第27話 国王陛下からのスカウトを秒で断る推し
それは、私がクロード様の私邸の執務室で、彼の頑丈な膝の上にすっぽりと収まりながら、たいへん平和に焼き菓子を食べていた午後のことだった。
「失礼いたします」
執事さんがいつものように足音もなく現れ、深く一礼し、銀盆の上へ一通の封書を恭しく載せた。
分厚い羊皮紙。そして、その封蝋には、豪奢な金色の王家の紋章が刻まれていた。
つまり、王城からの直接の親書である。
私はその封蝋を見た瞬間、ほんの少しだけ、胃のあたりに嫌な予感がした。
というのも、王家からの呼び出しというのは、だいたいにおいて規模と内容のスケールがおかしい。
前回だって「少しお話を」くらいの気配で王宮へ呼ばれて、蓋を開けてみれば『婚約正式発表と真聖女認定の同日開催』という、歴史の教科書に載るレベルの特大イベントだったのだ。
あの人たちの“少し”や“内密に”は、平民の感覚で信用してはいけない。
「……何でしょうか」
「読む」
私が手を伸ばすより先に、クロード様がペーパーナイフで躊躇なく封を切る。
いつものことである。
最近では、王家だろうが神殿だろうが、外部からの文書はまずクロード様が『ルシエラの精神衛生に害を及ぼす危険度』を検閲・判定し、安全だと認めたものだけが私へ回ってくるのが半ばルーチンになっていた。
私はというと、膝の上からそっと、その彫刻のような美しい横顔を見上げる。
今日のクロード様は、珍しく完全オフの装いだった。
首元が少しだけ開いた、くつろいだ黒の室内着。それでも隠しきれない圧倒的な長身と、筋肉の厚みと、お顔の良さ。
ついでに、私を膝に乗せたまま、片手で私を抱き込み、もう片手で王の親書を読むという器用な余裕まで完備している。
強い。色々な意味で強すぎる。
「…………」
クロード様の氷結の瞳が、文面を追うごとに、すうっ、と絶対零度へ冷えていく。
あっ。
だめなやつだ。
これはだいぶ、ろくでもない案件の気配がするやつである。
「クロード様?」
「王城へ来いだそうだ」
「はい」
「至急」
「はい」
「“国家の将来に関わる、極めて重要な打診について”」
「…………」
「嫌な予感しかしないですね!?」
「珍しく俺とお前の意見が完全に一致したな」
私は思わず、クロード様の服の胸元へぎゅっとしがみついた。
国家の将来。極めて重要な打診。
そのワードが出た時点でもう、平穏無事な話ではない。
少なくとも、私がのんびりとお茶を飲みながら「そうなんですねぇ、頑張ってください」と無責任に受け流せる類ではなさそうだ。
「行く必要、ありますか……? 仮病とかで……」
「ある」
「あるんですね……」
「王命だ。無視すれば後が面倒になる」
「うぅ……」
分かっていた。分かっていたけれど、ひどく気が重い。
また何か、重たい役割を押しつけられるのではないか。前世のブラック企業で、突然『新規プロジェクトのリーダー(手当なし)』に任命された時のような、逃げ場のない息苦しさが蘇る。
でも、その瞬間。
私の腰に回っていたクロード様の太い腕が、少しだけ強く、安心させるように私を抱きしめた。
「不安か。安心しろ」
「……はい」
「嫌な話なら、俺が断る」
「秒で?」
「お前が瞬きをするより早い秒でだ」
私は、その真顔の返答に、ちょっとだけ吹き出して笑ってしまった。
そうだ。
私には、王国最強で、最高に過保護な婚約者様がいる。
国家規模の無茶振りだろうと、王家の絶対的な重圧だろうと、たぶんこの人は私のために真顔で全部叩き斬って(物理的に)返す。
それはそれで国際問題になりそうで別の意味で不安だが、私一人で震えて向かうよりは、遥かに心強かった。
◇ ◇ ◇
王城へ着いた私たちは、すぐにいつもの広大な謁見用の大広間ではなく、奥まった場所にある、王族専用の私的な応接室へ通された。
この時点で、私の限界社畜アラートが激しく鳴り響き、嫌な予感が増す。
だって、改まった公的な場ではなく、“内々に、身内だけで話したいことがあります”という密室の空気なのだ。
そういう話は大体、同調圧力が強くて断りにくい。
前世のブラック企業でもそうだった。開かれた会議室ではなく、防音の『社長の個室』に呼ばれる時ほど、逃げられない無茶振り案件なのだ。
「……大丈夫か。顔が強張っているぞ」
隣を歩くクロード様が、私の様子に気づいて低く問いかけてくる。
「ちょっとだけ、前世の“社長室に呼ばれるやつ”のトラウマを思い出しています」
「それは何だ」
「『お前にしかできない』という言葉で洗脳され、理不尽な名誉職(残業代ゼロ)を打診される匂いがする、という意味です」
「なら、やはり扉を開ける前に断って帰るか」
「結論と行動が早すぎます! さすがに不敬です!」
でも、その強引なまでの早さが、今はとてもありがたい。
応接室の重厚な扉が開く。
中には、国王陛下と王妃殿下、それから大神官、宮廷魔術師長、数名の最側近たちがすでに揃って待ち構えていた。
人数が多い。しかもトップ層ばかり。
やっぱり、ただごとではない。
私はひっそりと冷や汗をかきながら、教わった通りの完璧なカーテシー(礼)を取る。
「お呼びにより、参上いたしました」
「よく来てくれた、ルシエラ嬢、ヴァレンティス卿。急な呼び出しをすまなかったな」
国王陛下は相変わらず威厳がある。
けれど、今日はどこか困ったような、探るような、ひどく言いづらそうな顔も混じっていた。
あっ。
それ、やっぱり面倒な案件を押しつける側の顔です。私、前世で何度も見ました。
「早速だが、本題に入ってもよいだろうか」
「どうぞ」
クロード様が、私の前に立つように庇いながら先に答える。
たぶん、私が王家の遠回しな前置き(プレッシャー)に耐えられないと分かっているのだろう。
さすが推し。仕事ができる。
国王陛下は一度小さく息を吐き、それから、真っ直ぐに私を見た。
「ルシエラ嬢」
「は、はい」
「そなたを、我が国の“国母”として迎えたい」
「…………」
私は、しばらくその言葉の概念が理解できなかった。
こくぼ。
国母。
ええと。国の、お母さん?
いや、比喩? 称号? 具体的にどういう職務内容でしょうか。
王太子殿下の妃に、という意味ではないはずだ(私にはすでに最強の婚約者がいる)。
ならば、真聖女として、国家の象徴的な“母”のような立場になってくれと、そういうことだろうか。
脳内で必死に漢字を分解し、業務内容を推測している間に、隣から、絶対零度のとんでもなく低い声が落ちた。
「――断る」
秒だった。
本当に、瞬きをするよりも早い秒だった。
「ヴァレンティス卿、頼むから最後まで聞いてくれぬか!」
「聞く必要がありません」
「まだ何も説明しておらぬだろう!」
「今の一文で、ルシエラに負担がかかることは十分に推測できました。よって却下です」
「早すぎる!」
国王陛下が、威厳を忘れて悲鳴みたいな声を上げる。
一方の私はというと、ようやく思考が追いつき始め、別方向の恐怖で完全に固まりかけていた。
国母。
それはそれで重い。とても重い響きだ。
「え、ええと……陛下、恐れながら確認なのですが」
「何だ、ルシエラ嬢」
「その“国母”というのは、具体的に、日々何をするお立場なのでしょうか」
国王陛下は少しだけ視線を泳がせ、言い淀み、それから言葉を慎重に選ぶように続けた。
「建国祭の奇跡により、民はお前を信仰している。ゆえに、民の精神的支柱として、王家に並ぶ『象徴』になってもらいたいのだ」
「……はい」
「神殿とも深く連携し、各地の慈善事業、孤児院の教育支援、被災地や騎士団への慰問、大規模な祭祀の主導、さらには他国との外交上の親善などにも、その御名と御力を貸して――」
「断る」
二回目だった。
しかも今度は、説明の途中で、食い気味に被せてきた。
「ヴァレンティス卿!!」
「俺の妻(予定)を、過労死するまで働かせる気ですか」
「婚約者だろう!? まだ籍は入れておらん!」
「将来的な決定事項です」
「論点が違う!」
私は思わず目をぱちぱちさせた。
今、国王陛下が説明していた内容を、私なりに脳内で整理してみる。
民の精神的支柱。
王家に並ぶ象徴。
神殿との連携。
慈善事業。
教育支援。
慰問。
祭祀。
外交親善。
(……これ、前世のブラック用語で言うと、『超大型公共事業の責任者 兼 終身名誉管理職 兼 無限責任つき広報アンバサダー(労働基準法適用外)』では……!?)
無理だ。絶対に無理である。
職務範囲が広すぎる。業務内容が多岐にわたりすぎる。
そして何より、責任だけが重くて『休める未来』がまったく見えない。
私は思わず、前世のトラウマでぞわっ、と背筋が寒くなった。
すると隣で、クロード様の放つ殺気がさらに数度下がる。
「見ろ」
「えっ」
「今、ルシエラが一瞬で顔を青ざめさせ、震えた」
「うっ」
「お前たちがくだらん労働を強要しようとするからだ。完全なる却下だ。帰るぞ」
「待て! だからまだ正式な打診に対する協議が――」
「不要です」
「不要ではない!」
国王陛下とクロード様の応酬が、だんだん漫才みたいになってきた。
だが内容は全然笑えない。
いや、少しだけ面白くもあるのだが、それ以上に私の今後の就労環境の危機である。
◇ ◇ ◇
「誤解しないでちょうだい、ヴァレンティス卿」
そこでようやく、扇で口元を隠していた王妃殿下が、穏やかに、けれど芯のある声で口を開かれた。
王妃の一声で、場の空気が少しだけやわらぐ。
「私たちは、ルシエラ嬢を政治の道具として使い潰したいわけではないのです」
「…………」
「ただ、あの建国祭の奇跡以降、民の間で“真聖女様を、国の母として末永く仰ぎたい”という熱狂的な声が、我々でも抑えきれないほど急激に高まっていて……」
「国の母、ですか」
「ええ」
「…………」
「それほど、ルシエラ嬢。あなたは今、この国のすべての人々に深く愛されているのよ」
その言葉に、胸の奥が、きゅっと少しだけ熱くなった。
愛されている。
以前の私なら、そんなの想像もできなかった。
前世でも、今世の実家でも、私は“便利に使える道具”か、“魔力ゼロの役立たず”のどちらかでしか見られてこなかったから。
私という人間そのものを必要とし、愛してくれる大勢の人がいるなんて。
でも――。
「だからといって、ルシエラを働かせる理由にはならん」
「ヴァレンティス卿」
「むしろ、王妃殿下の今の一言で、余計に駄目だと確信しました」
「なぜだ!?」
「人気があり、民が求めるのなら、なおさらです。際限なく群がられ、ルシエラが疲弊する未来しか見えん。だからこそ、外界から完全に遮断して休ませるべきでしょう」
「理屈が独特かつ強引すぎる!」
クロード様の主張は、本日もブレることなく絶好調である。
私は、緊張していたはずなのに、ちょっとだけ安心してしまった。
ああ、いつものクロード様だ、と。
相手が国王だろうが、国家規模の崇高な打診だろうが、彼の最優先事項が『私の睡眠と食事と平穏な生活を守ること』であることに、一切の揺らぎがない。
すごい。さすが私の推し。
推しの愛は、国家権力よりも重い。
「……ルシエラ嬢自身は、どう思う?」
国王陛下が、クロード様を諦め、今度はまっすぐ私へ問いかけてくる。
私は一瞬、息を止めた。
そうだ。最終的には、私が自分の意思で答えなければならない。
王妃殿下も、大神官も、側近たちも、静かに私を見ている。
そして隣では、クロード様が“少しでも嫌なら、俺がこの城を破壊してでも連れ帰る”という狂気的な気配を全身から漂わせていた。
ありがたい。
でも、だからこそ、彼に頼り切るのではなく、ちゃんと自分の言葉で答えたかった。
私はゆっくりと息を吸った。
「……とても、身に余る光栄なお話だと思います」
「うむ」
「でも」
「…………」
「私は、神様みたいな『国の象徴』に、なりたいわけではないんです」
部屋が、しんと静かになる。
私は言葉を探しながら、まっすぐに続けた。
「困っている人が目の前にいたら、助けたいです」
「…………」
「王都を守るために必要な力なら、何度でも使いたいです」
「…………」
「でも、いつでも皆の前に立って、完璧な偶像として振る舞い、ずっと誰かの大きな期待を背負い続けて、仕事(役割)として“国の母”になるのは……たぶん、私の望む生き方とは違います」
「…………」
「私、今までずっと誰かのために生きてきて……最近になってようやく、自分だけの人生を生きて、普通に幸せになっていいんだって、思えるようになったばかりなので」
最後の方は少しだけ、自分の本音すぎて声が小さくなった。
だが、それが一番の真実だった。
私はずっと、何かのために強制的に働かされてきた。
家族の体面のために。妹の偽りの栄光のために。前世では、会社の利益のために。
だから今は、自分のささやかな幸せを、もう絶対に後回しにしないでいたい。
クロード様と一緒に、おいしいものを食べて、笑って、ちゃんと「好きだ」と思える穏やかな時間を重ねたい。
それを、“国のために尽くせ”という美しく巨大な大義名分で、また曖昧な自己犠牲に飲み込まれたくはなかった。
しばし沈黙。
やがて、王妃殿下がふっと、慈しむように優しく微笑まれた。
「……やはり、私が見込んだ通り、本当に欲のない、いい子ね」
「えっ」
「王の前でそこまで真っ直ぐに自分の幸せを望むと言えるなら、我々が無理に重荷を押しつけるべきではないわ」
「王妃……」
「陛下。あなたも本当は、分かっていたのでしょう?」
「う、うむ……」
国王陛下が、王妃殿下にたしなめられ、ちょっと気まずそうにコホンと咳払いをする。
「ただ、圧倒的な民意として、王として一度は打診せねばと思ってな。すまぬ、ルシエラ嬢。重圧をかけたな」
「あ……」
王様に、素直に謝られてしまった。
私は慌てて首を振る。
「い、いえ! そういうふうに私を必要としてくださるお気持ちだけで、十分ありがたいです!」
「本当にそうか?」
「はい」
「ならいいが……」
すると、そこでクロード様が、完全に形勢が逆転したと見て、静かに、そして極めて事務的に口を開いた。
「陛下」
「何だ」
「今後、ルシエラへ何らかの役職や協力を打診する際は、まず『労働時間』と『拘束日数』と『完全な休暇規定』を文書で明示してください」
「お前は、一体どの立場の労働組合の交渉人だ!?」
「ルシエラの心身を守る、唯一の婚約者です」
「その答えが一番強くて反論できんな……」
私は思わず、吹き出しそうになった。
でも、その提案、限界社畜だった私にとっては妙に実務的で最高に好きかもしれない。
曖昧な“象徴になってほしい(やりがいで働け)”より、具体的な業務範囲と労働条件を先に出せというのは、雇用契約として極めて正しい。
「それと」
「まだあるのか」
「最終決定は、いかなる場合もルシエラの意思を最優先に。少しでも嫌がれば、王命であろうと白紙です」
「分かっておる」
「本当に?」
「分かっておる!!」
「ならいいでしょう」
クロード様が、ようやく剣を収めるように引き下がった。
王様、理不尽な婚約者の相手、本当にお疲れ様です。
でもたぶん、この人にここまで言わせておいた方が、私は後々の人生が圧倒的に安心なのです。すみません。
◇ ◇ ◇
話し合い自体は、最終的にかなり穏当な、私に優しい形で落ち着いた。
“国母”という重すぎる称号の正式付与は、見送り。
代わりに、私が「望む時にだけ」、王家や神殿の行事へ無理のない範囲で協力する、という極めて緩やかな形の名誉顧問的立場を整える。
しかも、強制参加なし。休息最優先。体調不良時は即日辞退可。
……うん。
クロード様のガチの条件交渉(威嚇)が、だいぶ効いている気がする。ホワイト待遇だ。
「では、そのように」
大神官が安堵したように記録をまとめる。国王陛下も頷く。
王妃殿下は、どこか楽しそうに、微笑ましくこちらを見ていた。
「ヴァレンティス卿」
「何でしょう」
「本当に、ルシエラ嬢のこととなると、王権が相手でも一歩も引かぬな」
「当然です」
「そればかりだな」
「彼女を守ることは、息をするのと同じくらい、俺にとって当然のことばかりなので」
「強い……」
王妃殿下が、扇で口元を隠してくすくす笑われる。
私は熱くなった頬を誤魔化すように俯いた。
やめてください。そうやって外堀の権力者たちから「溺愛されている」と認識されると、とても恥ずかしい。
すると王妃殿下が、優しく、母のように私へ言われた。
「ルシエラ嬢」
「は、はい」
「あなたがただ笑顔で、健康に、幸せでいることは……それだけで、この国の人々にとって十分価値のある、希望の光なのよ」
「…………」
「だから、もう絶対に、誰かのために無理はしなくていいの」
その言葉に、胸の奥がじんとした。
ああ。
この人たちは、本気で私を便利な道具として働かせようとしていたわけではないのだ。
少なくとも王妃殿下は、ちゃんと私自身を見て、私の幸せを願ってくれている。
「……ありがとうございます」
「ええ」
私は心からの感謝を込めて、小さく頭を下げた。
その隣で、クロード様が『俺の言った通りだろう』とでも言いたげに、満足そうに気配を落ち着ける。
ああ、今日は本当に、彼が秒で断って、ちゃんと私を守る形での着地まで持っていってくれたのだなと分かる。
推し、強い。
そして、愛が深くて、頼もしすぎる。
◇ ◇ ◇
王城を出た帰りの豪華な馬車の中で、私はようやく、肩の力を抜いて大きく息を吐いた。
「……終わりましたねぇ」
「ああ」
「国母、名前の圧が重すぎてこわかったです」
「そんなふざけたものになる必要はない」
「はい……」
「お前は、ただ俺の婚約者として愛されていれば、それで十分だ」
「ひゃうっ」
いきなり、そういう致死量の甘い爆弾を投げますか。
私は思わず両手で顔を覆った。
だめだ。今日も供給が強すぎる。
国の未来規模の緊張のあとで、その真っ直ぐな“十分だ”は心臓に悪い。
「クロード様」
「何だ」
「さっきの秒での『断る』、本当にありがとうございました」
「当然だ」
「はいはい、そうですね」
「俺の対応に不満か」
「いえ、むしろ感謝と尊敬しかありません」
「ならいい」
クロード様はそう言って、当然の権利のように私の腰をぐいっと引き寄せる。
馬車の揺れにかこつけた、自然な密着。でも絶対、半分以上はわざとである。
「……でも」
「何だ」
「少しだけ、嬉しかったんです」
「何がだ」
「国の偉い人たちや、民の人たちが、私を大事に思って、必要としてくださっているのは」
言ってから、自分の柄にもない言葉に少し照れくさくなって視線を落とす。
だって、本当にそうなのだ。
“国母”は責任が重すぎて無理だった。なりたくもない。
でも、その発想が出るくらい、私を大きな存在として必要だと思ってくれた人がいたのだと知れたのは、今まで誰からも必要とされなかった私にとって、少しだけ、いやかなり嬉しいことだった。
すると、クロード様が静かに、髪を撫でながら答えた。
「当然だ」
「またそれですか」
「周囲が、お前の圧倒的な価値に気づくのが遅すぎただけだ」
「…………」
「だが、ようやくお前自身が、自分の価値を肯定できたなら、それでいい」
「……はい」
私は小さく笑った。
そして思う。
ああ、私はもう“誰かに使われる便利な役目”のために生きるのではないのだ、と。
必要とされることは嬉しい。
でも、それに自己犠牲で飲まれなくていい。
ちゃんと、自分の意思で、自分の人生を選んでいい。
それを、クロード様が真っ先に肯定し、絶対的な力で守ってくれる。
「……クロード様」
「何だ」
「今日、改めて思ったのですが」
「言え」
「やっぱり、クロード様が私の婚約者で、本当によかったです」
「…………」
「もし私一人だったら、断り切れずに、きっと“みんなに期待されているなら、私が我慢して頑張らなきゃ”って、また無理して引き受けていたので」
そこまで言ったところで、クロード様がこちらを見た。
そして、ごく静かに、でもひどく真剣で、狂気すら孕んだ声で言う。
「お前に、二度とそのような真似をさせないために、俺がいる」
「…………」
「忘れるな」
「……はい」
「お前がまた一人で理不尽を抱え込みそうになったら、俺が全力で止める」
「はい」
「お前が自分を犠牲にして無理をしそうになったら、俺が物理的に引きはがして部屋に閉じ込める」
「はい」
「相手が国だろうが神殿だろうが、神そのものであろうが同じだ」
「……平和な名誉顧問という形で維持されてよかったです」
「何の話だ」
「クロード様が本気でブチギレて反逆する前に、話がまとまって……」
「まとまらなければ、この国を滅ぼしてお前を連れて逃げていた」
「やっぱり発想が物騒!!」
思わず叫んでしまった。
だが、クロード様は彫刻のような真顔である。
真顔のまま、まったく冗談に聞こえないから怖い。
でも、たぶん半分くらいは本気で、半分くらいは私を絶対に守るという決意を伝えるために、あえて極端に言っているのだろう。
困る。
でも、すごく、すごく好きです。
私はそっと、クロード様の広い肩に自分の頭を預けた。
国母スカウトは、秒で断られた。
でも、そのおかげで、私はまたひとつ、自分の人生について確信した。
私はもう、誰かに“使われるための存在”ではない。
私の人生は、私が選んでいい。
そして、その選択を、国を滅ぼしてでも全力で守ってくれる人が、すぐ隣にいる。
それだけで、私の心は十分すぎるほど満たされ、幸せだった。
そしてもちろん。
この「国母スカウト秒断り事件」は、のちに王城内外で
「ヴァレンティス卿、真顔で国を脅迫したらしい」
「いや、脅したのではなく、ただ婚約者を溺愛して守っただけだ」
「どちらにせよ、あの死神の愛が重すぎる」
と大変な話題(伝説)になるのだけれど――今の私にとっては、そんなことより、この後屋敷に帰ってからクロード様がどんな“お断りお疲れ様甘やかし(強制添い寝)”を追加してくるのかの方が、国家の未来よりも重大な懸念事項だったのである。




