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第1話 元社畜OL、今世は無賃労働の聖女予備軍(引き立て役)

「この魔力ゼロの役立たずめ! 天才聖女である妹の引き立て役として、一生タダ働きしていろ!」


 伯爵である父の怒声が、薄暗い屋敷の廊下にびりびりと響き渡った。

 その直後、水を含んで重くなった雑巾が、私の顔面めがけて一直線に飛んでくる。


 おっと危ない。

 私はそれを、もはや条件反射と化した動きでひょいっと片手で受け止めた。


 見事なキャッチである。前世で鍛えた危機管理能力と、今世で培った雑務対応力の見事なハイブリッドだ。


「……は?」


 怒鳴り散らしていた父が、予想外の動きにぽかんと口を開ける。

 私はその隙に、胸の内で元気いっぱいに(お疲れ様です!)と挨拶してから、にこりと営業スマイルを浮かべた。


 はい、本日も始まりました。ルミナス伯爵家が誇る、無休・無給労働フルコースでございます。


 私の実家は、控えめに言って超絶ブラックだ。

 長女である私は、生まれつき魔力が一切ない「無能」の烙印を押され、幼い頃から使用人以下の扱いを受けてきた。

 対して、年子の妹セレフィナは、キラキラと派手な光魔法を使えるというだけで「百年に一度の聖女の再来」と持て囃され、両親の愛情と期待を一身に浴びて育った。


 その結果。

 私は妹の身の回りの世話、屋敷中の掃除洗濯、庭の手入れ、客間の支度、台所の下働き、果ては領地経営の書類整理まで、なぜか家の業務の八割を押し付けられている。


 食事は冷えたスープと、石のように硬いパン。

 寝床は隙間風が吹き込む屋根裏部屋の、薄い毛布一枚。

 休日という概念は、この家には存在しない。


 普通の令嬢なら、とうの昔に泣いて逃げ出すか、心がぽっきり折れて絶望していただろう。

「なぜ私だけがこんな目に」と、暗い部屋で一人膝を抱えて泣いていたかもしれない。


 けれど。私、ルシエラ・ルミナスは、わりと元気だった。


(ふふっ……前世の過労死デスマーチに比べれば、この程度、実質サービス残業みたいなものです!)


 そう。私には、前世の記憶があるのだ。


 ◇ ◇ ◇


 前世の私は、日本のIT系ブラック企業で働く、どこにでもいる社畜OLだった。


 連日の徹夜。終わらない仕様変更。納期直前に発生する特大トラブル。理不尽なパワハラ上司。

 月の残業時間が二百時間を超えたあたりから、記憶が所々抜け落ちている。会社のデスクの下で丸まって仮眠を取り、栄養ドリンクで胃を荒らしながら、薄暗いサーバールームの熱風を浴びる毎日。


『若いうちは無理が利く』

『気合が足りないからミスをするんだ』

『俺が若い頃は、三日寝ずに働いたぞ』


 そんな呪いの言葉を真顔で吐く上司のもと、私は自分の心と体をすり減らして――ある日、ついにぷつりと、張り詰めていた糸が切れた。


 享年、不明。

 死因、おそらく過労。

 あまりにも情緒がない終わり方だった。


 だから、この世界の伯爵令嬢として目覚め、理不尽な扱いを受けた時も、私の心は不思議なほど凪いでいた。

「ああ、今世でも私は、搾取される側の人間なんだな」と、どこか冷めた頭で受け入れてしまったのだ。


 見方を変えれば、悪いことばかりではない。

 床磨きや洗濯といった物理的な労働は、座りっぱなしで腰を破壊された前世に比べれば、適度な運動になって健康に良い。ブルーライトで目が潰れることもない。

 怒鳴られるのだって、前世のハゲ上司による一時間超えのネチネチした人格否定説教に比べれば、ただの大きな音だ。


 しかも今世では、なんと毎日きっちり三時間も睡眠が取れる。


 三時間。横になって。毎日。

 素晴らしい。ここは天国か。


 ……まあ、客観的に見れば、私の人生観が限界突破してバグっていることは自覚している。

 悲しいかな、一度壊れた「社畜」の基準は、そう簡単には元に戻らないのだ。


 でも、私がこの過酷な環境で、一度も心を殺さずに笑って生き抜けている理由は、前世との比較だけではない。


 もっと明確で、もっと大きくて、もっと尊い光が、この世界にはあるからだ。


「お姉様! 私のドレスのアイロンがけは終わったの!? まだなの!?」

「はいはい、ただいまお持ちしますねー!」


 甲高く響く妹の声に、私は反射的に明るく返事をしながら、抱えていた洗濯物を整えた。

 可憐な顔立ちに、ふわふわの金髪。外見だけなら天使のように愛らしい妹の部屋へ向かいかけて――ふと、廊下の窓の外へ視線を向けた。


 ちょうど、屋敷の前の大通りを、王都の治安維持を担う第一騎士団の一団が通り過ぎていくところだった。


 その先頭を歩く、一人の男。


 月光を編み込んだようなプラチナブロンドの髪。

 彫刻のように研ぎ澄まされた、冷たく美しい横顔。

 人の温度を寄せつけない、氷結の瞳。

 鍛え抜かれた長身から漂うのは、周囲の空気を凍りつかせるような圧倒的な威圧感と、一切の隙のない気配。


 魔物を一刀両断し、敵対者には無慈悲な刃を向けることから、『氷の死神』と恐れられる王国最強の筆頭騎士――クロード・ヴァレンティス様。


 その姿を目にした瞬間。


(ああああああっ……! 今日のクロード様も最高に尊い……ッ!!)


 私の脳内で、ファンファーレと共に歓喜の鐘が乱れ打たれた。


 お顔が良い。スタイルが良い。立っているだけで名画。歩いているだけで芸術。

 存在そのものが国宝。いいえ、世界遺産。いや、もはや私の信仰対象である。


 彼こそが、私をこの理不尽な日々に繋ぎ止める最大の理由。

 私の最愛にして至高、人生の活力源たる――『推し』、であった。


 ◇ ◇ ◇


 前世の私は、推し活だけで呼吸をしていた。


 アイドル、俳優、二次元キャラクター。

 推しがいるから、満員電車に乗れる。推しがいるから、吐き気を堪えて出社できる。推しが笑えば、私のモノクロの世界に色がつく。

 それが私の信条であり、唯一の生存戦略だった。


 だからこそ、この世界に転生して初めてクロード様を見た時、私は天啓を受けたのだ。


『あ、人生のメインコンテンツ来た』と。


 推しと同じ時代に生まれ、同じ空気を吸い、こうして生身の姿を遠くから拝める。

 前世は文字通りの地獄だったけれど、この奇跡の一点においてのみ、私は神様に深く感謝している。


 彼がこの世界に、ただ生きていてくれる。

 その事実だけで、日々のブラック労働なんて実質無料のファンクラブ特典みたいなものだ。無給だろうと、毎日こうして推しの尊顔を拝めるなら、ログインボーナスとして破格すぎる。


「ふふっ……今日も推しの顔面偏差値が限界を突破していました。これで残りの業務も、残業代ゼロで全力投球できますね……!」


 私はほくほく顔でドレスを抱え直し、その場でそっと拳を握った。

 やる気がみなぎる。推しは万能の霊薬エリクサーだ。


 もちろん、私はただの「魔力ゼロの引き立て役」にすぎない。

 王国の英雄であり、雲の上の存在であるクロード様に近づくなど、身の程知らずにもほどがある。


 私は日陰のモブファンとして、遠くから、静かに、慎ましく、無給で見守っていく。

 それで十分。それだけで、私の人生は幸せなのだ。


 ……そう、本気で思っていた。


「お姉様! 返事が遅いのだけれど!」

「はいっ、ただいま参ります!」


 妹の苛立った声に我に返り、私は慌てて小走りで廊下を進む。

 けれど、頭の中からは、先ほど見たクロード様の横顔が離れなかった。


 最近の彼は、少しだけ様子がおかしい。


 遠目からでも分かるほど、美しい瞳の下にはうっすらと暗い影(隈)ができていた。

 歩く姿勢は完璧だったけれど、纏う空気が、以前よりもほんの僅かに重く、張り詰めている気がした。

 厚い鎧に隠れて見えないだけで、激戦による傷も、相当蓄積しているのではないだろうか。


 王国最強。無敵。冷酷無慈悲。

 世間は彼を恐れ、そう評するけれど。


 私は、気づいてしまったのだ。

 私の尊い推しが、限界ギリギリまでお疲れである、と。


(……これは、由々しき事態です)


 ファンにとって、推しの健康状態は世界平和よりも優先される最重要案件だ。

 推しの隈は心の致命傷。推しの不眠は国家レベルの損失。推しの疲労は世界の終わりの始まりと言っても過言ではない。


 つまり、この状況を放置することは、良識あるオタクとして絶対に許されない。


 私はぐっと表情を引き締めた。


 日中の私は、ただの都合のいい雑用係。

 けれど、深夜の私は違う。


 誰も知らない。家族も、使用人も、もちろんクロード様ご本人も。

 私だけの、ささやかで秘密の『推し活』があるのだ。


 それは――深夜、こっそりと屋敷を抜け出すこと。

 そして、激務で眠るクロード様の寝室へ忍び込み、ほんの少しだけ、疲れを癒やすこと。


 魔力ゼロだと言われ続けてきた私にとって、自分の使える力なんて、せいぜい『絆創膏レベルの補助魔法』みたいなものだ。

 大したことはできない。本人はたぶん、寝ている間にちょっと体が楽になる程度のマッサージだとしか思っていないだろう。

 でも、ほんの少しでも推しが安眠できるなら、それでいい。


(推しの明日のパフォーマンス向上のために、今日も夜のお仕事を頑張りましょう……!)


 私は妹の部屋の扉の前に立ち、こっそりと気合いを入れた。


 来るべき唯一の自由時間――深夜に向けて。

 それまでに、山積みの日中タスクを爆速で片づけなくては。


 さあ、今日も始めよう。

 無賃労働のその先に、尊い推し活が待っているのだから。


 そしてこの時の私は、まだ知らなかった。

 私が「ちょっとしたマッサージ」だと思い込んでいるその力が、常識外れの神聖魔法だということも。


 そのせいで、遠くない未来に――私の平穏なモブファン生活が終わりを告げ、恐ろしいはずの『氷の死神』から、常軌を逸した激甘な溺愛を受けることになろうとは。


 今はただ、胸の内にひとつの決意を抱くだけだ。

 今夜も絶対に、クロード様を癒やす。


 誰にも知られず、誰にも褒められず、誰にも気づかれなくてもいい。

 だって私は――推しの幸せだけを願う、しがない無課金ファンなのだから。



第1話をお読みいただきありがとうございます。

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今後ともよろしくお願いいたします。

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