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第19話 お忍び(?)デート。推しが店を買い占め、街を更地にしかける

 偽聖女騒動と、怒涛の婚約発表から一夜明けた日。


 私は、客間に設えられた最高級のふかふかソファに沈み込みながら、己の人生の急展開について静かに宇宙猫の顔で考えていた。


 具体的には――。


(……疲れました……)


 いやもう、精神のキャパシティ的に、本当に疲れたのだ。


 セレフィナの夜会乱入。

「お姉様の魔力を返してよ!」という自爆発言。

 濁った魔力の暴走と、私の無自覚チートによる広域浄化。

 そして、偽聖女の化けの皮が物理的にべろんと剥がれ落ちた大事件。


 情報量が多すぎる。オタクの感情の処理速度を完全に超えている。

 しかも最後は、王国最強の騎士であるクロード様に大勢の前でお姫様抱っこされて帰宅し、「今日はよく耐えた」と真顔でひたすら甘やかされ、特注の蜂蜜たっぷり焼き菓子と温かいミルクと『膝枕(強制)』まで支給されたので、別の意味でも情緒が完全に限界を迎えた。


 あまりにもホワイト。

 いや、福利厚生が手厚いという次元を突破して、もはや甘やかしの暴力である。


「ルシエラ様、本日のお加減はいかがでしょうか」

「肉体的にはとても元気です……と言いたいところですが、精神と魂が少しだけぽやぽやして大気圏を漂っています」

「……それは、よろしいのでしょうか」

「たぶん、クロード様の規格外の過保護成分を過剰摂取して溶けているだけなので、医学的な問題はありません」

「……左様でございますか」


 侍女さんが、何とも言えない顔でやんわりと微笑む。

 慣れてきた。最近、この屋敷の皆さんは、私の限界オタク特有の妙な言い回しにもだいぶ動じなくなってきた気がする。

 ありがたい。この屋敷の人材、順応力が高すぎる。


 私は差し出された絶品のお茶を受け取りながら、小さく息を吐いた。


 昨日の件で、セレフィナの『魔力窃盗』と偽装問題は完全に公の場へ引きずり出された。

 神殿も王家も本格的に動くだろうし、あの実家ももう以前のようにはいかない――というか、クロード様の宣言通り、確実に破滅の道を辿るだろう。

 そう思うと、前世からずっと背負っていた重い鎖が、ようやく完全に外れた気がして、少し肩の荷が下りる。


 だが、その一方で――。


(……今度は、私自身のステータスが目立ちすぎている気がします……)


 王家と神殿公認の『真聖女』。

 筆頭騎士の『婚約者』。

 夜会で無意識に会場ごと回復魔法をかけちゃった人。

 ついでに、感情が昂ると自然発光する人。


 なんだその、なろう系主人公でも胃もたれしそうな属性の盛り方は。

 前世の私がこの設定資料を見たら、「作者、設定盛りすぎでは? 編集は仕事しろ」と真顔でツッコミを入れるやつである。


 そんなことをぼんやりと考えていた、その時だった。


「――ルシエラ」


 地を這うような、低くてひどく良い声が頭上から降ってくる。


「は、はいっ」


 反射で背筋を伸ばして顔を上げれば、そこにはもちろん、私の最愛の推しにして婚約者にして、過保護の権化であるクロード様が立っていた。


 今日もお顔が良い。国宝級に大変に良い。

 だが、よく見るといつもの隙のない漆黒の騎士服ではなく、もう少しだけ軽装だ。

 いや、軽装と言っても素材は最高級で十分すぎるほど威厳があるのだけれど、普段の『氷の死神』的な戦闘モードの気配が薄い。


「……あれ?」

「何だ」

「今日はお仕事ではないのですか? 午前中からお姿が見えるなんて」

「半休を取った」

「……はんきゅう」


 私は思わず、ぽかんと間抜けに口を開けた。


 今、半休と聞こえた。

 この異世界の騎士団にも、有給消化みたいな概念が存在したのだろうか。

 いや、制度として存在したとしても、あのクロード様が自ら取るとは到底思えなかった。

 だってこの人、基本的に「国家防衛の仕事は俺が全部完璧に片づけて当然だ」みたいな顔で生きているのだ。

 過労の気配を漂わせながらも最強のまま24時間稼働する、労働強者の代表みたいな方なのだ。


「え、ええと……どうしてまた、急に半休などを」

「お前が疲れている」

「…………」

「昨日の騒動で、お前の精神は確実に消耗している。気分転換が必要だ」

「…………」

「だから、今から出かけるぞ」

「…………はい?」


 思考が、完全に停止した。


 出かける。誰が。私と。クロード様が。

 つまり、それは。


「で、で、で、でえと、ですか!?」


 思わず盛大に噛んだ。

 だが仕方がないと思う。今の状況は誰だって噛む。

 だって、あの仕事の鬼である最愛の推しが、わざわざ半休を取って私を街へ連れ出すと言っているのだ。

 それを世間一般では何と呼ぶかと問われれば、100人中100人が高確率で“デート”と答えるのではないだろうか。


 クロード様は、不思議そうに一瞬だけ目を瞬いた。

 それから、ごく自然に、微塵の照れもなく頷く。


「ああ」

「認めるんですか!?」

「何がだ」

「いえ、そ、その、今の流れを! デートと!」

「愛する婚約者と出かけるのだから、そう呼ぶのだろう」

「ひゃうっ」


 駄目だ。朝から心臓への直接攻撃クリティカルが重すぎる。


 ◇ ◇ ◇


 そして一時間後。


 私は「できるだけ街で目立たないように」という名目のもと、だいぶ上質な、でもたしかに夜会仕様のドレスよりは控えめなワンピースへ着替えさせられていた。


 色はやわらかな薄青色。装飾は控えめ。髪も凝った結い上げではなく、ゆるくまとめる程度。

 ただ、左手の薬指の『ドラゴン産婚約指輪』だけは外していない。

 私が「お忍びなら、これだけは外した方が……」と提案した瞬間に、クロード様が「絶対に外すな。指ごと切り落とすぞ」くらいの絶対零度の目で言い切ったからである。

 そうですね。婚約者の所有権の証明ですものね。でもお忍びの定義とは。


 私は巨大な姿見の前で、自分の姿を見て首を傾げた。


「……これ、本当にお忍びになります?」

「なる」


 背後から返ってきたのは、たいへん自信満々な、一切のブレがないお声である。


 振り返れば、クロード様も普段の軍装より少しだけ装いを崩していた。

 黒を基調とした上質な外套に、装飾を抑えたシンプルな服。

 たしかに、一目で騎士団長だと分かる礼装よりは目立たない。目立たないのだけれど。


「お顔の作りが強すぎて、お忍びは物理的に無理ではありませんか?」

「何がだ」

「お忍びという概念です」

「問題ない」

「大いにあります」


 私は断言した。

 だって、どう考えても無理だ。

 クロード様は、ただ無言でそこに立っているだけで、周囲の空気を支配するほどの圧倒的な存在感(と顔の良さ)がありすぎる。

 そこへ、昨日『真聖女』として国中に顔が売れた私が隣に並ぶのである。

 自然発光を気合で抑え込んだとしても、絶対に目立つ。


 だが、クロード様は少しも揺るがなかった。


「王家の馬車は使わん。普通の辻馬車を手配した」

「はい」

「護衛の騎士も、離れた位置に最低限だけ配置する」

「はい」

「人通りの多い大通りと、貴族街は避ける」

「なるほど」

「だから、問題ない」

「理屈と戦術は完璧に分かりますが、お顔の国宝級の良さだけは布で覆わないと隠せませんよ?」

「俺が顔を隠す必要があるか」

「お忍びなのですからあります!」


 私が必死に抗議すると、クロード様は少しだけ考えるように、冷たい目を細めた。

 そして、とんでもない解決策(?)を口にする。


「なら、お前だけ、ずっと俺を見ていればいい」

「……私がですか」

「ああ。周囲の視線など気にするな。お前の視界には、俺だけを映しておけ」

「それはそれで難易度が高すぎます! 推しの顔面を至近距離で直視し続けるのは、心臓の許容量を超えます!」

「推し?」

「深く気にしないでください!」


 どうしてこの方は、毎回、息をするように当然みたいな顔で、そういう激重で甘いことを言うのだろう。

 非常に困る。心臓が痛い。でも大好きです。困ったことに。


 ◇ ◇ ◇


 王都の下町に近い商業区は、今日も活気に満ちて、にぎやかだった。


 石畳の続く通り。

 店先に所狭しと並ぶ、色鮮やかな果物や季節の花。

 香ばしく甘い焼き菓子の匂い。

 行き交う人々の活気ある笑い声。子どもたちのはしゃぐ声。大道芸人の陽気な呼び込み。

 前世で行ったテーマパークとはまた違うけれど、歩いているだけで色んな刺激があって、生命力に溢れていて楽しい。


 私は思わず、きょろきょろと田舎者のように辺りを見回していた。


「すごいです……」

「何がだ」

「街、です。こんなに人がたくさんいて、楽しそうで」

「王都だからな。ここは商業の中心だ」

「いえ、そうなのですが! こうしてゆっくり、自分の意志で街を見るのなんて、初めてで……!」


 今までも、王都の街並みの一部を見たことはあった。

 でもそれは大抵、深夜にこっそり屋根裏部屋を抜け出して騎士団宿舎へ推し活に向かう時だったり、重い荷物を持たされて実家の用事を押しつけられ、急いで移動する時だったりで、楽しむ余裕など欠片もなかったのだ。


 それが、今はどうだろう。


 隣には、最強のクロード様。

 手は、当然のようにつながれている。

 いや、つないでいるというより、私の小さな手が、彼の手によって『絶対に逃がさない』という強い意志で完全に包み込まれている、に近い。

 でも、温かい。ひどく落ち着く。


 そして何より――。


「……こんなふうに、時間を気にせず、のんびり歩いていいんですねぇ……」


 ぽろっと、心の底からの本音が漏れた。

 それに、クロード様が隣で鋭くこちらを見る。


「当たり前だ。休みなのだからな」

「前世では、外へ出るとだいたい『目的地へ最短ルートで急行する』の一択でしたので……」

「前世でもそうだったのか」

「はい。移動は業務の一環、寄り道は給料泥棒の罪、みたいな」

「…………」


 クロード様の気配が、すうっ、と氷点下に冷えた。

 あ、いけない。

 また、限界社畜のブラック企業話をしてしまった。

 この方、私の前世と実家の劣悪な労働環境の話になると、周囲の空気を凍らせて非常に静かにガチギレするのだ。


「……今は、違う」

「……はい」

「今日は、お前が気になったものを、時間の許す限り『全部』見る」

「ぜ、全部はさすがに目が回ります」

「全部だ。お前の失われた時間を、俺がすべて埋めてやる」

「過保護の圧が強い」


 私は思わず、小さく笑ってしまった。


 そんなやりとりをしながら歩いているうちに、私の視線は、通りのはずれにあるお店に吸い寄せられた。

 こぢんまりとした、アンティークな雰囲気の雑貨店だ。

 窓辺に並ぶ、色とりどりのガラス小物や、繊細なレース、可愛らしい髪飾り。

 店構えも優しくて、見ているだけで少女に戻ったように心が弾む。


「……かわいい」

「これか」

「えっ」

「入るぞ」

「えっ、いえ、今のはただの純粋な感想であってですね!?」

「気に入ったんだろう。買おう」

「はい、でも世の中には“見るだけ”という庶民の文化もあります!」

「そんな無意味なものがあるのか」

「あります!」


 だがクロード様は、まるで「お前の戯言は後で検討する」という顔で、強引に私を引いて扉へ向かった。

 待ってください。購入判断が早すぎます。


 店内へ入ると、店主らしき年配の女性が「いらっしゃいませ」と優しく微笑んだ。

 しかし、クロード様の顔を見た瞬間、その笑顔がピキッと凍りついて固まる。


 そりゃそうだ。

 お忍びとはいえ、王都の治安を司る筆頭騎士様の威圧感と顔面偏差値は、平服でも隠しきれない。


 私は慌てて一歩前に出た。


「す、すみません、本日はただ少し、店内を見せていただければと――」

「この店ごと買う」

「待ってください!?」


 私は全力で振り返って叫んだ。


 何を仰いました今。

 店ごと?


 クロード様は、大真面目な顔だった。


「お前が気に入ったのだろう」

「いえ、お店の商品は可愛いと思いましたが、だからといって店舗の所有権や経営権まで欲したわけではありません!」

「違うのか。ならば、この棚の商品を全部だ」

「違います!」


 店主さんも、カウンターの奥で目を白黒させて痙攣している。

 当然だ。急に入ってきた美形の威圧的な男に「店ごと買う」と言われたら、借金の取り立てか地上げ屋だと思うだろう。


 私は慌ててクロード様の袖を強く引いた。


「クロード様、落ち着いてください! 財力で殴らないで!」

「俺は常に落ち着いている」

「これが!?」

「お前が『可愛い』と言った」

「はい」

「なら、お前のために俺がすべて確保する必要がある」

「どういう極端な発想ですか!?」


 だが、クロード様の中では、それが愛する女への極めて論理的な行動らしい。

 困った。婚約者の行動原理のスケールが強すぎる。


 なんとか必死に説得し、最終的には「今日は、このささやかな髪飾りをひとつだけ」という形で強引に着地した。

 よかった。危うく王都の雑貨店がひとつ、貴族の所有物に消えるところだった。


 ……と思ったのも、束の間。


「こちらの焼き菓子、うちの一番人気なんですよ」

 と、次に入ったパン屋の店員さんが勧めてくれたクッキーに、私が「まぁ、美味しそうですね」と呟けば。


「この棚の菓子を、棚ごと包め」

「おやめください! 棚は食べられません!」


 通りすがりの花屋さんの店先で、「この季節の花、きれいですね」と微笑めば。


「今日の分の花は、すべて俺の屋敷へ持ってこい」

「市場の流通が混乱します!」


 古書店の前で、「この童話の装丁、とても素敵……」と足を止めれば。


「この棚一列ぶんの書物を、すべて買い上げる」

「私の生涯の読書量を考慮してください!」


 どうして。

 どうしてこの人は、私の「可愛い」「素敵」「きれい」「美味しそう」というささやかな感嘆を、すべて『全頭買いの購入指示』だと思ってしまうのだろう。


 ◇ ◇ ◇


「……クロード様」


 私はついに、疲れ果てて街角の静かなカフェテラスに座ったところで、極めて真剣な顔になった。


 クロード様は向かいの席で、当然のように私の前へ最高級の紅茶と、色鮮やかなフルーツタルトを並べている。

 いつの間に注文したのだろう。有能すぎる。いや、カフェごと買っていないだろうな。


「何だ」

「本日、我々の間で、重大な『認識のすり合わせ』が必要です」

「認識合わせ」

「はい」

「……言ってみろ」

「私が街で“可愛い”とか“素敵”とか申し上げるのは、純粋に“その存在を愛でている”のであって、“今すぐ自分の所有物にしたい(購入したい)”とは限りません」

「…………」

「むしろ大半は、見て、心の中で『いいなぁ』と思うだけで、十分に満足なのです」

「見るだけ、だと」

「はい」

「……なぜだ。俺には金がある」

「なぜって……金の問題ではなくてですね」


 私は思わず言葉に詰まった。


 なぜ、と真正面から問われると難しい。

 前世でも、ショーウィンドウの綺麗な服を見て「可愛いなぁ」と思うことはあった。

 けれど、それを全部買うわけではない。

 予算とか、置き場所とか、そもそも今すぐ必要かとか、そういう色んな『現実の壁』があるからだ。

 でも、手に入らなくても、見るだけでも十分楽しい。むしろ、それが庶民の“お出かけ”の醍醐味ですらある。


「その……ただ、愛でるのです。鑑賞です」

「愛でる」

「はい。視界に入れて、いいなぁと感じて、心がほっこり幸せになるのです」

「それで終わりか」

「はい、終わります」

「手に入れなくて、足りなくないか」

「足ります!」


 クロード様は、紅茶のカップを持ったまま、しばらく難しい顔で黙り込んだ。


 やがて、ひどく不本意そうに言う。


「俺には、その感覚がよく分からん」

「そうでしょうね! 貴族のトップですからね!」

「だが」

「はい」

「お前が本気でそう言うなら、覚える」


 私はぽかんとした。


「……え」

「全部、強引に買わなくていいのだな」

「はい」

「お前が『見るだけ』で満足するものもあるのだと、理解した」

「……そうです」

「分かった。今後は気をつける」


 あまりにも素直に、真っ直ぐに頷かれて、逆にこっちが戸惑った。


「え、ええと……そんなにあっさり、私の我儘を?」

「我儘ではない。お前が望むなら、俺はそちらに合わせる。お前を不快にさせる気はない」

「…………」


 ああ、ずるい。

 本当に、ずるい。


 この人は、圧倒的な権力者なのに、最初から全部、自分のやり方を押し通す人ではないのだ。

 ちゃんと、私の小市民的な感覚を理解しようとしてくれる。

 分からないなりに、私のために覚えようと、歩み寄ってくれる。


 だから、困る。

 そんなふうに誠実にされたら、好きという感情が限界突破してしまうではないか。


 私は熱くなった頬を隠すように、カップへ口をつけた。

 お茶がちょうどいい温度で、優しくておいしい。


 するとクロード様が、少しだけ氷の目を細めて、低く甘い声で言った。


「だが、ひとつだけ『例外』がある」

「へ?」

「お前だ」

「…………はい?」

「俺は、お前を見て、“いい”と思ったら、『見るだけ』では絶対に済まん」

「ぶっ」


 危うく、最高級の紅茶を盛大に吹きかけるところだった。


 何ですか今の。

 何ですか今の今の。

 街中です。白昼堂々です。お忍び(偽)です。

 そういう爆弾みたいな台詞を、さらっと真顔で言わないでほしい。


「ク、クロード様!」

「事実だ」

「事実でも、言葉というものが!」

「俺にとって、お前は遠くから愛でるだけでは全く足りない。俺の腕の中に閉じ込めておきたい」

「やめてください心臓が物理で止まります!」

「足りんものは足りん。こればかりは譲れん」


 力強く言い切られた。


 しかもその直後、テーブル越しにこちらの手を取り、私の指先へ、誓いのように軽く唇を寄せられてしまったので。

 私は完全に耳まで赤くなって、無言で俯くしかなかった。


 お忍びとは。

 いったい、何だったのか。


 ◇ ◇ ◇


 午後になり、私たちはもう少し街の奥へ足を延ばしていた。


 職人通り。

 腕のいい工房や仕立て屋、小さなアンティーク工芸品店が並ぶ、王都でも人気の区域らしい。

 歩いているだけで、色んな珍しいものが見えて楽しい。


 美しいガラス細工。

 精緻な刺繍のリボン。

 上質な革小物。

 魔導書を扱う古書。

 色鮮やかな飴細工。

 甘い香りのする香水瓶。


 私はあっちを見て、こっちを見て、いちいち目を輝かせて感動していた。


「見ろ、ルシエラ」

「はい?」

「あれは」

「わぁ……!」


 通りの角に、小さな露店が出ていた。

 細工の繊細な銀のしおりや、小さな魔石をあしらった細工が並んでいる。

 どれも可愛らしく、見ているだけでわくわくする。


「かわいいです……」

「買うか」

「これは、ちょっとだけ欲しいです。本を読む時に」

「よし、全部買おう」

「やめてください、今日はこの青い石のしおりひとつで十分です!」


 危ない危ない。

 学習していただいたはずなのに、油断すると本当に街の物資が根こそぎ消えてしまう。


 だが、その時だった。


「……ルシエラ、様?」


 聞き覚えのない、けれどどこか値踏みするような、探るような声がかかった。


 私は反射的に振り向く。


 そこには、以前の夜会で少し見かけた若い子爵令息が立っていた。

 たしか、神殿寄りの派閥の貴族だったかもしれない。

 人当たりのよさそうな薄っぺらい笑みを浮かべているが、その目は妙に鋭く、私の全身を舐めるように見ている。


「やはり、真聖女のルシエラ様でしたか」

「え、ええと……」

「このような下町でお会いできるとは光栄です。先日の夜会では、ろくにご挨拶もできませんでしたので、ぜひ改めて私と――」


 そこまでだった。


 すうっ、と。

 私の隣の空気が、絶対零度に冷える。


 あ、まずい。


「――失礼」


 クロード様が、私を庇うように一歩前へ出た。


 ただそれだけで、子爵令息のへらへらした笑顔が、引きつって固まる。

 そりゃそうだ。

 殺気を放つ『氷の死神』が、真横に顕現したのだから。


「俺のルシエラに、何の用だ」

「い、いえ、その、ただご挨拶をと思いまして」

「済んだだろう」

「えっ」

「帰れ」

「ヴァレンティス卿、あまりにも早くないですか!?」


 令息がさすがに、ひきつった抗議の声を上げる。


 私は思わず口を挟んだ。


「ク、クロード様、そこまで冷たくしなくても……」

「そこまでだ」

「まだ二往復も会話していません」

「一往復で十分だ。これ以上、こいつの汚い声を俺の妻に聞かせる気はない」

「基準と当たりが厳しすぎます!」


 だが、クロード様の視線は冷えきった刃のようだった。


「夜会でも、こいつは遠くからお前をいやらしく見ていただろう」

「そ、それはもちろん、真聖女様として興味が……」

「今も見ていたな」

「いえ、それは目の前におられたので!」

「言い訳が多い。失せろ。さもなくば斬る」


 ひぃ、と令息の喉が鳴る。


 私は思わず頭を抱えたくなった。

 ああもう。

 お忍びデート中の婚約者の独占欲が、たいへんお元気である。


 しかも、だ。

 周囲で露店を見ていた人たちが、この騒ぎに気づき始めている。


『あれ、あの恐ろしい雰囲気の金髪の人、筆頭騎士様では?』

『その隣の銀髪の女性は、もしかして噂の真聖女様?』

『えっ、なんであんなお二人がこんな下町に!?』


 みたいなざわめきが、波紋のように広がっている。


 まずい。

 このままではお忍びどころか、街区単位でパニックイベントが始まる。


「クロード様、速やかに撤収しましょう」

「俺との外出が嫌になったか」

「いえ、違います! ただ、このままだと周囲に正体が広まります!」

「もう広まっている」

「そうでした!」


 私はついに両手で顔を覆った。


 だめだ。もうだめだ。

 お忍びとは何だったのか。


 その時、通りの向こうで誰かが小さく叫んだ。


「やっぱりヴァレンティス卿だ!」

「本当に!?」

「隣の方、ルシエラ様じゃない!?」

「きゃあ……! 尊い……!」


 ざわめきが、一気に歓声に変わって増す。


 あっ。

 もう完全に、大衆に発見されました。


 ◇ ◇ ◇


「馬車を回せ」


 クロード様の低い一声で、人混みに紛れて控えていた最低限の護衛の騎士の方々が、素早く動く。


 ……やっぱりいたのですね、護衛。

 私は半ば遠い目になった。

 いや、そうだろう。筆頭騎士と、国の至宝である真聖女が街を歩くのだ。

 最低限で済むはずがない。


 だが、その時だった。


 通りの向こうで、ひときわ大きな店構えの高級洋品店が目に入った。

 窓辺には、見事な銀糸の刺繍が施されたショールや、可愛らしいレースの手袋が並んでいる。


 私はつい、ぽろっと無意識に呟いてしまった。


「……あのショール、すごく素敵ですね」


 その瞬間。

 隣のクロード様が、すっと獲物を見つけた鷹のように顔を上げた。


 あっ。


 嫌な予感がする。

 とてもする。さっき学習したばかりのはずなのに。


「……クロード様?」

「分かった」

「待ってください」

「店主はどこだ。責任者を呼べ」

「待ってください!」

「この通りごと押さえればいいか」

「更地にしないでください!?」


 ついに、購入規模が『通り単位』になった。


 何ですか今の。

 店単位ですら危うかったのに、とうとう街区ごと買い上げて封鎖する気ですか。

 王都の経済を揺らがせないでほしい。


 私は全力でクロード様の太い腕にしがみついた。


「クロード様、私の言葉を聞いてください!」

「何だ」

「今のは、さっき教えた“素敵(鑑賞)”であって、“今すぐ欲しい(購入)”ではありません!」

「そうなのか」

「そうです! 復習です!」

「だが、後で欲しくなったらどうする」

「その時は相談します!」

「相談の結果、買う」

「買うとしてもショール一枚です! 通りごと買収ではなく!」

「……分かった」


 本当だろうか。

 少しだけ不安が残るが、とりあえず今は不本意そうにうなずいてくれた。

 よかった。王都の商業区の一角が、物理的に消えるところだった。


 しかし、そんな限界オタクなやりとりをしている間にも、周囲のざわめきは広がるばかりだ。

 人がどんどん増えてきた。

 しかも、私へ向けられる視線は好奇心だけではない。

「真聖女様だ」という深い敬意や憧れや、あとはクロード様の放つ殺気に対する遠慮がごちゃまぜになっている。


 すると、不意にクロード様が私を見下ろした。


「ルシエラ」

「は、はい?」

「限界か」

「え?」

「視線が多い。疲れている顔だ」

「……あ」


 言われて初めて、自分でも気づいた。


 楽しい。すごく楽しいのだ。

 でも、やっぱり人目の多さにはまだ慣れない。

 夜会の時は「戦場だ」と覚悟していたから何とかなったけれど、今日はもう少し気楽なつもりでいたから、そのぶん精神の防御力が低く、少しだけ消耗しているらしい。


 私は小さく頷いた。


「……少しだけ」

「分かった」


 その瞬間、ふわりと私の視界が宙に浮いた。


「ひゃっ」

「帰る」

「やっぱり抱っこ移動なんですね!?」

「当然だ。お前をこれ以上歩かせん」

「この状況で!?」

「この状況だからだ。お前を誰にも見せたくない」


 見れば、周囲の群衆たちが一斉に「おお……」とざわめき、そしてなぜか顔を赤らめた。

 そりゃそうだ。

 筆頭騎士様が、白昼堂々、真聖女様をお姫様抱っこで抱き上げて撤収しているのだから。恋愛小説の挿絵か。


 でも、私はもう抵抗しなかった。


 だって、楽しかったのだ。

 すごく。

 自分の意志で街を歩いて、色んなものを見て、クロード様と他愛のない話をして、変な方向で店ごと買われかけて、最後はやっぱり過保護に回収される。


 おかしい。

 だいぶおかしいのに、この上なく幸せだった。


 私はクロード様の肩に、そっと額を預ける。


「……デート、楽しかったです」

「そうか」

「はい」

「なら、また行くか」

「えっ」

「次は、もっと人が少ない、俺とお前だけの日に」

「…………」

「お前が見たいものを、最初からリストアップして決めておく」

「……通りごと買わない範囲でお願いします」

「善処する」

「そこは確約してください!」


 クロード様が、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 たぶん笑っている。

 悔しい。でも嬉しい。


「次は、見るだけという庶民のやつも、もっと付き合う」

「……はい」

「だが、お前が本当に欲しいと言ったものは、必ずすべて買う」

「一個ずつでお願いします」

「覚えておく」


 私は小さく笑った。


 そうだ。

 この人はたぶん、私が「可愛い」と言うたび、本気で世界の全部を私の足元に差し出したいのだ。

 ちょっとどころではなく、底知れなく重い。

 でもそれは、私を喜ばせたい、私に過去の不足分をすべて与えたいという、不器用な気持ちの裏返しでもある。


 だから、困るけれど、嫌ではない。


 むしろ――どうしようもなく、愛おしい。


 馬車へ向かう道すがら、後ろで誰かがひそひそと囁くのが聞こえた。


「見た? 今の……」

「見たわ……尊すぎる……」

「真聖女様、ものすごく綺麗だった……」

「それよりヴァレンティス卿よ。あれ完全に溺愛して囲ってるじゃない」

「通りの店を更地にして買うって聞こえたけど」

「えっ、怖……でも愛が重すぎる……最高……」


 やめてください。

 限界オタクの皆様、全部聞こえています。


 私は恥ずかしさで、クロード様の胸元に少しだけ顔を埋めた。

 だがその頭上から、クロード様の低い声が落ちてくる。


「何だ。照れているのか」

「いえ……お忍び、完全に失敗しましたね」

「大成功だ」

「どこがですか!?」

「お前と出かけられた。そしてお前が笑った」

「…………」

「俺の目的は、完全に達した」


 それを言われると、弱い。


 私はもう何も言えず、ただ指輪のはまった左手を、彼の服の胸元でそっと握った。


 お忍びは、たぶん大失敗だった。

 でも、デートとしては、これ以上ないほど大成功だったのだと思う。


 そしてもちろん。


 この日の「真聖女様がお忍びで街へ」「ヴァレンティス卿が店を買い占めかけた」「二人の距離が限界突破している」という噂は、その日のうちに王都を駆け巡り。

 私の知らないところで、実家と一部の貴族たちの胃を痛め、破滅へのカウントダウンを進めることになるのだけれど――今の私はまだ、そんなことより、次のデートで『王都が更地にならない方法』を真剣に考える方が先だったのである。



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