第20話 建国祭の危機。魔物の大群が王都を包囲!
建国祭当日、王都は朝から浮き立つようなお祭り騒ぎだった。
石畳の続く大通りには色鮮やかな国旗がはためき、立ち並ぶ屋台からは甘い焼き菓子と香ばしい肉の匂いが漂ってくる。
子どもたちは花飾りを頭に乗せて笑い合いながら走り回り、広場のあちこちで吟遊詩人や楽師たちが陽気な音楽を奏でていた。
王都全体が、いつもより少しだけ明るく、幸福な熱に包まれている。
そしてもちろん、そんな平和の象徴たる建国祭においても、私の婚約者様は通常運転で『激重』だった。
「人が多いな」
「はい。お祭りですからね」
「絶対に俺の手を離すな」
「はい」
「少しでも疲れたらすぐ言え」
「はい」
「自分の限界が来る前に、無理だと思う前に言え」
「はい」
「いかなる時も、俺の視界の外に出るな」
「最後だけ難易度が物理的に高いです」
私は、大きな手にすっぽりと包み込まれた自分の手をそっと握り返しながら、小さく笑った。
今日の私は、夜会の時ほどではないけれど、王家の仕立て屋が総力を結集した最高級の外出着に身を包んでいる。
淡い金糸が織り込まれた薄青のドレスに、歩きやすいが極上の意匠が施された靴。銀色の髪もふわりと美しくまとめられ、左手の薬指には、当然のように『ドラゴン産の婚約指輪』が輝くように装備済みだ。
一方のクロード様は、筆頭騎士として式典の警備統括も兼ねているため、いつもの漆黒の騎士服だった。
黒を基調とした隙のない制服に、輝く王国騎士の紋章。
見慣れたはずなのに、祭りの華やかな空気の中で見ると、いつも以上に研ぎ澄まされた刃のように頼もしくて、格好良くて、圧倒的な存在感を放っている。
(ああ……今日のクロード様も、国宝級に尊いですね……)
私は心の中でそっと五体投地しながら、彼の隣を歩く。
この建国祭、もともとは王都全体へ張られている国教の『大結界』が、建国の祖と初代聖女の加護によって盤石に維持されていることを祝う、極めて重要な意味合いが強いらしい。
つまり、王都の絶対的な平和と繁栄を祈る、一年で最も神聖なお祭りだ。
そして今年は、つい先日『真聖女』として国に認められた私も、祭りのメインイベントである祈りの儀式へ顔を出すことになっていた。
……なっていたのだけれど。
「ああっ! ルシエラ様だわ!」
「きゃあ、本当にいらっしゃる! 噂の真聖女様!」
「なんてお美しいの……神々しいわ……!」
「ヴァレンティス卿もご一緒よ! まるで絵画のよう!」
すでに、大通りの群衆たちにだいぶ見つかっている。
やっぱり無理ではないだろうか、お忍びで視線を避けるという概念。
「クロード様」
「何だ」
「本日も、王都民からの視線が多すぎます。突き刺さってきます」
「問題ない」
「本当ですか? クロード様、若干機嫌が悪そうですが」
「遠くからただ見ているだけなら、生かしておいてやる」
「一般市民に対する生存の基準が怖いです!」
けれど、実家にいた頃みたいに、向けられる視線が全部「怖い」わけではなかった。
もちろん、大勢に見られるのは緊張する。
するのだけれど、今はもう、誰かに見られるたびに「私なんかがここにいていいのかな」と息を潜め、縮こまることは減っていた。
それはたぶん、クロード様が隣で、当たり前みたいに私の手を強く繋ぎ、守ってくれているからだ。
そうして、王宮の目の前にある中央大広場へ着いた時だった。
正面の巨大な白亜の階段の上、神殿の高位関係者たちが居並ぶ一角に、ひどく見覚えのある顔を見つけてしまった。
「……あ」
妹の、セレフィナだ。
以前の豪奢なドレスとは打って変わって、装飾の一切ない粗末で地味な修道服姿で、下級神官たちのさらに後方にひっそりと立っている。
顔色は死人のように悪く、表情にはかつての傲慢な余裕など欠片もない。
夜会で偽聖女だと完全に暴かれて以降、表向きは神殿の地下で『異端審問と監視下』に置かれていると聞いていたけれど、まさかこんな公の場に引きずり出されてくるとは思わなかった。
たぶん、“元聖女候補”としての落とし前をつけるため、あるいは神殿側の「偽物を排除しました」という政治的アピールのために立たされているのだろう。
けれど、その目はひどく泳いで落ち着きがなく、国の平和を祝うどころの顔ではなかった。
私の視線に気づいたのか、セレフィナがびくっと肩を震わせてこちらを見た。
その瞬間、彼女の顔がさっと醜く強張る。
圧倒的な格差への悔しさと、焦燥と、あと少しだけ、私――いや、私の隣にいるクロード様への怯え。
そんなドロドロとした感情が混ざった、みじめな目だった。
私は何も言わなかった。
言えなかった、ではない。もう今の私には、彼女に対してかける言葉も、哀れむ理由すらも、何一つ存在しなかったのだ。
すると隣で、クロード様が静かに、ひどく冷たい声で口を開く。
「……気にするな。視界に入れる価値もないゴミだ」
「……はい」
「あれはもう、一生お前を脅かすことはできない。俺が許さん」
「……そうですね」
こくりと頷くと、握られた手に少しだけ『俺だけを見ろ』と言わんばかりに強い力がこもった。
それだけで、胸の奥が甘く満たされて、十分だった。
◇ ◇ ◇
儀式そのものは、最初のうちは極めて厳かに進んでいた。
大神官による荘厳な祝詞。
国王陛下による建国の挨拶。
騎士団による王都警備の完了報告。
そして、王都を完璧に覆う大結界へ、深い感謝を捧げる祈り。
私もクロード様と共に、壇上の一番見晴らしの良い特等席へ通され、神殿の神官たちと一緒に祈りの言葉を聞いていた。
王都の人々は広場を隙間なく埋め尽くし、皆どこか誇らしそうな、今日の平和を信じて疑わない穏やかな顔をしている。
いいお祭りだなぁ、と純粋に思った。
前世でも地域のお祭りは嫌いではなかったけれど、こうして国全体の平和を願って、人々が笑顔で同じ場所へ集まる光景には、すり減った心が少しだけ温かくなるものがあった。
「ルシエラ」
「はい?」
「顔色は悪くないか。疲れていないか」
「大丈夫です。むしろ、ちょっとお祭りの空気にわくわくしています」
「そうか」
「はい。王都の皆さんが、とても嬉しそうなので」
私がそう言うと、クロード様は私をじっと見つめ、それからごく僅かに、甘く目を細めた。
「お前も十分、嬉しそうだが」
「えっ」
「分かりやすく顔に出ている」
「そ、そうですか?」
「ああ。可愛い」
直球すぎる。少し恥ずかしい。
でも、そう言われて自分の頬に熱が集まるのを感じ、照れ隠しに俯こうとした、その時だった。
ピシッ。
何かが、ひどく不吉にひび割れるような音がした。
私は思わず顔を上げる。
最初は気のせいかと思った。
けれど、広場にいた人々も「え?」とざわめきながら、一斉に空を見上げ始める。
壇上の神官たちの表情が、さっと凍りつく。
周囲を警戒していた騎士たちの空気が、一瞬で平和な祭りのそれから、血生臭い『戦闘』のそれへと切り替わった。
ピシ、ピシピシッ。
今度は、はっきりと聞こえた。
王都の遥か上空。
普段は透明で目に見えないはずの大結界が、薄い硝子ドームみたいに白く濁って浮かび上がり、その表面へ、蜘蛛の巣のような無数の亀裂が走っていた。
「……え?」
「何、あれ……空が……」
「結界が、割れてる……?」
人々の不安な声が揺れる。
大神官が真っ青な顔で立ち上がった。
「ば、馬鹿な……! 大結界が崩れるなど!」
「結界維持班、魔力供給の確認を急げ!」
「だ、駄目です! 魔力反応が急落しています!」
「王都外縁部より、膨大な瘴気の流入を確認!」
「そんな、今日この建国祭の日に……!?」
ざわめきが、一気に絶望的な恐慌へ変わる。
私は息を呑んだ。
結界が、割れている。
王都の何十万という民を守るはずの、国教の絶対的な大結界が。
次の瞬間。
バキンッ!! と。
空そのものが砕け散るような、耳をつんざく破砕音とともに、上空の結界が完全に崩壊し、光の粉となって消え去った。
「きゃあああっ!」
「結界が消えた!?」
「逃げろ!! 魔物だ!!」
広場が、鼓膜を破るような悲鳴で満ちる。
結界の裂け目の向こう、王都の外縁を囲む青空が、どす黒い雲に覆われていく。
最初は鳥の群れかと思った。
でも違う。
巨大な羽を持つ魔物、瘴気を纏って涎を垂らす獣、空を這う異形、地鳴りを響かせて走る魔獣の群れ――。
魔物の、大群だ。
「建国祭の日に、どうしてこんな大群が……!」
「外縁部から次々と侵入しています!」
「北門、東門、西壁、同時多発的です! 防衛線を突破されました!」
「数が多すぎる! 迎撃が間に合いません!」
騎士たちの絶望的な叫びが飛ぶ。
その中で、クロード様の気配が、すうっ、と完全に変わった。
先ほどまでの、私を甘やかす婚約者としてのやわらかな熱ではない。
一切の感情を排した、王国最強の筆頭騎士として戦場へ立つ者の、絶対零度の冷たい集中。
「副官」
「はっ!」
「第一騎士団は直ちに北と東の防衛線を抑える。第二、第三騎士団へ連携を飛ばせ。民の避難経路を最優先で確保しろ」
「承知!」
「神殿は内周結界の再展開を急げ。遅れれば王都中心部まで完全に魔物に飲まれるぞ」
「し、しかし、聖女の加護の蓄積が完全に――」
「今はあるものを使え。ないものを喚いて嘆くな。動け」
氷のような冷徹な命令が、矢継ぎ早に飛ぶ。
誰も反論しない。できない。
その低く鋭い声だけで、パニックに陥っていた場にいた人たちの動きが、一気に戦場のそれへと定まっていく。
私はその横顔を見上げながら、胸がぎゅっと、引きちぎられるように締めつけられるのを感じていた。
推しが、私の大好きな人が、戦場の顔(死神)をしている。
格好良い。
でも、怖い。
いや、怖いのは彼ではない。彼がこれから飛び込んでいく、血生臭い場所だ。
「クロード様……」
私が縋るように小さく呼ぶと、彼は一瞬だけ、こちらを向いた。
その目には、もう迷いがなかった。
「ルシエラ」
「……はい」
「ここから一歩も動くな」
低く、短い、絶対の命令。
「神殿の最も安全な内側へ下がれ」
「でも……」
「だめだ」
「…………」
「今のお前は、ここで俺に守られる側だ」
「…………」
言い返せない。
言い返したいのに、言い返せない。
だって分かるからだ。私には剣も振れない。
今、私が無策で飛び込めば足手まといになるかもしれない。
まだ何が起こっているのか、敵の全体規模も見えていない。
それにクロード様は、何があっても私を危険へ晒すつもりなど一切ないのだ。
でも――。
その時。
壇上の反対側から、ひときわ大きく、見苦しい悲鳴が上がった。
「いやああああっ!! 死にたくない!!」
セレフィナだった。
さっきまで神官たちの後ろでうなだれていたはずの彼女が、顔面蒼白のまま、我先にと他の神官たちを押しのけ、神殿の奥の安全地帯へ向かって全力で逃げ出している。
長い裾を踏んで転びかけても、助けを求める人々に振り返りもしない。
以前なら、ここぞとばかりに「私が皆をお守りします!」と聖女らしい演出をして、裏で私から魔力を搾り取っていたはずなのに。
「せ、セレフィナ様!?」
「お待ちください! 逃げるなど!」
「待て! そちらは封鎖区域だ――」
だが、セレフィナの耳には何も届いていない。
ただただ、醜い恐怖だけで逃げ惑っていた。
その無様な姿を見て、周囲の神官や貴族たちの顔が、さらに失望と軽蔑に強張る。
ああ。
これで、完全に終わりだ。
彼女が偽聖女であることはもう暴かれていた。
でも今この瞬間、王都の未曾有の危機を前に、誰かを救うどころか真っ先に逃げ出したその姿が、決定的な証拠(クズの証明)になってしまった。
私はぎゅっと唇を噛む。
責めたいわけではない。
でも、あの子にはもう、誰かのために何かを背負う覚悟なんて、最初から一ミリもなかったのだ。
聖女としての重圧も、責任も、背負って消費されていたのは、ずっと私だったのだから。
「ルシエラ」
クロード様が、再び私の名を呼ぶ。
私ははっとして顔を上げた。
「俺を見ろ」
「……はい」
「俺は、必ずお前の元へ戻る」
「…………」
「だから、絶対に勝手に前へ出るな」
その言葉に、胸が痛いくらい熱くなる。
戻る。そう言ってくれる。
でも、戦場に“絶対”なんて、本当はないことも、前世のデスマーチの経験から分かってしまう。
「……クロード様」
「何だ」
「絶対に、怪我をしないでください」
「努力はする」
「努力では困ります……! かすり傷ひとつも許しません!」
「無茶を言うな」
そう言いながら、クロード様はほんの少しだけ、私にしか見せない甘さで口元を緩めた。
こんな状況なのに。こんな絶望的な状況だからこそかもしれない。
その表情が、どうしようもなく格好良くて、苦しくて、泣きたくなる。
次の瞬間、彼は私の額へ、触れるだけの熱い口づけを落とした。
「……待っていろ、俺の妻」
「――っ」
そのまま、漆黒の外套が鋭く翻る。
クロード様は一瞬で壇上を飛び降り、抜刀して騎士たちの先頭へ立った。
逃げ惑う人々を避難させながら、押し寄せる魔物の群れへ向かって一直線に駆けていくその背中は、あまりにも遠くて、そして圧倒的に眩しかった。
「第一騎士団、前へ! 陣形を組め!」
「応戦準備!」
「北側から飛行種が来るぞ! 叩き落とせ!」
「民を内側へ! 急げ!」
怒号と悲鳴と号令が入り混じる中、私はその場に、置き去りにされたように立ち尽くしていた。
行きたい。
でも行けない。足手まといになる。行ってはいけない。
頭では分かっているのに、胸の奥が焼けるみたいに焦れて、苛立つ。
だって、私の最愛の推しが、今まさに死地へ向かっているのだ。
どれだけ強くても、あんな数の魔物を相手にすれば、無傷では済まない。傷だらけになりながら、それでも彼は王都を、そして私を守ろうとしている。
そして私は、ただ安全な場所で、それを見ているしかないのか。
「ルシエラ様、こちらへ!」
「神殿内へお急ぎください!」
「ここは危険です!」
神官たちに急かされ、私は半歩、後ろへ下がった。
けれど、広場の向こうで魔物の耳障りな咆哮が上がる。
騎士たちの剣が閃き、血飛沫が舞う。
王都の空を覆う瘴気の色が、どんどん濃く、絶望的な色に染まっていく。
その瞬間。
私の胸の奥で、何かが、はっきりと音を立てて『ブチギレた』。
――無理だ。
私はもう、見ているだけではいられない。
限界オタクの魂が、そんなおとなしいヒロインムーブを全力で拒絶している。
左手のドラゴンの指輪を、血が滲むほどぎゅっと握りしめる。
脈打つみたいに、そこから圧倒的な魔力の熱が全身へ広がる。
(……私の推しに)
喉の奥が、熱い。燃えるようだ。
(私の最愛の推しに、かすり傷一つ付けさせるなんて)
そんなの、絶対に、天地がひっくり返っても許容できるはずがない。
神殿の奥へ誘導されながらも、私は前を――魔物の群れとクロード様の背中を睨み据えたまま、小さく、けれど深く息を吸った。
次の瞬間、自分が何をするのか。
まだ戦術の全貌は決めきれていなかった。
でも、ひとつだけはっきりしている。
このまま、安全な場所でただ震えて待っているだけのヒロインなんて――私(限界社畜オタク)には無理だ。
王都の上空では、砕けた結界の残滓がまだ白く散っていた。
そしてその向こうから、次々と絶望の黒い影が迫ってくる。
建国祭は、悪夢みたいな悲鳴と血に飲まれた。
でも、この危機はきっと、まだ始まったばかりだ。
そして私は、その狂乱の中心へ向けて、『広域殲滅(推しのサポート)』を行う覚悟を、今まさに決めようとしていたのだった。




