第12話 クロード様の「ざまぁ」の助走。物理的に妹を排除
実家の面々が騎士たちに囲まれ、屈辱に顔を歪めながら廊下の向こうへ追い立てられていく――はずだった。
はず、だったのだけれど。
「待ちなさいよ!!」
鼓膜を突き刺すような甲高い声が、張り詰めた空気をびりっと裂いた。
びくり、と私の肩が跳ねる。
見ると、妹のセレフィナが騎士の制止を強引に振り切って、こちらへ駆け出してくるところだった。
可憐な顔を真っ赤に歪め、その瞳には怒りと焦燥と、どろどろとした嫉妬をいっぱいに滲ませながら。
「お姉様のくせに! 魔力ゼロのゴミのくせに! 何よ、その守られてるみたいな偉そうな顔!」
「セレフィナ様、お止まりなさい!」
「うるさいっ、触るな!」
若い騎士さんが慌てて手を伸ばす。けれどセレフィナは、半ば錯乱したようにそれを振り払い、ドレスの裾を振り乱してまっすぐ私へと迫ってきた。
怖い。
さっきクロード様の腕の中で少しだけ落ち着いたはずなのに、また一気に心臓が跳ね上がる。
怒鳴り声。荒々しい足音。身勝手な感情をぶつけてくる顔。
前世の会議室で、分厚い資料を叩きつけながら詰め寄ってきたパワハラ上司の姿が、一瞬だけ重なった。
『お前のせいで失敗したんだ!』
『お姉様が勝手にいなくなるから!』
『今すぐ戻って穴を埋めろ!』
『返してよ! 私の聖女の力を!』
ぎゅっと、呼吸が詰まる。
――私のせいだ。
――お前が何とかしろ。
――お前が我慢すれば済むことだ。
ああ、嫌だ。
その言い方。その押しつけ方。私という人間を、都合のいい労働力としてしか見ていない、あの呪いのような空気。
体が石のように強張った、その瞬間。
すうっ、と。
私の目の前の空気が、物理的に凍りついた。
◇ ◇ ◇
「――誰に許可を得て、俺の妻(予定)の前に立っている?」
地を這うような、低く、静かな声だった。
怒鳴り声ではない。むしろ恐ろしいほどに冷え切った、感情の抜け落ちた声だ。
なのに。
その一言が落ちた瞬間、廊下にいた全員の背筋が、ぶわりと総毛立ったのが分かった。
クロード様が、私を背に庇うように一歩前へ出る。
ただそれだけで、景色が変わった。
温度が下がる。空気が鉛のように重くなる。
彼が『氷の死神』と恐れられる理由が、比喩でも何でもなく、ただの現実なのだと骨の髄まで理解させられるような、絶対的な殺気と威圧感。
セレフィナの足が、ぴたりと縫い付けられたように止まった。
さっきまでの狂気じみた勢いが嘘みたいに、顔から血の気が引いていく。父も母も、息を呑んだまま指一本動かせない。歴戦の騎士たちですら、冷や汗を流してぴしっと直立し、本能的に一歩下がった。
私だけが、その広く頼もしい背中を見つめていた。
今、何て仰いました?
妻、予定。
妻(予定)。
えっ。
「く、クロード様……?」
思わず小さな声を漏らすと、クロード様は振り向きもせず、けれどひどく優しい声で言った。
「そこで待っていろ」
「は、はい……」
はい、としか言えなかった。
いや、そこではなく。もっとこう、「今の単語の法的効力について詳しく」とか、「その予定の稟議はいつ通ったのでしょうか」とか、確認したいことは山ほどある。
でも、今のクロード様が放つ気配があまりにも凄まじすぎて、それどころではなかった。
セレフィナが、がくがくと青ざめた唇を震わせる。
「つ、妻……? な、何を勝手なことを……! お姉様みたいな無能が、そんな、そんなはずないじゃない!」
「無能?」
クロード様が、ほんの少しだけ首を傾げた。
ただそれだけの動作なのに、ぞっとするほど恐ろしい。
「自分の家をひとりで維持していた者を、お前たちは無能と呼ぶのか」
「そ、それは……!」
「お前たちが温かい飯を食って、柔らかいベッドで眠って、着飾って、薄ら寒い『聖女ごっこ』をしていられたのは、一体誰のおかげだ」
「…………」
「答えろ」
セレフィナは、ひっ、と喉を鳴らして後ずさり、答えられなかった。
父が何か言おうと口を開く。けれど、その前にクロード様の氷結の視線がそちらへ向いた瞬間、父はびくりと肩を震わせて完全に黙り込んだ。
すごい。本当にすごい。
前世でも今世でも、私はこういう横暴な相手に対して、常に「言い返せない側」だった。
理不尽に怒鳴られても、自分が我慢して飲み込むしかなかった。
でもクロード様は違う。
理不尽を、真正面から叩き潰す。
しかも、相手が一言も反論できない『圧倒的な正論と暴力的なまでの力』だけで。
……あまりにも格好良すぎて、別の意味で心臓に悪い。
「お前たちは、ルシエラの価値を1ミリも理解できなかった」
クロード様の声は、どこまでも冷酷だった。
「だから、自ら手放した」
「て、手放したわけでは――」
「違うのか?」
「…………」
「ならなぜ、飢えさせた。なぜ眠らせなかった。なぜ、俺の命よりも尊い彼女を、使用人以下に扱った」
「そ、それは、この子が魔力ゼロの役立たずだったから……!」
「魔力ゼロ?」
クロード様が、嗤った。
氷の刃みたいな、一切の感情を排した冷え切った笑みだった。
「面白い冗談だ」
その言葉に、母の顔が引きつる。
「お前たちの誇る“天才聖女”の力は、ルシエラがいなくなった途端に、豆電球以下になったそうだな」
「…………っ!」
「その程度の薄汚い光を拝んで、よくもまあ王都でふんぞり返っていられたものだな、ルミナス伯爵家は」
「くっ……!」
父の顔が、極限の屈辱で赤黒く歪む。
けれど私は、その完膚なきまでの論破の中に混ざった「豆電球以下」という単語に、ちょっとだけ気を取られていた。
やっぱり本当に豆電球だったんだ……。
いや、今はそこではないのだけれど。
◇ ◇ ◇
「ルシエラぁ!」
突然、母が今度は半狂乱の声を上げた。
「何ぼさっとしているの! さっさとこちらへ来なさい! 家族をこんな目に遭わせて、恥ずかしくないの!?」
そのヒステリックな声に、反射で足がすくみそうになる。
けれど次の瞬間。クロード様の手が後ろへ伸びてきて、私の震える手首をそっと、包み込むように掴んだ。
強くはない。でも、絶対に離さないという確かな熱がそこにあった。
「返事をするな。言葉を交わす価値もない」
「……はい」
たったそれだけで、私の乱れた呼吸は嘘のように落ち着いた。
母はそれを見て、さらに顔を夜叉のように歪める。
「離しなさい、その子を! その子はうちの所有物なのよ!」
「違うな」
クロード様は即答した。
「こいつは今、俺の絶対的な庇護下にある」
「ひっ……」
地獄の底から響くような一言で、母がガタガタと震えて後ずさる。
ああ、これは本当に駄目だ。完全にブチギレる一歩手前のクロード様である。
私の知るクロード様は、普段は重いし甘いし過保護だけれど、私に向ける時の熱はどこか不器用で優しかった。
でも今は違う。私を害するものへ向ける殺意が、一切の容赦なく剥き出しになっている。
セレフィナが、それでもまだ、己のプライドを守るために何かを喚こうとした。
「で、でも、お姉様さえ戻れば全部元に戻るんだから……! 屋敷の結界も、私の聖女の力も……!」
「だから何だと言うのだ」
「だから、私のお姉様を返してって言ってるのよ!」
その瞬間だった。
セレフィナが、私を力ずくで引きずり出そうと、また一歩踏み出した。
でも、その足が床につくより先に。
クロード様が動いた。
速すぎて、一瞬、何が起こったのか分からなかった。
気づいた時には、セレフィナの体がふわっと不自然に真横へ弾き飛ばされ、次の瞬間には、廊下の壁際へ無様に転がされていた。
「きゃああっ!?」
鈍い音と、悲鳴が響く。
手で殴ったわけでも、蹴ったわけでもない。ただ、魔力による見えない衝撃波で『接近を許さず排除した』動きだった。
まるで、飛んできた羽虫を不快そうに払い落とすような、あまりにも自然な所作で。
私は目を丸くした。
物理的に排除した。
本当に排除した。
控えていた騎士さんたちも一斉に息を呑む。でも誰も止めない。止められるわけがない。
セレフィナは床に尻もちをついたまま、呆然とクロード様を見上げていた。
さっきまでのヒステリックな勢いは欠片もなく、自分に向けられた本物の『死の気配』に、ただただガタガタと震え、涙をこぼしている。
「次はない」
クロード様の声が落ちる。
「もう一歩でもルシエラへ近づけば、その足ごと凍らせて砕く」
「ひ……っ、あ……」
情けない、息を呑む音だけが漏れた。
そして、その直後。
つん、と。なんとも言えない、すえたような臭いが廊下に漂った。
私は一瞬遅れて気づく。
あっ。
ええと、その。これは、その。
言葉を選ぶなら――恐怖のあまり、伯爵家の皆様の何かしらの括約筋が、限界を迎えたらしい。
母が青ざめ、父が真っ白になり、セレフィナに至っては完全に腰が抜けて震えている。
騎士たちが一斉に、表情を消して視線を天井へ逸らした。
職業意識がカンストしている。誰ひとりそこへ触れないあたり、第一騎士団の皆様は本当に優秀である。
私はというと、さすがに何とも言えない気持ちになって、そっとクロード様の背中へ視線を戻した。
クロード様は、ゴミ以下の汚物を見るような、ひどく冷えた目で伯爵一家を見下ろしていた。
「貴族としての最低限の品性すら失ったか」
「…………」
「生かしておく価値もないな」
容赦がなかった。
父がぶるぶると震えながら何かを言い訳しようとする。でも、歯がカチカチと鳴るばかりで声にならない。
クロード様は、完全に見下しきった声音で騎士たちへ命じた。
「不浄だ。今すぐ敷地外へつまみ出せ」
「はっ!」
返事は早かった。
騎士たちが一斉に動き、伯爵一家を容赦なく取り囲む。
父は何とか当主の威厳を取り繕おうとしたらしいが、腰が引けていて全然格好がついていない。母は扇で顔を隠しながら半泣きだ。
セレフィナは騎士に両脇を抱え上げられた瞬間、「お、お姉様ぁぁっ!」と情けない泣き声を上げた。
だけど。
それを聞いても、もう、前みたいに胸は痛まなかった。
◇ ◇ ◇
「ルシエラ! 何とか言いなさい!」
「家族をこんな目に遭わせて、何とも思わないの!?」
「お姉様のくせにぃぃっ!」
廊下の向こうへ引きずられていきながら、三人はまだぎゃあぎゃあと喚いていた。
その見苦しい声を聞いても、今の私は、ただ静かに思うだけだった。
ああ、本当に。この人たちは最後まで、自分のことしか考えないのだな、と。
私がどう感じていたか。どれだけ苦しかったか。どうして戻りたくないのか。
そういうことはひとつも見ようとしないで、「自分たちが困るから戻ってこい」としか言わない。
前世の上司と、まったく同じだ。
私を人間ではなく、便利な部品としてしか見ていない。
でも、もう違う。
私は部品じゃない。バッテリーでもない。引き立て役でも、無給社畜でもない。
クロード様が、そう思い出させてくれた。
やがて騒がしい声が遠ざかり、完全に聞こえなくなった頃。
廊下に、元の静寂が戻った。
私はそこでようやく、ふうっと大きく息を吐いた。
全身から一気に力が抜ける。
さっきまで張りつめていた緊張の糸が、切れたみたいだった。
その瞬間。
「座るな」
低い声と同時に、視界がふわりと持ち上がる。
「ひゃっ」
気づけば、私はクロード様の腕の中に、すっぽりと抱き上げられていた。
いつもの横抱き(重役抱っこ)である。いや、いつもの、と言える状況がすでにおかしいのだが。
「ク、クロード様……」
「力が抜けている」
「……はい」
「よく耐えたな」
「…………」
そのひどく優しい一言で、また少しだけ泣きそうになった。
私はそっと、クロード様の服の胸元を掴む。
「……あの」
「何だ」
「さっきの……妻、予定、というのは……」
「そのままの意味だが」
そのままの意味らしい。
いやいやいやいや。そんな平然と。確認したらそう返ってくるのですか。
私は一気に顔が茹で上がるのを感じた。
「え、ええと、予定、ということは、その、まだ決定事項ではなく、でも将来のビジョンとしては組み込まれていて、しかし私の認識には今初めて共有された重大案件でして……!」
「そうだな」
「認めるのですか!?」
「認める」
「認めないでください、心の準備が!」
「なら、今から慣れろ」
「横暴ですぅ!」
さっきまで命のやり取りみたいな空気だったのに、どうして急にこんな極甘な展開になるのだろう。感情の高低差で風邪を引きそうだ。
けれど、クロード様はものすごく真面目な顔で、熱を帯びた瞳で私を見つめ返した。
「いずれ、きちんと話すつもりだった」
「いずれ」
「ああ」
「それが、今になった理由は……?」
「お前を奪おうとする害虫どもへ、はっきりと所有権を示す必要があった」
「…………」
私は、言葉を失った。
奪おうとするものへ。はっきりと示すために。
つまり、さっきのあの台詞は、その場の勢いや方便でも何でもなく、クロード様の中では最初から『確定事項』として存在していたものなのだ。
だめだ。胸がうるさい。うるさすぎる。
「……ルシエラ」
「は、はいっ」
「嫌なら、嫌と言え」
「…………」
「お前の意思を無視して、無理やり縛り付ける気はない」
その言葉に、私ははっとした。
そうだ。
この人はいつも激重だし、囲うし、四六時中抱っこするし、距離感は盛大にバグっている。
でも、肝心なところでは、ちゃんと私の意志を尊重し、私に選ばせてくれる。
さっきだってそうだった。家族を追い返すかどうか、私に聞いてくれた。
今だって、嫌なら嫌と言えと、退路を用意してくれる。
そこがずるい。本当にずるい。
こんなの、嫌と言えるわけがないではないか。
私は真っ赤な顔のまま、恥ずかしさに視線を泳がせた。
「……い、嫌では、ないです」
「そうか」
「で、でも、話が急展開すぎて心臓が追いつかないだけで……!」
「分かった」
「あと、妻という単語の破壊力が、私には高すぎます……!」
「慣れろ」
「やっぱりそこなんですね!?」
クロード様は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
笑っている。今、絶対ちょっと笑っている。
ああもう、本当に無理だ。重い。甘い。ずるい。全部ひっくるめて、推しが強すぎる。
◇ ◇ ◇
そのまま私は、クロード様に抱えられたまま執務室へ戻された。
扉が閉まる。ようやく二人きりになる。
クロード様はいつものふかふか長椅子へ私を下ろすと、すぐ隣に腰を下ろした。
そして当然のように、私の肩を抱き寄せる。
「……怖かったか」
「……少し」
「少しで済んだならいい」
「クロード様がいてくれたからです」
すると、私を抱く腕に、ほんの少しだけ力がこもった。
「当然だ」
「……はい」
「次からは、あんなゴミ以下の連中に怯える必要はない」
「……はい」
「何か言われたら、俺を呼べ」
「はい」
「近づこうとしたら、全部排除する」
「物理で、ですか」
「必要ならな」
「必要がなくてもやりそうです……」
「否定はしない」
ですよねぇ。
私は思わず、小さく笑ってしまった。
さっきまであんなに震えていたのに、今はもう、ちゃんと笑える。
それがなんだか不思議で、そして、少しだけ嬉しかった。
クロード様はそんな私を見つめ、そっと私の前髪を撫でる。
「いい子だ」
「うぅ……」
「泣くな」
「泣いてません……ちょっと、感情の処理が追いつかなくて、情緒が忙しいだけで……」
「忙しくさせた自覚はある」
「あるんですね……」
「ああ」
素直に認められてしまった。
私は赤い顔のまま、そっとクロード様の肩に、自分からこてりともたれかかった。
こういうふうに、自分から体重を預けるのはまだ少し緊張する。でも、絶対に受け止めてくれると分かっているから、嫌ではない。
するとクロード様が、ふと、ひどく冷たくて静かな声で言った。
「今日の件で、終わりではないぞ」
「……へ?」
私は顔を上げた。
クロード様の瞳は、もう先ほどのような甘い色ではなく、冷酷な戦闘モードに戻っている。
ああ、これは何か、えげつないことを決めている顔だ。
「ルミナス伯爵家には、きっちり落とし前をつけさせる」
「お、落とし前……」
「今までルシエラから搾取してきた分の、何十倍もの絶望をな」
「…………」
「泣いて謝れば済むと思うなと、骨の髄まで教えてやる」
ひぇ。
ぞくっとした。でも同時に、胸の奥が少しだけすっとする。
今すぐ派手に何かをするわけではない。
けれど、クロード様の中での『徹底的なざまぁ』の計画は、もうすでに始動しているのだ。
しかもたぶん、かなり丁寧に。かなり容赦なく。逃げ道を一切残さない、完全な社会的な死という形で。
私はその隣で、こくりと唾を飲んだ。
(……ブラック実家、完全に終わりましたね……)
そんな確信が、妙に静かに胸へ落ちてくる。
そして同時に、もうひとつの確信もあった。
この最強の騎士様は、私を守る時だけ、たまに理性より『重すぎる愛』が前に出る。
今日の「妻(予定)」発言で、その事実が完全に証明されてしまった。
つまり、私の推しは――私が思っていた以上に、激重で、過保護で、一度掴んだものは絶対に手放す気がないらしい。
……うん。
知ってはいたけれど、改めて認識するとすごい。
私はじわじわと熱くなる頬を両手で押さえながら、心の中でそっと呟いた。
(推しの愛、完全に福利厚生の範囲を超えてきました……)
そしてもちろん。
その重たい愛が嫌どころか、少しずつ、どうしようもなく心地よく、嬉しくなっている自分に気づいてしまい――私の限界オタクな情緒は、ますます大忙しになるのだった。




