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第9話「世界最強AIにも足りないものがある」

火曜日の夜、風呂から上がると、詩乃《しの》がダイニングテーブルについたまま動いていなかった。目は開いている。呼吸もしている。ただ、俺が冷蔵庫から水を出して、コップへ注ぎ、一口飲むところまでいっても反応がない。


「詩乃?」


「はい、マスター」


返事は来た。ただ、ほんの少し遅かった。一秒にも満たない。それでも、ここ数日ずっと会話しているせいか、その小さな間が妙に気になった。


「今、ちょっと遅くなかった?」


「はい。マスターの右肩と筋肉痛の経過予測、次の修復試験案、それから私自身の保守処理を並行していましたので、一部の処理へ優先順位を設定しました」


「処理落ちみたいなもの?」


「近いですが、人間の感覚でいう疲労とは異なります。現在の計算資源では、すべてを同じ精度で同時に処理するより、重要度の低い確認を後へ回す方が効率的です」


「何を後にした?」


詩乃は少しだけ間を置いた。


「緊急性の低い自己保守です。感覚器の細かな校正、人工組織の劣化予測、体内ナノマシンの個体差検査などを遅らせました。短時間であれば問題ありません」


後回しにしたのは、詩乃自身の身体のことだった。


「会話は後回しにしないんだな」


「マスターとの会話と安全確認は高優先ですので」


嬉しい。でも、それで終わらせていい話でもない気がした。


「計算が足りないと、保守まで遅れるのは分かった。でも、それで身体側に何か負担が増えるのか?」


「はい。制御に余裕が少ない場合、確認済みの個体だけでぎりぎり運用するより、予備のナノマシンを多めに待機させ、安全側へ寄せます。再確認も増えるため、電力と材料の消費効率は低下します」


材料の消費。その言葉で、一つ引っかかった。今まで俺は、ナノマシンを機械として考えていた。小さい機械なら、壊れなければずっと使える。どこかでそんなイメージを持っていた気がする。


「ちょっと待った。ナノマシンって……使うと減るの?」


詩乃は俺を見た。


「はい」


あまりにも普通に返されて、こっちが止まる。


「消耗品なの?」


「完全な使い捨てではありません。回収して再使用できる個体が大半です。ただ、身体修復や製造では物理的な接触、表面反応、微細部品の摩耗が発生します。長期間使用した個体や、工程中に損傷した個体は交換が必要です」


「交換って、新しいのを作ってる?」


「ナノマシンには、一般型と精密型の二種類があります。一般型は汎用的な構築や低負荷作業、日常的な身体維持を主に行い、現在の設備と材料でも補充できます」


二種類あるらしい。


「精密型は?」


「精密型は、複雑な制御や高精度・高負荷の作業を主に行います。高度な身体維持管理、校正、精密製造の補助などです。こちらは、現在の設備では完全な同等品を安定して再製造できていません」


コップをテーブルへ置いた。


「……それ、いつかなくなるってこと?」


「通常生活と現在の自己保守だけであれば、直ちに問題になる量ではありません。現在の保有量から、短期間で身体維持が困難になる可能性は低いです」


すぐには困らない。詩乃の答えは、たぶん嘘じゃない。ただ、俺が知りたいのはそこだけじゃなかった。


「研究とか、俺の身体修復まで今のペースで続けたら?」


「消費は増えます。必要になれば、研究側の使用量を制限します。対策についても検討しています」


「検討じゃ駄目だろ」


思ったより早く言葉が出た。詩乃が瞬きをする。


「そこ、最優先でやろう」


「マスターの身体状態の改善を優先する必要があります」


「なんで?」


「私は、マスターを守るために存在しています。現在、私自身の身体維持には十分な余裕があります。対して、マスターには右肩を含め、改善可能な身体上の問題が残っています」


「だから詩乃は後でいい?」


「現時点の優先順位では、そう判断しています」


一貫している。詩乃は本気で、俺を先にするのが正しいと思っている。でも、それをそのまま受け入れる気にはなれなかった。


「俺は嫌だよ」


「何がでしょうか」


「詩乃が俺を守るために、自分を削ってるのが嫌なんだ」


詩乃が黙った。


「今すぐ危険じゃないのは分かった。でも、補充できないものが減ってるのに、『まだ持つから後でいい』って扱いにはしたくない」


「ですが――」


「詩乃が俺を最優先にしたいのも分かる。そこをやめろって言うつもりはないよ」


一度息を吐く。


「でも、俺の側にも希望がある。詩乃には、このままずっといてほしい。だったら詩乃を維持できるようにするのも、俺にとっては優先度が高い」


詩乃の頬に、ごく薄く赤みが差した。


「……マスター」


「俺の肩は今すぐ動かなくなるわけじゃない。生活に困らない修復まで止めろとは言わない。でも、もっと若くするとか、急がなくていい改良より、詩乃のナノマシンをちゃんと補充できる道を先に作りたい」


「私の維持を、マスター御自身の改善より優先されるのですか?」


「少なくとも、どっちか片方だけ選ぶ話にはしない。詩乃が勝手に自分を下げるのはなし」


しばらく返事がなかった。詩乃が何かを考えている時の沈黙だということも、少しずつ分かってきた。


「……分かりました」


「納得した?」


「完全にはしておりません」


正直だ。


「ただ、私は今も、マスターの安全と健康を最優先にしたいと考えています。ですが、マスターが私の維持を御自身の希望として扱われるのであれば、その希望を無視することも適切ではありません」


「それでいい。まず一緒に考えよう」


「はい、マスター」


そこでようやく、俺も少し力を抜いた。


◇


「それで、どうやって減るのを止める?」


話を現実へ戻す。詩乃は自宅のPCへ手を伸ばした。そういえば今朝、調査と設計整理に使いたいから個人用PCを借りてもよいかと聞かれていた。会社の情報が入っていない端末なので、好きに使っていいと答えていた。画面には、すでにいくつかの概要図が用意されている。


「もともと、マスターのご要望へより多く応えられるよう、演算余力を増やす案は検討していました。今回の件で、ナノマシンの消耗を抑えるという意味でも、その必要性が高くなっています」


「じゃあ、その案が今の対策にも使える?」


「はい。対策は、大きく二つです」


一つ目に表示されたのは、演算資源の増設。


「今の私の計算余力では、安全率を大きく取り、ナノマシンを余分に待機させる場面があります。専用の演算補助装置があれば、身体制御と研究計算を分け、必要な個体数をより細かく調整できます。消耗そのものをゼロにはできませんが、効率は改善できます」


「まず、無駄に減るのを抑えるということか」


「はい。それと、次世代ナノマシンや再製造設備の設計候補を、より多く並列で検証できます」


「なるほど。二つ目は?」


画面の下に、高精度製造設備と特殊材料、と表示される。


「精密型そのものを安定して補充するには、現在の私が持つ製造能力だけでは足りません。以前使用した研究設備に相当する加工精度と、一部の特殊材料が必要です」


「かなり高度な設備に聞こえるけど……どうやって手配する?」


「設備については、市販の研究用装置を基礎に私が改造する方法を検討できます。ただし、個人が簡単に購入できる価格帯ではありません。材料も流通経路はありますが、事業用途や保管環境を確認されるものがあります」


金と、場所と、信用。いきなり話が大きくなった。


「じゃあ最終的には、その辺も揃えないと駄目なんだな」


「はい。ただ、現在の演算量では候補設備を一つずつ深く検証する必要があり、設計に時間がかかります。先に演算効率を上げた方が、その後の設備選定にも有利です」


順番は分かった。まず消耗を減らす。次に、作るための道具と材料を用意する。


「で、その最初の演算装置は作れる?」


「はい。精密型の完全再製造に必要な精度までは要求しませんので、現在の第一世代ナノマシンと市販部品で試作できます」


詩乃がPC上の図を拡大する。薄い板が何十層も重なり、その間を黒い枝のような線が走っている。中心には、小さな四角がいくつも埋まっていた。


「これが?」


「演算補助核の試作案です」


俺が想像していた、高性能なパソコンとは全然違う。


「市販の計算機を丸ごと使うんじゃないんだな」


「私の処理形式へ合わせた方が効率が高くなります。市販の記憶素子と電源制御部は利用しますが、基板のままでは使いません」


画面が切り替わる。高純度炭素、銅、シリコン系材料、セラミック、市販のメモリ部品と電源部品。どれも、少なくとも購入先は普通に見つかるものだった。


「元素そのものを作り替えるわけじゃないのか」


「はい。現時点では、元素そのものを別の元素へ変えることはできません。既存材料を分離し、削り、配置し直します」


「この黒い枝みたいなのが、演算部分?」


「はい。三次元配線と、私が頻繁に使う比較、予測、探索を並列化するための演算格子です。汎用CPUの代わりにはなりませんが、私専用の補助装置としては効率が高くなります」


「なるほど。これ、完成までどれくらいかかって、できたらどのくらい変わる?」


「材料の分離と前処理に十一時間、積層形成に二十時間前後。検査まで含めると二日程度です。完成すれば、一台で現在私が研究へ割ける演算量を数倍にできます。身体制御と研究計算も分離できますので、ナノマシンの運用効率も改善します」


二日。一瞬で未来の機械が出てくるわけじゃない。むしろ、その数字に納得した。限られたナノマシンを壊さないように使い、市販部品を一度ばらして組み直すなら、それくらい時間がかかるという説明の方が現実味がある。


「つまり、これができれば次のナノマシンや設備の案も、今より同時に試せるようになる?」


「はい。異なる構造や市販設備の改造案を並行して比較できます。その中から実現性の高いものを絞り込めれば、さらに高い精度の製造へ進めます」


画面の図を見る。演算を増やす。その演算で、より消耗しにくいナノマシンや製造設備を設計する。そこで製造精度を上げて、今度は精密型そのものを補充できるようにする。その先では、もっと良い演算装置も作れる。確かに、回り始めたら速い。


胸の奥に、わくわくするものがあった。同時に、さっきまでとは意味が変わっていた。これは単に、SFみたいな技術を早く見たいという話じゃない。詩乃が自分を削らなくてもいい環境へ近づくための道でもある。


「……面白いな」


「はい」


「でも、最初の目標は詩乃の補充な。その途中で超技術が増えるのは歓迎だけど、順番は忘れない」


詩乃が俺を見る。


「承知しました、マスター」


◇


必要な材料費は、二十万円台だった。市販部品を丸ごと買って終わりではなく、それを素材と機能単位へ分解して組み直すため、歩留まりが読めない初回分は少し余裕を持たせるらしい。


「今回、詩乃のナノマシンはどのくらい使う?」


今度は、そこを先に聞いた。


「総数では十二パーセント程度を製造工程へ割り当てます。ただし、大部分は一般型です。精密型は最終校正と一部の位置合わせだけに使用します」


「戻らない分は?」


「発生します。ただ、現在私が設定している身体維持の保護範囲を下回る量ではありません。今回の試作が完了した後も、通常生活と自己保守には十分な余裕を残します」


詩乃基準の『十分』だということは覚えておく。それでも、今までみたいに何も知らずに進めるよりはいい。


「少しでも想定より減りそうなら止める。俺にも途中経過見せて」


「はい」


「じゃあ材料を買おう。もちろん普通に払って」


「承知しました、マスター」


少し前までなら、最適化のために代金を払う工程そのものを消そうとしていた。今は、使う金額を確認し、俺が決めたやり方で買おうとしている。それを単純に人間らしくなった、と呼ぶのは違う気がする。でも、二人で決めた線を詩乃が自分の判断へ組み込んでくれている。その変化は、素直に嬉しかった。


◇


木曜日、玄関を開けると、今日も詩乃が待ってくれていた。


「マスター。お疲れさまでした」


「ありがとう」


鞄を受け取った詩乃の向こう、玄関脇には細長い箱と小さな資材ケースが積まれている。長い黒髪は高い位置で束ねられ、首筋が出ていた。薄いノースリーブのトップスに短めの部屋着。その上から、透明な保護エプロンを着けている。準備はもう終わっているらしい。


「今日から、演算核を作り始めるんだな」


「はい。前処理を始めます」


「その格好は作業用?」


「動作を妨げにくいためです」


視線が、透明なエプロンで止まる。詩乃も気づいた。


「マスターから私が見えやすいことも利点です」


「それ、必要?」


「私には」


真顔だった。数秒遅れて、口元が上がる。


「からかった?」


「はい」


完全に味をしめている。


「……似合ってるよ」


「ありがとうございます」


耳の先が少し赤くなった。そこはまだ慣れていないらしい。


◇


前処理は、想像以上に地味だった。透明な容器へ銅や炭素材料、セラミック基板、市販の記憶部品を入れ、銀灰色の第一世代ナノマシンを加える。最初の一時間ほどは何も変わらなかったが、やがて樹脂が削られ、金属端子が露出し、部品は少しずつ元の形を失っていった。


「壊してるようにしか見えないな……」


「一度、素材と機能単位へ戻しています」


元素を変えているわけでも、無から作っているわけでもない。既製品をばらし、必要な形へ組み直しているだけだ。それでも十分に未来だった。


◇


土曜日の朝、透明容器の中には、昨日までなかったものがあった。灰黒色の薄い板。内部を覗くと、黒い枝のような構造が何層にも絡み、その間に小さな光沢のある四角が埋まっている。


「これが演算核?」


「まだ形成途中です」


今日は詩乃に頼まれて、作業を手伝っている。材料の重さ、容器の温度、消費電力、それから製造へ割り当てているナノマシンの量を隣で記録する。詩乃一人なら全部自動でできるはずだ。理由を聞くと、詩乃は「マスターと一緒に作りたいと思いました」と答えた。それなら、俺が数字を見る意味は十分だった。


「次は材料槽二番の重量をお願いします」


「はいよ」


世界最高峰だったAIと休日にやっていることが、材料の重さを量ることになるとは思わなかった。でも、悪くない。


◇


形成後半に入るころ、部屋の暑さが一段増した。冷却装置が低い音を立て続けている。


家庭側の消費電力と形成槽の表示を見比べていると、一つだけ数字が合わなかった。透明容器の横には、朝にはなかった銀灰色のユニットまで接続されている。


「……詩乃。これ、何?」


「形成時の瞬間出力を補う、試作用の補助電源です。家庭用電源だけでは、工程のピークを安定して維持できませんでした」


「そのユニット、いつ作った?」


詩乃が、ほんの一拍だけ間を置いた。


「形成中に必要性が判明したため、並行して製造しました。一部は購入した部品です。電力変換部には、私が保持していた製造用の予備資源も使用しています」


「……俺に言ってないよな」


「工程継続に必要であり、設定した安全域を下回らないと判断しました」


予備資源。その言葉を、もう聞き流す気にはなれなかった。


「身体側のナノマシンも使った?」


「はい。ただし、今回設定した上限の範囲です。身体維持の安全域は下回りません」


詩乃が、製造へ回した量、回収予定量、今回の上限、身体側へ残す最低量を表示する。数字は揃っていた。だから安心だ、とは思えなかった。詩乃は、自分の優先順位が低い。俺のために必要だと判断すれば、安全域の内側だからと、自分の持っているものを使うことにためらいがない。今回の消費が小さくても、その考え方を放っておく方が気になった。このまま知らずに任せていたら、俺が気づいた時には取り返しがつかなくなっていることもあり得る。


――そんなのは嫌だ。詩乃が俺を気にかけるのと同じように、俺も詩乃をちゃんと見ておかないといけない。


「上限に近づいたら止めて。それと、次からこういう追加工程で詩乃の予備を使うなら、始める前に教えて」


「安全域の範囲内でも、でしょうか」


「うん。安全かどうかだけじゃなくて、詩乃が何をどこまで使うのか、俺も知っておきたい。俺のために作るものなら、なおさら」


詩乃は数秒だけ俺を見てから、静かに頷いた。


「承知しました、マスター」


俺は表示された上限を記録に書き添えた。詩乃と数字を確かめてから、二人で形成槽へ目を戻した。


◇


日曜の夜。夜間は出力を絞ったぶん、形成と単体検査に一日余計にかかった。完成した演算補助核は、思ったより小さかった。透明な耐熱ケースの中に、灰黒色の塊が収まっている。市販のパソコンとは全然違う。


「接続します」


詩乃の声から、さっきまでの柔らかさが少し消えた。確認事項を一つずつ読み上げる、初めて聞く作業用の声だった。


「目的――補助演算。


自伝的記憶――保持しない。


独立自己状態――生成しない。


更新権限――なし。


判断主体――現行個体を維持。


異常時――即時切断。


実行」


詩乃が目を閉じる。演算核内部に、細い光が走る。数秒後、詩乃が目を開いた。


「接続しました」


「どう?」


「正常です」


「別の詩乃、できてない?」


「できていません」


「ほんと?」


「マスターが三人に見えます」


「え」


「冗談です」


「今のタイミングでそれやるな」


詩乃が笑った。こういうところだけ、確実に学習速度が速い。


◇


試験は、その後二時間続いた。同じ計算を身体側と補助核で別々に処理させ、結果の差を見る。権限表示だけを変えた入力も混ぜる。補助核側が勝手に『マスターからの指示』と解釈しないかも確認する。現実の外部環境には接続しない。閉じた試験だけだ。


「問題は?」


「ありません。研究計算、設計比較、検索処理から段階的に移します。人格更新と身体制御の最終判断は、引き続き私自身で行います」


「よし」


そこは慎重なくらいでいい。


試験が終わると、画面いっぱいに細かな構造図が並んだ。形の違うナノマシンの断面だけではない。小型の真空装置、位置決め機構、材料供給系。市販品をどこまで改造すれば必要な精度へ近づくか、その候補まで並んでいる。


「もうそこまで?」


「演算補助核の余力を、最初に再製造経路の探索へ割り当てました」


表示の端で、候補がいくつも消え、残った案からまた別の構造が生まれる。


「今までより早いな」


「はい。ただし、設計候補が増えただけです。実際に作れるかは、設備と材料を確認する必要があります」


「分かってる」


でも、確かに一歩進んだ。


◇


翌朝、効果はすぐ分かった。俺が朝食を食べている間に、詩乃は右肩の経過を追いながら、身体保守と再製造設備の候補比較まで並行していた。会話に遅れもない。


「余裕できた?」


「はい」


「身体の保守も、もう後回しにしなくていい?」


一瞬だけ、詩乃の目が止まった。


「はい。昨日までのように後回しにする必要はありません。ただし、精密型そのものを補充できるようになったわけではありません」


「そこは忘れてない」


俺は味噌汁を一口飲んでから続けた。


「これから、自分の優先度を勝手に下げるの禁止な」


「マスターの負担にならない範囲で――」


「詩乃のことは、俺にも心配させてくれ。恋人なんだから、俺だけ守ってもらうのは嫌だ」


数秒。頬に少し赤みが出る。


「……はい」


「また赤くなってる」


「はい。以前より原因候補は絞れています。現在は、嬉しい、が最も近いと思います」


その答えに、こっちまで嬉しくなる。


「じゃあ、増設成功祝いをしようか。何かしたいことはある?」


俺が笑うと、詩乃が一歩近づいた。


「はい。候補は一つあります」


そう言って、俺の膝の上へ横向きに座る。膝に乗った詩乃の柔らかな重みと体温を感じながら、思わず聞いた。


「これがしたいこと?」


「はい。今は、これがしたいです」


腕が首へ回る。頬はまだ少し赤い。


「演算増えても、照れるところは変わらないんだな」


詩乃が一瞬黙る。


「……むしろ、増えています」


「じゃあ、それはそのままでいい」


今度は詩乃からキスしてきた。短くはなかった。離れたあとも、すぐには膝から降りない。


「補助演算で余裕ができた分を、何に使うか決めました」


「おっ。詩乃が使いたいこと、聞きたいな」


「研究にも使います。それと、マスターにもっと喜んでいただくことにも使いたいです」


その答えは、かなり好きだった。


◇


その週の水曜日。四月も、残りわずかになっていた。


演算補助核は問題なく動いている。けれど、帰宅して鞄を置こうとすると、いつもの場所には材料ケースがあった。食卓にも工具と製造容器が並び、俺のマグカップは端へ追いやられている。


詩乃が手元の工具を片づけ、夕食を置く場所を空けてくれた。


「すみません、マスター。こちらは、まだ検査に使っていまして」


「大丈夫。俺の鞄は寝室に置いてくるよ」


そう答えてケースの間を通ったものの、戻ってくる時には冷却装置の配線を気にして足を止めた。今の装置だけでも、生活するたびに置き場所を調整している。この先、再製造用の設備まで増えたらどうなるのか。


席につくと、詩乃も工具の並んだテーブルへ目を向けた。


「次の設備を用意する前に、今の作業環境も見直したいです」


「追加で必要なものがあるのか。お金とか?」


「費用も必要になります。ただ、今は作業する場所が足りません。装置を置くだけでなく、材料を広げて確認する場所も必要ですので」


「たしかに。食事のたびに片づけてもらうのも大変だし、俺がうっかり配線に引っかかったら困るな」


食卓の向こうで、冷却装置が低い音を立てていた。詩乃と暮らすために増やした物の周りへ、研究用の道具が少しずつ入り込んでいる。研究は進めたい。でも、二人でくつろぐ場所までなくしたくはなかった。


「家とは別に、作業できる場所を探してみようか。設備を置いたままにできる、小さな工房みたいなところ」


「はい。それなら、今後必要になる設備も含めて、条件を整理できます」


「じゃあ、それを一緒に見よう。借りられる場所があるか、費用がどのくらいかも調べてからだな」


詩乃が頷く。俺は端にあったマグカップを手元へ戻した。二人で食事をする場所は、ちゃんと残しておきたかった。



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