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第16話 真の聖女として、正式な婚約が発表される

 目が覚めた瞬間、私は「あ、終わったかもしれない」と思った。


 何が終わったのかと言えば、たぶん私の限界オタクとしての羞恥心と、残された僅かな理性である。


 なぜなら。


「……おはよう、ルシエラ」


 すぐ耳元で、甘く掠れた、とんでもなく良い声がしたからだ。


「…………」


 私は数秒、現実逃避した。


 違う。これは夢だ。たぶんまだ寝ている。

 だって目を開けなくても分かる。今の私は、昨日の夜とまったく同じく、クロード様の太い腕の中にすっぽりと収まっている。


 温かい。近い。逃げ場がない。そして、恐ろしいほど落ち着く。

 いや、落ち着いている場合ではない。心臓のBPMがすでに異常数値を叩き出している。


「起きているだろう」

「…………」

「目を開けろ」

「む、無理です……」

「どうしてだ」

「起きた瞬間に『推しの腕の中』という現実を直視するのは、オタクの心臓には厳しすぎまして……!」


 正直に訴えると、頭上でくくっ、と小さく息を吐く気配がした。

 たぶん笑われている。くっ、悔しい。


 けれどその直後、私の背をそっと優しく撫でられてしまい、私は観念してゆっくりと目を開けた。


 近い。

 やっぱり近い。


 朝の光の中で見るクロード様の顔は、昨夜にも増して破壊力が高かった。

 寝起きでほんの少しだけ、警戒心の解けた柔らかい表情。なのに、彫刻のように整いすぎた顔立ち。長い睫毛。透き通るような肌。

 推しの顔面偏差値が至近距離で致死量を超えている。


「ひぅ……」

「変な声を出すな」

「無理ですぅ……」


 私は茹でダコのように真っ赤になりながら、思わず掛け布団をぎゅっと顔まで引き上げた。


 するとクロード様は、そんな私を愛おしそうに見下ろしたまま、ごく自然に言った。


「……よく眠れたか」

「ね、眠れました……自分でも信じられないくらい、泥のように……」

「俺もだ。数年ぶりに、朝まで一度も目が覚めなかった」

「…………」

「やはり、俺にはお前が必要不可欠だな」

「朝から感情が激重です……!」

「事実だ」


 即答だった。


 ああもう、本当にこの人は。

 一切の躊躇や照れもなく、息をするように重い愛情を『絶対的な事実』として告げてくる。

 しかもそれが嫌ではないどころか、じわじわと嬉しくなって、胸の奥が甘く溶けていく自分がいるのだから困る。


 私は熱くなった頬を誤魔化すように視線を逸らし――そこで、左手の指輪が朝日にきらりと光った。


 婚約指輪。ドラゴン産(物理討伐)。意味が重い。

 しかも今の私は、その伝説の指輪をくれた婚約者に抱き込まれて朝を迎えている。


(情報量と供給量が多すぎて処理落ちします……)


 私がひっそりと白目を剥きそうになっていると、クロード様が私の薬指へ静かに視線を落とした。


「似合っている」

「……ありがとうございます」

「今日は、それを『正式』にする」

「はい……」


 言いかけて、私はぴたりと止まった。


 ん?

 今、何と?


「……正式に?」

「ああ」


 クロード様は、今日の朝食のメニューでも告げるかのように、さらりと言った。


「今日、お前との婚約を発表する」

「…………はい?」


 本日も、朝から推しの展開スピードが狂っていた。


 ◇ ◇ ◇


「発表とは、どこで、誰に、どの規模ででしょうか……!?」


 私は朝食の席で、半ば悲鳴のように問いかけた。


 向かいのクロード様は、相変わらず落ち着き払って優雅に食事をとっている。

 対照的に、私は温かいスープのスプーンを持ったまま、小刻みに手が震えていた。


 だって、婚約発表である。

 発表。つまり、二人の間だけの秘密の(強制)同棲生活ではなくなる。いや、もうドラゴン産婚約指輪の時点で十分間だけの話ではなかったのだけれども。


「王宮だ」

「王宮」

「国王陛下と王妃殿下、王家の側近、神殿の上層部、騎士団幹部、および王都の主要貴族の眼前で」

「規模が国家事業レベルに大きすぎません!?」

「必要だ」

「なぜですか!?」

「お前を完全かつ正式に、俺の保護下に置くためだ」

「保護」

「加えて」


 クロード様は、パンを一口サイズにちぎってから、淡々と続けた。


「お前が『真の聖女』であることも、そこで明らかにする」

「…………」

「だから一度で済ませる」

「一度で済ませていいスケールではないですぅ!」


 私は思わず頭を抱えた。


 婚約発表だけでも平民オタクには大事件なのに、真聖女認定まで同日開催とは何事だろうか。

 イベントのフラグを詰め込みすぎである。段階を踏むという概念はないのだろうか。

 たぶん、ないのだろう。知っていた。


 だが、クロード様はひどく真面目で、氷のように冷徹な顔だった。


「ルシエラ」

「は、はい……」

「これは、お前を誰にも奪わせないため、そして二度と誰にも虐げさせないための、正式な宣戦布告だ」

「…………」

「あのゴミ溜めのような実家も、権力に群がる神殿も、王家すらも、後からお前に余計な口を挟めなくなる」

「うっ」


 それを言われると、弱い。


 確かに、婚約が正式に発表され、なおかつ私が真の聖女だと公に認められれば、実家が「うちの所有物だから戻せ」などと騒ぎ立てる余地は完全に消滅する。

 むしろ、国ごと正式に「クロード様の婚約者であり、絶対保護対象であり、しかも真聖女」と認識されるわけで。

 うん。だいぶ、いや無敵レベルで強い。


「……理屈は、分かります」

「ああ」

「でも、私がそんな大舞台に立つなんて、心が追いつきません……」

「追いつかなくていい」

「えっ」

「お前はただ、俺の隣に立っていればいい」


 私はしばし、言葉を失った。


 俺の隣に立っていればいい。

 何かをこなさなくていい。誰かの役に立たなくてはと、自分の身を削って背伸びしなくていい。

 ただそこにいてくれればいいと、そう言われている気がして。


「……ずるいです」

「何がだ」

「そういう言い方がです。泣きそうになります」

「そうか」

「はい」

「だが事実だ」


 はい、重い。本日も大変に重いです。

 でも好きです。困ったことに。


 ◇ ◇ ◇


 その後、私は人生でいちばん丁寧に、そして豪華に身支度を整えられた。


 侍女さんたちが総出で髪を結い上げ、魔法で肌を整え、ドレスを着せてくれる。

 淡い光を織り込んだような白銀のドレスは、触れるだけでさらりと揺れて、まるで月光そのものを布にして纏ったみたいだった。


「お、おお……」

「ルシエラ様、大変よくお似合いです。女神のようでございます」

「これ、私で合っています? 誰か別人にすり替わっていませんか?」

「もちろんでございます。旦那様もきっと見惚れられますよ」


 大きな鏡に映る自分を見て、私は本気で戸惑った。

 誰ですか、この人。

 少なくとも、つい先日までカビ臭い屋根裏部屋でボロ雑巾のように働き、家族の罵声を受け止めていた令嬢ではない。

 あの頃の私も私だけれど、今の私は、ちゃんと誰かに大事に扱われ、大切に愛されている私だった。


 すると、背後から重厚な扉が開く気配がした。


「旦那様がお見えです」


 その声に振り向いた私は、危うくその場で呼吸を忘れて倒れるところだった。


 クロード様がいた。

 正装だった。


 黒を基調とした最高級の礼装は、彼の長身と均整の取れた体つきを容赦なく際立たせていた。

 胸元に輝く王国筆頭騎士の紋章。きっちりと流されたプラチナブロンドの髪。

 いつもよりさらに洗練された、一切の隙のない美貌。


 格好良すぎる。


「…………」

「どうした」

「いえ、ちょっと、推しが正装で顔面偏差値の限界を更新してきたので、心臓の避難が必要でして……」

「そうか」

「そうかで流さないでください……!」


 私がくらくらとふらつきそうになった、その瞬間。

 当然のようにクロード様が距離を詰め、私の腰をがっちりと支えた。


「無理はするな」

「まだ移動前ですぅ……」

「だから支える。倒れたらどうする」

「その過保護な理屈、いつも強いですね……」


 クロード様はそんな私をじっと見つめた。

 そして、氷結の瞳をほんの僅かに、けれど劇的に熱を帯びて細める。


「綺麗だ」

「…………っ」


 駄目だ。今日はもう駄目だ。

 まだ王宮にも着いていないのに、すでに情緒のHPがゼロである。


 私が顔の熱をごまかすように俯くと、クロード様は私の左手を取り、婚約指輪へそっと、誓いのように口づけた。


「誰にも、指一本触れさせん。文句も言わせん」

「……はい」

「不安か」

「少しだけ」

「なら、俺だけを見ていろ」

「それはまた、だいぶ難易度の高い指示ですね……?」

「できるだろう」

「……たぶん」


 だって、どうしたって見てしまう。

 最愛の推しなのだから。しかも今日は、私だけの『婚約者仕様』である。


 ◇ ◇ ◇


 王宮の大広間は、眩暈がするほど華やかで、そして厳かだった。


 見上げるほど高い天井。磨き抜かれた大理石の床。壮麗な金銀の装飾。

 王家の旗。神殿の紋章。

 ずらりと並び立つ、高位の貴族たちと騎士たち。


 私は一歩足を踏み入れた瞬間、その重圧に少しだけ足が止まりそうになった。


 すごい。規模が。空気が。

 あと、私に突き刺さる無数の視線が。


「っ」


 だが、その時。

 隣で、クロード様の大きく温かい手が、私の震える手をすっぽりと包み込んだ。

 逃げなくていい。俺がいる。そう言ってくれるみたいな、力強い温もりだった。


「前を向け」

「……はい」


 深呼吸。大丈夫。私は一人ではない。


 広間の最奥には、国王陛下と王妃殿下が立っていた。

 その傍らには神殿の大神官、宮廷魔術師、そして騎士団の幹部たちの姿も見える。


 しかも、第一騎士団の皆さんが、なぜかものすごく誇らしげな、後方腕組み保護者みたいな顔でこちらを見ていた。

 やめてほしい。そんな「我らが団長、ついに女神をオトす」みたいな空気を醸し出されると、余計に恥ずかしい。


「クロード、よく来た」


 国王陛下の声が広間に響く。

 威厳のある方だった。だが、クロード様を見る目はどこか親しみと深い信頼を含んでいる。


「そして、そちらがルシエラ嬢か」

「は、はい。ルシエラ・ルミナスでございます」


 私は慌てて、教わった通りの完璧な礼をした。

 すると王妃殿下が、やわらかく微笑まれる。


「顔を上げて。そんなに緊張しなくてもよいのですよ」

「お、恐れ多くて……」

「まあ、可愛らしいこと」


 やめてください。

 今の私はだいぶ情緒が危ういので、誰かに優しくされるとすぐ泣きそうになるのです。実家で優しくされた記憶が皆無なもので。


 その時、大神官が一歩前へ出た。

 純白の法衣を纏った年配の男性で、厳かな雰囲気をまとっている。


「まずは、確認の儀を」


 確認。

 たぶん、本日のメインイベントその1、聖女認定の本番である。

 私はこくりと喉を鳴らした。


 広間の中央へ、小さな祭壇のような台が運ばれる。

 そこには、透明で巨大な『水晶球』のようなものが置かれていた。


 大神官が静かに、広間全体へ響くように告げる。


「古来より、真なる聖なる力は、この『聖晶』に触れた時のみ、正しく共鳴し、その輝きをもって真実を証明いたします」

「…………」

「ルシエラ嬢。どうぞ、お手を」


 私は一瞬だけ、隣のクロード様を見た。

 彼は何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ、強く頷いてくれる。


 大丈夫。そう思えた。

 私はゆっくりと祭壇へ歩み寄り、そっと、聖晶へ手を伸ばした。


 指先が触れた、その瞬間。


 ぱあっ、と。

 まるで夜明けの太陽がその場に現れたかのような、やわらかく、けれど圧倒的な白金の光が、大広間いっぱいに溢れた。


「……っ!?」


 私は思わず息を呑む。

 眩しい。でも、不思議と目が痛くない。

 優しくて、温かくて、触れた人の胸の奥底の澱みまで浄化するような、絶対的な光だった。


 聖晶だけではない。

 床に描かれた古い紋様が一斉に輝き、天井近くの巨大なシャンデリアに吊るされた魔石が共鳴するようにきらめき始める。


 ざわっ、と広間が激しく揺れた。


「こ、これは……!」

「聖晶がここまで輝くなど……歴史上でも聞いたことがないぞ!?」

「まさか、本当に……」


 ざわめく声。息を呑む気配。

 その中で大神官だけが、涙を流し、震えるような声で呟いた。


「……間違いない」


 彼はゆっくりと、その場に跪いた。


「この方こそ、我らが待ち望んだ『真なる聖女』にございます」


 その瞬間。

 周囲にいた高位の神官たちまでもが、一斉に深く膝をついた。


 私は完全に固まった。

 えっ。規模が大きい。私が思っていた「絆創膏レベルの魔法」より、はるかにスケールが大きい。


(応援上映にしては、厳かすぎませんか……!?)


 だが、誰もそんな限界オタクのような軽い空気ではなかった。


 王妃殿下が感動に目を潤ませ、国王陛下も深く頷く。

 騎士団の皆さんに至っては、「やっぱりうちの女神だ……!」みたいな顔でドヤ顔をしている。知っていたのですか。まあクッキーで腕が生えたから知っていたでしょうね。


 すると、その光の余波が広間全体へふわりと広がった。


「お、おお……?」

「肩が……羽のように軽い?」

「長年の古傷の痛みが、一瞬で消えた……!」


 あちこちから、驚愕と歓喜のどよめきが上がる。

 私は目を丸くした。


 あれ? また何か無意識にやっていませんか?

 どうやら聖晶との共鳴だけで、広間にいる数百人の人たちの不調まで癒やしてしまったらしい。

 うん、やっぱり私、自分の認識よりだいぶやばいチートをしている気がする。


「ルシエラ」


 不意に名前を呼ばれ、振り向く。

 そこには、誰よりまっすぐな、熱を帯びた視線で私を見るクロード様がいた。

 その目にあるのは、驚きではなく、絶対的な確信と誇りだった。


「俺が言っただろう」

「……はい?」

「お前の力は、大層だと」


 私は一瞬、何も言えなかった。


 ああ、この人は、最初から私のすべてを信じてくれていたのだ。

 魔力ゼロのゴミだと言われ続けた私を。自分の力を大したことないと思い込んでいた私を。誰よりも。


 胸の奥が、じんと熱くなる。


 ◇ ◇ ◇


 聖女認定の圧倒的なざわめきが収まるのを待って、国王陛下が大広間を見渡した。


「本日、ここに宣言する」


 その声は大きく、よく通った。


「ルシエラ・ルミナス嬢を、真なる聖女として王国が正式に認める」

「…………」

「そして同時に。我が国の剣である筆頭騎士クロード・ヴァレンティスとの婚約を、王家の名のもとに承認する!」


 ざわあっ、と。今度は別の意味で、広間が爆発したように揺れた。

 本日のメインイベントその2である。


 貴族たちが一斉にざわつく。神官たちは畏まった顔で頭を下げる。

 騎士団は「団長ついにやりやがった!」みたいな空気で盛り上がっている。


 私は羞恥で真っ赤になりながら、隣のクロード様を見た。

 すると彼は、まるで当然のことのように私の手を持ち上げ、指輪のはまった薬指へ、見せつけるように深く口づけを落とした。


「ひゃっ……!」


 小さな悲鳴が漏れる。

 やめてください。大広間です。王家も神殿も騎士団も、なんなら貴族社会の重鎮が全員見ているのですが!


 しかし、クロード様は周囲の視線など微塵も気にしていなかった。

 むしろ、全員へ向けて所有権を主張するように静かに言い切る。


「これで、正式になったな」

「そ、それはそうなのですが……!」

「もう誰にも、文句は言わせん。お前は俺のものだ」

「……はい」


 胸がいっぱいで、もうそれ以上うまく言葉が出なかった。

 嬉しい。恥ずかしい。でも、嬉しい。


 前世のブラック企業でも、今世の実家でも、私はずっと「いなくてもいい側」「代わりの利く歯車」だと思っていた。

 いて当然、働いて当然、消耗して当然。そういうふうに扱われることに慣れすぎて、自分の価値を殺していた。


 でも今は違う。

 ここにいていいどころではない。

 ちゃんと選ばれて、ただ一人として望まれて、こんなにも過保護に守られている。


 その事実が、婚約発表という形で、世界中へ示されたのだ。


 すると、国王陛下が何とも言えない顔でクロード様を見た。


「……ヴァレンティス卿」

「何でしょう」

「婚約はめでたい。実におめでたいのだが」

「はい」

「ルシエラ嬢を聖女として、今後、国の公務へ――」

「断ります」

「最後まで聞いてくれぬか!?」


 食い気味だった。

 広間の空気が一瞬だけ「えっ」という方向へ揺れる。

 私は思わず目を瞬いた。


 クロード様は、王を前にして一切悪びれない真顔だった。


「俺の婚約者を、働かせる気ですか」

「いや、聖女としての公的役割というものがだな」

「過重労働では?」

「そこまでではない!」

「彼女は今まで十分すぎるほど不当に働かされてきた。俺は彼女に、指一本動かさせる気はありません」

「極端すぎるだろう! なら、最小限にしてください!」

「……検討します」

「う、うむ……」


 王様が完全に押されている。

 すごい。さすが推し。王権にも国家の都合にも一切臆しない、狂気の過保護である。


 私は小さく肩を震わせた。

 笑ってはいけない場面かもしれない。でも、どうしてもおかしくて、ちょっとだけ笑ってしまう。


 するとクロード様がこちらを見た。


「どうした」

「いえ……クロード様らしいなと」

「そうか」

「はい。とても」


 大神官まで、こほんと咳払いしながら言う。


「真聖女様のご負担は、たしかに最小限にすべきかと……」

「でしょうね!」


 第一騎士団の皆さんが、なぜか力強く深く頷いている。

 団長の『ルシエラ至上主義』の思想が完全に部下に浸透している。


 ◇ ◇ ◇


 式が終わり、人々の畏敬と祝福を受けながら大広間を退出する頃には、私はだいぶふわふわとしていた。


 情報量が多い。とにかく多い。

 真聖女認定。正式な婚約発表。王家公認。神殿承認。

 そして、推しによる『国公認の絶対労働拒否(過保護)宣言』。


 もう、どこから感情を整理していいのか分からない。


「疲れたか」

「……少しだけ」

「よくやった」

「クロード様が全部持っていきましたけどね……」

「何の話だ」

「王様に対する過保護の圧の話です」

「当然だ。俺の妻を働かせるなど言語道断だ」

「今日何度目ですか、その“当然”……」


 私が半ば呆れてそう言うと、クロード様は少しだけ口元を緩めた。

 ほんの僅かだったけれど、それがたまらなく嬉しい。


 王宮の回廊は静かだった。

 先ほどまでの喧騒が嘘みたいに、柔らかな光が差し込んでいる。


 私は歩きながら、左手の指輪を見た。

 まだ信じられない。でも、これはもう夢ではないのだ。


 その時。

 クロード様が、ふいに足を止めた。


「ルシエラ」

「はい?」

「改めて言う」

「……はい」


 彼はまっすぐ、私を見た。


「お前は、俺の誇りだ」

「…………っ」


 息が止まりそうになった。


 好きとか、愛しているとか、そういう言葉ももちろん嬉しい。

 でも、搾取され、無能だと蔑まれてきた私にとって、『誇りだ』と言われるのは、たぶんもっと深く、魂の底まで刺さる言葉だった。


 私は、喉の奥が熱くなるのを感じた。


「……ずるいです」

「何がだ」

「今日だけで、何回私を泣かせれば気が済むのですか」

「泣かせるつもりはない」

「でも泣きます……」

「なら、俺の胸で泣いてもいい」

「……そういうところです」


 私は堪えきれず、小さく笑ってしまった。

 ポロリと涙がこぼれて、でも、それは苦しい涙ではなかった。


 クロード様はそんな私の頬に触れ、親指で目元をそっと撫でる。


「もう誰にも、お前を引き立て役などとは言わせん」

「……はい」

「お前はお前のままで、最初から圧倒的な価値があった」

「…………」

「これからは、それを世界中に分からせる」


 ああ、駄目だ。

 本当に、胸がいっぱいで何も言えない。自分の人生が、完全に肯定された気がした。


 だから私は、代わりに、そっとクロード様の服の袖を掴んだ。

 もう、前みたいに遠慮するだけではない。

 少しずつだけれど、自分から彼に甘え、頼れるようになってきたから。


 するとクロード様が、ほんの少しだけ目を細める。


「どうした」

「……その」

「言え」

「ありがとうございます。見つけてくれて」

「礼はいらん」

「でも」

「そうか」

「はい」

「なら、受け取る。一生だ」


 その重すぎる返答が、なんだか可笑しくて。

 でも優しくて。

 私はまた小さく笑った。


 ◇ ◇ ◇


 その日の夕暮れ。


 王都ではすでに、噂が爆発的に駆け巡っていた。


『筆頭騎士クロード様が婚約したらしい』

『お相手は真聖女だとか』

『いや、あのルミナス伯爵家の長女だと聞いたぞ』

『魔力ゼロの引き立て役扱いされていた方では?』

『では、今まで聖女面していたルミナス家の次女は……偽物か?』


 街のざわめきは、もう止まらないだろう。

 そしてその先で、私の実家がどれほど青ざめ、破滅へ向かうことになるかも、想像に難くない。クロード様の『ざまぁ』の包囲網は、すでに完成しているのだから。


 でも今の私は、そのことよりも、ただ隣の温もりが嬉しかった。


 帰りの馬車の中。

 私はクロード様の肩にこてりともたれながら、窓の外の夕焼けを眺めていた。


 正式に婚約が発表された。

 真聖女として認められた。

 第一部完、と言ってもいいくらいの大きな節目だ。


 けれど、終わりというより、たぶんこれは始まりなのだろう。


 私の知らない世界が、これからもっと広がっていく。

 社交界だって待っているだろうし、偽聖女だったセレフィナと実家の件も、これからがクロード様による本番(徹底的な蹂躙)だ。


 でも、不思議と怖くなかった。

 なぜなら。


「ルシエラ」

「はい?」

「眠いなら寝ていい」

「……少しだけ」

「なら、俺の肩を使え」

「はい」


 そう言ってくれる人が、最強の騎士が、私の隣にいるからだ。


 私は素直にクロード様へ寄りかかった。

 すると、大きな手がそっと私の肩を抱き寄せる。


「今日もよく頑張ったな」

「クロード様もです」

「俺はいい」

「よくありません。王宮での根回しから発表まで、クロード様の方が過密日程です」

「お前がいれば、俺の魔力も気力も無限に湧く。問題ない」

「また重いです」

「事実だ」


 ふふ、と小さく笑ってしまう。


 ああ、もう本当に。

 私の推しは、どこまでいっても激重で、狂気的なほど過保護で、優しくて、最高に格好いい。


 そして私は、そんな推しに、骨の髄まで愛されている。


 前世の社畜OLだった私が聞いたら、絶対に「寝言は寝てから言え」と信じないだろう。

 でもこれは、間違いなく今の私の現実だ。


 私はそっと目を閉じた。


 ブラックな環境で搾取されるだけの人生は、もう完全に終わった。

 これから始まるのは、きっともっと眩しくて、もっと甘くて、もっと騒がしい日々だ。


 ――これは、引き立て役として搾取されていた元社畜令嬢が、

 最愛の推しに見初められ、

 真の聖女として世界に認められ、

 世界一甘い、福利厚生MAXの幸せへ踏み出した、その第一歩。


 そしてもちろん。

 そんな私を隣で抱き寄せるクロード様は、すでに次の段階の『過保護(執着)』を考えていそうな黒い笑みを浮かべていたので――私の超絶ホワイトな溺愛人生は、たぶんこれからますます加速していくのだろう。



最後までお読みいただきありがとうございます。


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