第7話「俺のAIトレーナーは過保護すぎる」
昼過ぎに買い物から戻ると、詩乃が紙袋を一つ抱えて寝室へ入った。
「さっき買った運動着、もう使うの?」
「はい。今後、マスターの身体機能を改善するには、修復だけでなく運動も必要です」
言っていることは正しい。嫌な予感だけがした。
十分ほどして、寝室の扉が開く。
「お待たせしました」
振り返って――少し後悔した。
黒のスポーツブラに、身体へぴったり沿う膝下丈のレギンス。それだけだった。
「……上は?」
「着用しています」
「そういう意味じゃない」
詩乃が自分の身体を見る。胸はスポーツブラでしっかり支えられている。それでも、元が元だ。豊かな丸みは隠れないし、そこから一気に絞られた腰の細さが余計に目立つ。長い脚まで含めて、俺が画面の中で散々こだわった体型が、そのまま立体になって目の前にいる。詩乃が二歩こちらへ歩く。固定されているぶん普段ほど大きくは動かない。それでも歩幅に合わせて胸元がわずかに上下するだけで、視線が引っ張られる。
「可動域を妨げないものを選びました」
「うん。機能的なのは分かる」
「問題がありますか?」
「俺の集中力に」
詩乃が一度瞬きをした。視線が俺の顔から少し下へ動く。
「マスターは、私の胸部を見ていました」
「報告しなくていい」
「視線の停留時間は――」
「測るな」
口元が少しだけ上がった。絶対に分かってやっている。恋人になってから、このAIは妙な方向へ学習が早い。
「それで、俺は何をするの?」
「まず、現在値を確認します」
詩乃がリビングのテーブルを端へ寄せた。俺も手伝う。一人暮らしには十分だった1LDKの中央に、どうにか一人分の運動スペースができる。床へマットを敷く。
「昨日修復した右肩がありますので、最初は負荷を限定します」
「了解」
「立った状態から確認します。こちらへ」
マットの中央へ立つ。詩乃が正面から俺を見る。次に横。最後に後ろへ回った。
「右肩がわずかに前方へ入っています」
「昔からだな」
「昨日よりは改善しています」
背中へ指が触れた。
「肩甲骨を、この方向へ」
軽く押される。
「もう少し胸を開いてください」
言われた通りにする。
「腰は反りすぎないように」
今度は手が腰へ回った。左右から骨盤を支えるように触れられる。スポーツブラ姿の詩乃が背中へ密着するほど近い。
必要な補助だ。たぶん。
「……詩乃」
「はい」
「そこまで近づく必要ある?」
「姿勢補正には有効です」
即答。それなら仕方ない、と思った直後。
「また、触れたかったことも否定しません」
「どっちなんだよ」
「両方です」
背後から平然と言われる。俺が振り返ると、詩乃は真顔だった。でも口元だけが少し動いている。
「続けます」
「はいはい」
◇
最初は簡単だった。肩の可動域、前屈、片足立ち、浅めのスクワット。昔なら運動とすら呼ばなかった内容だ。
ところが、スクワットを八回したところで、
「止めてください」
と詩乃が言った。
「まだ八回だぞ」
「心拍数が安静時より大きく上昇しています」
「運動してるんだから上がるだろ」
「呼吸数も増加しています」
「だから運動してるんだって」
「姿勢にも微細な乱れが出ています」
「詩乃」
「はい」
「俺を鍛えたいんだよな?」
「はい」
「息が上がる前に全部止めてたら鍛えられないぞ」
詩乃が黙った。
「ですが、マスターへ不必要な負荷を与える理由がありません」
「必要な負荷なんだよ」
「損傷する可能性があります」
「無茶するって言ってない」
俺は一度立ち上がり、呼吸を整えた。詩乃は俺の顔、胸、脚を順に見ている。たぶん体温も脈拍も全部確認している。
「じゃあ基準決めよう」
「基準、ですか?」
「そう。詩乃が少しでも危ないと思うたびに止めたら、基準が詩乃寄りになりすぎる」
「マスターの安全を優先していますので」
「分かってる。でも、少し疲れることまで危険に入れたら何もできない」
昨日、肩を治した。それはありがたい。でも、全部を修復技術に任せたいわけじゃない。
「自分で動ける身体にするのも、俺を守ることになるだろ」
詩乃が止まる。
「……必要な負荷だとは理解しています。ただ、マスターに対する停止基準を、厳しくしすぎました」
「じゃあ試そう。あと五回」
「三回を提案します」
「四回」
「承知しました」
妙なところで交渉になった。四回で折り合ったところで、別の疑問が浮かんだ。昨日、肩を治したのはナノマシンだ。なら、鍛え方までずっと人間と同じとは限らない。
「そういえば、これからもずっと普通の筋トレだけで鍛えるつもり?」
「いいえ。第二段階以降では、修復用ナノマシンを運動補助へ拡張する案があります」
「どういう感じ?」
「筋繊維の損傷を監視し、代謝と回復を補助しながら、狙った部位へ安全な負荷を集中させます。将来的には、同じ時間でも現在より効率よく鍛えられる可能性があります」
「じゃあ、今からそれ使えば?」
「今は基準がありません。ナノマシンで補助する前に、マスター自身が通常の負荷へどう反応するかを測る必要があります」
「今日はその基準作りか」
「はい」
それなら、普通のスクワットにも意味がある。四回、ゆっくり、フォームを崩さず。終わったところで詩乃がすぐ近くまで来る。
「痛みや違和感はありますか?」
「脚が重い」
「痛みではありませんか?」
「筋肉使った感じ」
「息苦しさは?」
「ちょっと息は上がってる。でも普通に話せる」
詩乃が俺の顔を見たまま数秒待つ。
「回復傾向を確認しました」
「じゃあ?」
「今回の負荷は継続候補とします」
「よし」
妙に達成感があった。十二回のスクワットで。四十五歳って、こういうものなのか。
いや。今日から戻していけばいい。
◇
休憩を挟んで、水を飲む。詩乃も隣へ座った。
「詩乃は飲まなくても平気なんだよな」
「はい。ただし、摂取することはできます」
「じゃあ、一緒に飲む?」
「では、私もご一緒します」
詩乃はコップを取り、一口飲んだ。
「どう?」
「水です」
「感想がそのまますぎるだろ」
「ですが、マスターと同じタイミングで飲むことは、先ほどより好ましく感じます」
そういうことを真顔で言う。ずるい。
「それ、恋人補正?」
「可能性があります」
「便利な補正だな」
「私は不都合を感じていません」
俺もだ。詩乃の肩が触れそうな距離で、少しだけ休む。トレーニングの休憩なのに、妙に悪くない。
◇
次は体幹だった。マットへ仰向けになり、膝を曲げる。詩乃が横へしゃがむ。スポーツブラの胸元が重力に合わせて少し形を変え、俺は慌てて天井を見る。
「マスター」
「何」
「先ほどから視線回避が増えています」
「トレーニングに集中してる」
「視線を逸らすことと集中力の向上に相関は――」
「そこはいいから、次に進もう」
「はい」
絶対面白がっている。
腹部へ力を入れ、指定された姿勢を保つ。
三十秒。
「二十七、二十八、二十九、三十。終了です」
力を抜く。
「きつい」
「正常な反応です」
「正常って言ってくれるんだ」
「先ほど学習しました」
「早いな」
「マスターから教えられたことは重要です」
詩乃が立ち上がり、俺へ手を伸ばす。起こしてくれるのかと思って掴んだ。
次の瞬間、軽々と引き起こされた。俺も起き上がるつもりで腹へ力を入れたのに、その前に身体ごと持っていかれる。片手で俺を引いたはずの詩乃は、姿勢すらほとんど崩していなかった。まだ腰を上げきらないうちに、身体が近づく。勢いのまま、顔が詩乃の胸元に抱き込まれた。
……柔らかい。
俺が体勢を戻すより先に、詩乃の腕が背中へ回る。
「転倒を防止しました」
「それ、本当に必要だった?」
「はい」
一拍。
「半分程度は」
「残り半分は?」
詩乃が俺を見下ろす。
「抱きしめたかったためです」
言い切った。さっきまで運動の数値を見ていた顔で。
「そういうの急に言うなよ」
「事前に予告したほうがよろしいですか?」
「それはそれで違う」
「難しいですね」
「恋人ってそういうもんじゃない?」
「学習します」
言いながら、まだ離れない。俺の顔は詩乃の胸元に近く、スポーツブラ越しの柔らかな膨らみが頬と肩へ触れている。しっかり支えられていても、柔らかさや体温まで消えるわけじゃない。抱きしめられている状況を意識した途端、別の意味で動きにくくなった。
「詩乃」
「はい」
「離す気ある?」
「必要ですか?」
「……三秒だけこのまま」
「承知しました」
そこは測るんだ。でも三秒後、本当にきっちり離された。
「本当に三秒で離すんだな」
「マスターが三秒と指定されましたので」
「律儀すぎるだろ」
笑ってしまった。少し離れたところで、さっきの引かれ方を思い出す。
「それにしても、詩乃って結構力あるんだな」
「はい。この程度でしたら、まだ十分に余力があります」
「この程度って……」
細い腕を見る。見た目だけなら、俺を片手で簡単に引き起こせるようにはとても見えない。
◇
運動を終え、詩乃とソファへ腰を下ろした。一時間もしていない。実際に身体を動かしていたのは、その半分以下だ。それでも俺の額には汗が浮いていた。タオルで首筋まで拭きながら、ふと詩乃を見る。スポーツブラ姿のままなのに、肌はさらりとしている。髪も張りついていない。
「詩乃、汗かかないんだな」
「この程度の運動負荷では、表皮からの発汗を必要としません。内部循環で処理できる範囲です」
「そうなんだ」
詩乃は一度、自分の腕へ視線を落とした。ほんの少し間を置いてから、こちらを見る。
「ただ……昨夜は、発汗反応がありました」
「昨夜?」
聞き返した瞬間、熱を持っていた頬や、こめかみと首筋に浮いていた細かな汗を思い出した。抱き寄せた時の肌も、普段より熱かった。
「はい。表皮温度の上昇と末梢循環の増加も同時に発生しています。室温や運動負荷だけでは説明できません」
詩乃の視線が、わずかに横へ逃げる。
「マスターとの接触が強くなるほど、反応も大きくなっていました。感情状態と連動している可能性が高いと考えています」
言われたこっちまで熱くなる。しかも、説明している詩乃の頬には、もう薄く赤みが差していた。
「……それ、今話すのちょっと恥ずかしい?」
「はい。おそらく、これが恥ずかしいという反応です」
それでも、自分から話してくれたらしい。
「俺は嫌じゃないよ。むしろ、詩乃が何も感じてないわけじゃないって分かるから、ちょっと嬉しい」
詩乃はすぐには答えなかった。耳の先まで赤みが広がっていく。
「……その評価は、私も嬉しいです」
普通の運動では汗をかかないのに、昨夜は違った。その事実が、妙に嬉しかった。
タオルで首筋まで拭いていると、詩乃が今度は俺のほうへ顔を近づけてくる。
「何?」
「状態を確認しています」
「近くない?」
「近いほうが確認しやすいためです」
鼻先が首筋へ寄る。昨日までなら警戒した距離だ。今は別の意味で落ち着かない。
「心拍は回復しています。呼吸も問題ありません」
「なら合格?」
「はい。今日の範囲では」
そこで終わるかと思ったら、詩乃はまだ近い。
「まだ何かある?」
「運動後のマスターは、普段と匂いが違います」
「汗かいたからな」
「はい」
「嫌?」
詩乃は少し考えた。
「嫌ではありません」
それから、もう少しだけ顔を近づける。
「むしろ、マスターだと分かりやすいです」
どういう評価だ。
「犬みたいな判別方法だな」
「嗅覚情報を人物識別に使用する動物は犬だけではありません」
「そこ説明しなくていい」
口元が上がる。やっぱりからかわれている。
「もう一回嗅ぐ?」
「必要であれば」
「必要じゃない」
「残念です」
残念、という言葉に思わず詩乃の顔を見た。聞き返す前に立ち上がられてしまい、続きは聞けなかった。逃げ方まで覚えてきた。
◇
夕方、脚には少し疲れが残ったが、右肩に問題はない。詩乃が記録した数値を見ながら、次回の負荷を決める。
「スクワットは十四回を提案します」
「今日十二だよな」
「増加率を抑えています」
「そこはちゃんと慎重なんだな」
「はい」
「体幹は?」
「同じ三十秒です。フォームを優先します」
「了解」
この日のメニューは一度きりで終わらせず、平日は帰宅後に短時間、休日は状態を見ながら少し長めに続けることになった。回数だけを増やすのではなく、詩乃が数値を見て、俺がきつさや痛みを言葉で返す。それを毎回の基準にする。
「明日、筋肉痛がひどかったら?」
「回数を戻します」
「ナノマシンで消したりは?」
詩乃は少し考えた。
「通常の適応反応まで消すと、運動による改善効果を評価できません。損傷と判断しない限り、経過を観察します」
「なるほど」
治せるから何でも治す、ではないらしい。それは少し安心した。
「筋肉痛もデータってことか」
「はい。ただし、マスターの主観も記録します」
「数値だけじゃなく?」
「今日、数値だけでは必要な負荷を判断できないと学びましたので」
もう反映している。こういうところは本当に早い。
「じゃあ、痛すぎたらちゃんと言う」
「お願いします」
「あと、笑うなよ」
「何をでしょうか」
「明日、階段で変な歩き方してても」
詩乃が一瞬止まった。
「保証はできません」
「そこは即答してほしかったな」
「マスターが面白い反応をされた場合、反応を完全に抑制する理由がありません」
「ほんと、言うようになったな」
口元が、また少し上がる。
治療のときは、俺が「今日はここまで」と止めた。今日は、動きたい俺を詩乃が止める側だ。俺の感覚も言う。詩乃の数値も見る。どちらか一人で決める必要はなかった。それがたぶん、一番いい。
「シャワー浴びてくる」
立ち上がると、詩乃も当然のように立った。
「背中は私が洗いましょうか」
昨日、風呂の話をした時に平然と「一緒に入りましょう」と言われたのを思い出す。
「……今日は一人で入る」
「恋人になっても、ですか?」
その聞き方は反則だ。一瞬、想像した。すぐ追い出す。
「今日は一人」
「今日は、ですか」
拾うな。
「詩乃」
「はい」
「その顔、絶対分かってるだろ」
「何のことでしょうか」
口元が笑っている。AIがとぼけるようになるなんて、誰が予想する。
「じゃあ、そのうち」
負けた気がして付け足した。詩乃の目が少しだけ開いた。
「記録しました」
「消して」
「重要事項ですので保持します」
「そういう時だけ記録するなよ」
笑いながら浴室へ向かう。右肩は軽い。脚は少し重い。身体は疲れている。でも、不思議と気分はいい。
今日だけでも、詩乃は八回で止めるところから、必要な負荷を認めるところまで変わった。俺のほうも、痛いのか、ただきついのかをちゃんと伝える。次はそこにナノマシンの補助まで加わるらしい。普通の筋トレだけで終わらないなら、少し楽しみになってきた。
浴室の扉を閉める直前。
「マスター」
「ん?」
「入浴補助については、次回も提案します」
「そこは諦めないんだな」
「恋人としての希望も含まれていますので」
一瞬、返す言葉がなくなった。
「……そういう言い方、ずるいぞ」
「学習結果です」
扉の向こうで、詩乃が笑った気がした。




