第4話 推し活の現場、現行犯逮捕!?
その日の私は、朝からずっと胃の辺りがきりきりと痛んでいた。
理由は明白だ。
昨夜、推し活の最中に、クロード様が低い声で「……誰だ」と仰ったからである。
いやもう、本当に寿命が縮んだ。
見つかれば不審者として即座に斬り捨てられても文句は言えない。なんせ私は、家族から「息をするのも目障り」と蔑まれる魔力ゼロの無能なのだ。そんなゴミが、国の英雄であり『氷の死神』と恐れられる国宝級の御方の寝室に忍び込んでいるのである。
不敬罪どころの騒ぎではない。物理的に命が危ない。
もちろん、昨夜は最終的にセーフだった。
クロード様は目を開けることなく、再び深い眠りへと落ちてくださった。だから理論上、私はまだバレていない。
理論上は。
(でも、今日から少しだけ警戒レベルを引き上げるべきですね……)
私は薄暗い厨房でじゃがいもの皮を無心で剥きながら、今夜の行動計画を真剣に見直していた。
潜入ルート、よし。
見張りの巡回タイミング、変更なし。
滞在時間、いつもの七割まで短縮。
尊き寝顔の鑑賞タイムは一瞬。
湿布を貼るようにサッと魔法をかけたら、即撤収。
完璧だ。前世で培った「上司の目を盗んで定時退社するスキル」をフル稼働させればいける。
我ながら、何をそこまでして不法侵入を続けるのかという気もするが、推し活に妥協は禁物だ。推しの健康を守りつつ、自らの生存率も上げる。それが長く健やかに限界オタクを続ける秘訣である。
「ルシエラ! 手が止まっているわよ! 無能なんだから手くらい動かしなさい!」
「はいっ、ただいま高速処理いたします!」
古参使用人に怒鳴られ、私は慌てて手を動かした。
今日も実家は通常運転の超絶ブラックだ。
妹セレフィナの朝の身支度に始まり、ドレスの裾直し、客間の掃除、庭の花摘み、父の書斎の書類整理、来客用の茶菓子づくり、さらには夜会で使う扇子の補修まで。
令嬢の扱いとは到底思えない業務量だが、それでも私の心が完全に折れないのは、すべて今夜のためである。
(本日も無事に日中タスクを完遂し、深夜の推し活へ繋げるのみ……!)
密かに拳を握りしめた、その時だった。
「……お姉様。さっきから気味が悪いくらい機嫌がいいわね」
優雅に紅茶を飲んでいたセレフィナが、じとっとした、ゴミを見るような目で私を見上げてきた。
いけない。また顔に出ていたらしい。
「そのようなことはありませんよ、セレフィナ様。本日もいつも通り、無の境地で業務に励んでおります」
「無の境地の人間は、じゃがいもの皮を剥きながら頬を染めたりしないのだけれど?」
「えっ」
私は反射的に自分の頬をぺたぺたと触った。
熱い。確かに熱い。
おかしいな。クロード様の昨夜の「……誰だ」という、あの低くセクシーな寝言を思い出したせいだろうか。いや、あれは恐怖と尊さが同時に押し寄せた特大の事故だった。頬が熱くなるのも無理はない。
セレフィナが露骨に顔をしかめる。
「本当に薄気味悪い。お姉様、まさか変な男でもできたんじゃないでしょうね? 身の程を知りなさいよ」
「いえいえ、とんでもない! 私のような底辺にそのような高難度イベントが実装される予定は、未来永劫ございませんので!」
私が全力で否定すると、セレフィナは「ならいいけれど」と鼻を鳴らした。
変な男どころか、私の心はすでにひとりの推しに完全課金済みである。
いや、ただの無課金ファンと自称しているけれど、感情の重さ的には重課金だ。公式グッズが存在しないだけで、心はいつでも全財産を捧げる準備ができている。
◇ ◇ ◇
夜になった。
理不尽な労働をすべて終え、ようやく屋敷が寝静まったのは日付が変わった頃だった。
私は屋根裏部屋へ戻ると、薄い毛布を肩に引っかけたまま、小さく息を吐いた。
(よし……行きますか)
胸がどきどきと、嫌な音を立てている。
毎晩していることなのに、今日はいつも以上に緊張していた。
もしもクロード様が今夜、本当に意識を張っていたら。
もしも、この無能な私が見つかってしまったら。
その時点で、私の人生は完全に終わる。
ただでさえ家族から疎まれているのだ。騎士団から「お宅のゴミが不法侵入した」とクレームが入れば、実家は私を即座に見捨て、処刑台へ送るだろう。
(それでも……っ、推しのあの隈を放置するのは、ファンとして許されません……!)
根本的に何かが狂っている自覚はある。
でも仕方がない。推しの健康は、私の命よりも重いのだ。
私は窓を開け、冷たい夜気の中へ身を滑らせた。
夜の王都は静かだった。見張りの足音を避けながら騎士団宿舎の裏手へ回り、壁の窪みに足をかけて二階のバルコニーへ。
薄く開いた窓から、音を立てないよう慎重に体を滑り込ませる。
潜入成功。
よし、ここまでは完璧だ。
私は静かに顔を上げた。
質素で余計なものが一切ない、クロード様の私室。
そしてその奥、広い寝台の上には、今日も愛しい推しが眠っていた。
(月の女神様、ありがとうございます……! 本日も推しの寝顔が国宝級です……!)
胸の奥で五体投地しながら、私はそっと近づく。
長い睫毛。通った鼻筋。引き締まった輪郭。眠っていても一切の隙がない、美しすぎる横顔。
ただ、昨夜よりも僅かに、部屋の空気が違う気がした。
うまく言えないけれど、ピンと張り詰めた糸のような、微かな緊張感。
(……気のせい、ですよね?)
自分に言い聞かせながら、私は寝台の傍らに膝をついた。
今日は長居はしない。寝顔の鑑賞は三秒まで。湿布を貼ったら即撤収。
心の中でそう唱え、そっと彼の手首へ向かって手を伸ばす。
「今日もお疲れ様です、クロード様……」
吐息のような声と共に、私の指先が、彼の冷たい肌に触れた、その瞬間だった。
ガシッ!!
「ひゃっ!?」
鋼のような大きな手が、私の手首を一瞬で掴み上げた。
冷たく、恐ろしく強く、絶対に逃げ場のない力だった。
えっ。
えっ、えっ、えっ?
次の瞬間、寝台の上で閉じられていたはずの氷結の瞳が、ぱちりと開いた。
「――見つけたぞ」
地を這うような、低く、鋭い声。
それは寝ぼけた響きではなかった。完全に覚醒した、獲物を絶対に逃がさない捕食者の声だった。
終わった。
私の人生、終わった。
◇ ◇ ◇
頭の中が真っ白になった。
心臓がばくばくどころの騒ぎではない。もはや大爆発である。
「な、な、な……っ」
「誰の差し金だ」
クロード様は寝台から半身を起こし、私の手首を掴み上げたまま低く問うた。
月明かりの下で見る彼の瞳は、背筋が凍るほど鋭い。底知れぬ冷気を放っているのに、なぜかその奥には、泥のように重く奇妙な『熱』が宿っている。
ひぃぃぃぃ。怖い!
でも近い! お顔が良すぎて死ぬ! いや、処刑されて普通に死ぬ!!
完全に不審者確保の構図である。
「さ、差し金!? いえ、その、私はただのっ」
「ただの?」
「し、しがない無課金ファンです!!」
「……は?」
空気が、文字通り凍りついた。
自分でも何を言っているのか分からない。でも極限状態で出た言葉がそれだった。
クロード様が初めて、怪訝そうに眉を動かした。
「……無課金?」
「はい……」
「意味が分からん」
「ですよねぇ……!」
私は半泣きで頷いた。
ああ、もう駄目だ。不法侵入した挙句、意味不明な供述をする不審な女。処遇が悪化した気しかしない。
クロード様は私の顔をじっと見据えた。
逃げようと思っても無理だった。掴まれた手首から伝わる圧倒的な力と威圧感のせいで、蛇に睨まれた蛙のように体がすくんで動かない。
「お前……いつからここに出入りしていた」
「え、ええと……」
「答えろ」
「す、数日……くらいです……!」
嘘である。本当はもうしばらく通っている。
だが、この期に及んで「実は結構前から毎晩お邪魔しておりまして」などと答える勇気はなかった。
クロード様の目が僅かに細まる。
あっ。
これ絶対、信じてない顔だ。
「そうか」
「は、はい……」
「では次だ。お前は俺に、何をした?」
来た。核心である。
私はぶんぶんと首を横に振った。
「な、何もしておりません! 本当に! ただ、その、激務でお疲れのようでしたので……」
「疲れを?」
「はい……あの、軽く肩こりが楽になる程度の、湿布みたいな、マッサージみたいなものを……!」
「寝ている人間にか?」
「申し開きの余地がありません……!!」
私はもうその場で土下座したかった。だが手首を拘束されているので叶わない。
見下され、虐げられてきた私の人生。ついに推しの手によって幕を下ろすのだ。
部屋の中が、痛いほど静まり返った。
やがて、クロード様は私の手首を掴んだまま……もう片方の手を、ゆっくりと私の頬へ伸ばした。
「ひっ」
反射的に肩が跳ねる。叩かれる、と思った。
けれど、私の頬に触れた指先は、恐ろしいほど静かで、乱暴さは欠片もなかった。
まるで、壊れ物に触れるかのように。
あるいは、ずっと探し求めていた宝物を、ようやく見つけ出したかのように。
優しく、そっと、私の頬を撫でた。
その瞬間。クロード様の氷の瞳が、激しく揺れた。
「……やはり」
低く落ちた声に、私はびくりとする。
やはり? 何が?
頭上から降ってきた次の言葉に、私は完全に思考を停止した。
「この深く、温かい力……。俺の傷を、凍えた魂をずっと救ってくれていたのは――君だったのか」
「…………へ?」
間の抜けた声が漏れた。
い、いやいやいや。
魂?
何の話でしょうか。私はただの無能で、夜な夜な推しに地味ヒール(マッサージ)をかけていただけなのですが。
私が混乱で完全に固まっていると、クロード様は掴んでいた手首を引き寄せ、私をぐいっと自分の胸元へ引き込んだ。
「きゃっ!?」
一瞬で距離がゼロになる。
近い。近すぎる。国宝のお顔が目の前に! 呼吸が! 推しの呼吸がかかる距離なのですが!?
「ずっと、探していた」
「さ、探して……?」
「夜ごと俺に触れ、俺のすべてを癒やしていた、愛しい光を」
「いえあの、それは結果的にそうなっていただけでして、私みたいな魔力ゼロの無能にそんな大層な力は」
「大層だ」
断言された。しかも無駄に良い声で。
クロード様は私を見下ろしたまま、信じられないものを見るように、ほんの僅かに目元を和らげた。
戦場で敵を斬る時の『死神』の顔ではない。
ひどく深くて、静かで、狂気的なほどの熱を孕んだ、甘い眼差しだった。
「あの夜から、体が羽のように軽かった。長年の呪いも古傷も消えた。狂いかけていた魔力も静まった。……すべて、お前の力だったのだな」
「え、ええええええっ!?」
私はついに悲鳴を上げた。
待ってほしい。情報量が多すぎる。
私のヒールって、そんな神話みたいなことになっていたのですか?
いやいや、だって私、家族からずっと「無能」「ゴミ」って言われて生きてきたのに!?
「嘘、ですよね?」
「俺がそんな冗談を言うように見えるか」
「見えません……!」
冗談を言っただけで王都が氷河期に突入しそうな御方である。
つまり、私は知らないうちに、とんでもないことをしていた……?
「そんな……っ。私はただ、推しに元気でいてほしくて……」
「推し?」
「あ、あなた様のことです」
「……そうか」
クロード様はなぜか、ものすごく満足そうに目を細めた。
何がどう伝わったのか分からないが、空気が若干柔らかくなった。
よ、よかった……のだろうか?
いや、よくない。私はまだ不法侵入犯だ。
我に返った私は、ぶわっと冷や汗をかいた。
「も、申し訳ありませんでした! 本当に出来心というか、善意百パーセントの非公式応援活動でして! 決して怪しい者では――」
「十分怪しい」
「ですよねぇ……!」
ぐうの音も出ない。
騎士団へ突き出されるのか、実家へ連絡が行くのか、ここで斬られるのか。震える私を見て、クロード様は何かを考えるように数秒黙った。
そして――次の瞬間。
「来い」
「……へ?」
「ようやく見つけたぞ。俺の、聖女」
「…………へ?」
二度目の間抜けな声が出た。
聖女。今、聖女と言った?
私しかいないこの部屋で?
「ち、違います違います! 私はただの魔力ゼロの引き立て役でして! 聖女は妹のセレフィナの方で――」
「違うな」
「違わなくないです!」
「お前の力に触れた俺が断言する。お前の力こそが、本物の神聖魔法だ」
聞いたことはある。神話の中にだけ出てくる、奇跡の力。
混乱しすぎて頭がパンクしそうな私を他所に、クロード様は寝台から降りた。
長身が立ち上がるだけで、部屋の空気が支配される。
そしてそのまま、私の細い肩に、自分の分厚い外套をふわりとかけた。
「夜は冷える」
「……えっ」
「怯えるな。斬らんし、誰にも渡さん」
短い返答。けれどその声は、執着に塗れた恐ろしいほどの熱を帯びていた。
推しの外套が、今、私の肩に。
情報量に処理が追いつかない私を、クロード様は強引に抱き寄せた。今度は拘束というより、完全な『確保』である。
「さあ、一緒に来るぞ」
「ど、どこへ!?」
「俺の屋敷だ。お前をこのまま、元の薄汚い場所に帰すわけがないだろう」
深夜に寝室へ忍び込んだのだから、普通は帰されない。
だが、問題はそこではない。
「展開が早すぎますぅぅぅぅ!!」
私の絶叫が、静かな夜の部屋にむなしく響き渡った。
こうして私は、推し活の現場を現行犯で押さえられた末に、なぜか推し本人に連行(お持ち帰り)されることになったのである。
処刑ではなかった。なかったのだけれど。
これはこれで、だいぶ別方向に人生が終わりかけている(始まっている)気がした。




