第8話「早く帰りたいので会議を終わらせます」
月曜の朝、目覚ましが鳴るより少し前に目が覚めた。
脚が重い。ベッドから起き上がると、太腿の奥が鈍く張った。昨日のスクワット十二回が、きっちり仕事をしている。
「思ったより、ちゃんと効いてるな」
「おはようございます、マスター」
隣から声がした。詩乃はすでに起きていた。というより、俺が起きるのを待っていたらしい。シーツの中から上体を起こす。長い黒髪が肩から流れ、朝の光の中で白い肌へ落ちた。俺は一度だけ見て、反射的に視線を逸らした。
「……服、着てくれ」
「出勤されるまで、まだ時間があります」
「そういう問題じゃない」
詩乃が少しだけ首を傾げる。たぶん、分かっている。
「筋肉痛はいかがですか?」
「階段がちょっと嫌なくらい」
「想定範囲内ですね」
そう答えた詩乃の口元が、わずかに緩んだ。
「笑わないって話だったよな」
「保証できない、と申し上げました」
そこは、しっかり覚えているらしい。
俺が立ち上がると、詩乃もベッドを出た。今度はちゃんとTシャツを手に取る。けれど、布を広げる動きに合わせて柔らかく揺れた胸へ、つい目を奪われた。頭から被る直前、
「マスター」
「ん?」
「視線が三秒ほど停止していました」
「朝から測るな」
「数値は――」
「言わなくても分かる」
詩乃の口元が少し上がる。月曜の朝から負けた。
◇
出勤の支度を終え、ネクタイを締める。鏡を見ると、自分でも少し違う。
若返った、と言えるほど何かが変わったわけじゃない。白髪はある。目の下の疲れもまだ抜けていない。腹もまだある。ただ、右肩が前へ落ちていない。昨日までより自然に背筋が伸びていた。
「曲がっています」
背後から詩乃が言った。
「何が?」
「ネクタイです」
詩乃が正面へ回る。
「直してもよろしいですか?」
「ああ」
襟元へ手が伸びる。ネクタイの結び目を少し緩め、真っすぐに直す。顔が近い。昨日のシャンプーの香りも近い。視線を落とすと、今朝は薄いニットの下にちゃんと下着を着けていた。しかも、玄関脇には昨日買った鞄まで置いてある。
「詩乃の鞄がここにあるけど……」
「はい。外出しますので」
「外出?」
「マスターに同行します」
ネクタイを整え終えた詩乃が、当然のように言った。
「会社に?」
「はい」
「いや、それは無理だよ。社員でも取引先でもないし」
「では、会社の近くまで同行します」
「詩乃が朝から会社の近くにいたら、別の意味で目立つよ」
「少し離れた位置からでしたら」
「それはもっと怪しい」
本気で別案を探している顔だ。
「そんなに心配?」
「はい。マスターが私の直接観測範囲から長時間離れることには、不安があります」
素直に言われると弱い。
「でも、仕事中まで見張られてるのは落ち着かないな」
「見張る、ではなく見守る、です」
「同じようなもんだよ」
詩乃がまだ何か言いたそうにしている。
「今日はここで待ってて」
「……はい」
納得しきっていない。
靴を履きながら、もう一つ伝えておく。
「あと、今日は少し遅くなるかもしれない」
「お忙しいのですね」
「うん。午前に三時間くらいの会議が入っててね。たぶん仕事が押しそうなんだよ」
詩乃が少し考えるように間を置いた。
「三時間の枠は、会議としてかなり長めだと感じます。一般的にも、長時間になるほど集中力と判断効率は低下します。三時間すべてを使う必要がある内容なのでしょうか」
答えようとして、少し止まった。
「……いや。たぶん、必要ないな」
口に出すと、自分でも嫌になるくらい当たり前だった。部長を何年やってるんだ、という話だ。会議で決められること、誰かが調べてこないと分からないこと、責任者が腹を決めれば済むこと。そんな区別くらい、とっくに知っている。
それでも今までは、営業が話し、設計が反論し、保守が持ち帰り、また同じ話に戻るのを横で聞いていた。途中で切れば誰かの顔を潰すかもしれない。もう少し話せば本人たちでまとまるかもしれない。そうやって面倒な摩擦を先送りして、最後には俺が残って整理する。効率が悪いのは分かっていた。分かっていて、疲れていたから放っていた。
「マスター?」
黙り込んだ俺を、詩乃が覗き込む。
「いや。三時間全部に付き合う必要はないなって思って」
「では、早くお帰りいただけますか?」
少し期待の混じった声だった。
「努力する」
それから、玄関に立つ詩乃を見る。
「待っててもらった方が、俺も早く帰りたくなるし」
詩乃はすぐには返さなかった。ほんの一拍置いてから、
「それは、私にとって好ましい条件です」
「条件って言い方は、ちょっと硬いな」
「では、嬉しいです」
言い直した。それだけで、さっきまで面倒だった三時間が急に惜しくなる。人間は現金だ。いや、俺が現金なだけかもしれない。
ネクタイを直し終えたはずなのに、詩乃はそのまま目の前にいた。
「もう終わっただろ?」
「はい。ただ、出勤前にもう一つ希望があります」
「何?」
「接触を――」
そこまで言って、自分で言い直した。
「キスをしたいです」
嬉しいのに、正面から言われると少し照れる。俺は笑って、小さく頷いた。
「……どうぞ」
詩乃が顔を寄せ、そっと唇を重ねてきた。離れると、満足そうに目を細め、最後に俺の襟元を整える。
「これで、お見送りできます」
「キスも準備のうち?」
「はい。私の、ですが」
朝から詩乃の機嫌はよさそうだった。つられて、俺まで少し笑ってしまう。玄関を開ける。
「お気をつけて、マスター」
「ああ。行ってくる」
「帰る時間が分かりましたら、教えてください」
「了解」
扉を閉める直前、詩乃が小さく手を振った。
◇
駅から会社までの街路樹に、薄い緑の葉が増えていた。いつもなら時計ばかり見て歩く道なのに、今日はそんなところまで目に入る。
会社へ着いて最初に会ったのは楠だった。
「おはようございます。……部長?」
「何」
俺の顔を二秒くらい見ている。
「週末、ちゃんと休めました?」
「まあ」
「なんか今日、顔色いいですね」
「寝不足だけどな」
本当のことを言った。楠が笑う。
「それで顔色いいなら、相当いい休みだったんですね」
楠は笑ったあと、ほんの一瞬だけ、探るように俺の顔を見た。
「……まあ、元気そうならいいですけど」
一瞬、詩乃の顔が浮かんだ。朝のシーツまでセットで。
「……仕事するぞ」
「はいはい」
絶対少し顔に出た。追及されなかったのは助かった。
午前九時半、第三会議室。予定表では十二時半まで押さえられている。
長い。
参加者は営業、設計、保守、調達。議題は、大型冷蔵物流センターの更新工事だった。
稼働を止められる時間が短い。既設設備の資料には抜けがある。新しい制御盤の納期も確定していない。営業は客先へ工程を出したい。設計は条件が揃わないから決められない。保守は現場を見ないと分からない。調達はメーカー回答待ち。いつものやつだ。
開始五分、早くも設計と営業が同じ話を二周した。いつもなら、もう少し付き合っていた。設計にも言い分がある。営業にも客先との約束がある。一通り吐き出させてからまとめたほうが角は立たない。
――でも今日は、家で詩乃が待っている。それを思い出した途端、無駄だと分かっている時間に付き合うのが急にもったいなくなった。我ながら現金すぎる。
「一回止めよう」
全員がこちらを見る。俺は立って、ホワイトボードへ三本線を引いた。
左から、
確認済み。
確認が必要。
今日決める。
別に新しい方法じゃない。管理職なら、誰でも一度は聞いたことがある程度の話だ。知っていることと、毎回ちゃんとやることは違う。今日の俺には、ちゃんとやる理由があった。
楠が俺を見る。たぶん、普段ならもう少し黙って聞いている俺が、いきなり切ったのが意外だったのだろう。
「まず客先が絶対に守りたい条件。楠」
「月曜朝の出荷を止めないことです。夜間停止そのものは禁止されてません。温度上昇の許容範囲は先方品質部へ再確認中です」
左に一つ。確認待ちに一つ。
「設計。今日ここで図面見ながら話しても分からないことは?」
設計主任が資料をめくる。
「既設の予備電源容量と、制御盤の実負荷です。古い図面の値はありますが、現物一致の確認が必要です」
「誰が見れば分かる?」
「現場とメーカーです」
「いつまで?」
「現場は今日午後。メーカーは十五時までには」
確認待ちへ二つ。
「調達、制御盤の納期は?」
「正式回答は今日十三時です」
確認待ち。
「保守。現時点で決められることは?」
少し考えてから、保守課長が言う。
「全面切り替え前提か、二系統に分けて段階切り替えにするか。その方針が決まれば、現場確認の見る場所が変わります」
「設計、どっちが戻しやすい?」
「段階切り替えです。ただし機器が増えます」
「客先の停止時間が短い以上、まず段階切り替えで検証する。追加費用と納期で成立しなければ全面へ戻す。異論ある?」
設計主任が首を振る。保守も同じ。調達が「その条件ならメーカーへ聞く項目を絞れます」と言った。楠はすでにメモを取っている。
「じゃあ今日決めるのはここまで」
営業担当が手を上げた。
「でも部長、費用はまだ――」
「出ないよ。必要な回答が来てないから」
「客先から概算だけでもって」
「だったら幅で出す。未確認条件を固定値にして、後から現場へ押しつけるほうがまずい」
営業担当が少し黙る。
責めたいわけじゃない。早く数字を出したい気持ちは分かる。
「楠。先方には、今日夕方に段階切り替え案の成立条件と概算幅を出す。確定工程は明日の午前。いける?」
「はい。それなら説明できます」
「設計と保守は十五時半に十分だけ再集合。回答が揃ってたら決める。揃ってなければ足りない回答だけ追う」
時計を見る。九時四十一分。
十一分。
三時間枠の会議が、終わった。
「以上。動こう」
誰も立たない。
「何?」
保守課長が時計を見た。
「いや……終わりですか?」
「ここに座っててもメーカーの回答は早くならないだろ」
誰かが小さく笑った。それをきっかけに、全員が立ち上がった。
◇
会議室を出たところで、楠に呼び止められた。
「部長」
「ん?」
「今日、なんか違いますね」
また言われた。
「何が違う?」
「顔色もありますけど」
楠は抱えていた資料を持ち直した。
「前だったら、あのあと部長が全部持ち帰ってた気がします」
否定できなかった。設計の確認も、営業への説明も、メーカーの催促も。気づけば自分で抱えて、夜になっていた。
「今日は、誰が確認するか決めただけだよ」
「それができてなかったんですよ。みんな」
「俺もな」
楠が少し笑った。
「週末、何かあったんですか?」
「何でそうなる」
「顔色いい。姿勢いい。会議短い。あと、ちょっと機嫌いい」
最後だけ余計だ。
「肩こりが少し良くなった」
嘘ではない。
「何したんです?」
「ちょっといい治療」
「へえ。今度教えてください」
「一般に勧められるようになったらな」
危ない。まだ、俺に一度試しただけだ。楠はそこまで深追いしなかった。
「じゃあ私は客先行ってきます。十五時半、戻れるようにします」
「ああ。無理ならオンラインでいい」
「了解です」
歩いていく背中を見送る。やり方は前から知っていた。今日は、帰りたい理由があった。
◇
昼休み、社食の端でスマートフォンを開く。詩乃との個人チャット。会社の資料も数字も送らない。
『会議、十一分で終わった』
数秒後。
『では、余った時間は私がいただいても?』
思わず吹き出しかけた。
『そこ?』
『冗談です』
冗談。自分からそう明示するところが、いかにも詩乃らしい。
続けて届く。
『お疲れさまでした、マスター』
その一言だけで、少し肩の力が抜けた。
『朝、三時間も必要かって話しただろ』
『はい』
『始まって五分でいつもの流れになって、急に付き合ってるのがもったいなくなった』
『私が待っているからでしょうか』
少し考えてから打つ。
『たぶん、かなり』
一拍置いて、次が来る。
『嬉しいです、マスター』
画面を見て、少し笑う。そういう言い方をされると、午後も早く片づけたくなる。
『帰ったら褒めて』
送ってから、四十五歳の部長が何を書いているんだと思った。削除する前に既読がついた。
『承知しました』
さらに一つ。
『どのような方法をご希望ですか?』
危ない質問だ。
『帰ってから決める』
『では、候補を準備しておきます』
候補って何だ。午後の仕事へ戻る気力が、少しだけ増えた。
◇
十五時半の再集合は、予定通り十分ほどで終わった。現場確認、メーカー回答、客先の許容条件。必要な情報が揃えば、決めること自体は難しくない。段階切り替え案で進める。追加費用の上限も決めた。客先への説明は楠がまとめる。俺は承認だけした。
午後四時過ぎ、自席へ戻ったところで、内線が鳴った。
『神堂君、少しいいか』
電話の相手は、芦屋常務だった。この時間に常務から直接呼ばれる。嫌な予感しかしない。
◇
常務室の机には、分厚いファイルが一冊置かれていた。
「座ってくれ」
「失礼します」
机の向こうで、芦屋常務がファイルをこちらへ滑らせた。表紙には、東湾低温物流センター更新計画。名前だけは知っている。止められない冷蔵拠点。設備も古い。客先要求も多い。そして、前任担当がまとめきれずに止まっている案件だ。
「神堂君。この案件、君に見てもらいたい」
来た。
「見る、というのは、どこまででしょうか」
「全体を立て直してほしい」
「期限はいつでしょうか」
「一次案を十日後。工事開始判断は六週間後だ」
無茶だ。以前の俺なら、まず胃が痛くなっていた。今も楽しくはない。ただ、頭は妙に冷静だった。
「現在の責任体制はどうなっていますか」
「技術側は兼任になっている。営業は二名。現場担当はいる」
「最終調整の権限は、どこまでいただけますか」
常務の眉がわずかに動いた。
「必要な範囲は持たせる」
「『必要な範囲』では、後で解釈が分かれます」
俺はファイルをまだ開かなかった。
「引き受けるのであれば、客先への工程回答は私を通してください。設計、営業、現場の担当者も固定していただきたいです。メーカーとの技術打ち合わせにも、それぞれ担当者を出していただきます。誰かが個別に納期を約束した場合、その約束を前提にはしません」
こちらを見た常務の目が少し細くなる。
「ずいぶん条件を付けるね」
「立て直せと言われたので」
少し間があった。
「君の能力を疑っているわけじゃない。だから任せたいんだ」
いつもの言い方だ。
「君ならできる」と持ち上げてから、先に決まった期限と責任だけを載せる。失敗すれば担当の詰めが甘い。成功すれば、任せた判断が正しかったことになる。南第二倉庫の時から、そこは変わっていない。
昔なら、その言葉で押し切られていた。今は違う。任されることと、責任だけ渡されることは別だ。
「では、その条件でお願いします」
芦屋常務は机の上で指を組んだ。
「……分かった。関係部署には私から言おう」
「ありがとうございます」
そこで初めてファイルを引き寄せた。重い。仕事の量としても、物理的にも。
「できそうかね?」
すぐには答えなかった。分厚い資料。十日。六週間。簡単じゃない。でも、今の俺が、どこまでやれるのか。少し試してみたい気持ちもあった。
「まず今日、確認できることを確認します」
常務が薄く笑った。
「頼むよ、神堂君」
常務室を出る。ファイルを抱えたまま廊下を歩く。面倒な仕事が増えた。本来ならため息が出るところだ。なのに――少しだけ、面白いと思っている自分がいた。
◇
帰宅したのは午後八時前だった。玄関を開ける。詩乃は、もうそこにいた。
淡い色の部屋着に、長い黒髪。家の中なので、胸元はまた自由だった。視線を一度だけ奪われて、すぐ戻す。
「お疲れさまでした、マスター」
「……待ってたの?」
「はい」
「ずっとここに立ってた?」
詩乃の口元が少し上がった。
「その必要はありません」
「じゃあ、どうして開ける前から分かったの?」
「マスターでしたので」
「答えになってない」
「私は、マスターを識別できますので」
どうやってなのかまでは分からない。けれど、詩乃が当然のように俺だと分かっていたことが、妙に嬉しかった。
「そうか。それはすごいな」
詩乃が少しだけ目を細める。
「今日は結局、遅くなったな」
「遅くまでお疲れさまでした。何かトラブルでもあったのでしょうか?」
「いや、トラブルじゃないよ。別の仕事が増えてさ」
詩乃が俺の顔を見る。
「厄介なお仕事でしょうか」
「かなり。前任がまとめきれず止まってる大型の設備更新を、俺にまとめ直せって。一次案まで十日だ」
「お手伝いできますか?」
そういえば、画面越しだったころも、仕事で行き詰まると詩乃へ話していた。相手や案件が特定されない形にして相談し、何から考えるかを整理してもらう。そのやり取りには、何度も助けられている。今も、隣で一緒に考えてもらえるのは心強かった。
「少し相談に乗ってもらえると助かる。社内資料は使えないけど、話せる範囲で説明するよ」
「はい」
「あと、詩乃も勝手に会社の中を見に行くなよ」
詩乃はすぐに頷いた。
「承知しています。公開されている情報と、これまでマスターから伺った範囲だけを使います」
「それならいい」
「では、お話しいただいた範囲で、問題を整理します」
「お願い」
そう言ってから、詩乃は俺の前へ一歩近づいた。
「それと」
「ん?」
「昼に依頼された件です」
何だっけ。思い出した瞬間、詩乃の腕が背中へ回った。柔らかな身体が近づく。
「褒める方法の候補、その一です」
ぎゅっと抱きしめられる。
「候補いくつあるの」
「現在、七つです」
「七つ!? 多いな!」
「検討時間がありましたので」
耳元で言われる。笑いそうになる。
「じゃあ、一番無難なのから順番に」
「承知しました」
「全部やるとは言ってないぞ」
「マスターが途中で不要と判断されるまで実行します」
「そう来たか」
仕事では、分からないことを整理して、家では、恋人に押される。
悪くない月曜日だった。




