第30話 挙式前夜。最後の「添い寝」
挙式前夜。
私は、与えられた私室の広大でふかふかな寝台の上で、ものすごくお行儀よく、死刑宣告を待つ罪人のように正座していた。
なぜなら――落ち着かなかったからである。
(明日、結婚式……)
その事実が、じわじわと、しかし確実に、猛毒のようにオタクの心へ効いてくる。
明日。
ついに明日だ。
私がうっかり触って『神話級の神具(不老長寿の結界持ち)』へと進化させてしまった、あの恐ろしいほど美しいウェディングドレスを着て。
国王陛下も王妃殿下も、神殿のトップも騎士団も、なんなら国中の民衆たちまでが見守る大聖堂の中で。
私は、この世で一番格好良くて恐ろしい、王国最強の『氷の死神』の隣に立ち、世界へ向けて正式に“妻”になると宣誓する。
情報量が多い。
幸せの密度が致死量を軽く超えている。
そして、心臓が爆発しそうなくらい、狂おしいほど緊張している。
いや、正確に言うなら、限界突破した幸福感と、極度の緊張と、顔から火が出そうな羞恥と、現実味のなさ(実感不足)が全部いっぺんに押し寄せてきて、私の限界社畜な精神がどこへ着地していいのか分からないのである。
「……無理です、処理落ちします……」
誰にともなく呟いて、私はその場でぱたんと、電池が切れたように前へ倒れ込んだ。
王族仕様のふかふかの寝台。
肌触りの良い最高級シルクのシーツ。
安眠を誘うやわらかな花の香り。
これだけ睡眠環境が完璧に整っているのに、まったく眠れない。
おかしい。
普段なら、クロード様の“無理はしていないか”“食事は足りたか”“今夜も抱いて寝る(強制)”の重すぎる三点セットを受けたあたりで、私のオタク情緒は強制的に沈静化(気絶)して、かなり安らかに眠りにつけるはずなのだ。
だが今日は駄目だった。
だって、明日なのだ。
明日、私は世界中へ向かって、
『この、最高で最強で激重な推しの、唯一の妻になります』
と、高らかに宣言することになる。
いや、宣言するのは司祭様かもしれない。
でも、意味としては完全にそういうことだ。
無理。心臓の稼働率が異常に忙しい。
しかも今日は一日中、この屋敷全体が異様な熱気に包まれて、皆がそわそわしていた。
侍女さんたちはいつも以上に気合いを入れて、私の肌や髪をピカピカに磨き上げてくれたし。
仕立て師さんたちは最終確認で神器級ドレスを見て、「ああ、神の奇跡……!」と拝みながら半泣きになっていたし。
料理長さんは「明日の本番に向けて、ルシエラ様の胃に優しく、かつ活力が漲る極上のものを!」と、見たこともない高級食材で気合いの入った夕食を出してくださったし。
第一騎士団の副官さんたちは、なぜかクロード様へ「団長! 明日が本番ですので、どうか今夜は落ち着いてください! 暴走しないでください!」と、必死の形相で謎の牽制をしていた。
何なのだろう。
皆さん、私たちの明日の本番を何だと思っているのだろう。
……いや、だいたい想像はつくけれど。推しの行動力がアレだから。
「……落ち着きたいです……寝ないと明日お肌が……」
寝台のシーツへ顔を埋めたまま、私はじたばたと見苦しく足を動かした。
すると、その時だった。
こつ、こつ、と。
静かで、けれど重みのあるノックの音が扉を叩いた。
私はぴたりと動きを止めた。
こんな深夜に、誰だろう。
侍女さんだろうか。それとも、明日の式の進行で何か確認事項の漏れでも――。
「――俺だ」
「…………」
心臓が、ビクンッと大きく跳ねた。
だって、その地を這うような低い声は、どう考えても、明日の新郎であるクロード様だったからだ。
◇ ◇ ◇
「ど、どうぞ!」
思わず声が裏返った。
だが、もう仕方がないと思う。
重厚な扉が開く。
そこに立っていたのは、予想通りクロード様だった。
今日のクロード様は、昼間の隙のない漆黒の騎士服ではなく、落ち着いた黒の絹の室内着をまとっていた。
明日の式に向けて、たぶん今日は早めに執務を切り上げた(あるいは副官に押し付けた)のだろう。
プラチナブロンドの髪も少しだけ無造作にやわらかく流れていて、いつもの冷酷な鋭さより、どこか静かで、雄としての熱を帯びて見えた。
……だめだ。
夜の推し、色気の破壊力が高すぎる。
しかも、今日は“挙式前夜の婚約者”という特大のバフ補正まで乗っている。
視界に悪い。たいへんに目に毒だ。
「……起きていたか」
「ね、寝る努力はしていました!」
「努力」
「はい。目を閉じて羊を数えるなど、だいぶ頑張っていました」
「眠れないのか」
「……少しだけ」
「少し、ではない顔だな」
「さすがです……」
秒で見抜かれた。
クロード様は後ろ手で静かに扉を閉めると、鍵をかける音を響かせ、まっすぐこちらへ歩いてくる。
その一歩一歩の足取りが無駄なく静かで、肉食獣のようで、なのにどうしてこんなに私の心臓に悪いのだろう。
顔が良いからだろうか。
たぶんそうだ。顔の良さは暴力だ。
「何を一人で考えている」
「えっ」
「また、耳まで赤いぞ」
「それは、その……いよいよ、明日が本番だなぁ、と」
「そうだな」
「そうだな、ではなくですね……!」
「何だ」
「普通、こういう時はもう少し、こう……お互いの緊張をほぐすような、落ち着いた会話の導入とか……」
「必要か」
「必要です! 限界オタクには必須のプロセスです!」
「なら、今している」
「している判定が早いです! 強引です!」
私が必死に抗議しても、クロード様は少しも動じなかった。
私の目の前、ベッドの縁で立ち止まる。
見下ろされる。
距離が近い。
近いのに、逃げたくはない。
困る。この人に惹かれすぎている自分が困る。
「……ルシエラ」
「は、はいっ」
「明日だ」
「……はい」
「ようやくだな」
「……はい」
ひどく低い、甘い声だった。
いつもみたいに真っ直ぐで、でも今日は少しだけ、喉の奥を震わせるように深く響く。
私はなんとなく、そこで騒ぐのをやめた。
そうだ。
明日なのだ。
遠回りもした。
ブラック実家での過酷な日々もあった。
前世の、心を殺して働いた社畜時代もあった。
偽聖女騒動も、建国祭の魔物大群による大混乱も、王家からの国母スカウトもあった。
でも、その全部を彼と一緒に越えて。
明日、ようやく、ここまで来るのだ。
その事実が、今さらみたいに胸の奥へすとんと落ちてきて、じんわりと泣きたいくらい熱くなる。
「……来てくださったんですね」
「ああ」
「どうして、ですか。明日に備えて、休まなければならないのに」
「お前が不安で、眠れないだろうと思った」
「…………」
「そして、俺もそうだった」
私は、驚いて目を瞬いた。
「クロード様も、眠れなかったのですか?」
「ああ」
「……えっ」
「何だ」
「その、すごく意外というか……」
「俺が何だと言うのだ」
「こんな時でも、クロード様なら普段通り、完璧に感情をコントロールして整っていそうだなって……」
「整っているように、見せているだけだ」
「…………」
「今日は、無理だった。お前が足りない」
その不器用な一言に、胸がぎゅうぅっと鳴った。
ああ、ずるい。
本当に、この人はずるい。
この人はいつだって強い。
私よりずっと冷静で、ずっと揺るがなくて、何があっても私の前へ立って、すべての敵を物理で排除してくれる。
でも、そんな無敵の『氷の死神』が、今日は“無理だった”と言うのだ。
私と同じように、明日のことを考えて、私が隣にいないと落ち着かないのだと。
それだけで、私たちの心の距離が一気に近づく気がした。
◇ ◇ ◇
「……明日、世界中が知る」
不意に、クロード様が熱を帯びた声でそう言った。
私は小さく息を止める。
「お前が、俺の唯一の妻になると」
「…………」
「もう誰も、お前の人生に口を挟めない」
「…………」
「誰にも渡さない」
「…………」
「お前が嫌がろうと、絶対に離さない」
だめだ。
その言い方は、本当にずるい。
重い。
ものすごく重い。国を傾けるくらい重い。
でも、甘い。
そして、何よりも真剣で、狂気的なほどの愛に満ちている。
私は気づけば、ぎゅっと寝台のシーツを握りしめていた。
だって、そんなふうに真っ直ぐに言われたら、限界オタクの心臓が物理的にもたない。
「ク、クロード様」
「何だ」
「それを今、そんな、静かでえげつなく良い声で、真顔で言うのは反則では……」
「俺の魂からの本音だ」
「知っています! 知っているから、余計に心臓に刺さるんです!」
「そうか。ならもっと言おうか」
「そうなんです!……えっ、いえ、これ以上は!」
私は真っ赤になったまま、どうにか自分の言葉をつなぐ。
「その、私も……嬉しいです」
「…………」
「すごく、幸せです」
「…………」
「でも、ちょっとだけ……怖いんです」
「何がだ。俺が怖いか」
「違います。幸せすぎて」
「…………」
「こんなに全部がうまくいって、こんなに大事にしていただいて、明日には本当に、私がクロード様の妻になるんだって思うと……全部、夢みたいで」
「…………」
「もし目が覚めて、またあの冷たくて暗い屋根裏部屋にいたらどうしようって、ちょっとだけ……思ってしまって」
言いながら、自分でも情けないなと思う。
でも、これが、長い間虐げられてきた私の、どうしても拭いきれない本音だった。
前世でも今世でも、私はずっと“自分の感情を殺して、何かを我慢する側”だった。
だから、こうして大きな幸せが私の手に積み上がっていくと、どこかで「こんなの私には不釣り合いだ」「そのうち取り上げられるのでは」と、無意識に身構えてしまうのだ。
けれど、次の瞬間。
クロード様の大きな手が、そっと私の震える頬へ触れた。
「夢ではない」
「…………」
「俺が、ここにいる」
「…………」
「お前も、俺の目の前に、確かにいる」
「…………」
「だから、目が覚めても現実は変わらない。俺がお前を永遠に守り抜く」
私は、泣きそうになって唇を噛んだ。
ああ、もう。
本当に。
この人は。
「……ずるいです」
「またそれか」
「だって本当に、ずるいので……」
「そうか」
「はい……」
すると、クロード様はほんの少しだけ、甘く愛おしそうに目を細めた。
その表情があまりにもやわらかくて、私はますます胸がいっぱいになる。
◇ ◇ ◇
「今夜は、ここで寝る」
それは、次に当然のように落ちてきた言葉だった。
私は一瞬、思考を完全に停止させる。
「…………はい?」
「添い寝だ」
「そ、そこをそんな端的に!?」
「駄目か」
「い、いえ、駄目というか、その、今さら駄目ではないのですが……!」
「なら、俺の添い寝(抱っこ)に何の問題もない」
「問題がゼロとも言っていません!」
そう。
添い寝自体は、もう今さらなのだ。
私たちはすでに何度も、同じ寝台で眠っている。
クロード様の腕の中にすっぽり収まって眠ることにも、少しずつ慣れてきた。
……少しずつ、である。完全にではない。
なぜなら毎回、彼の密着度と糖度が致死量レベルで高いからだ。
でも今日は、その“添い寝”がいつもと違う意味を持つ。
明日は本番。
明日には本当に、教会の前で誓いを立てて夫婦になる。
つまり今夜は、“婚約者として過ごす、最後の夜”なのだ。
そう思った瞬間、また一気に顔が沸騰するように熱くなる。
「ルシエラ」
「は、はいっ」
「嫌なら、はっきり言え」
「…………」
「今夜くらいは、お前の意思を尊重し、無理強いはしない」
「…………」
その声音が、少しだけ低く、彼自身の渇望を抑え込むように静かだった。
ああ、この人はこういう時でも、ちゃんと私の気持ちを聞いてくれるのだ。
強いし、重いし、囲うし、抱っこするし、独占欲は常に限界突破しているけれど。
肝心なところだけは、絶対に私へ選ばせて、私の歩幅に合わせてくれる。
そこが、ずるい。
本当に、どうしようもなくずるい。
私はゆっくりと、首を振った。
「……嫌では、ないです」
「そうか」
「むしろ、その……」
「言え」
「一人で眠る方が、今日はたぶん……不安で、無理でした」
「…………」
「だから、クロード様が来てくださって、本当に嬉しいです」
言い切った瞬間、耳まで熱くなった。
無理だ。恥ずかしい。
でも本音だった。
こんな夜に、一人で静まり返った大きな部屋にいたら、きっと考えすぎてしまう。
明日の式の規模のこと。
自分のこと。
この信じられない幸せのこと。
全部まとめて押し寄せてきて、絶対に眠れなくなる。
だったら、クロード様が隣にいてくれた方がいい。
その方が、ずっといい。
「……そうか」
クロード様の返事は、やけにやわらかく、深い安堵が混じっていた。
そしてそのまま、彼は当然の権利のように私の隣へ腰を下ろす。
寝台が、彼の重みでわずかに沈む。
距離が近くなる。
でも、不思議とさっき一人でいた時より、ずっと心が落ち着いた。
「明日」
「はい」
「大勢の視線が怖くなったら、俺だけを見ていろ」
「……はい」
「足が震えそうになったら、俺が抱えて支える」
「はい」
「緊張で何も考えられなくなったら、ただ俺の名前を呼べ」
「はい」
「お前のすべてを、俺が全部受け止める」
「…………」
私は、こくりと力強く頷いた。
きっと大丈夫だ。
この人が、隣にいてくれるなら。
◇ ◇ ◇
しばらく、どちらともなく甘い沈黙が落ちた。
部屋の中は静かで、窓の外には夜空の星と月の光が淡く差している。
明日のために整えられた、清らかな花の香りが、ほのかに残っていた。
私はそっと、隣に横たわるクロード様の横顔を見る。
きれいだ。
本当にきれいで、彫刻のようで、何度見ても飽きない。
推しってすごい。
婚約者になっても、明日が結婚式本番でも、やっぱり推しは推しとして国宝級に尊いのである。
「……何をじっと見ている」
「ひゃっ」
「また変な声だな。俺の顔に何かついているか」
「見ていません!」
「嘘をつけ。穴があくほど見ていただろう」
「……少しだけ、です」
「何を」
「その……明日、私の隣に立つ人のお顔を、目に焼き付けておこうかと……」
「…………」
クロード様が、少しだけ沈黙する。
えっ。
何だろう。
また何か、恥ずかしいことを言ってしまっただろうか。
不安になって視線をそらしかけた、その瞬間。
ぐいっ、と強い力で腕を引かれた。
「ひゃっ」
気づけば、私はクロード様のたくましい腕の中へ、すっぽりと収まっていた。
いつものように。
でも、今日はいつもより少しだけ、いやかなり強く、逃がさないように抱き寄せられている気がする。
「クロード様……?」
「お前が、そういう可愛いことを言うからだ」
「え、ええと……?」
「余計に、今夜はお前を離したくなくなる」
「…………」
だめだ。
本当にだめだ。
この人、明日が本番だというのに、前夜から独占欲と愛情の密度が高すぎる。
「……もう絶対に、お前を離さない」
耳元で、甘く、そう囁かれた。
低くて、雄の熱を含んだ声。
言葉そのものは重いのに、なぜだか怖くはなくて、むしろ胸の奥がじんと熱く溶けていく。
私は思わず、クロード様の服の胸元をきゅっと掴んだ。
「……はい」
「俺の愛が重くて、嫌か」
「嫌なわけないじゃないですか」
「そうか」
「……でも、重いです。物理的にも精神的にも」
「知っている」
「知っていて、全力でやるんですね……」
「お前相手だと、理性や加減というものが難しくてな。崩壊している」
「そこは難しくならないでください! 理性を保って!」
抗議したつもりだったのに、私の声は半分くらい幸せそうに笑っていた。
すると、そのままクロード様の手が、ゆっくりと私の銀色の髪を撫でる。
いつもより静かで、ひどく丁寧な手つき。
まるで、壊れ物か、この世で一番大切な宝物を、ひとつひとつ確かめるみたいだった。
そして次の瞬間。
「……っ」
耳元の、ほんの少し下。
私の無防備な首筋のあたりへ、やわらかな唇の熱が落ちる。
息が止まった。
「ク、クロード様……!」
「何だ」
「い、今……」
「噛んだ」
「言わなくて結構です!!」
甘かった。
びっくりするくらい、甘くて、でも確かに、所有権を示すように軽く甘噛みされた。
痛いわけではない。
でも、心臓には致死量レベルですごく悪い。
「どうして急に、そんなことを……!」
「俺の印だ」
「何の印ですか!?」
「明日、誰が見ても『俺の花嫁だ』と分かるようにな」
「もう指輪もありますし、十分世界中に周知されているではありませんか!」
「俺がしたかった」
「お願いですから、理性を仕事させてください!」
だが、クロード様は少しも悪びれなかった。
むしろ、私の真っ赤になった反応を見て、どこかサディスティックに満足げですらある。
悔しい。
とても悔しい。
でも、嫌ではない。
困ったことに、この人に印をつけられるのが、まったく嫌ではないのだ。
私は真っ赤になったまま、クロード様の胸元へ顔をぎゅっと埋めた。
「……ずるいです」
「またそれか」
「本当に、クロード様はずるいので……」
「そうか」
「はい……」
「なら、明日の夜は、もっとずるくなるぞ」
「予告しないでください心臓が爆発します!」
でも、そのとんでもない予告すら嬉しいのだから、私の限界オタクとしての心はもうだいぶ終わっている(手遅れだ)。
◇ ◇ ◇
結局その後、私たちはそのまま、しっかりと抱き合った状態で寝台へ潜り込むことになった。
いつものように、私はクロード様の腕の中。
でも今夜は、ただ“精神を落ち着かせるため”だけではない、確かな熱があった。
明日には、もう婚約者ではなくなる。
正式に、夫婦になる。
その境目の夜だと思うと、不思議なくらい心は静かで、でも胸が幸せでいっぱいになる。
「……ルシエラ」
「はい」
「眠れそうか」
「少しだけ」
「ならいい」
「クロード様は、眠れそうですか?」
「俺はお前が腕の中にいるから、平気だ」
「…………」
「そういう、可愛い顔をするな」
「どんな顔でしょうか」
「嬉しそうで、でも照れて困っている顔だ」
「だいぶ正確な観察眼です……」
私は小さく笑った。
本当に、その通りだった。
嬉しい。
でも、困る。
嬉しすぎて、幸せすぎて困る。
そんな感じだ。
「……クロード様」
「何だ」
「明日、私、みんなの前でちゃんと笑えるでしょうか」
「笑える」
「断言ですね」
「ああ」
「どうしてです?」
「俺がお前の隣にいる」
「…………」
「それで十分だろう」
「……はい」
そうだ。
十分だ。
私は前世からずっと、“一人で耐えて頑張る”ことばかり覚えてきた。
でも、明日は違う。
もう、一人で無理して立たなくていい。
私の隣に、この最強の人がいる。
それだけで、本当に、もう十分なのだ。
私はそっと目を閉じる。
クロード様の力強い心音が近い。
私を包み込む腕は温かい。
たまに私の髪に触れる指先がやさしい。
そして首筋には、さっきの甘い所有の印が、まだ確かな熱を残している気がした。
「……おやすみなさい、クロード様」
「ああ。おやすみ、俺のルシエラ」
「明日」
「何だ」
「……よろしくお願いします」
「当然だ。俺のすべてをお前に捧ぐ」
「やっぱり最後はそれなんですね」
「そういうものだ。諦めろ」
そのブレない返事に、私はふっと笑った。
挙式前夜。
婚約者としての最後の添い寝。
本番直前。
甘く噛みつかれて、心臓は大変なことになったけれど。
それでも、こんなふうに一番好きな人の腕の中で眠りにつけるなら、たぶん明日の私は大丈夫なのだろう。
明日、世界中が知る。
私が、この人の妻になることを。
そしてたぶん、その先の長い人生もずっと――。
私はこの重たくて、狂気的で、やさしくて、どうしようもなく甘い愛へ、少しずつ骨の髄まで溶かされていくのだ。
それは、きっと、前世の私が夢見た以上の、とても、とても幸せなことだった。




