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第17話 社交界デビュー。隠しきれない美貌と規格外の魔力

 真聖女として正式に認められ、クロード様との婚約まで発表された、怒涛の王宮訪問から数日後。

 私は、人生最大級の試練を前にして絶望の淵に立たされていた。


「――しゃ、社交界デビュー、ですか」


 声が裏返って震えたのは、決して私のせいではないと思う。


 だって、無理ではないだろうか。

 私はついこの前まで、カビ臭い屋根裏部屋で薄い毛布にくるまり、飛んでくる雑巾を片手キャッチしていた底辺令嬢である。

 それが今や、王家公認の真聖女にして、王国最強の筆頭騎士様の婚約者として、王都の夜会へ出席するらしい。


 情報量が多い。身分の跳ね上がり方が、もはや大事故である。


「はい。ルシエラ様の、正式なお披露目でございます」


 優秀な侍女長さんが、慈母のように穏やかに頷く。


「王家主催の小夜会ではございますが、実質的には、ルシエラ様の社交界デビューとお考えいただければ」

「……小夜会」

「はい」

「差し支えなければ、規模をお伺いしても……?」

「王家、主要貴族、神殿関係者のトップ、騎士団上層部、およびそのご家族などを中心に」

「全然“小”ではありませんよね!?」

「王家基準では極めて小規模にございます」

「王家基準のインフレについていけません……!」


 私は思わず、頭を抱えてしゃがみ込みそうになった。


 そうだ。私は最近、この手の“強者基準の小規模”というやつにだいぶ振り回されている。

 クロード様の「少し出かけていた」が単騎での伝説のドラゴン討伐だったように、この世界の上位陣の語彙力は絶対に信用してはいけないのだ。


 だが、現実逃避している場合ではないらしい。


 侍女さんたちはすでに、獲物を狩るような目で私のドレス選びに入っていた。

 次々と運ばれてくる、見たこともないほど美しい布地、眩い宝石箱、ガラスの靴、繊細な髪飾り。

 いや、量が多い。多すぎる。


「ええと……ひとつ確認なのですが」

「はい」

「私は本当に、これを全部、身につける可能性があるのですか? 重さで首が折れませんか?」

「もちろんでございます。旦那様のご意向も踏まえまして、ルシエラ様に最もお似合いになるものを厳選いたします」

「……旦那様のご意向」


 その単語が出た瞬間、ぴくっと頬が熱くなる。


 もう最近、クロード様の名前が出るだけで心拍数が跳ね上がる仕様になってしまっている。

 いけない。でも仕方がない。

 ドラゴン産の婚約指輪をはめられ、強制添い寝が標準装備となり、しかも朝晩きっちり「俺がいないと不安だろう」と謎の確信をもって確認してくる推しなのだ。

 距離感が近すぎて、こちらの限界オタクな情緒が常時悲鳴を上げている。


「……ちなみに、クロード様は、何とご指示を?」

「『ルシエラが世界で一番綺麗に見えるものにしろ』と」

「…………」

「『ただし、肌の露出は一切許さん。最小限にしろ』とも」

「そこはやはり……」

「さらに、『あまり他の男の視線を集めすぎるものは避けろ』とも」

「矛盾した無理難題です!」


 思わず叫んでしまった。


 だって、すでに真聖女認定と筆頭騎士との婚約発表を済ませている時点で、私はどうしたって猛烈に注目される側である。

 そこへ「世界一綺麗に見せろ、でも男の視線は集めるな」は、だいぶ高度で理不尽な要件定義ではないだろうか。

 前世のクソクライアントからの無茶振り案件を思い出す。

 しかも今回の仕様変更元は、絶対権力を持つ激重婚約者である。甘いのに重い。難易度が高すぎる。


 侍女長さんは、ふふっと優雅に微笑んだ。


「ですので、上品に、清楚に、しかし他を圧倒的に蹂躙する美しさ、という方向で調整いたしました」

「最後だけ物騒でおかしくありません!?」

「大丈夫でございます」

「本当に?」

「はい。ルシエラ様は、黙ってそこに立っていらっしゃるだけで十分でございますから。我々の腕にすべてお任せを」

「その台詞、プレッシャーとして強すぎます……」


 ◇ ◇ ◇


 そして、運命の夜会当日。

 私は巨大な姿見の前で、完全に石像と化していた。


「……誰でしょう、これ」


 鏡の中には、知らない絶世の美女がいた。


 いや、理性では分かっている。私だ。私なのだろう。

 顔の造作のベースは確かに私のものだ。でも、私が知っている『私』とあまりにも違いすぎた。


 今日のドレスは、淡い月光をそのまま紡いで形にしたような、神秘的な白銀色だった。

 クロード様の厳命通り、胸元などの露出は控えめで上品。それでいて、裾へ向かうほど繊細な銀の刺繍が流れるように広がっている。

 細い銀糸が魔石灯の灯りを受けるたび、内側から淡く発光するようにきらめくのが本当にきれいだ。


 髪はやわらかく結い上げられ、いくつかの房だけが計算された無防備さで白いうなじへ落ちている。

 宝石は最小限に抑えられていた。

 でも左手の薬指には、あのドラゴン産の蒼い婚約指輪が、王者のような風格で静かに輝いている。


 肌は陶器のように整えられ、頬にはほんのり桜色の血色が差している。

 何より――ちゃんと温かいものを食べて、安心して眠って、絶対的な力で守られてきたぶんだけ、以前の死んだ魚のようだった目が嘘みたいに輝き、表情も明るく生気を帯びていた。


「あ、あの」

「はい」

「本当に、これ私で合っています? 魔法で顔の骨格ごと作り変えたりしていませんよね?」

「もちろんでございます」

「盛りすぎでは……」

「元々の素材が素晴らしいので、我々は少し磨いただけにございます」

「素材」


 そんな断言をされると、照れる。でも、泣きそうなくらい嬉しい。


 前世でも今世でも、私はずっと「誰かの引き立て役」「代わりの利く歯車」として扱われる側だった。

 引き立て役は目立たなくていい。綺麗でなくていい。ただ便利に動ければいい。

 そうやって、自分を殺して後回しにするのが当たり前の人生だった。


 けれど、今は違う。

 今日は、私が主役の一人として、彼の隣に立つのだ。


 そう思った瞬間、胸の奥が少しだけきゅっと締めつけられた。

 怖い。でも、以前みたいな「どうせ私なんか」という絶望の怖さではない。

 彼の隣に、ちゃんと胸を張って立てるだろうか、という前向きな緊張だった。


 その時。

 扉の外から、静かで重みのあるノックが響いた。


「旦那様がお迎えに上がりました」


「――っ」


 胸が、大きく跳ねる。


 来た。推しが。正装で。私を迎えに。

 ああ、無理かもしれない。まだ夜会会場の離宮にも着いていないのに、心臓が先に限界を迎えて破裂しそうである。


 扉が開く。

 そして、部屋へ入ってきたクロード様を見た瞬間――私は本当に、呼吸をするのを忘れた。


 格好良すぎる。


 黒を基調とした礼装は前回の王宮仕様と似ているけれど、今夜はさらに夜会向けの華やかさと威厳が加わっていた。

 深い黒の生地に、銀の繊細な刺繍。広い肩を覆う薄い外套。

 胸元には王国筆頭騎士の証である剣の紋章と、王家から賜ったいくつもの勲功章がさりげなく輝いている。


 けれど、そんな豪奢な装い以上に破壊力があるのは、彼自身の放つ気配だった。


 冷酷に整った顔立ち、圧倒的な長身、涼やかなプラチナブロンドの髪、他者を寄せ付けない氷結の瞳。

 近寄りがたいほど完成された『氷の死神』なのに、私を見た瞬間だけ、その冷たい眼差しが、熱を帯びて甘くやわらいだのだ。


「……ルシエラ」


 低い声が、静かに鼓膜を震わせる。

 私はなぜか、返事をする前にぴしっと背筋が伸びた。


「は、はい……!」


 クロード様は数歩こちらへ近づいてきて、私の目の前で止まった。

 そして、上から下まで、じっと私を見つめる。


 沈黙。


 長い。とても長い。

 えっ、何かまずかっただろうか。

 やはりドレスの仕様不適合が発生したのだろうか。「目立ちすぎるからやり直し」とか言われたらどうしよう。


 私が冷や汗をかき始めた、その瞬間。


「……綺麗だ」


「…………っ」


 心臓が、本当に止まるかと思った。


 真正面から。しかも、一切の冗談を含まない、あまりにも真面目で熱い顔で。

 あの低い声でそう言われたら、もうオタクの情緒は完全敗北である。


「そ、その……ありがとうございます……」

「俺の想像を遥かに超えている」

「ひぇ」

「……これでは、男の視線を集めるなという条件は撤回だな。不可能だ」

「撤回しないでください! むしろ初志貫徹して私を隠してください!」

「無理だ」


 即答だった。

 だが、その声にはどこか諦めと、強烈な独占欲、そして隠しきれない優越感が混ざっていた。


 ああ、もう。その顔をしないでほしい。

『俺の婚約者が世界一美しい』みたいな顔で見つめられると、私が羞恥で先に焼け死ぬ。


 クロード様は、そっと私の左手を取った。

 薬指の婚約指輪へ視線を落とし、次いで私を真っ直ぐに見下ろす。


「今夜、お前を見るすべての男の目を抉ってやりたい気分だが……俺が我慢する。その代わり、誰にもお前は渡さん」

「夜会前から独占欲と物騒さがフルスロットルですね!?」

「当然だ」

「やっぱり!」


 すると侍女さんたちが後ろで、ものすごく穏やかな笑顔のまま、スッと視線を天井へ逸らした。

 職業意識が高すぎる。でもたぶん、全部聞こえている。


 ◇ ◇ ◇


 会場である王家所有の夜会用離宮へ向かう馬車の中で、私はずっとそわそわと落ち着かなかった。


「大丈夫か」

「だ、大丈夫……だと思いたいです」

「思いたい?」

「緊張が実感に追いついていなくて……胃が痛いです」

「なら、無理に落ち着かなくていい」

「そういうものですか?」

「ああ」


 クロード様は、ごく自然に私の震える手を取った。

 大きくて、剣ダコのある温かい手。それだけで、不思議と呼吸が少しだけ楽になる。


「俺だけを見ていろ」

「またその高難度ミッションですか……」

「できるだろう」

「……はい、たぶん」


 だって、どうしたって見てしまう。

 最愛の推しなのだから。しかも今日は、顔面偏差値カンストの夜会仕様である。

 視線を逸らす方がよほど難しい。


 私はこっそりと、彼の整った横顔を見上げた。


「クロード様は、慣れていらっしゃるのですね」

「何にだ」

「こういう、華やかな場所に出ることに、です」

「慣れた」

「昔からではなく?」

「ああ。俺の生い立ちも平坦ではなかったからな。必要だから、無理やり覚えただけだ」

「……そうなんですね」


 クロード様の横顔は静かだった。

 ああ、この人も、最初から完璧で何でもできたわけではないのだろう。

 必要だから覚えて、自分の足でこの頂点に立ってきたのだ。

 そう思うと、少しだけ自分の中にも勇気が湧いた。


「ルシエラ」

「はい?」

「今夜、お前に群がり、挨拶してくる連中は腐るほど多いだろう」

「ひぃ」

「だが、無理に愛想笑いをする必要は一切ない」

「えっ」

「嫌なら嫌な顔をしていい。疲れたら、すぐに俺を呼べ」

「…………」

「何か気に食わないことを言われたら、俺が全部叩き斬る」

「物理で!?」

「必要ならな」

「できれば社交的な範囲で穏便にお願いします!」


 クロード様は微かに口元を緩めた。

 たぶん、ほんの少しだけ笑っている。


 その顔を見て、私はようやく、強張っていた肩の力を抜いて小さく笑えた。


「……ありがとうございます」

「ああ」

「少しだけ、頑張れそうです」

「ならいい。俺が守る」


 ◇ ◇ ◇


 夜会会場は、眩暈がするほど華やかだった。


 見上げるほど高い天井から下がる巨大な魔石のシャンデリア。

 鏡のように磨き上げられた大理石の床。

 一流の楽団が奏でる優雅な音楽。

 色とりどりのドレスと、権力を示す礼装の数々。

 揺れる光と、むせ返るような香水の気配。


 そしてもちろん、重厚な扉が開いて私たちが入場した瞬間、会場中のすべての視線が、一斉にこちらへ突き刺さった。


「――っ」


 私は思わず息を呑む。

 多い。視線が。とても多い。値踏みするような目、驚愕、嫉妬、好奇心。


 だが、隣でクロード様の手が、私の手を少しだけ強く、安心させるように握り込んだ。


「前を向け」

「……はい」


 一歩。また一歩。

 クロード様にエスコートされ、会場の中央へ進むたび、ざわめきが波紋のように広がるのが分かった。


「まあ……」

「あの方が、ヴァレンティス卿の……」

「本当に、あのルミナス伯爵家の長女なのか?」

「魔力ゼロの引き立て役と聞いていたが」

「冗談だろう。あの美しさは……」

「おい、見ろ……光が……」


 最後の声に、私は一瞬だけ首を傾げた。

 光?


 その時だった。

 私のドレスの裾が、ふわりと淡く発光していることに気がついた。


「あれ?」

「ルシエラ」

「え、あの、今ちょっとドレスが……」

「緊張しているな」

「はい、心臓が口から出そうなくらい、とても……」

「力が漏れているぞ」


 うそでしょう。


 私は思わず自分の胸元を見下ろした。

 確かに、なんだか体の奥底から、じんわりと温かなものが溢れ出している感じがする。

 そのせいか、私の周囲の空気が、淡い白金の光を含んでキラキラと輝いて見える。


 えっ。

 夜会の場で無意識に発光しているのですか、私。ホタルですか。


「と、止めた方が……! 悪目立ちします!」

「そのままでいい」

「よろしいのでしょうか!?」

「むしろ好都合だ」

「どこがですか!?」

「誰が見ても、お前が『本物』だと一目で分かる」


 うっ。

 それは、そうかもしれない。


 周囲の貴族たちは、すでに驚愕に目を見張っていた。

 ドレスの美しさだけではない。どう見ても、私の周囲にだけ、神聖な白金の光が満ちているのだから。


 それは決して派手で暴力的な光ではない。

 けれど、ひどく目を引く。まるで月光そのものが、私という存在の輪郭を優しくなぞって祝福しているみたいだった。


「なんて神々しい……」

「これが、真聖女……!」

「ルミナス家の次女のあの下品な光とは、格が違う……」


 あちこちから、畏敬の念に打たれたようなため息が漏れる。


 私は半ば現実逃避しながら思った。

(社交界デビューって、こういう感じでしたっけ……?)

 たぶん違う。普通は入場時に、自ら神聖オーラで自然発光したりしない。


 ◇ ◇ ◇


 最初に挨拶に来たのは、王都でも発言力を持つ年配の侯爵夫人だった。

 上品で、でも観察眼の鋭そうな方だ。私はぎこちなく頭を下げる。


「は、はじめまして。ルシエラ・ルミナスでございます」

「ええ、存じておりますわ。まあ……お噂以上ね」

「えっ」

「お綺麗だとは聞いておりましたけれど、ここまで圧倒的とは」

「そ、そんな……!」


 やめてほしい。

 家族からゴミ扱いされてきた私は褒められ慣れていないので、急に高位のご婦人から美貌を褒められると、心が処理落ちしてしまう。


 侯爵夫人は扇の向こうで、意味ありげに微笑んだ。


「ヴァレンティス卿が、誰の目にも触れさせまいと独占して離さない理由が、よく分かりますわ」

「ぶっ」

「ルシエラ」

「すみません、むせました!」


 危うく変な声が出た。

 しかしクロード様は怒るでもなく、むしろ至極当然のような顔で言い放った。


「理解が早くて助かる。俺の妻だ」

「認めるのですか!? しかもまだ予定ですよね!?」

「事実だ」


 重い。社交界のド真ん中でも通常運転で重い。

 だが、そのやりとりを見た侯爵夫人は、ますます楽しそうに目を細めた。


「まあ。これは本当に、ご本気なのですね。あの『氷の死神』が、これほどまでに熱を上げられるとは」

「初めから、俺の命を懸けている」

「ええ、もう十分に伝わっておりますわ」


 うぅ、恥ずかしい。

 でも、不思議と夫人の言葉に悪意は感じなかった。むしろ好意的だ。

 たぶん、クロード様が隣にいるからだろう。

 彼が一切曖昧にせず、私を『絶対的な婚約者』として重すぎるほどの態度で扱ってくれるから、周囲も変に軽んじたり探ったりしにくいのだ。


 そのことに、じんわりと感謝が湧く。


 続いて、若い令嬢たちや貴婦人たち、神殿関係者などが次々と挨拶に来た。

 最初は怖かった。

 でも、いざ話してみると、皆が皆、実家の家族のような棘のある人ばかりではないと分かる。


 もちろん中には、探るような胡乱な視線もあった。

『本当に真聖女なの?』

『どうして今まで隠れていたの?』

『ルミナス伯爵家は、今まで何をしていたの? 偽物を担ぎ上げていたの?』

 そんな疑問は、誰の顔にも多少なりと浮かんでいる。


 けれど、そのたびに私の無意識の緊張から周りの光がふわりと強くなるせいか、皆、途中で何とも言えない浄化されたような顔になって黙るのだ。


(これ、無言の圧力として便利ですね……?)


 いや、よくない。便利と思ってはいけない。

 でも事実として、言葉を尽くすより先に「何か神聖ですごい」と物理的に伝わっているらしい。

 無自覚チート、恐るべし。


 そしてもちろん。


「ヴァレンティス卿、少しだけルシエラ嬢と個人的にお話を――」

「駄目だ」

「まだ何も言っておりませんが!?」

「駄目なものは駄目だ。近づくなら斬るぞ」

「ひどい!」


 という感じで、クロード様の狂気的な独占欲も絶好調だった。


 若い伯爵子息が社交辞令で話しかけようとしただけで、彼から放たれる殺気で周囲の空気が氷点下に下がるのはどうなのだろう。

 そのたび私は「こ、婚約者ですので! お気になさらず!」とか「私の方からご挨拶だけで十分ですので、命を大事にしてください!」とか、謎のフォローに回ることになる。


 大変だ。私の婚約者が強すぎて、社交が物理的に成立しない。


 ◇ ◇ ◇


 だが、その夜会の空気が決定的に変わったのは、神殿の高位神官が私へ近づいてきた時だった。


「ルシエラ様。恐れながら、一度だけ、そのお力に触れさせていただいてもよろしいでしょうか?」


 私は一瞬だけクロード様を見た。

 彼は露骨に不快そうな顔をしたが、私が困っていると察したのか、低く言った。


「手短になら」

「ありがとうございます」


 神官様が恭しく頭を下げ、私の前で震える手を差し出す。

 私はどうしたものかと少し迷ってから、そっと指先を重ねた。


 その瞬間。


 ぱあっ、と。

 先ほどまでよりも、はっきりと強烈な白金の光が、私たちの重なった指先から爆発的に広がった。


「……っ!」


 神官様が息を呑む。周囲もざわめく。


 光はやわらかく、でも圧倒的に強かった。

 会場の淀んだ空気そのものが根こそぎ浄められていくみたいに、場がしんと静まり返る。

 そして、光がふわりと天井近くまで広がった次の瞬間――。


 会場の隅で、杖をついていた老侯爵が「あっ」と声を上げた。


「腰が……」

「え?」

「長年の痛みが、ない……! まるで羽のようだ!」


 さらに、咳き込んでいたご婦人が、驚いたように胸元を押さえる。

 偏頭痛持ちで顔色の悪かった青年貴族が、目を見開く。


「呼吸が楽に、なった……?」

「痛みが消えた……これは、いったい……!」


 私は完全に固まった。


 えっ。

 えっ。

 また何か、やらかしてしまいました?


 ただ少し、触れただけなのに。

 大勢の視線に緊張していたから、たぶんまた無意識に力が漏れたのだろう。

 それだけなのに、離宮の会場全体へ、強力なヒール(範囲回復魔法)が広がってしまった気がする。


(わ、私の社交界デビュー、だいぶ『広域ヒーラー』寄りでは……!?)


 当然ながら、会場は大騒ぎになった。


「これほどの奇跡とは……!」

「本物だ……神話の再現だ!」

「真聖女様……!」

「ああ、なんと尊い光か……!」


 人々の熱狂的な視線が、一斉に私へ集まる。

 だが、その狂信的な熱気よりも早く、クロード様が私の肩をガッチリと抱き寄せた。


「――俺の妻は、見世物ではない」


 地を這うような低い一言で、熱狂していた空気がぴしゃりと氷結する。


 ああ、よかった。過保護だ。いつもの重すぎる過保護が発動した。

 その事実に、妙な安心を覚えてしまう自分がいる。だいぶ飼い慣らされている。


 神官様は、涙を流しながら深く頭を下げた。


「失礼いたしました。ですが、完全に確信いたしました」

「何をだ」

「この方のお力は、もはや隠しようがない。神が遣わされた真実にございます、と」


 ……ですよねぇ。

 私もそう思う。この規模で無意識の全体回復が起きるなら、もはや「ちょっと肩こりが治る疲労回復マッサージです」という私の自己申告の言い訳では、絶対に誤魔化せない。


 クロード様は、そんな私を見下ろして、誇らしげに静かに言った。


「これで、自分でも分かっただろう」

「何がですか」

「お前は、あんなゴミ溜めで隠れて引き立て役をしていられる『器』ではない」

「器というか、チートの規格が完全にばれてしまいましたね……」

「最初から、隠しきれるようなものではなかった」


 その声音は、どこまでも私を肯定してくれていた。


 私は羞恥で頬を熱くしながら、でも、少しだけ背筋を伸ばして胸を張る。

 そうだ。

 もう私は、自分を卑下して小さく見せなくていい。

 引き立て役でなくていい。

 彼の隣で、堂々としていていいのだ。


 ◇ ◇ ◇


 夜会の後半。

 優雅な音楽が流れ、中央の広間で何組かの貴族たちが躍り始めた頃。


「ルシエラ嬢、ぜひ私と一曲――」

「駄目だ」

「まだ言い切っていないのですが!?」

「駄目なものは駄目だ。俺の許容範囲を超える気か」

「ヴァレンティス卿、少しは社交を!」

「しているだろう」

「ルシエラ嬢を完全に独占して威嚇しているだけでしょう!」

「何が違う」


 まったく違います、と言いたかったけれど、私は口をつぐんだ。

 なぜなら、クロード様が今にも本当に抜刀して空気を凍らせそうだったからである。


 すると、その時。

 王妃殿下が、扇の向こうでくすくすと笑いながら近づいてこられた。


「まあまあ、ヴァレンティス卿」

「王妃殿下」

「そのくらいにしておあげなさい。これではルシエラ嬢も困ってしまうでしょう?」

「困っているか?」

「えっ」


 急に話を振らないでほしい。

 私は目をぱちぱちさせた。


 困っているかと問われれば、まあ、社交が成立しない点では困ってはいる。

 だが、その一方で、この『絶対にお前を守る』という全力の囲い込みに、心の底から安心しきっている自分もいる。

 何ともオタクの感情の処理が難しい。


 私が言葉に詰まっていると、王妃殿下が優しく微笑まれた。


「では、こうしましょう。ルシエラ嬢の最初の一曲は、婚約者である卿と」

「…………」

「それなら、どなたも文句はないでしょう? 卿も安心なさるはずです」


 会場がざわっとした。


 えっ。

 踊る?

 私が?

 クロード様と? この大勢の視線の中で?


 一瞬で顔が沸騰するように熱くなる。


「む、無理です!」

「なぜだ」

「私は社交ダンス未経験です! 実家でそんな優雅な教育を受ける余裕も、機会もありませんでした!」

「大丈夫よ」

「えっ」


 王妃殿下が、楽しそうに笑われる。


「王国一の騎士であるヴァレンティス卿が、上手に支えてエスコートしてくださるわ」

「…………」


 私はおそるおそる、クロード様を見上げた。

 彼はほんの少しだけ眉を上げたあと、当然のように、私へ向かって片手を差し出した。


「来い」

「…………」

「絶対に、落とさない」

「そこは全面的に信頼しているのですが!」

「なら問題ない」

「問題は私のポンコツな足運びですぅ……!」


 それでも。

 その真っ直ぐに差し出された大きく温かい手を見ていたら、断れなかった。


 私はそっと、震えるその手を取る。


「……よろしく、お願いします」

「ああ」


 低い声とともに、ぐいっ、と優しく引かれる。

 次の瞬間、私は会場の中央、スポットライトの当たる場所へ立っていた。


 ひぃ。緊張で死にそう。


 だが、曲が始まると同時に、クロード様の大きな手がしっかりと私の腰を支えた。

 腰を抱く手、重ねた手、滑らかに導く足運び。

 無駄がなくて、でも強引ではなくて、私の不器用なステップをすべて完璧にカバーしてくれる、驚くほど踊りやすいリードだった。


「えっ」

「周りは気にするな。前だけ見ろ」

「は、はい」

「俺がすべて合わせる。お前はただ、俺に身を委ねていればいい」

「…………」


 だめだ。

 それ、格好良すぎませんか。


 私は言われた通り、前――正確には、私を見つめるクロード様だけを見た。

 すると、不思議と周囲の突き刺さるような視線が、ノイズのように気にならなくなる。


 優雅な音楽。

 きらめく灯り。

 吐息がかかるほど近い距離。

 真っ直ぐに私だけを見つめてくる、熱を帯びた氷の瞳。


「……楽しいか」

「……はい」

「そうか」

「でも、足を踏まないか、緊張もしています」

「俺がいる」

「はい」

「足を踏んでも気にするな。俺は痛くない」

「それはすごく気にします! 申し訳なさで私が死にます!」

「なら、俺の足の甲に乗れ」

「要求の難易度がおかしいです!」


 ほんの少しだけ、クロード様の口元が緩んだ。

 あ、笑った。


 その瞬間、周囲から「ほう……」と小さなどよめきと感嘆の息が漏れた気がした。


 たぶん。

 皆、見てしまったのだろう。


 冷酷無慈悲な『氷の死神』が、最愛の婚約者に向ける時だけ見せる、あの恐ろしいほど甘く柔らかな表情を。


 ◇ ◇ ◇


 曲が終わる頃には、私の極度の緊張は、魔法のように不思議なくらい和らいでいた。


 最後の一歩を終え、クロード様にそっと引き寄せられて止まる。

 会場から、割れんばかりの万雷の拍手が起こる。


 私は息を切らしながら、でも、心の底から小さく笑っていた。


「……できました」

「ああ」

「生きてます。転びませんでした」

「当然だ。俺がいる」

「そこは少し私を褒めてください」

「よくできた。お前は最高だ」

「……っ」


 そのストレートすぎる一言で、また胸が熱くなる。

 やっぱりこの人はずるい。


 クロード様は私の手を取ったまま、会場を鋭く見渡した。

 そして、誰にともなく、静かに、でも広間の隅々にまで響き渡る声ではっきりと言った。


「見ただろう」


 拍手が、しんと静まる。


「ルシエラは、俺の婚約者だ」

「…………」

「そして、王国が認めた真の聖女だ」

「…………」

「二度と、彼女を誰かの『引き立て役』などと呼ぶな。彼女を軽んじる者は、この俺が容赦なく斬り捨てる」


 その言葉に、会場の空気がぴんと張りつめる。


 でも、それは単なる威圧や恐怖だけではなかった。

 宣言だった。

 私を、もう二度と誰にも低く扱わせないという、絶対的な強者からの、世界へ向けた正式な宣戦布告。


 その瞬間。

 会場にいた人々が、一斉に深く頭を下げた。


「真聖女ルシエラ様に、最大の敬意を」

「ヴァレンティス卿の美しき婚約者殿に、祝福を」

「おめでとうございます」


 一人。また一人。

 その声が波のように重なっていくたび、私の胸の奥が震えた。


 ああ、もう本当に。

 私は、誰かの代わりの引き立て役なんかではないのだ。


 堂々と祝われていい。

 この人の隣に、胸を張って立っていていい。

 そう世界から許され、認められたみたいで、どうしようもなく嬉しかった。


 私は左手の指輪をそっと握る。

 そして、小さく息を吸ってから、会場の人々を見渡した。


「……ありがとうございます」


 声は少し震えたけれど、ちゃんと届いたらしい。

 人々の表情がやわらぎ、再び温かい拍手が巻き起こる。


 その隣で、クロード様が私を見下ろし、低く甘い声で言った。


「よく堂々と立ったな」

「……クロード様が、ずっと手を離さずに、隣にいてくださったからです」

「当然だ」

「今日はその“当然”に何度助けられたか分かりません」

「なら、これからも一生、そうしてやる」

「……はい」


 私は笑った。

 もう、怯えることなく、ちゃんと心から笑えた。


 社交界デビュー。

 隠しきれない美貌。隠しきれない規格外の魔力。


 その全部が、最初は少し怖くて、でも思っていたよりずっと温かかったのは――たぶん、最初から最後まで、クロード様が私の手を決して離さなかったからだ。


 そしてもちろん。


 その夜以降、王都では

「真聖女ルシエラ様、あまりにも美しすぎる」

「ヴァレンティス卿の囲い込みと殺気が本気すぎる」

「夜会で周囲ごと無自覚に回復させたらしい」

 という噂が爆速で広がり。


 一方、すべてを失いつつある偽聖女であったセレフィナと実家の焦りは、ますます破滅的な限界を迎えていくことになるのだった。

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