嫌ではない。
むしろ、こうして隣にいると、彼の纏う空気が、以前遠くから眺めていた時よりずっと穏やかで、甘いことに気づいてしまう。
あの『氷の死神』と呼ばれる人が。
誰に対しても冷酷無慈悲で、他者を寄せ付けないと言われる最強の騎士が。
私にだけは、こんなふうに触れてくる。
(何でしょう……この状況……)
推し活のはずだった。
遠くから眺めて、尊さを摂取して、勝手に元気をもらうだけの、日陰の慎ましいモブファン生活だったはずだ。
それがどうして、今は推しの隣で、すっぽりと肩を抱かれているのだろう。
人生、本当に何が起こるか分からない。
「ルシエラ」
「は、はいっ」
「……顔が赤いな」
「そ、それはその……春なので……!」
「春」
「はい! 春の陽気と花の香りと、あと色々です!」
「そうか」
クロード様はそう返しつつ、なぜか少しだけ、口角を上げて満足げだった。
何がそうかなのか分からない。
分からないが、たぶん彼の中では私の赤面の理由について、何かものすごく都合のいい(そして事実に基づいた)解釈がなされている気がする。
怖い。でも聞けない。
その時、庭の向こうから若い騎士がひとり、何かの報告に来たらしく足早に近づいてきた。
「あの、団長――」
そこまで言って、騎士さんはピタッと止まった。
固まった。
そりゃそうだろう。
恐ろしい上官が、見知らぬ女を隣に囲い込むように、いや、完全に抱き込んで座っているのだから。
騎士さんは明らかに目を激しく泳がせたあと、ぎこちなく頭を下げた。
「し、失礼いたしましたっ!」
「待て」
クロード様の低い声に、騎士さんの肩がびくぅっ! と跳ねる。
ひぇぇ。怖い。部外者視点だとやっぱり推しは怖い。
「報告は」
「は、はい! 訓練場の整備についてですが……」
騎士さんはがちがちに緊張しながら報告を始めた。
私はその間、できる限り気配を消して石になろうと努める。
だが、クロード様は片腕を私の肩に回したまま、一切離さなかった。
えっ、離さないのですか。
報告中も? そのまま?
私は羞恥で顔から火が出そうになりながら、視線を下へ落とす。
騎士さんの声が微妙に裏返っているのは、たぶん気のせいではない。
報告が終わると、クロード様は短く的確な指示を出した。
騎士さんは「はっ!」と敬礼をしてから、一瞬だけ、本当に一瞬だけ私の方を見た。
そして、ものすごく気まずそうに、でもどこか「なるほど」と納得したような顔で去っていった。
……何だろう。
すごく、取り返しのつかない誤解が騎士団に広がっていそうな気がする。
「ク、クロード様……」
「何だ」
「今の騎士様が、たぶん何かを盛大に誤解されたような……」
「誤解ではない」
「へ?」
思わず顔を上げると、クロード様は真顔だった。
「お前は俺の、大事な者だ」
「…………」
「周囲にもそう認識させておいた方が、都合がいい」
「都合」
「ああ」
私はしばし、硬直した。
大事な者。
今、そう言っただろうか。
この人。すごく自然に。呼吸をするみたいに、当然のこととして。
「え、ええと、それは、その……魂を救った『恩人』、という意味でしょうか……?」
「それもある」
「それも」
「他にもある」
だめだ。心臓がもたない。
他にもあるって何ですか。何なのですか。
怖いからこれ以上具体化しないでほしい。でも知りたい気もする。いやでもやっぱり怖い。オタクの情緒が忙しすぎる。
クロード様は赤くなる私をじっと見つめたあと、ふいに、その大きな手を私の額へ伸ばした。
「熱はないな」
「い、いきなり確認しないでください……!」
「赤いから気になった」
「原因は熱ではありません……!」
「なら何だ」
「言えません!」
言えるわけがない。
あなたの言動ひとつひとつが規格外に甘すぎて、オタク心と乙女心が同時に大混乱を起こして処理落ちしているからです、などと。
絶対に無理だ。
クロード様は少し考えるように目を細め、それから何かに納得したように頷いた。
「そうか。まだ足りないのか」
「何がですか!?」
「休息が」
「違う気がします!」
「なら食事だな。もっと精のつくものを――」
「雑に栄養管理へ寄せないでください!」
本当にこの人、激重な執着を向けてくるくせに、ちょっとずれている。
いや、ずれているからこそ、無自覚に距離を詰めてくるから怖いのかもしれない。
◇ ◇ ◇
結局その後、私は庭を少し眺めただけで、再び抱え上げられて屋敷の中へ戻ることになった。
「自分で歩けます!」
「駄目だ」
「どうしても!?」
「東屋までで、少し疲れた顔をしていた」
「動揺していただけです!」
「俺にとっては同じことだ」
「違いますぅ!」
だが、抗議はむなしく却下された。
私は再び横抱きで廊下を運ばれながら、半ば悟っていた。
たぶん、しばらくこの扱いは続く。
クロード様の中で私は、「ようやく見つけた唯一の光」かつ「消耗に鈍い危なっかしい保護対象」に分類されているのだ。
そこへさらに、常軌を逸した独占欲まで乗っている。
強い。設定が強すぎる。
そして何より厄介なのは――。
(……嫌じゃないんですよねぇ……)
むしろ、少しだけ嬉しい。いや、かなり嬉しい。
だって、最愛の推しが、私をこんなにも大事にしてくれている。
それだけで、長年の搾取ですり減っていた私の魂が、じわじわと回復していくのを感じるのだ。
前世でも今世でも、私はずっと「使う側」からしか見られてこなかった。
役に立つかどうか。利益を生むか。命令に従うか。
けれどクロード様は違う。
働かなくていいと言う。休めと言う。
何もできなくても、ただそこにいろと言う。
そんなふうに甘やかされたら、勘違いしそうになるではないか。
いや、もうかなりしている気もするのだけれど。
「何を考えている」
「ひゃっ」
「また赤い」
「い、いえ、その……」
「言え」
「無理です」
「俺にも?」
「むしろクロード様にこそ無理です!」
きっぱり言うと、クロード様はなぜか少しだけ、本当に嬉しそうに満足げだった。
どうして。どこに満足要素があったのか全然分からない。
そのまま客間の前まで運ばれ、ようやく下ろされた時には、私はもうへろへろだった。
一歩も歩いていないのに疲れている。主に精神が。
クロード様はそんな私を見下ろして、静かに言った。
「無理はするな」
「はい……」
「移動したければ呼べ」
「呼ぶと?」
「俺が行く」
「やっぱり抱っこですよね?」
「ああ」
「固定なんですね……」
私は小さく肩を落とした。
するとクロード様は、そんな私の頬にそっと触れた。
まるで、拗ねた子どもを宥めるみたいな、ひどく甘くて優しい手つきだった。
「不満か」
「……恥ずかしいです」
「慣れろ。お前のすべては俺が守る」
「無茶を仰います……!」
クロード様は微かに口元を緩めると、そのまま名残惜しむように一度だけ私の髪を撫でてから、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静寂が戻る。
私はその場にへたり込み、両手で熱い顔を覆った。
何これ。
何なの本当に。
推しの屋敷で保護されて。
超絶ホワイト環境に囲われて。
四六時中気にかけられて。
ついには「歩くのも危なっかしい」と判断され、抱っこ移動が標準装備になった。
お飾り妻どころではない。
これはもう、重役出勤ならぬ『重役抱っこ』である。
しかも問題なのは――私はこの状況に、抗いがたいほど惹かれ、絆され始めているということだった。
「……無理です……」
誰に向けるでもなく呟いて、私は真っ赤な顔のまま、ふかふかの絨毯に突っ伏した。
推しのファンサ、距離感が近すぎる。
このままでは本当に、私の心が先に陥落してしまうかもしれない。




