第15話 公爵邸での甘い夜。添い寝(強制)から逃げられない
その日の夜、私は人生でいちばん贅沢で、そして胃袋と情緒に負担のかかる「勝利祝い」を受けていた。
まず、食事がすごかった。
何がすごいって、単に高級だというだけではない。テーブルに並べられた料理が、「全部、私が過去にほんの少しだけ視線を向けたもの」で構成されているのが恐ろしかった。
とろけるようにやわらかく煮込まれた最高級の肉料理。
香草の香る、透き通った黄金色のスープ。
外はパリッと、中は雲のようにふんわりした焼きたてのパン。
ほどよい甘さの、冷たい果実のコンポート。
しかも食後には、私が厨房で使ったのと同じ、上質な蜂蜜を使った小さな焼き菓子まで出てきた。
何これ。夢?
福利厚生に国家予算でも注ぎ込んでいる神話世界?
私はテーブルの前で、何度目か分からない感動に打ち震えていた。
「お、おいしいです……」
「そうか」
長テーブルの向こうに座るクロード様が、短く頷く。
その声はいつも通り低く落ち着いていたけれど、氷結の瞳だけは、雪解けのようにほんの少し和らいでいた。
私が食事を口に運ぶのを見るだけで機嫌が良くなる仕様、本当にどういうシステムなのだろう。
重い。でも、とてつもなくありがたい。
「もっと食べろ」
「いえ、もう十分お腹いっぱいで……」
「今日の激しい消耗分には、まだ足りん」
「精神的なダメージまで、カロリーで補填される換算なんですね!?」
「当然だ。痩せたらどうする」
「一日でそんなに急激に痩せませんよ!」
けれど、結局私は追加のスープまできっちり平らげた。
なぜなら、本当においしかったからだ。
前世で深夜に流し込んだゼリー飲料とも、今世の実家で啜っていた冷たい塩水のようなスープとも違う。血肉になり、魂を温めてくれる『本物の食事』だった。
そして何より、今日はちょっとだけ、心が疲れていた。
実家からの手紙。使者への返答。自分の口で、「私はもう貴方たちの社畜ではない」と決別を告げたこと。
後悔は一切していない。むしろ言えてよかったと、心の底から思っている。
それでも、長年染みついた『奴隷の鎖』を自力で引きちぎるのは、思っていた以上に体力をすり減らす行為だったらしい。
だからこそ、こうして温かく安全な場所で、ゆっくり食事を味わえることが、やけに五臓六腑に沁みた。
「……ルシエラ」
「はい?」
「今日は、よく頑張ったな」
「…………」
不意に、ひどく優しい声でそう言われて、私は手にしていたスプーンを止めた。
まただ。
また、こういうふうに、私が一番欲しい言葉を、一番欲しい時に、真っ直ぐにくれる。
ずるい。本当にずるい。
私は熱くなりそうな目元を誤魔化すように、俯いた。
「……ありがとうございます」
「礼はいらん」
「でも、言いたいのです」
「……そうか」
クロード様はそれ以上何も言わなかった。ただ、私がまた一口食べるのを、静かに、愛おしいものを見るような目で見守っている。
その視線が、嫌ではない。むしろ、ひどく落ち着く。
ああ、もう本当に、私はかなりこの人に絆され、慣らされてしまっているのだろう。
◇ ◇ ◇
食事の後は、極上の湯浴みまで用意されていた。
しかも、ただのお湯ではない。香りの良い希少な花びらが浮かび、肌あたりのやさしいとろみのある湯で、立ち上る湯気までなんだか上品だった。
私は広すぎる大理石の浴槽の中で、ほう……と深く息を吐いた。
(……完全に、人間として駄目になります)
心の底から思う。
前世も今世も、私の生活に「仕事のあとにゆっくり湯に浸かる」という文化は存在しなかった。
忙しすぎるか、倒れるように眠るか、あるいはその両方で、気づけば一日が終わっている。それが底辺の普通だった。
なのに今はどうだろう。
理不尽な労働の代わりに、甘すぎる勝利祝い。温かい食事。丁寧な湯浴み。
しかも今日は、婚約者である最強の推し本人から「よく頑張った」と頭を撫でられている。
前世の私が今の私を見たら、「それは何らかの幻術か新手の詐欺だから、今すぐクーリングオフしろ」と真顔で警告してきそうである。
でも現実なのだ。恐ろしい。
私はそっと、左手を持ち上げた。
薬指の指輪が、湯気の向こうで静かに、けれど圧倒的な存在感を放って光っている。
婚約指輪。ドラゴン産。意味が重い。でも、息を呑むほどきれい。
「……婚約者、かぁ」
小さく呟くと、胸の奥がまたじわりと熱くなった。
実感は、まだ半分くらいしかない。でも、嬉しさはちゃんとある。それどころか、考えれば考えるほど、遅れてじわじわ効いてくるタイプの恐ろしい喜びだ。
そしてもちろん、その喜びと同じくらい、クロード様という存在の『破壊力』も増していた。
婚約者。その単語を使っていい関係。
それってつまり、これまで以上に、正当な理由をもって距離が近くなるのでは?
いや、これ以上近くなる余地があるのだろうか。
すでに移動は抱っこが標準装備(強制)だし、日中は執務室で完全監視されているのだが。
でも、たぶん、あるのだ。あの方の底知れぬ独占欲と行動力をもってすれば。
(……怖いような、嬉しいような……)
私はお湯の中で膝を抱え、ひっそりと茹でダコのように頬を染めた。
だが、その時の私はまだ知らなかった。
このあとすぐ、私の想像していた「距離が近くなる」の基準が、限界オタクの想像力を遥かに超えて、だいぶ甘かったことを思い知らされるのだと。
◇ ◇ ◇
湯浴みを終え、侍女さんたちに髪を艶々に整えてもらい、客間――いや、今ではもう完全に私の私室となっている広大な部屋へ戻る頃には、すっかり夜も更けていた。
窓の外には、静かな月。
部屋の中には、柔らかな魔石灯の灯り。
寝台は今日も、王族仕様のようにふかふかだ。
私は着せられた最高級シルクの寝間着の裾を整えながら、ほっと息をついた。
今日は、さすがに疲れた。
いい意味でも悪い意味でも、感情の処理が追いつかず、精神が忙しすぎたのだ。
実家との決別。クロード様からの勝利祝い。婚約者扱いの破壊力。もう胸のキャパシティがいっぱいで、そろそろ電源を落としたい。
「では、おやすみなさいませ、ルシエラ様」
「はい、おやすみなさい」
侍女さんたちが恭しく一礼して部屋を出ていく。
扉が閉まり、静けさが戻る。
私は一人になると、すとんと寝台の縁へ腰を下ろした。
ふかふかだ。今日も大変に素晴らしい寝台である。もうカビ臭い屋根裏部屋には、一秒たりとも戻れる気がしない。いや、戻る気は一切ないのだが。
「……今日は、本当に色々ありましたねぇ……」
誰に言うでもなく呟いて、私はそっとベッドへ潜り込んだ。
温かい。柔らかい。安心する。
目を閉じれば、泥のようにすぐに眠れそうだった。
そう。眠れそう、だったのだ。
こつ、こつ、と。
静かな、けれど有無を言わせぬノックの音が響くまでは。
「……はい?」
こんな時間に誰だろう。侍女さんだろうか。それとも何か急ぎの用事でも――。
「――俺だ」
「…………」
心臓が、ビクンッと大きく跳ねた。
今の低くて良い声は、どう考えてもクロード様である。
えっ。
この時間に? 私の寝室に? どうして?
何かあったのだろうか。まさか実家がまた愚かにも押しかけてきたとか、ドラゴンのつがいの残党が報復に来たとか、そういう物騒な緊急事態では。
私は慌ててベッドから起き上がった。
「ど、どうぞ!」
重厚な扉が開く。
そこに立っていたのは、予想通りクロード様だった。
ただし、いつもの隙のない漆黒の騎士服ではない。黒を基調とした、やや胸元の開いた、くつろいだ室内着のような格好だ。
……あ、駄目だ。
夜の推し、色気の破壊力が高すぎる。
昼間の鋭い戦闘モードとは違う、少しだけ力の抜けた無防備な雰囲気。
それなのに顔が良い。むしろ良さが増している。彫刻のような鎖骨のラインが目に毒だ。
何なのだろう、この人は。歩く凶器か。
私は動揺を全力で押し隠しながら、ぺこりと頭を下げた。
「こ、こんばんは……?」
「こんばんは、ではないな」
「で、ですよね! もう深夜ですし! ええと、その、何か緊急の事案でしょうか!?」
限界社畜特有の変なビジネス用語が出た。落ち着け、私。
クロード様は扉を静かに閉めると、まっすぐこちらへ歩いてきた。
私は反射的にシーツを握りしめ、背筋を伸ばす。
そして彼は、私の目の前で立ち止まり、実に真面目な顔で、とんでもないことを言った。
「――今夜は、ここで寝る」
「…………はい?」
私は数秒、言葉の文法を理解できなかった。
今夜は。ここで。寝る。
誰が? クロード様が? この部屋の、このベッドで?
私と?
「…………はい?」
二度聞き返してしまった。仕方がないと思う。
だがクロード様は、まったく表情を崩さなかった。
「お前と一緒に寝る」
「い、一緒に!?」
「ああ」
「な、なぜでしょうか!? 婚約したとはいえ、順序というものが!」
「眠れん」
「…………へ?」
予想していた『強引な口説き文句』と違いすぎて、私はぽかんとした。
眠れない。クロード様が。
「え、ええと……それは、その、何か明日の討伐などでご不安なことでも……?」
「違う。お前がいないと、落ち着かん」
「…………」
「正確には、お前の魔力がないと眠れない体になった」
「…………」
「だから、添い寝しろ」
言われていることの事実関係が重すぎる。
◇ ◇ ◇
「ちょ、ちょっと待ってください!」
私は思わず、ベッドの上でずるずると一歩後ずさった。
だが、後ろはすぐに大きなヘッドボードだった。逃げ道がない。いや、横から降りられるのだが、彼から放たれる圧のせいで、心情的には完全に追い詰められていた。
「ええと、その、今の台詞、色々な意味でだいぶ事案ではありませんか!?」
「何がだ」
「全部です!」
「眠れないのは事実だ。現にここ数日、お前の部屋から漏れる魔力のおかげで、ようやくまともに休息が取れていた」
「事実だとしても、言い方というものが……!」
「婚約者に誤魔化す必要があるか」
「ありまくりです! オタクの心臓への配慮をお願いします!」
クロード様は少しだけ怪訝そうに眉を寄せた。
本気で分からない顔だった。
ああ、そうだ。
この人はこういう人だった。
重い感情や事実を、小細工なしで真正面から全力投球してくるタイプである。言葉を和らげるとか、段階を踏むとか、そういう発想がたぶんあまりない。
でも、でもだ。
「こ、婚約したとはいえ! 夜に同じ部屋で、その、同じ寝台で添い寝というのは、私の心の準備がですね……!」
「昨日も同じことを言っていたな」
「言っていました! だからまだ準備ができていないのです!」
「なら、今から慣れろ」
「またその力技ですか!?」
横暴。でも顔が良い。いやそこではない。
私は真っ赤になった顔を両手で覆いたくなった。
だが、覆ったらもっと動揺しているのがばれてしまう。いや、もう完全にばれている気もするが。
クロード様は、ベッドの縁に片膝をつき、一歩距離を詰めてくる。
「ルシエラ」
「は、はいっ」
「俺は本当に、お前がいないと眠れん」
「…………」
「今まで、夜な夜な訪れるお前の温かい魔力に、ずっと助けられていた。お前が俺の魂を繋ぎ止めていた」
「そ、それは……」
「この数日は、お前が同じ屋敷の、すぐ近くにいるからまだ良かった」
「まだ」
「だが、今日は出かけていて、お前の顔を見ない時間が長かった」
私は、ぴたりと動きを止めた。
今日、朝からドラゴン討伐に出かけていたから。
私も、朝のコンディション確認がなくて、一日中落ち着かなかった。
もしかして、クロード様も――?
「寝台に入った瞬間、俺の中でお前が圧倒的に『足りない』と分かった」
「…………」
「だから来た」
なんてことだろう。
言い方がいちいち重くて、不器用だ。
でもその一方で、胸の奥がどうしようもなく熱く、甘く溶けていくのを感じる。
必要とされている。
都合のいい労働力としてではなく。ただの治癒魔法のタンクとしてでもなく。
ただ、『私がいないと駄目だ』と、これ以上なく真っ直ぐに。
「……嫌か」
低い、少しだけ掠れた声で、そう問われた。
その瞬間、私ははっとした。
クロード様の言葉や行動はいつも強い。強引だ。
でも、今の一言だけは、ほんの少しだけ怯えるように慎重だった。
『嫌なら嫌と言え』と、何度も言ってくれた人だ。
だからこそ、彼自身の渇望を押し殺してでも、今もちゃんと私の意思を確認してくれている。
私は小さく息を吸い、吐いて、正直に答えた。
「……嫌、ではないです」
「そうか」
「で、でも、恥ずかしいです!」
「慣れろ」
「やっぱりそこに戻るんですね!?」
駄目だ。やっぱりこの人、最後は自分の都合の良いところへ着地する。
だが、クロード様はそんな私の抗議をさらりと流しつつ、当たり前のように広大なベッドへ視線を向けた。
「広いな」
「え?」
「二人でも全く問題ない」
「現場のスペース判断が早いです!」
「何か問題あるか」
「だから、私の心臓がもちません!」
するとクロード様は、ほんの少しだけ、意地悪く目を細めた。
「俺も似たようなものだ」
「…………へ?」
思わず、聞き返してしまう。
クロード様は私から目を逸らさなかった。
「お前が近いと、ひどく落ち着く。魔力も安定する」
「…………」
「だが同時に、お前が可愛すぎて、妙に心臓に悪い」
「…………!」
「だから、おあいこだ」
私はしばらく、言葉を失った。
そんなこと、言われると思わないではないか。
王国最強の筆頭騎士が。冷酷無慈悲と恐れられる『氷の死神』が。
私みたいな地味な女のせいで「心臓に悪い」なんて。
ああもう、無理だ。
こんなの、断れるわけがない。
「……わ、分かりました」
「そうか」
「ただし、条件があります!」
「何だ」
「いきなり距離が近すぎると、私が羞恥で物理的に蒸発するので、段階的にお願いします!」
「段階的」
「はい! まずは、少し離れて隣に横になるだけ、とか……!」
「……分かった」
「ほ、本当ですか?」
「ああ。まずは隣だ」
「よかった……」
私は安堵して胸を撫で下ろした。
うん。隣に横になるだけ。触れない。
それなら、たぶん、まだ大丈夫。
いや同じベッドに推しがいる時点で大丈夫ではないかもしれないが、まだ翌朝まで生きていられる余地はある。
……そう思っていた時期が、私にも、たった数秒間だけありました。
◇ ◇ ◇
数分後。
私はベッドの端っこで、ものすごく姿勢よく、死体のように直立不動で横たわっていた。
緊張しすぎて、逆に背筋がぴんと伸びている。寝る姿勢とは何なのか。
そしてすぐ隣には、クロード様がいる。
同じ寝台に。同じ、大きな掛け布団の下に。
無理。
やっぱり無理では。これ絶対無理なやつでは。
「ルシエラ。力が入りすぎている」
「そ、それはそうです! 隣に国宝が寝ているのですから!」
「そんなに警戒しなくていい。食ったりはしない」
「警戒ではなく、激しい動揺です……!」
「俺にとっては同じだ」
「違います!」
私は必死にシーツを握りしめながら、ちらりと隣を見た。
クロード様は仰向けになっている。
長い睫毛。暗がりでも分かる整った鼻筋。室内灯の下でも圧倒的に美しい。
えっ、何この状況。本当に合法?
いや婚約者だから合法なのかもしれない。でも限界オタクの心が全く追いつかない。
「ルシエラ」
「は、はいっ」
「こっちを向け」
「えっ」
「魔力が遠い」
「遠い、ですか。同じベッドですが」
「ああ」
そう言われても。
今ですら十分すぎるほど近い気がするのだが。
私が羞恥でもごもごと躊躇っていると、クロード様は「はあ」と小さくため息をついた。
そして次の瞬間、ぐいっ、と私の肩を強引に引き寄せた。
「ひゃっ」
あっという間に距離がゼロになる。
気づけば、私はクロード様のたくましい腕の中に、抱き枕のようにすっぽりと収まっていた。
硬い胸元に額が当たる。
背中には、私を閉じ込めるような大きな手。
逃げ場がない。
でも、苦しくない。むしろ、恐ろしいほどに、妙に落ち着く。
「ク、クロード様!?」
「隣だと、やはりお前が足りない」
「話が違います! 段階的という約束は!」
「数分試した結果、俺には無理だと分かった」
「試行と諦めが早すぎますぅ!」
だが、クロード様の腕は一切緩まなかった。
むしろ、私を完全に自分のテリトリーへ抱き込むように、少しだけ力がこもる。
その動きは決して乱暴ではなく、でも「絶対に離さない」という執着を雄弁に語っていた。
「これでいい。これが一番落ち着く」
「わ、私の心臓にはよくありません……!」
「そのうち慣れる」
「またそれですか!」
「事実だ」
くっ。
低い声で正論っぽく言われると、反論できない。
私は顔を真っ赤にしたまま、どうにか呼吸を整えようとした。
でも無理だ。
だって推しの力強い心音が、すぐ耳元で聞こえる。体温も直に伝わってくる。
しかもすぐ頭上から、低くて甘い声が降ってくるのだ。
「……やはり、お前が腕の中にいると楽だ」
「…………」
「今日は、よく眠れそうだ」
「…………」
「……来て正解だったな」
その声を聞くたびに、胸の奥がきゅうっとなる。
駄目だ。
これはもう、オタクの許容量を完全に超えている。
こんなの、もはやファンサではない。公式供給の暴力である。
「……ルシエラ」
「は、い……」
「お前は?」
「へ?」
「俺に抱かれて、苦しいか」
「…………」
私は、少しだけ考えた。
苦しいかと聞かれたら、心臓の働き的には非常に苦しい。情緒も爆発寸前で大変である。
でも、それとは別に――。
「……嫌では、ないです」
「そうか」
「むしろ、あの、その……」
「言え」
「……とても、落ち着きます」
「…………」
上から返事がない。
えっ、何だろう。
乙女として、何か変なこと(大胆なこと)を言ってしまっただろうか。
恐る恐る顔を上げかけた、その瞬間。
私の頭頂部へ、チュッ、と柔らかな唇が触れた。
「ひゃうっ!?」
何か今、ものすごく破廉恥なことをされませんでしたか!?
「ク、クロード様!?」
「静かにしろ。夜だぞ」
「今のは!?」
「褒美だ」
「何の!?」
「素直で可愛いことを言えた分だ」
「褒美の基準がおかしいですぅ!」
クロード様はほんの少しだけ、喉の奥でくくっ、と笑った。
笑った。
今、絶対に意地悪く笑った。
そんなの反則である。
私はもう、これ以上何か言うと本当に蒸発しそうで、仕方なくクロード様の胸元へ顔をぎゅっと埋めた。
すると上から、ひどく満足そうな気配が落ちてくる。
く、悔しい。
完全に、彼の手のひらの上で転がされ、籠絡されている気がする。
◇ ◇ ◇
それでも、しばらくすると不思議なことに、私の暴走していた心臓も、本当に少しずつ落ち着いてきた。
クロード様の腕は温かくて、私を守る城壁みたいで。その一定の深い呼吸が、耳に心地いい。
心臓はまだ少しうるさいけれど、さっきみたいに破裂しそうではない。
むしろ、実家との決別で無意識に張りつめていた緊張の糸が、ゆるゆると解けていく感じがした。
「……クロード様」
「何だ」
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「言え」
「本当に、私の『魔力』がないと眠れないのですか?」
「正確には、お前がいないと落ち着かん」
「……それは、魔力というより」
「お前自身だな」
あまりにもあっさり、はっきりと言い切られて、私は息を呑んだ。
お前自身。
その言葉が、ずしんと胸の奥深くに落ちる。
魔力目当てだけじゃない。
便利な治癒要員としての価値だけじゃない。
『私だから』傍に置きたいのだと、そう言われた気がして。
「……そんなの」
「何だ」
「嬉しいに決まっています……」
「そうか」
「でも、ずるいです」
「何がだ」
「全部です。顔も声も、そういう真っ直ぐなところも」
クロード様は少しだけ沈黙したあと、私の背を、慈しむように優しく撫でた。
「お前もずるいぞ」
「へ?」
「俺を、こんなにも簡単に安心させる」
「…………」
「それでいて、誰かに奪われそうなくらい無防備だ」
「そ、それは……!」
「だから、絶対に離せん」
ああ、もう駄目だ。
今日、何度目かも分からないくらい、胸がいっぱいになった。
前世では、誰かに無条件で安心させてもらえることなんて知らなかった。
今世の実家でも、心が休まる場所なんてどこにもなかった。
だから、「一緒にいると安心する」と言われることも、「あなたがいると落ち着く」と思うことも、私にはずっと遠い御伽話だった。
でも今は違う。
私は、この最強の騎士に安心されている。
そして、私もまた、この人の腕の中で、すべてを委ねて安心している。
それが、何よりも嬉しかった。
「……クロード様」
「何だ」
「今日は、私の部屋に来てくださって、よかったです」
「当然だ」
「やっぱりそこなんですね」
「ああ」
「でも……」
私はそっと、クロード様の寝間着の胸元を掴んだ。
前みたいに、恐怖で落ちないためじゃない。
自分から、少しだけ彼に甘えるために。
「……来てくれて、嬉しかったです」
すると、私を抱く腕に、また少しだけ強い力が入った。
「……ならいい」
「はい」
「今後もそうする」
「えっ」
「毎晩だ」
「ええっ!?」
私は飛び起きかけて、しかしすぐに太い腕でベッドへ縫い留められた。
「ちょっ、毎晩は聞いてません!」
「今日、嫌ではないと言ったな」
「言いましたけれども!」
「なら決まりだ」
「事後承諾が早すぎます!」
「俺の睡眠と精神安定は、国家防衛において重要だ」
「国家権力を口実にしないでください!」
だが、クロード様はまったく譲る気がないらしい。
「お前も、一人で寝るよりよく眠れるだろう」
「た、確かに今ちょっと落ち着いてはいますが……!」
「ならWin-Winで問題ない」
「そういう強引な結論あります!?」
「ある」
言い切られた。
ああ、もう。
本当にこの人は、こういうところが真っ直ぐで、重くて、強い。
でも、嫌ではない。
それどころか、「毎晩一緒に寝る」と言われて、心のどこかが少しだけ、いや、かなり喜んでしまった自分がいて困る。
私は諦め半分、照れ半分で、小さく息をついた。
「……せめて、夜這いみたいに来るのではなく、事前に予告してください」
「分かった」
「本当ですか?」
「『今夜も行く』と、朝の時点で先に言っておく」
「予告の意味とスケールが変わっています!」
クロード様の肩が、ごくわずかに揺れた。
たぶん笑っている。笑っているのに声を出さないあたりが、からかっているようでずるい。
◇ ◇ ◇
その後、ようやく私たちは本当に眠る態勢に入った。
……いや、私はまだちょっと起きていたのだけれど。
なぜなら、こうして男性に抱き込まれている状態で眠るのは、前世を含めてもさすがに初めてだからだ。
どこに手を置けばいいのか分からない。足はどうすればいいのか分からない。顔の向きも、どうすれば彼の呼吸の邪魔にならないか分からない。
困り果てて固まっていると、クロード様が低く囁いた。
「好きにしていい」
「す、好きにと言われても……」
「一番楽なようにしろ」
「…………」
私はしばらく悩んでから、そっと、クロード様の広い胸元へ自分の頬を寄せた。
ここが一番、収まりがよかった。
変に距離を取ろうとすると余計に意識してしまうし、だったらいっそ、彼にすっぽり包まれてしまおうと観念したのだ。
すると頭上から、この上なく満足そうな気配が降ってくる。
「それでいい」
「……恥ずかしいです」
「慣れろ。俺の心音を聞いて眠れ」
「もう何度目か分からない台詞です……」
小さく返すと、クロード様の大きな指が、私の髪を梳いた。
ゆっくり、優しく。赤ん坊を寝かしつけるように。
その心地よさと、彼から伝わる絶対的な安心感に、さすがに私の瞼も重くなる。
今日はいろんなことがあった。
でも、最後にこうして、一番好きな人の腕の中で安心して眠れるなら、今までの苦労も全部、少しずつ溶けていく気がする。
「……クロード様」
「何だ」
「おやすみなさい」
「おやすみ、俺のルシエラ」
その声が耳元で甘く響いた瞬間、胸がきゅっとなった。
でももう、息苦しいだけじゃない。
甘くて、温かい、最高に幸せな苦しさだった。
私はゆっくりと目を閉じる。
最後に感じたのは、額へ落ちる柔らかな口づけと、私を抱きしめる腕の確かな温度だった。
――こうしてその夜、私はクロード様に抱き込まれたまま、深い眠りについた。
添い寝。しかも強制。逃げ道なし。
それなのに、不思議なくらい深くよく眠れたのだから、たぶんもう、色々と手遅れなのだと思う。
そしてもちろん。
翌朝、部屋に入ってきた侍女さんたちに、「旦那様は昨夜こちらでお休みになりましたので、朝食は二人分お持ちしました」と大変自然に告げられ、私は別の意味で盛大に情緒を失い、ベッドの上で悶え転がることになるのだけれど――それはまた、次のお話である。




