第3話 推しの肌ツヤが良すぎて今日も尊い(無自覚チート炸裂)
その日の私は、朝からずっとそわそわと落ち着かなかった。
理由はただひとつ。
(今日のクロード様……お肌の調子が、尋常じゃなく良い気がするのですが!?)
王都の大通りを進む第一騎士団の列。
その先頭を歩くクロード様の姿を、私は屋敷の二階、薄汚れた窓ガラスに張り付くようにして見つめていた。
今日も今日とてお美しい。それはもう、存在そのものが奇跡である。
けれど、今日の彼はいつも以上に神々しかった。
普段はどこか青白く、血の通っていないような張り詰めた冷たさを感じさせる美貌。なのに、今日はほんのりと健康的な血色が差している。
そのせいで、ただでさえ完成されている顔面偏差値が、人間離れした領域を突破してしまっていた。
そして何より、あの痛々しかった瞳の下の隈が、薄い。
えっ。薄い。すごい。消えかけている。
(よ、よかったぁぁ……! ちゃんと休息を取れたんですね、クロード様……!)
私は窓枠にしがみついたまま、安堵のあまり泣きそうになっていた。
昨日も、一昨日も、その前も。
私は深夜にこっそり騎士団宿舎へ忍び込み、眠るクロード様に『無課金ヒール』をかけ続けてきた。
本人にバレないように。誰にも見つからないように。あくまで日陰のモブファンとして。
その成果が、今まさに目の前に表れている……のかもしれない。
いや、もちろん自惚れるつもりはない。
私の魔法なんて、家族から「魔力ゼロの無能」と嘲笑され続けてきた、出来損ないの力だ。せいぜい「肩こりが取れる」とか「朝の目覚めが少し良くなる」程度の、湿布薬レベルの可愛い補助効果しかないはず。
だからこれは、たまたま彼の睡眠の質が良かったとか、討伐の予定が緩かったとか、クロード様ご本人の自己治癒力によるものが大半だろう。
だがしかし。
推しのコンディションが上がっている。それが事実なら、ファンとして喜ばない理由など存在しない。
(ふふふ……。私の地味ヒールも、少しは推しの健康維持に貢献できているのですね……!)
感無量である。
その時だった。
「お姉様! 何をサボっているの!? 私の朝のお茶がまだでしょう!」
「はいっ、ただいまお持ちしますー!」
背後から飛んできた妹セレフィナのヒステリックな声に、私は弾かれたように姿勢を正した。
いけないいけない。推しの尊さに意識を持っていかれすぎた。
今の私は、表向きただの都合のいい雑用係。現実に戻って、山積みのタスクを処理しなければならない。
私は名残惜しく窓から離れると、すぐさま厨房へ向かって駆け出した。
◇ ◇ ◇
「遅いわ! まったく、無能のくせに動きまで鈍いんだから、本当にイライラするわね」
優雅に椅子へ腰かけたまま、セレフィナが氷のような視線を私に向ける。
私は彼女の前に最高級の茶葉で淹れた紅茶を置き、深く、にこやかに頭を下げた。
「申し訳ありません、セレフィナ様。抽出のタイミングに魂を込めておりましたので」
「気持ち悪い言い訳をしないでくださる?」
今日も通常運転である。
可憐な顔立ちにふわふわの金髪。見た目だけなら、誰もが守りたくなるような美少女。だが、その口から飛び出す言葉は猛毒だ。
もっとも、私にとっては今さら痛くも痒くもない。
前世では、もっと笑顔で刺してくるサイコパス気味のクライアントや上司がいくらでもいた。
『期待してるから厳しく言うんだよ?』などと恩着せがましくほざきながら、失敗の責任だけを押しつけて手柄を奪っていく連中だ。
それに比べれば、私をはっきりと見下し、ストレートに罵倒してくるセレフィナは、まだ裏表がないぶん親切ですらある。
……いや、親切ではないか。まったくないな。
「お姉様、午後のお茶会に着ていくドレス、裾の刺繍を流行りのものに変えておいて。あと髪飾りも新しいものを作って。昨日のはもう見飽きたわ」
「かしこまりました」
「それと、お父様の書斎にある帳簿も整理しておいて。お母様が、最近領地の税収の数字が合わないって怒っていたもの」
「承知しました」
「ついでに庭の白薔薇も摘んできて。あと――」
「すべて承知いたしました」
私は条件反射で答えながら、脳内でタスク管理表を爆速で組み立てていく。
よし、いける。
午前中に洗濯と高度な裁縫、昼までに領地経営レベルの帳簿整理、午後に庭仕事、夕方にドレスの仕上げ、夜に配膳の補助、そして深夜に推し活。
完璧だ。
前世で鍛え上げた限界社畜のマルチタスク能力を舐めてもらっては困る。
私は、仕様変更の嵐と納期の前倒しが五本同時に重なった修羅場を、カフェインの錠剤を噛み砕きながら乗り切った女である。
この程度、推しのためなら準備運動に等しい。
「……返事だけは立派ね。本当に目障り」
「ありがとうございます」
「褒めてないのだけれど?」
「存じております」
セレフィナがじとっと睨んでくる。でも私は全く気にしない。
なぜなら今の私の心は、今朝見たクロード様のつやつやなお肌で満たされているからだ。
そう。推しのコンディション管理は順調だ。
私が一人で満足げにこくこく頷いていると、セレフィナが本気で気持ち悪そうに眉を寄せた。
「……薄気味悪い笑みを浮かべないで」
「失礼いたしました」
危ない。顔に出ていたらしい。
私は慌てて感情を殺した無表情を作り、深々とお辞儀をしてその場を下がった。
◇ ◇ ◇
午後、私は薄暗い父の書斎で、山積みの帳簿と格闘していた。
領地の収支報告、倉庫の在庫記録、農地の納税台帳、使用人の給与明細。
どう考えても、魔力ゼロの役立たずとして虐げられている令嬢が一人でやる仕事量ではないし、内容でもない。
けれど悲しいかな、この家で実務処理能力があるのは実質私だけだった。
父は怒鳴り散らすのは得意だが数字には弱く、母は貴族同士の足の引っ張り合いと見栄に忙しく、セレフィナは「聖女の清らかな手で俗世の帳簿など触れないわ」と宣言して一切手を出さない。
結果、ルミナス伯爵家の領地経営の裏枠は、なぜか全部私に丸投げされている。
おかしい。すごくおかしい。
でもまあ、前世で意味不明なエクセル方眼紙と格闘しながら、深夜二時に仕様書を白紙から書き直していた地獄に比べれば、ただ数字を合わせるだけの紙の帳簿など可愛いものである。
私は羽根ペンを猛スピードで走らせながら、ふと、厨房で耳にした使用人たちの噂話を思い出した。
――今朝の訓練で、筆頭騎士様が的の鉄人形を地面ごと叩き割ったらしい。
――最近、顔色まで異様にいいらしい。
――昔の古傷まで消えてきてるとか何とか。
(うーん……?)
私はペン先を止めて小首をかしげた。
そんなに劇的に変わるものだろうか。私の、あの地味なヒールで。
いやいや、さすがにそれはない。思い上がりも甚だしい。
私の魔法は、そんな奇跡を起こせるような代物じゃない。家族から「ゴミ」と呼ばれ続けてきた、底辺の力だ。
もし本当にそんな凄い力があるなら、打算の塊である両親が、私をこのまま放置しておくはずがないのだから。私が虐げられているという事実こそが、私の魔法が取るに足らないという最大の証明である。
(つまり、クロード様が超人的な回復を見せているのは、ひとえにクロード様ご本人の基礎ポテンシャルがバグっているから……!)
なるほど。推しが最強。ただそれだけの話だった。
私は一人で大いに納得し、再び帳簿へ目を落とした。
その瞬間、背後から乱暴に扉が開いた。
「ルシエラ! まだ終わらないの!?」
母だった。
豪奢なドレスにきつい香水を纏い、ヒステリックに目を吊り上げて部屋へ入ってくる。
「お母様、今ちょうど、先月分の帳尻を合わせて――」
「言い訳はいいのよ! さっさと夕方までに終わらせて、セレフィナのドレスの手直しも済ませなさい!」
「……かしこまりました」
「まったく、お前は魔力を持たないただの穀潰しなのだから、せめてこれくらいは死ぬ気でやりなさい。本当に、セレフィナの引き立て役にしかならない出来損ないね」
はい、出ました。本日のテンプレ台詞である。
幼い頃から何千回と聞かされてきた呪いの言葉。
私は内心で(ごもっともです! では本日も底辺の雑務に邁進させていただきます!)と軽快に敬礼しながら、外面だけは悲しげにしおらしく頷いた。
「承知しております、お母様」
母はふんと鼻を鳴らし、「今夜の客人用の茶菓子も焼いておきなさい」と無慈悲な追加業務を置き土産にして出ていった。
扉が閉まる。静寂が戻る。
私はふっと小さく息を吐いた。
業務、増えたなぁ。
でも――。
(深夜になれば、またクロード様に会えますしね……!)
そう思った瞬間、枯れかけていた魔力……ではなく、気力が底から湧き上がってきた。
推しは偉大だ。推しは万病に効く。前世でも今世でも、それだけは揺るがない宇宙の真理である。
◇ ◇ ◇
その夜。
家族の夕食の給仕、客人用の複雑な茶菓子づくり、片づけ、洗濯物の回収、明日の朝の支度まで全てを終えた頃には、とうに日付が変わろうとしていた。
屋根裏部屋へ戻った私は、薄い毛布にくるまりながら一度だけ目を閉じる。
疲れていないと言えば嘘になる。全身は鉛のように重く、指先もじんじんと痛む。さすがに今日は休もうか、と一瞬だけ心が折れそうになった。
だが。
脳裏に浮かぶのは、今朝のクロード様の顔である。
ほんの少し薄くなった隈。良くなった顔色。軽くなったように見えた足取り。
(……行きますか)
私はがばっと起き上がった。
社畜にとって大切なのは、モチベーションではない。使命感である。
そしてオタクにとって大切なのは、推しの健康だ。
今夜も私は行く。誰にも知られず、ただ推しの安眠のためだけに。
こそこそと窓を開け、冷たい夜気の中へ身を滑らせる。見慣れた屋敷の外壁を伝い、第一騎士団の宿舎へ。
見張りの巡回が途切れる数秒の隙をつき、壁をよじ登り、二階のバルコニーへ。窓の隙間からするりと室内へ入る。
今日も潜入成功である。
静まり返った部屋の奥。寝台の上には、やはりクロード様がいた。
「……っ」
近づいた私は、思わずその場で息を呑んだ。
今日もお美しい。それは当然として。
昨日より、さらに、顔色が良い。
(えっ……!?)
近くで見れば、違いはもっとはっきりしていた。目元の疲労感は完全に払拭され、呼吸は深く穏やかだ。
しかも、寝台の脇に放り出された腕――その手首に刻まれていたはずの、魔獣から受けたと思われる痛々しい切り傷の痕が、綺麗さっぱり消え失せている。
私は目をぱちぱちさせた。
あれ。なかったっけ。いや、絶対にあったはずだ。
でも、一日で傷痕まで綺麗に消えるなんてことが、あり得るだろうか?
(……いやいやいや。さすがに見間違いですね! オタク特有の幻覚です!)
うん、そうだ。私は推しを直視しすぎるあまり、たまに解釈が深まりすぎて幻覚を見ることがある。ここは冷静になろう。
私は小さく咳払いをし、そっと寝台の傍らに膝をついた。
「今日もお疲れ様です、クロード様……」
吐息のような声で呟いて、彼の冷たい手に触れる。
昨日よりも、皮膚の張りが良く、生命力に満ちている気がした。
私はいつものように意識を集中させる。
じんわりと掌に熱が宿り、柔らかな白い光が滲むように溢れた。
「ヒール」
光は静かに、深く、クロード様を包み込む。
月の光に似た、優しい白。
けれどその実態は、ただの疲労回復どころではない。細胞の隅々にまで蓄積した呪いにも似た疲労、魔獣の瘴気、長年の酷使で摩耗した肉体の限界値さえも軽々と書き換えて癒やす、神話クラスの神聖魔法。
もちろん、「自分は無能」と洗脳され切っている私に、そんな自覚は露ほどもない。
(よしよし……今日も明日を生き抜く元気をチャージしてくださいね……)
それだけを能天気に願いながら、光が消えるまでじっと待つ。
やがて治癒が終わると、クロード様の表情がふっと、幼子のように和らいだ。
その瞬間。
「……誰だ」
地を這うような、低く掠れた声が、静まり返った室内に落ちた。
「ひゃっ!?」
私はビクンと肩を跳ねさせ、反射的に飛び退いた。
えっ。今、喋った。喋りましたよね。
起きた!? いやでも目は閉じてる! 寝言!? 寝言であって神様!!
心臓が口から飛び出しそうになる。
見つかれば不審者として即座に斬り捨てられても文句は言えない。無能な私が、国の英雄の寝室に忍び込んでいるのだから。
クロード様は薄く眉を寄せたまま……しかし目を開けることはなく、やがて再び深い呼吸へと戻っていった。
私はその場で、文字通り完全に石になった。
しばし沈黙。
……数秒後。
(よ、よかったぁぁぁ……!!)
私はへなへなと崩れ落ちそうになる脚をなんとか堪えた。
危ない。危なすぎる。今のは完全に寿命が十年は縮んだ。
やはり最近、クロード様は私のヒール(マッサージ)の影響で眠りが深くなっている反面、何かしら違和感も覚え始めているのかもしれない。
……いや、違う。今のはきっとただの寝言だ。そうに違いない。
自分に言い聞かせるように何度も頷くと、今日はこれ以上長居せず、さっさと退散することにした。
最後にもう一度だけ、眠るクロード様を振り返る。
整った横顔。穏やかな寝息。昼間の張り詰めた空気が嘘のように、安らいだ表情。
胸がじんわり温かくなる。
(よかった……)
推しが安らかに眠っている。ただそれだけで、私の過酷な一日は完全に報われたのだ。
私は静かに窓辺へ向かい、夜の闇へと身を溶かした。
◇ ◇ ◇
翌朝。
第一騎士団の訓練場は、朝から妙なざわめきに包まれていた。
「団長、どうなさったんですか」
「……何がだ」
「いえ、その……肌艶が、異様に……」
「は?」
「い、いえ! なんでもありません!」
クロード・ヴァレンティスは、無表情のまま副官を鋭く睨みつけた。
睨まれた副官はびくっと肩を震わせ、即座に口を噤む。
だが、彼だけではない。周囲の騎士たちもまた、ちらちらと恐れ多いものを見るようにクロードの様子を窺っていた。
顔色が良い。目元の疲労が一切ない。
しかも、長年残っていたはずの古傷が、まるで初めから存在しなかったかのように消え去っている。
訓練用の木剣を握ったクロード自身が、己の体の異常性を一番よく理解していた。
体が、羽のように軽い。
ここ数年、どれだけ休んでも常に内臓にまとわりついていた鈍い痛みと倦怠感が、欠片もない。
それどころか、魔力が体の奥底から底なしに湧き上がってくるような万能感すらあった。
ありえない。
彼はこれまで、戦場で受けた無数の傷も、呪い混じりの瘴気も、王国の高位聖職者の治癒魔法ですら取り切れぬまま抱えて生きてきたのだ。
それがここ数日、毎朝目を覚ますたびに、劇的に癒やされていく。
そして、その違和感の正体には、はっきりとした覚えがあった。
夜半。まどろみの中に差し込む、温かな光。
凍え切った魂の奥底まで溶かすような、圧倒的に優しく、慈愛に満ちた気配。
夢にしてはあまりに深く、現実にしてはあまりに心地よい、あの白い力。
(……誰かが、いる)
クロードは無意識に、右手をぎゅっと握りしめた。
気のせいだと切り捨てるには、変化が現実離れしすぎている。
だが、あの厳重な警備を抜け、己の気配察知すら掻い潜る侵入者など、この国に存在するはずがない。
なのに、自分はまるで気づけない。それどころか、その存在が近づき、あの温かな光を向けられるたびに、抗いがたい安心感に包まれて深い眠りに落ちてしまうのだ。
異常だ。得体の知れない強大な力が、毎夜自分の寝室を訪れている。
「団長?」
副官が怪訝そうに声をかける。
クロードは短く息を吐き、木剣を構え直した。
「……今夜から、少し眠りを浅くする」
「は?」
「気にするな」
そう言い捨てた直後。
彼が軽く、本当にただの準備運動のつもりで振るった木剣の一撃が――空気を切り裂き、訓練用の強固な鉄の的を、地面の石畳ごと真っ二つに粉砕した。
ズガァァンッ!! という爆音と共に、周囲がしん、と静まり返る。
副官が額を引きつらせて後ずさった。
「……やはり、何かありましたよね、団長……?」
「知らんと言っているだろう」
そう答えながらも、クロードの氷のような瞳は鋭く細められていた。
毎夜、自分の部屋に現れる“何か”。
害意はない。どころか、あれは自分を救い上げようとする明確な慈愛だ。
だが、己の身を預ける以上、正体が分からないまま放置することはできない。
もし本当に誰かがいるのなら。あの温かい光の主が実在するのなら。
――今夜こそ、必ずその腕を掴まえる。
冷酷無慈悲なはずの騎士の胸中に、得体の知れない『女神』への、強烈な執着と確信が芽生えつつあった。
一方その頃。
そんな最強騎士の決意など知る由もない私はというと。
(今日のクロード様もお元気そうで何よりです! さあ、今夜も限界労働の果てに推し活ですね!)
非常に平和な顔で、厨房の隅でひたすら芋の皮を剥き続けていた。
無自覚チートとは、かくも恐ろしい。
そしてもちろん、その恐ろしさと、間もなく訪れる運命の転換点に一番気づいていないのは、当の私本人なのであった。




