第11話 妹と両親の殴り込み。前世のパワハラ上司がフラッシュバック
クロード様の執務室に、私専用の『くつろぎスペース』が常設されて二日目。
私はふかふかの長椅子に座り、肌触りの良い膝掛けをかけられ、湯気の立つ最高級のお茶を両手で包みながら、静かに戦慄していた。
(……この環境、強すぎます)
窓際の日当たりは最高。クッションの硬さは絶妙。お茶は常に適温。宝石のような焼き菓子は常備。
しかも少しでも私が身震いしようものなら、どこからともなく厚手の膝掛けが追加される。
どういうことだろう。ここは本当に、国家防衛の要である騎士団長の執務室なのだろうか。私を完膚なきまでに駄目にするための、貴族専用ラウンジではなく?
そして視線を上げれば、少し離れた重厚な執務机の向こうで、クロード様が書類に目を通している。
美しい。今日も今日とて大変に美しい。真剣な横顔など、もはや神殿に飾るべき芸術品の域である。
しかも最近のクロード様は、私の無自覚ヒールとクッキー事件の影響なのか、明らかにコンディションが限界突破している。
顔色はいいし、隈は完全に消えたし、プラチナブロンドの髪の艶すら増した気がする。推しの健康状態が改善されるのは、ファンにとってこの上ない喜びだ。
でも、その分だけ供給の破壊力も増しているので、こちらの心臓には少々よろしくない。
私はそっと胸元を押さえた。
危険だ。近くにいるだけで致死量の尊さなのに、最近はそこへ「重すぎる愛」と「狂気スレスレの過保護」と「絶対的な独占欲」まで乗ってくる。
感情のトッピングが過剰すぎる。
「ルシエラ」
「は、はいっ」
呼ばれた瞬間、私は反射的に背筋を伸ばした。
クロード様がこちらを見ている。低い声。鋭い瞳。なのに私に向ける時だけ、その眼差しはどこか熱を帯びて甘い。
「茶が冷める前に飲め」
「は、はい……!」
私は慌ててカップを持ち上げた。
ああ、駄目だ。ただ「お茶を飲め」と気遣われただけで嬉しい。
推しに健康管理される人生。何かが根本的におかしい気もするが、幸福度は異常に高い。
……と、その時だった。
執務室の外から、何やら騒がしい声が響いてきた。
最初は廊下の向こうで、誰かが揉めているのかと思った。けれど、その声は次第にはっきりと、この部屋まで届いてくる。
「どきなさい! 私はルミナス伯爵家のセレフィナよ!」
「旦那様にお取り次ぎ願います!」
「今すぐあの無能を返しなさい!」
――その瞬間。
全身の血が、すうっと音を立てて冷え切った。
カップを持つ手が、震えて止まる。
この声。聞き間違えるはずがない。
セレフィナ。お母様。そして、怒鳴り散らすお父様。
私を散々虐げてきた、実家の人間たちだった。
◇ ◇ ◇
心臓が、ひどく嫌な音を立てた。
さっきまで穏やかだった呼吸が一気に浅くなる。指先から熱が抜け、代わりにぞわりと冷たい泥のようなものが這い上がってきた。
「ルシエラ?」
クロード様の声が聞こえる。けれど、すぐには返事ができなかった。
脳裏に蘇るのは、この数日の天国のような日々ではない。その前の、地獄のような日々のことだ。
怒鳴り声。叩きつけられる物。
「役立たず」「無能」「お前は黙って働いていればいい」
命令、命令、命令。
どれだけ身を粉にして動いても足りず、どれだけ耐えても当然とされ、少しでも遅れれば罵倒される。
そしてそれは、前世の記憶とも重なった。
会議室の白い蛍光灯。机を叩く上司。
『何でこんなこともできないんだ』
『言い訳してる暇があるなら手を動かせ』
『お前の代わりなんていくらでもいるんだぞ』
嫌だ。
その声を、もう聞きたくない。
私は無意識に肩を竦め、膝を抱え込んでいたらしい。
次の瞬間、視界がふわりと暗くなり、大きな手がそっと私の冷たい頬に触れた。
「……ルシエラ」
クロード様が、いつの間にか目の前にしゃがみ込んでいた。
氷みたいに綺麗な瞳が、まっすぐ私を見つめている。冷たい色なのに、その奥は静かに、私を案じる熱で満ちている。
「顔色が悪い」
「……だ、大丈夫です」
「嘘だ」
即答だった。
ごまかせなかった。当然かもしれない。今の私は、自分でも分かるくらいひどく青ざめ、震えている。
外ではなおも、品のないがなり立てる声が続いていた。
「聞こえているのでしょう!?」
「うちの娘を勝手に囲うなんて、どういうつもりですの!?」
「今すぐ出てこい!」
……怖い。
怖い、と思った自分に少しだけ絶望した。
だって私は、もうあの家を出たのだ。クロード様の屋敷にいる。前みたいに、逆らえない立場ではない。
頭では分かっている。分かっているのに、心が、体が覚えているのだ。
怒鳴り声を聞いた瞬間に固まることを。
まず謝らなければと、自分が悪いのだと思ってしまうことを。
前世でも、そうだった。
理不尽な上司に責められるたび、本当は違うと分かっていても、まず「申し訳ありません」と頭を下げていた。言わないともっと面倒になるから。早く終わらせたかったから。自分の尊厳より、その場の鎮火を優先していた。
その隷属の癖が、魂の奥底まで染みついている。
「……っ」
無意識に血が滲むほど唇を噛んでいた私の手を、クロード様がそっと包み込んだ。
大きくて、ひどく温かい手だった。
「俺を見ろ」
低い声が落ちる。
私は反射的に顔を上げた。
クロード様は、怒っていなかった。焦ってもいなかった。
ただ静かに、揺るぎない絶対者の顔で、私を見ている。
「お前は、何も悪くない」
「…………」
その一言で、凍りついていた何かが揺れた。
「怯えるな」
「……でも」
「でも、ではない」
「…………」
「お前は、ここにいていい」
息が止まりそうになった。
ここにいていい。
たったそれだけの言葉なのに。今の私にとって、それはどんな魔法よりも強力な、一番欲しかった言葉だった。
外からはまだ喚き声が聞こえる。けれど、クロード様の声はそれを全部押しのけるくらい、はっきりと胸の奥に届いた。
「俺の後ろにいろ」
「……はい」
「絶対に前へ出るな」
「……はい」
「何を言われても、お前が答える必要はない。すべて俺が片付ける」
「…………はい」
頷いた瞬間、詰まっていた呼吸が少しだけ楽になった。
クロード様はそれを見届けるように私の髪をひと撫でしてから、ゆっくりと立ち上がった。
その背中を見た時。
初めて、恐怖とは別の感情が胸に灯った。
ああ、この人がいる。
王国最強のこの人が、私の前に立ってくれる。
そう思っただけで、足元のぐらつきが少し収まるのを感じた。
◇ ◇ ◇
執務室の扉が開いた瞬間、廊下の空気が氷点下に張り詰めた。
そこには、予想通りの顔ぶれが揃っていた。
怒りで顔を真っ赤にした父。扇を握りしめて喚く母。そして、きらきらしたドレスに身を包みながらも、余裕を失った表情のセレフィナ。
さらにその周囲には、対応していた使用人や騎士たちが、絶対的な殺気を放つクロード様を見て、サッと道を開けていた。
父はクロード様の姿を見るなり、一瞬だけ気圧されたように口を噤んだ。
だが、それでもすぐに貴族の虚勢を張り直して声を荒げた。
「ヴァレンティス卿! どういうことですかな、これは!」
「…………」
「我が家の娘を勝手に匿うなど、伯爵家に対する重大な侮辱ですぞ!」
「…………」
クロード様は答えない。
ただ、ゴミを見るような冷たい目で、見下ろしているだけだ。それだけで廊下の空気が凍る。
私はその少し後ろに立ちながら、思わず息を潜めた。
怖い。でも、怖いのはクロード様ではない。今はむしろ、その背中の向こうにいる、あの家族たちの方だった。
セレフィナが、クロード様の背後にいる私を見つけて甲高い声を上げる。
「お姉様! 何をしているの!? そんなところに隠れて!」
そのヒステリックな声に、びくっと肩が跳ねた。
条件反射だった。情けないくらい、体が勝手に反応する。
するとクロード様の纏う気配が、すうっと絶対零度に冷えた。
「――大声を出すな」
地を這うような、低い一言。
それだけで、廊下の温度が物理的に数度下がった気がした。
セレフィナの顔が引きつる。母も父も、一瞬だけ息の仕方を忘れたように沈黙した。
だが、母が負けじと震える足で一歩前へ出た。
「そ、その娘は我が家の所有物です!」
「違う」
「違わなくてよ! ルシエラはルミナス伯爵家の長女で、天才聖女であるセレフィナの世話をする役目が――」
「役目、だと?」
クロード様が、初めて口元だけで嗤った。
笑った、というより、冷酷な刃で切り捨てた、に近い。
「魔力を持たないと蔑み、使用人同然にこき使い、食事も寝床も与えず……あまつさえ、その『無能』から真の聖女の力まで搾取しておいて、よくもそのような狂言が吐けたものだな」
空気が、完全に凍りついた。
父の顔が強張る。母は目を見開いた。
セレフィナだけが、ぎょっとして私を見た。
「さ、搾取って何のことよ!」
「自覚すらないのか。愚かにもほどがある」
「あるわけないでしょう! お姉様は魔力ゼロで――」
「黙れ」
低い声が落ちた瞬間、セレフィナが「ヒッ」と息を呑んだ。
威圧だけで、声を物理的に封じられている。それほどの圧倒的な力だった。
私はその背中を見つめながら、胸がどくどくと鳴るのを感じていた。
すごい。本当に、すごい。
あの家族を前に、私はいつも小さくなっていた。逆らえば余計に怒鳴られるから。言い返しても無駄だから。耐えて流すしかないと、ずっと思っていた。
けれどクロード様は違う。
理不尽を理不尽のまま受け入れない。真正面から、間違っていると切って捨てる。
そのことが、どうしようもなく眩しくて、涙が出そうだった。
父が唇を震わせながら怒鳴る。
「証拠もないことを!」
「証拠ならいくらでもある」
「何……?」
「ルシエラが家を出た途端、お前たちの屋敷の結界は崩れ、妹の光魔法は豆電球以下になったそうだな」
「……っ!」
セレフィナの顔色が一気に青ざめた。
どうやら完全に図星らしい。
私は思わず目を瞬かせた。えっ、そんなことになっていたの?
いや、クッキー事件の件もあってうっすらとは予想していたけれど、まさか豆電球以下って。
クロード様は容赦なく淡々と続ける。
「屋敷の維持管理、結界札の配置、帳簿整理、雑務のすべてをルシエラに押しつけ、その上で彼女の無意識の魔力まで吸い上げていた。泥棒以下の所業だ」
「そ、そんな馬鹿な……!」
「馬鹿なのはお前たちだ。二度と彼女に関わるな」
ぴしゃりと言い切られ、父が絶句した。
強い。あまりにも強い。
でも次の瞬間、母がぎりっと歯を食いしばって叫んだ。
「だとしても! それならなおさら、あの子は家に必要でしょう!」
「…………」
「ルシエラ! 戻っていらっしゃい! あなたは家族のために、死ぬまで働くのが役目なのよ!」
その言葉が、胸に深く刺さった。
戻ってこい。働け。家族のために。
聞き慣れた呪いの言葉だ。前世でも形を変えて、何度も浴びせられた。
『お前がやるべきだ』
『お前しかいないんだ』
『責任を取れ』
『逃げるな。働け』
ぎゅっと、息が詰まる。
私は知らず知らずのうちに、クロード様の服の裾を強く掴んでいた。
すると、彼がほんの僅かだけ、私の方へ振り返る。
視線は合わなかったけれど、その気配だけで分かった。
――大丈夫だ、俺がいる。
そう言っている気がした。
それだけで、崩れかけた心が少しだけ持ち直す。
◇ ◇ ◇
「返事をしなさい、ルシエラ!」
母のヒステリックな叫びに、私はびくっとした。
それでも。それでも、今は前と違う。
前みたいに、すぐに「はい」と答えなくていい。謝らなくていい。クロード様がそう言ってくれた。
私は震える指先をぎゅっと握りしめ、どうにか声を出そうとした。
けれど、それより先に。
「誰に許可を得て、俺のルシエラへ命令している?」
クロード様の声が、静かに響いた。
ぞくりとするほど低い。怒鳴っていないのに、明確な殺意が滲んでいる。
父も母も、そしてセレフィナまでもが、目に見えて後ずさった。
「お、俺の……?」
「そうだ」
即答だった。
やめてください。そんな真正面から所有権みたいな言い方をされると、別の意味で心臓がもたない。
だが今は、それどころではなかった。
クロード様は一歩前へ出る。それだけで、伯爵一家はまるで猛獣に睨まれた小動物のように硬直した。
「こいつはもう、お前たちの都合で使い潰していい道具ではない」
「つ、使い潰すなどと……!」
「事実だろうが」
「…………」
「次に同じ口を利いたら、その喉ごと凍らせる」
ひっ、と誰かが息を呑む音がした。
たぶん母だ。あるいは父かもしれない。とにかく、全員が完全に怯え切っていた。
そして私は、その背中を見ながら、初めてはっきりと理解した。
もう前とは違う。私はもう、あの家の呪いの言葉に縛られなくていいのだと。
それでも、足はまだ少し震えている。でも、立っていられる。逃げ出さずに、ここにいられる。
それはきっと、私ひとりでは無理だった。クロード様がいるからだ。
セレフィナが悔しそうに顔を歪め、私を睨みつける。
「お姉様のくせに……! 何よ、その偉そうな顔……!」
「……っ」
刺々しい声。でも、もう前ほど深くは刺さらない。
なぜなら。
「ルシエラ」
クロード様が、ひどく甘い声で、私の名を呼んだから。
私は顔を上げた。
「お前が望むなら、こいつらを今すぐここからゴミのように放り出す」
「…………」
「望むなら、二度と近づけさせない。……どうする」
選んでいい、という声音だった。
命令ではなく。強制でもなく。搾取でもなく。
私に、私の意志で決めさせてくれる声。
そのことが、何よりも嬉しかった。
私は一度だけ深く息を吸った。
まだ少し震える。でも、言える気がした。
「……帰って、ください」
自分でも驚くほど、声は小さかった。
けれど、静まり返った廊下では、ちゃんと届いたらしい。
伯爵一家の顔が強張る。
私は続けた。今度は、さっきより少しだけはっきりと。
「私は、もう……戻りません」
「ルシエラ!」
「戻って、また社畜のように働けなんて……絶対に嫌です」
言えた。ちゃんと、言えた。
足は震えているし、喉も少し痛い。でも、前みたいに飲み込まなかった。逃げなかった。
その瞬間、胸の奥にこびりついていた黒い塊が、ほんの少しだけほどけた気がした。
セレフィナが信じられないものを見る顔になる。母は真っ青になり、父は怒りと焦りで顔を歪めた。
だがもう遅い。
クロード様が、私を守るように前に立つ。
「聞こえただろう」
「……っ」
「二度と、この屋敷の敷居をまたぐな」
その声に、反論できる者は誰もいなかった。
控えていた騎士たちが、無言で剣の柄に手をかけ、一歩前へ出る。
伯爵一家は完全に気圧され、もはや罵声すら上げられなかった。
最後にセレフィナだけが、私を睨みながら吐き捨てた。
「……お姉様なんて、大嫌い」
子どもみたいな捨て台詞だった。
でも、それを聞いても、もう前みたいに胸は抉れなかった。悲しいというより、むしろ――ああ、この子はずっと、こういう歪なやり方でしか人と関われなかったんだな、と思っただけだ。
もちろん、同情して戻る気は一切ないけれど。
やがて伯爵一家は、騎士たちに追い立てられるようにして廊下の向こうへ消えていった。
その背中が見えなくなった途端、全身から力が抜ける。
私はふらりとよろめいた。
が、床に崩れるより先に、クロード様の力強い腕が私を支えた。
「……よく言った」
低く、静かな声。
その一言で、張り詰めていた糸が切れた。
じわっと目の奥が熱くなる。
泣くつもりなんてなかったのに、涙が溢れそうになる。
「……怖かったです」
「ああ」
「まだ、ちょっと、震えが……」
「分かっている」
「でも……」
私は彼の黒い服を、ぎゅっと掴んだ。
「クロード様がいてくれて、よかったです」
言った瞬間、耳まで熱くなる。でも、それが本音だった。
クロード様は一瞬だけ目を見開いた。
そして次の瞬間、ものすごく大事な宝物でも扱うみたいに、そっと私を抱き寄せる。
「当然だ」
低い声が、すぐ耳元で甘く響く。
「お前を怯えさせるものは、もう俺が全部遠ざける。だから安心しろ」
ああ、駄目だ。
こんなの、泣くしかないではないか。
私はとうとう小さくしゃくり上げてしまい、クロード様の広い胸元へ額を押しつけた。
その背後で、見ていた騎士たちや使用人さんたちが「見ちゃいけない」とばかりに気まずそうにそっと視線を逸らしてくれているのが分かる。
優しい。この屋敷、そういうところまでホワイトである。
こうして、実家の殴り込みは終わった。
ただしそれは、伯爵一家にとっての終わりではなく。
むしろ、クロード様の容赦ない『ざまぁ』の助走が始まる合図だったのだと――この時の私は、まだ知らなかった。




