第6話 目覚めたら超絶ホワイト環境。労働時間ゼロ、福利厚生(溺愛)MAX
目が覚めた瞬間、私は「ついに過労死して天国に来たのかもしれない」と本気で思った。
まず、暖かい。
びっくりするほど暖かい。
視界を覆う毛布が、雲のようにふかふかだ。
いや、毛布だけではない。敷布団も、掛け布団も、枕も、触れるものすべてが信じられないほど柔らかく、私を甘やかしている。
体のどこにも硬い床板の痛みを感じないし、寝返りを打ってもぎしぎしと軋む音がしない。隙間風に凍えて夜中に何度も目を覚ますこともなく、ただひたすらに深く、穏やかに眠れていた。
何これ。高級宿? 王族の寝室?
それとも、死に際の脳が見せている極上の幻覚?
私はぼんやりした頭のまま、天蓋つきの広すぎるベッドの上で目をぱちぱちと瞬かせた。
視界に広がるのは、見知らぬ美しい部屋だ。
柔らかな朝の光が最高級のレースカーテン越しに差し込み、美術品のような調度品をきらきらと照らしている。壁紙も上品、家具も上質、呼吸をするだけで肺が浄化されそうなほど、空気までいい匂いがする。
私の知っている、カビと埃にまみれた屋根裏部屋では、断じてない。
(……あ)
そこでようやく、昨夜の怒涛の展開を思い出した。
深夜の推し活。
現行犯逮捕。
「見つけたぞ、俺の聖女」。
毛布ぐるみのままのお持ち帰り。
そして、涙が出るほど美味しかった温かいスープ。
幻覚ではなかった。全部、現実だった。
私はがばっと身を起こし、その勢いのまま、ふかふかのマットレスに再び沈み込んだ。
ベッドが柔らかすぎて反発が優しい。すごい。起き上がるという動作ひとつで感動できる。
(ど、どうしましょう……! 本当にクロード様のお屋敷で朝を迎えてしまいました……!)
いや、泊まってしまったというか、確保されたというか、保護という名目で拉致されたというか。
事実として私は今、最愛の推しの私邸の、最上級の客間で朝を迎えている。
しかも、人生で最も上質な睡眠を貪った状態で。
おかしい。あまりにもおかしい。
普通、不法侵入という人生最大級のやらかしをした翌朝というのは、胃痛と絶望、そして冷たい牢屋の床で始まるものではないのか。
なのに今の私は、羽が生えたように体が軽い。常に鉛のようだった頭もすっきりしているし、何なら肌の調子まで過去最高な気がする。
睡眠、すごい。良質な寝具、すごい。
労働環境の違いが、ダイレクトに生命力に直結している。
私が感動に打ち震えていると、コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「ルシエラ様。失礼いたします」
「は、はいっ!」
扉が開き、洗練された身のこなしの侍女さんたちが数人、一糸乱れぬ動きで部屋へ入ってくる。
その手には、湯気の立つ洗面用のお湯や、丁寧に畳まれた真新しい衣服、そしてなぜか、銀の蓋つきの豪華なワゴンまで載っていた。
私は一気に身構えた。
な、何だろう。
騎士団の地下牢へ送られる前の、最後の身支度だろうか。
それとも、昨夜の『聖女疑惑』に関する本格的な事情聴取の準備だろうか。
だが、侍女さんたちは私をひどく恐れ多いものを見るような――まるで神像を拝むかのような顔で、深く一礼した。
「お目覚めはいかがでしょうか」
「えっ、あ、はい……とても、よく……。あの、私のような者をこんな立派なベッドに……」
「とんでもないことでございます。本日は旦那様より、ルシエラ様の御心と体調を最優先に整え、一切の不自由をさせぬようにと、きつく申しつかっております」
「だ、旦那様……?」
一瞬誰のことか分からなかったが、この屋敷における『旦那様』とは、当然クロード様のことである。
推しが、旦那様呼びされている。
そりゃそうだ、この屋敷の絶対的権力者なのだから。でも何だろう、この単語の破壊力。
私がひとりで勝手に動揺している間にも、侍女さんたちは流れるような動作で支度を整え始めた。
「まずは温かいお茶をどうぞ」
「朝食もこちらにご用意しております」
「湯浴みの準備も完璧に整っておりますので、ご希望であればすぐにでも」
「お召し物はこちらへ。旦那様より、『少しでも締めつけのある服は着せるな。一番柔らかな絹を用意しろ』との厳命でございます」
「…………へ?」
私は完全に固まった。
今、何と?
朝食。湯浴み。着替え。しかも、体に負担のない最高級の衣服。
えっ。
これ全部、私に? 伯爵家のゴミである、この私に?
「い、いえ! そんな、私にはもったいないと申しますか、そもそも昨夜は不法侵入の現行犯でして、私はむしろ罪人というか――」
「旦那様より、ルシエラ様は『我が命に代えても守り抜く最上級の客人』として遇するよう命じられております」
「我が命に代えても」
「はい」
即答だった。
一切の迷いも、疑いもない、洗脳済みのような即答だった。
私は思わず天を仰いだ。
どうしよう。待遇が良すぎて怖い。
これ、あとで実家に莫大な請求書とか届きませんよね?
「昨夜の最高級ベッド使用料、毛布代、筆頭騎士直々の送迎代、及び不法侵入の慰謝料です」みたいな。実家は絶対に払ってくれないので、私が一生塩鉱山で強制労働させられる未来しか見えない。
「では、温かいうちに朝食をどうぞ」
「は、はい……」
半ば流されるように、私はベッド脇の小さなテーブルへ案内された。
そして、銀の蓋が持ち上がる。
ふわっと立ちのぼる、焼きたてのパンの芳醇な香り。
野菜の甘みが溶け込んだ優しい匂いのスープ。
まるで宝石のようにつやつやと輝く卵料理。
彩り豊かな新鮮な果物。
豪華すぎる。
いや、高位貴族の朝食としては普通なのかもしれない。
でも、前世ではエナジードリンクを胃に流し込み、今世では家族の残した冷え切ったスープと石のようなパンに慣れきった私からすれば、もはやこれは王の晩餐である。
「どうぞ、お口に合えばよろしいのですが」
「い、いただきます……!」
私は震える手でスプーンを取った。
一口、スープを飲む。
温かい。優しい。芯まで冷え切っていた内臓に、じんわりと染み渡る。
二口目で、危うくまた泣きそうになった。
(おいしい……! 朝から、ちゃんと温かいものを食べてる……!)
何ということでしょう。
この世界には、「朝起きて、出来たての朝食を座って食べる」という文化が存在していたらしい。
前世でも今世でも、私の朝は常に戦場だった。
怒号に追われ、果てしない業務に追われ、冷えた何かを胃に落とし込むか、食べるという行為自体を諦めるかの二択。
それが今、椅子に座って、落ち着いて、誰にも急かされずに温かい食事を食べている。
これが福利厚生……! これが、人間らしい生活……!
「お加減はいかがですか?」
「最高です……」
「ようございました」
「朝から働いてないのに、暴力を振るわれずに朝食が出るなんて、夢みたいです……」
「……はい?」
侍女さんが、さっと顔色を変えた。
しまった。限界社畜の悲しすぎる本音が漏れた。
私は慌てて口を押さえたが、もう遅い。だが侍女さんたちは顔を見合わせたあと、なぜかものすごく痛ましそうな、そして決意に満ちた優しい目になった。
あっ、だめだ。
この反応、絶対に何か重たい解釈をされている。
「本日は旦那様より、決して、指一本すら無理をさせぬようにと厳命されております」
「えっ」
「どうか、ご安心くださいませ。ここでは誰も、ルシエラ様を虐げたりはいたしません」
「あっ、はい……」
安心してください、と言われるたびに、逆に不安になるのはなぜだろう。
言葉自体はありがたいのだが、クロード様の『常軌を逸した過保護』の気配が、すでに屋敷の隅々にまで浸透している感じがして、底辺の私には別方向に落ち着かない。
◇ ◇ ◇
湯浴みまで済ませてもらった頃には、私はすっかり別人のようになっていた。
いや、別人というのは大袈裟かもしれないが、少なくとも「屋根裏部屋で寝起きして雑務に追われるボロ雑巾(無能令嬢)」感は完全に消え去っていた。
髪は艶々に磨き上げられ、肌はしっとり。着せられた最高級のルームウェアは、まるで羽衣のように軽くて着心地がいい。
何だろう。ここ、神の領域かな?
大きな鏡に映る自分を見て、私はおそるおそる頬に触れた。
(えっ……私、ちょっと人間に戻っていませんか?)
当然である。
ちゃんと寝て、ちゃんと食べて、ちゃんと温かいお湯に浸かったのだから。
だが、長年のブラック環境に飼い慣らされてきた身からすると、体調が良いこと自体がまず異常事態なのだ。
こんなに肩が軽いなんて。常に耳鳴りがしないなんて。呼吸が深くまで吸えるなんて。
すごい。ホワイト企業ってすごい。
「失礼する」
不意に、扉の向こうから声が響いた。
低くて、落ち着いていて、そして私の心臓を簡単に射抜く破壊力を持った声。
私はびくっと肩を跳ねさせた。
「ク、クロード様……!?」
「入るぞ」
待ってください心の準備が。
と思った時には、もう扉が開いていた。
現れたのは、言うまでもなく私の最愛の推し――クロード・ヴァレンティス様である。
朝の光を背負って立つ姿は、相変わらず人外じみて美しかった。
黒を基調とした隙のない騎士服に身を包み、長身をまっすぐに伸ばしたその姿は、ただ立っているだけで周囲の空気を支配してしまう。
なのに、不思議と昨夜のような鋭い威圧感はない。
そしてやっぱり、顔色が良い。
目元の疲れは完全に消え失せ、肌ツヤも限界突破している。
くっ、朝から推しの顔面偏差値が高すぎて尊い……!
「具合はどうだ」
「えっ、あ、はい! とても、ものすごく、信じられないほど良いです! 寿命が延びました!」
「そうか」
「あ、ありがとうございます……」
「礼は要らん。俺の恩人に、当然のことをしたまでだ」
「当然のスケールと予算が大きすぎませんか?」
思わず本音が漏れた。
クロード様は気にした様子もなく、まっすぐこちらへ歩み寄ってくる。
私は反射的にぴしっと背筋を伸ばした。
やばい。近い。
朝の推しは、健康的な色気が増し増しで非常に危険だ。
クロード様は私の前で立ち止まると、逃げ場を塞ぐように見下ろしてきた。
「昨夜より、随分と顔色がいい」
「そ、それはたぶん、ベッドとお食事とお湯とお召し物と、その他もろもろの福利厚生が充実しすぎていたからかと……」
「ふくりこうせい?」
「ええと、手厚い待遇のことです」
「そうか。足りないものはあるか」
「へ?」
さらっと恐ろしいことを聞かれた。
足りないもの。えっ、追加で何かもらえる前提なのですか? なにその石油王みたいなアンケート。
私は思考停止したまま、ぶんぶんと首を振った。
「い、いえいえいえ! 何も! 何ひとつ! むしろ過剰供給でオタクの情緒が限界です!」
「ならいい」
「よくない意味で限界なのですが」
「問題ない」
問題ないらしい。
何が問題ないのかさっぱり分からないが、クロード様の中では問題ないらしい。さすが推し、己の価値観が最強だ。
だが、ここで私はふと、一番重要な懸念事項を思い出した。
「あ、あの、クロード様」
「何だ」
「私、今日からどうなるのでしょうか……?」
これは絶対に確認しておかなければならない。
昨夜の怒涛の流れのままホワイト待遇に飲まれていたが、冷静になれば状況はまだ全然整理されていないのだ。
私は不法侵入した身であり、勝手に神聖魔法だの聖女だのと言われているが、実家に戻ればまた「魔力ゼロのゴミ」としてこき使われる運命だ。
その後の処遇がふわっとしていては、安心してこのホワイト環境を享受できない。
すると、クロード様は一拍置いてから、ひどく静かに、けれど絶対的な熱を帯びた声で言った。
「ここで暮らせ」
「…………はい?」
耳を疑った。
ここで。暮らせ。
今、そう聞こえた。
「え、ええと……それは、つまり、どういう……」
「言葉通りだ」
「えっ」
「お前をあのゴミ溜めのような家へ返すつもりはない」
「えっ」
「二度とだ」
私は完全に固まった。
返さない。二度と。
その語気は、鋼鉄のように固く、揺るぎなかった。
クロード様は淡々としているようでいて、その氷結の瞳の奥には、私の実家に対する明確な殺意と、私に対する底知れぬ執着が渦巻いていた。
「お前はあの家で、人間としてまともな扱いを受けていなかった」
「そ、それは、まあ、その……比較対象によっては……」
「受けていない」
「はい……」
即断だった。
しかも正しい。正しすぎて一切の反論ができない。
「ならば、ここにいろ」
「で、でも、そんな……! 私みたいな無能がこんな立派なお屋敷で、何もしないで暮らすなんて……」
「何もするな」
「へ?」
またしても、意味の分からない強権的な命令が飛んできた。
クロード様は微動だにせず、私の目を真っ直ぐに射抜いて続ける。
「君は、指一本動かさなくていい」
「…………」
「必要なものは、すべて俺が用意する」
「…………」
「仕事もさせん。誰かに頭を下げる必要もない」
「…………」
「だから、休め」
私はぽかんと口を開けた。
何だろう。
今、とんでもないことを言われませんでした?
指一本動かさなくていい。必要なものは全部用意する。仕事もさせない。
えっ。
それ、この世に存在していい労働条件なのですか?
前世の私が聞いたら、号泣しながら転職届(退職願)を社長の顔面に叩きつけるレベルでは?
「そ、そんなの……」
「不満か」
「いえ、むしろ理想郷すぎて怖いです!」
「怖がる必要はない」
「でも、働かずに生きていくなんて、申し訳なさで私が死にます……!」
「死なせん」
「そこじゃなくてですね!?」
どうしてこの方は、会話のたびに要点を斜め上から物理で叩き割ってくるのだろう。
私はわたわたと両手を振った。
「だ、だって、何の労働の対価もなく衣食住が完全保証されるなんて、そんなの、神話か福利厚生のバグみたいな話ではありませんか!?」
「そうか」
「そうか、で流していい話では……!」
「では、望むなら役目を与える」
「へ?」
私はびくりとした。
役目。その響きに、長年搾取され続けて染みついた社畜根性が、悲しいことにぴくっと反応する。
するとクロード様は、ほんの少しだけ、酷薄な口元を和らげた。
「俺のそばにいろ」
「……はい?」
「それだけでいい」
私はしばし、言葉を失った。
俺のそばにいろ。それだけでいい。
えっ。何それ。
重い。いや甘い。いや重い。いやでも甘い。
どっちだ。感情の質量が激重なのに、糖度が致死量を超えている。
どう処理すればいいのか、オタクの脳のスペックでは全く追いつかない。
「……ルシエラ」
「は、はいっ」
「お前が俺の視界にいるだけで、俺の魂は救われる」
「…………っ」
反則では?
そんな低い声で。そんな真顔で。
何一つ冗談のない、熱に浮かされたような瞳で言われたら。
私は、かあっと頬が茹で上がるように熱くなるのを止められなかった。
推しの健康のために、無給でやっていた非公式支援活動(ストーカー一歩手前)が。まさか本人から「お前がいると魂が救われる」と激重なフィードバックをされる日が来るなんて、誰も教えてくれなかった。
そんなの、モブファンの想定を完全に超えている。
「で、ですが……!」
「まだ何かあるのか」
「あります! たくさんあります! まず私は庶務と雑務と下働きが骨の髄まで染みついているので、急に『何もしなくていい』と言われても、逆に落ち着きません!」
「そうか」
「はい!」
「なら、好きにすればいい」
「えっ」
急に緩んだ。
「ただし、無理はするな」
「…………」
「誰かに命じられて働く必要はない。お前は、やりたいことだけをやれ」
「…………」
「それが、この屋敷における絶対のルールだ」
私はもう、何も言えなかった。
やりたいことだけやれ。
それはたぶん、普通の人にとっては当たり前のことなのだろう。
けれど私にとっては、前世のブラック企業でも、今世のブラック実家でも、ただの一度だって許されたことのない生き方だった。
命じられたことをこなす。
必要とされる役割の穴を埋める。
足りない部分を補って、誰かの都合に合わせて、自分の意志は常に後回し。
それが私の人生のすべてだったのに。
今、この人は、私に「好きにしていい」と、すべてを許容してくれている。
胸の奥が、じんと熱くなった。
困る。本当に困る。
こんなの、本気で好きになってしまうではないか。
……いや、もともと推しとして大好きなのだが。そうではなくて。
こう、ひとりの人間として、男として、より深く、逃げられないくらい意識してしまう感じのやつだ。
危険。非常に危険である。
私は真っ赤な顔のまま、どうにか声を絞り出した。
「……では、とりあえず」
「何だ」
「今日一日は、このホワイト環境に順応するための『訓練』をしてもよろしいでしょうか……」
「訓練?」
「はい……『働かないことに慣れる』という、高難度の訓練です……」
「……好きにしろ」
クロード様はそう言って、ほんの僅かに、目元を優しく細めた。
笑った。
今、笑った?
私は息を止めた。
破壊力が高すぎる。朝日に照らされて微かに和らいだ、推しの甘い微笑み。
そんなものを至近距離で浴びたら、確実に生命活動に支障が出る。
「顔が赤いな」
「き、気のせいです!」
「そうか」
「はい!」
「なら、昼もちゃんと食べろ」
「食事まで徹底管理されるのですか!?」
「当然だ。お前は俺のものなのだから」
当然らしい。しかも所有権まで主張された気がする。
私はもう、心の中で静かに悟った。
ここはもう、神企業どころではない。
福利厚生MAX、かつトップからの過保護が限界突破した超絶ホワイト環境である。
そして、その中心にいる推しは、私が思っていたよりずっと、重くて、優しくて、絶対に逃がしてくれない。
こうして私は、労働時間ゼロ・衣食住完備・推し本人による直々の激甘過保護つきという、あまりにも甘すぎる新生活へ、強制的に突入することになったのだった。




