第2話 深夜の「無課金ヒール」が日課です
ルミナス伯爵家の一日は早い。
いや、正確に言うなら――私、ルシエラ・ルミナスの一日だけが、異様に早いのだ。
まだ空が白み始める前。一番鶏すら寝こけている時刻に、私はこっそりと屋根裏部屋の薄い毛布から抜け出した。
寒い。隙間風が突き刺さるように寒い。
けれど、私の心は常夏の太陽を浴びたようにぽかぽかだった。
なぜなら本日の私には、昨夜の『推し活』の余韻という、どんな高級栄養ドリンクにも勝るエネルギー源が満ち満ちているからだ。
(ふふふ……昨日のクロード様も、寝顔が大変に尊かったですね……)
思い出しただけで、自然と頬が緩む。
月明かりに照らされた、長い睫毛。滑らかな鼻筋。
普段は『氷の死神』と恐れられ、周囲を威圧する彼が、無防備に眠っている姿。あの奇跡のような瞬間を特等席で拝めるなんて、前世でどれだけ徳を積めば許されるのだろうか。
ありがたい。本当にありがたい。今日も推しが生きている。
私は冷たい床の上で両手を合わせ、心の中で深々と拝んでから、素早く身支度を整えた。
……まあ、深夜の推し活の代償として、私の睡眠時間はさらに削られているのだけれど。
だが全く問題ない。
前世では「二時間睡眠で五連勤」という地獄のデスマーチの末に、土日の休日出勤までキメたことがあるのだ。それに比べれば、愛する推しを愛でるための睡眠不足など、実質的には健康的な趣味の範疇である。
「ルシエラ! 何をぼさっとしているの! 朝一番でセレフィナ様のお部屋を暖めておきなさい!」
「はーい、ただいま参ります!」
廊下の向こうから飛んできた古参使用人の怒鳴り声に、私は元気よく返事をした。
起床後一秒で業務開始。いやあ、今日も実にブラックな労働環境だ。
けれど、今の私には海よりも広い心の余裕がある。
なにしろ昨夜、しっかりと推しにヒールをかけてきたのだ。
つまり、クロード様の今日のコンディションは昨日より確実に上がっているはず。そう思うだけで、冷たい水での雑巾がけも、妹の理不尽な我が儘も、軽やかにこなせる気がしてくるから不思議だ。
私は暖炉に火を入れ、妹のドレスにアイロンをかけ、朝食の配膳を手伝いながら、脳内では昨夜の尊いミッションを反芻していた。
◇ ◇ ◇
それは、午前零時を回った頃のこと。
昼間の怒号と果てしない命令がようやく途切れ、使用人たちも家族もすっかり寝静まった後。私は屋根裏部屋の小さな窓から、するりと外へ抜け出した。
夜風は肌を刺すほど冷たい。けれどその冷たさすら、私を推しのもとへ運ぶ追い風にしか感じなかった。
表向き、私は魔力ゼロの無能令嬢。夜の外出など当然許されていない。
だがしかし。社畜という生き物は、上司の目を盗んでタスクを効率化することにかけては右に出る者がいないのだ。
使用人たちの巡回ルートと時間。
勝手口の蝶番が鳴らない絶妙な角度。
裏路地をうろつく見張りの死角。
騎士団宿舎の裏手にある古い石壁の、足場にしやすい僅かな窪み。
すべて、完璧に把握済みだ。
伊達に前世で、締切直前の修羅場を乗り越えるため、上司の監視を掻い潜って社内を最短ルートで駆け回ってはいない。無駄のない動線設計と隠密行動は、社畜の基本スキルである。
(よし、今日も完璧な潜入経路ですね!)
私は誰にも見つかることなく、第一騎士団の宿舎の裏手へ回った。
王国最強の騎士たちが暮らす場所だけあって、警備は厳重だ。普通なら、魔力を持たない令嬢一人が近づけるような場所ではない。
だが、警備が厳しい場所というのは、逆に言えば「マニュアル化された警備パターン」が存在するということだ。何日も観察していれば、その隙間は自ずと見えてくる。
……うん、我ながら自分の持てる能力の使い所が間違っている気はする。
でも推し活のためなら仕方がない。
私は壁をよじ登り、二階のバルコニーへ音もなく降り立った。
そして、薄く開いた窓から室内へ滑り込む。
そこは、クロード様の私室だった。
(……っ、今日も無事に来られました……!)
侵入した瞬間、胸がきゅっと高鳴る。
室内は、王国の筆頭騎士の部屋とは思えないほど質素だった。
華美な装飾はなく、無骨な家具だけが整然と置かれている。大きな机には討伐報告書らしき書類が山のように積まれ、椅子の背には激務を物語るように、脱いだ外套が乱雑に掛けられていた。
そして、その奥。
広い寝台の上で、クロード様が静かに眠っていた。
私は思わず、その場で両手で口元を覆った。
(ああああああ……今日も寝顔が完璧……! まるで宗教画……!)
尊い。ひたすらに尊い。
昼間の彼は、近寄りがたいほど鋭くて冷たい空気を纏っている。けれど眠っている時だけは、その凄絶な雰囲気が少しだけ解け、一人の青年としての素顔が覗くのだ。
月明かりを浴びたプラチナブロンドの髪が、枕に散っている。
だが、その美しい眉間には、どこか苦しそうな皺が寄っていた。
やっぱり、お疲れなのだ。
討伐。過酷な鍛錬。王都防衛。騎士団の統率。
『最強』であるというただそれだけの理由で、この人はどれほどの重圧と責任をたった一人で背負わされているのだろう。
(推しが働きすぎです……! 休ませてあげて……!)
私はそっと寝台の傍らに膝をついた。
彼を起こしてしまわないよう、自分の呼吸の音すら殺す。
そして、震えないように両手を重ね、彼の胸元へとかざした。
私は昔から、ほんの少しだけ不思議な力を使えた。
怪我をした小鳥に触れれば、また飛べるようになる。枯れかけた花に触れれば、少し元気を取り戻す。
けれど、家族はそれを「魔法」とは認めなかった。
妹のセレフィナのように派手で美しい光も出ないし、誰が見ても驚くような奇跡は起きないからだ。
「そんな地味で役立たずな力、魔力なしと同じだ」と、物心ついた頃から両親に吐き捨てられてきた。
私自身も、そう思っている。
せいぜい、ちょっとした疲労回復。湿布やマイナスイオン程度の、ささやかな補助。
無能な私にできる、大したことのない小さな力。
でも――愛する推しのためなら、このちっぽけな力を全力で使いたい。
「今日もお疲れ様です、クロード様……」
声にならないほど小さく囁いて、私は意識を集中させた。
じんわりと、掌の奥が熱を持つ。
淡い、ほとんど見えないほどの薄っぺらい光が、指先から滲むように零れた。
「……ヒール」
――途端に、温かな光が彼の体をふわりと包み込んだ。
それは、妹の魔法のように眩く空間を満たすような、派手なものではない。
月明かりに溶けるような、静かで、底知れなく深い、柔らかな光だ。
だから私は、いつも気づいていないのだ。
その光が、普通の治癒魔法ではありえないほど純度が高く、規格外の神聖な力を持っていることに。
彼の体に蓄積した致死量の疲労だけでなく、魔獣との戦いで深く刻まれた古傷や、不眠の原因となっている魔力の暴走まで、根こそぎ浄化し、癒やし尽くしていることに。
私はただ、いつものように能天気に思うだけだ。
(よしよし、これで肩こりくらいは楽になるはずです……!)
数秒。あるいは数十秒。
光はやがてすうっと収まり、部屋の中には再び静かな月明かりだけが戻った。
クロード様の表情が、わずかに和らぐ。
眉間に寄っていた深い皺がほどけ、呼吸が規則正しく、深くなった。
それを見た瞬間、私の胸はたまらない達成感でいっぱいになる。
(よかった……! 今日も湿布、効いたみたいです!)
無課金ヒール、大成功である。
もちろん、私ができるのはここまでだ。
私みたいな魔力ゼロの人間に、本格的な治療なんてできるわけがない。これはあくまで、一介のファンによる非公式サポート活動。残業中の推しのデスクに、こっそり栄養ドリンクを置いて帰るようなものだ。
……いや、夜中に男の人の寝室に忍び込んでいる時点で、だいぶ犯罪寄りではあるのだけれど。
でも、推しの健康維持のためだ。背に腹は代えられない。
私はほっと息をつき、それからつい、眠るクロード様の顔をじっと見つめてしまった。
きれいだ。本当に、どうしようもなくきれいだ。
こんなに近くで推しを見られるなんて、未だに夢みたいだった。
昼間どれだけ理不尽に怒鳴られても、ボロ雑巾のように働かされても、ここに来て彼の寝顔を見るだけで全部報われる。
推しが元気になる。推しが少しでも楽に眠れる。その事実だけで、私の今日一日の疲れも全部吹き飛んでしまうのだから。
(明日も頑張れます……。推し、実在してくれてありがとう……)
私は心の中で深々と頭を下げ、そっと立ち上がった。
長居は禁物。
モブファンはモブファンらしく、日陰に徹し、静かに現れて静かに去るべし。
最後にもう一度だけ、寝台の上のクロード様を振り返る。
すやすやと眠るその姿は、昼間の鋭さが嘘みたいに穏やかで――。
「……ん」
その時だった。
クロード様の喉から、ほんの僅かに低い声が漏れた。
私はびくっと肩を揺らし、石像のように固まった。
えっ。
今、動いた?
起きた? いや、起きてないですよね? 大丈夫ですよね!?
その場で数秒、息を止める。
だが、クロード様は再び静かな寝息を立て始めた。
……よかった。まだセーフ。命拾いした。
(あ、危なかったぁ……!)
心臓が口から飛び出そうになるのを必死に押さえながら、私はそろそろと窓辺へ向かった。
今日は少し長く見すぎたかもしれない。猛省である。
推しの尊さは時に判断力を奪う。気をつけなければ。
私は、入ってきた時と同じように窓から夜の闇へと身を滑らせた。
無事に今日の推し活も完了した。
これで明日のクロード様は、昨日よりほんの少しだけ元気になっているはず。
それだけで、私は十分幸せだった。
◇ ◇ ◇
――そして翌朝。
「おい、聞いたか」
「筆頭騎士様が、今朝の訓練で模擬戦用の鉄人形を真っ二つにしたらしいぞ」
「いつも真っ二つでは?」
「いや、今日は地面ごと叩き割ったって……」
「は?」
「しかも最近ずっと不眠だったはずなのに、今日は顔色まで異様に良くて、魔力も溢れかえってるらしい」
「怖っ」
屋敷の厨房の隅で、使用人たちがひそひそと噂話を交わしているのを、私は配膳の盆を運びながら聞いてしまった。
思わず、ぴたりと足が止まる。
(……えっ。そんなに効いたんです?)
いやいや、まさか。
私のヒールなんて、せいぜい肩こりや眼精疲労が少し楽になる程度のものだ。
たまたま昨日はクロード様の体調が良くて、よく眠れたとか、そういうことだろう。
うん、そうに違いない。
私はこくこくと頷き、自分を納得させた。
しかし、その直後。
「最近の筆頭騎士様、古傷まで綺麗に消えてきてるって騎士団で噂になってるんだと」
「何それ怖い」
「夜な夜な『女神』でも降臨して、癒やしてんじゃないか?」
「やめろ、縁起でもない。あの方に限ってそんな御伽話――」
がしゃん。
私は手にしていたスプーンを一本、盛大に落とした。
女神。降臨。夜な夜な。
すごく嫌な単語の並びである。
(いやいやいやいや、そんな大袈裟な……!)
私は慌ててスプーンを拾い上げる。
落ち着け、私。
私はただの、魔力ゼロの無課金ファンだ。
推しの疲労をほんのり軽減しているだけの、しがないモブである。
神秘の女神扱いなんて、誇大広告にもほどがある。私がそんな凄い魔法を使えるわけがないのだから。
けれど、心のどこかが妙にざわついた。
もしも。万が一。
本当に少しでも、クロード様が私のヒールを意識し始めていたら――?
「ルシエラ! ぼーっとするな! 手を動かせ!」
「はいっ、申し訳ありません!」
古参使用人に怒鳴られ、私は慌てて仕事に戻った。
そうだ。今は目の前の業務に集中しなければ。
夜になれば、また唯一の自由時間がやってくる。そして私はきっと、懲りずにまた騎士団宿舎へ向かうのだろう。
だって、推しの健康維持は最優先事項だから。
私は盆を抱え直し、心の中で静かに決意した。
今夜も行こう。
もっと自然に、もっと素早く、もっと完璧に。
推しにバレず、誰にも知られず、最高の推し活を遂行するのだ。
その時の私は、まだ知らなかった。
クロード・ヴァレンティスがすでに、己の身に起きている異常な回復劇を不審に思い始めていることを。
そして今夜から、彼が眠る前に『見えない女神』を捕まえるべく、ほんの少しだけ意識を張るようになることを。
無自覚チートな無課金ヒール生活は、まだ始まったばかりだった。




