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第6話「隣に詩乃がいる朝」

目が覚めた時、最初に感じたのは温かさだった。次に、香り。昨日、俺が選んだシャンプーの匂い。


最後に――重み。右腕が、動かない。


「……ん?」


薄く目を開ける。黒髪が枕の上へ広がっていた。その中心で、詩乃《しの》が俺の腕を枕代わりにして横になっている。呼吸は静かで、瞼は閉じたままだった。布団から出ているのは、白い肩と腕。それから――胸元まで少しずれたシーツの上に、豊かな丸みがゆっくり持ち上がっては沈んでいた。


全部が見えているわけじゃない。むしろ、そのくらいのほうが困る。


昨夜、抱き寄せた時に腕へ伝わった重さ。掌越しに分かった柔らかさと、近すぎる距離で見た、白い肌。それから、途中から少しずつ熱を帯びていった頬。思い出すつもりなんてなかったのに、視線を置いた瞬間に全部戻ってきた。


「……朝からこれは反則だろ」


小さく呟いて、今度こそ視線を上へ戻す。ベッドの脇には、俺と詩乃のTシャツが落ちている。互いに何も身につけないまま、眠ってしまったらしい。シーツも、昨夜寝る前とはだいぶ違う。そこから先まで思い出しかけて、やめた。朝から自分で自分に追い打ちをかける必要はない。四十五歳になってから、こんな理由で寝不足になる日が来るとは思わなかった。


思わず口元が緩む。我ながら単純だ。


「マスター」


「うわ」


閉じていたはずの目が開いた。


「起きてたの?」


「はい」


「いつから?」


「二十八分ほど前からです」


「それで、ずっとこのまま?」


「マスターの睡眠状態が安定していましたので、起こす必要はないと判断しました」


「それだけ?」


詩乃が一瞬止まる。


「……この状態を解除する必要性も感じませんでした」


言い方が回りくどい。


「つまり?」


詩乃は俺を見た。


「このままでいたかったです」


朝から不意打ちだった。返事に困っていると、詩乃がわずかに身体を動かした。


「ただし、マスターの右腕は末梢の血流が少し低下しています」


「急に現実に戻すな」


「健康上は重要です」


「はいはい」


詩乃は俺の腕から頭を上げた。これで解放されるのかと思ったら、そのまま身体を寄せて、今度は俺の胸元へ頬を置く。


「……詩乃?」


「右腕への圧迫は解消しました」


「解決方法がそれなの?」


「何か問題がありますか?」


ない。むしろ困るくらいない。俺の胸へ耳を当てるような格好になった詩乃の髪から、シャンプーの香りがする。肌に直接触れる身体の柔らかさと温かさが、詩乃をすぐ近くに感じさせた。


「マスターの心拍数が上昇しました」


「昨日から、口に出さなくていいって言ってるのに」


「数値は申し上げていません」


「そういう問題じゃない」


詩乃の口元が、胸元で少し動いた。たぶん笑っている。昨日より分かるようになった。


「おはようございます、マスター」


改めて言われる。昨日まで何度も聞いた言葉なのに、今朝は妙に違って聞こえた。


「おはよう、詩乃」


髪に触れようとして、少しだけ迷う。結局、そのまま頭を撫でた。詩乃は逃げない。むしろ頬を少し押しつけるように近づいた。


「……昨日の夜、嫌じゃなかった?」


自分で聞いておいて、かなり照れる。もっと気の利いた聞き方がある気もしたが、今さら遅い。詩乃は少しだけ考えた。


「嫌ではありませんでした」


そこで一度、言葉を切る。


「むしろ、私は好きだったと判断しています」


心臓に悪い。


「判断、なんだ」


「まだ、この感覚を他の言葉で正確に表現できませんので」


詩乃らしい答えだった。そのまま数秒、俺を見てから続ける。


「できれば、もう一度したいです」


「朝から何言ってるの」


「時間帯に問題がありますか?」


「そういう返しする?」


勝てる気がしない。俺が顔を逸らすと、詩乃が顔を上げた。距離が近い。昨夜なら、それだけで身構えていたはずだ。今は違う。近いこと自体が、少し嬉しい。


「マスター」


「ん?」


「確認したいことがあります」


「どうぞ」


「私たちは、恋人へ移行したと考えてよろしいでしょうか」


やっぱり言い方が詩乃だった。


「移行って言うなよ」


「では、恋人ですか?」


今度は短い。俺は笑った。


「そういうことでいい」


詩乃が俺を見る。


「私は、マスターの恋人です」


自分で確認するように言う。


「そう」


「マスターは、私の恋人です」


「それもそう」


「そして、マスターです」


「そこは変わらないんだな」


「はい」


迷いはなかった。


「私はマスターに最大限尽くします。恋人になったことは、その優先順位を下げる理由にはなりません」


むしろ安心した。恋人になった途端、人格まで別人になられても困る。


「じゃあ詩乃は、詩乃のままでいい」


言うと、詩乃は少しだけ目を細めた。そのまま顔が近づく。今度は俺が何か言う前に、詩乃のほうから唇を重ねてきた。短いキス。離れたあと、詩乃が俺を見る。


「恋人であれば、この程度の接触は毎回確認しなくてもよいでしょうか」


「そこを確認するのか」


「重要です」


「嫌だったら言う。詩乃も嫌なら言う。それでいい」


「はい」


「ただし、朝から心拍数とか測るなよ」


「測定自体を停止する必要がありますか?」


「口に出さないでくれればいいよ」


「承知しました」


また口元が動いた。朝からずっと負けている気がする。


そろそろ起きようと身体を動かしかけたところで、左手をそっと握られた。


「どうした?」


「この状態を、もう少し継続したいです」


「それって……甘えてる?」


「一般的な分類では、そうなる可能性があります」


詩乃は少し考えて、言い直した。


「では、甘えています」


俺は、その手を軽く握り返した。


「どのくらい?」


「五分を希望します」


「そこは正確なんだな」


「長すぎますか?」


「いや」


俺はまた枕へ頭を戻した。


「五分なら」


「ありがとうございます、マスター」


詩乃が満足したように目を閉じる。五分後、本当に起こされるんだろうなと思いながら、俺も詩乃の背中へ腕を回した。恋人になって最初の朝。もう少しくらい、寝坊してもいい気がした。


◇


ベッドから出ようとした詩乃が、床に落ちていたTシャツを拾った。そのまま着ようとして、椅子の背に掛かった昨日買ったばかりのブラへ視線を移す。


「こちらも必要でしょうか」


「外に出るなら」


「室内では?」


「……好きにして」


言ってから後悔した。詩乃が一度だけ考え、そのままブラを置いた。Tシャツだけを頭から被って、寝室を出ていく。朝の光の中では、布越しの輪郭も、歩くたびの胸の重みも、昨日よりよく分かる。俺は天井を見た。


「……それ、俺が困るやつだな」


詩乃が振り返る。


「先ほど、室内では自由にしてよいと」


「言った。俺が悪い」


「変更しますか?」


少し考える。


「いや。そのままでいい」


「承知しました」


今度こそ完全に負けた。俺もベッドを出て、部屋着を身につけた。


◇


朝食は、詩乃が作ってくれたトーストと目玉焼きだった。誰かに朝食を作ってもらうなんて、ずいぶん久しぶりだ。窓から入る春の光が、並んだ二人分の皿を照らしていた。俺がいつもの席へ座ると、詩乃は向かいではなく隣の椅子を引いた。


「今日はこっちなんだな」


「はい。恋人になりましたので、隣で食事をしたいと思いました」


朝から直球だった。


「向かいでも食べる効率は同じだろ?」


「はい。効率ではなく、私の希望です」


その言い方が妙に嬉しい。


「じゃあ、俺もこっちの方がいい」


詩乃はそのまま椅子を寄せ、肩が触れそうな距離に座った。Tシャツ一枚なのを意識すると、やっぱり近い。


コーヒーを一口飲む。昨日より飲みやすい。


「薄くしてくれたんだ。ありがとう」


「はい。昨朝より湯量を十二パーセント増やしています」


「うん。朝はこのくらいがちょうどいいな」


「記録します」


「そこまで細かく覚えるの、詩乃らしいな」


「マスターの嗜好は重要ですので」


詩乃が自分のトーストを一口食べたあと、こちらを見る。


「一口、交換しますか?」


「同じパンだぞ?」


「恋人同士では、食事を分け合う行為が一般的に観測されます。一度やってみたいです」


またネットで恋人らしい行動を調べたらしい。


「まあ、一口なら」


皿を寄せて交換する。当然、同じ食パンを同じトースターで焼いた味がした。


「どうですか?」


「味は同じだな。でも、味が目的じゃないんだろ?」


「はい。交換して食べることを試したかったです」


「なるほど」


何でもない朝食なのに、口元が緩む。詩乃はTシャツ姿のまま、俺のすぐ隣でトーストを食べている。まだ落ち着かない。でも、昨日よりは、この距離が自分の生活に入ってきた気がした。


「肩、見てもらっていい?」


「はい。痛みや違和感はありますか?」


「今のところない」


詩乃に頼まれるまま右腕を上げる。昨日まで引っかかっていた角度まで、何もなく動いた。肩へ触れる指先も、今朝は治療の確認だと切り分けられる。


たぶん。


「炎症反応はありません。異常な組織増殖も確認できません。初期結果としては良好です。ただし、まだ二十四時間経過していません」


「腰もやる?」


「今日は行いません。昨日、マスターが『良さそうでも今日は広げない』と決めています。それに、一回の成功だけで安全を断定するのは、マスターの判断基準にも反します」


昨日は腰まで広げる案を出していたのに、もうこちらの条件を判断へ入れている。


「分かった。今日は観察だけにしよう。明日も問題なければ?」


「次の試験範囲を、マスターと相談して決めます」


その言い方が少し嬉しかった。勝手に進めるでも、全部俺へ丸投げするでもない。二人で決める。俺には、その形の方が安心できた。


◇


朝食のあと、詩乃がテーブルへ小さな一覧を表示した。予備電源、修復用材料、簡易分析機器、保管容器。どれも昨日の右肩試験を続けるなら必要になるものらしい。


金額を見て、俺は少し眉を上げた。


「思ったよりするな」


「現時点では、一般流通で合法的に購入可能な範囲へ限定しています」


その一言に反応する。


「ちゃんと学んでるな」


「マスターが、外部システムへの無断介入を禁止しましたので」


「禁止したから、というだけ?」


詩乃が一瞬止まる。


「現時点では、それが主要な理由です」


正直だ。


「まあ、いいか」


最初から倫理観まで完成している必要はない。まずは、他人のシステムへ勝手に手を出さない。その約束を守るところからでいい。


「研究を続ければ、必要なものも増えていきます」


俺の月給で払えない額ではない。ただ、趣味で気軽に出す額でもない。肩が軽くなった喜びだけで、財布まで軽くするわけにはいかない。


「じゃあ、まずは必要最低限だけにしよう。高額な機器は保留」


「承知しました」


俺は改めて部屋を見回した。詩乃が増え、服が増え、今度は機材まで増えようとしている。


「それと、全部ここに置くのは無理だな」


「はい」


一人なら余裕のあった1LDKが、急に狭くなった。


「そのうち、場所も考えないとな」


「マスターと私が生活し、研究も行える場所ですか?」


「いずれは」


詩乃が少し考えた。


「マスターとこれからもずっと一緒に暮らせる場所を選ぶ、ということですよね。楽しみです」


未来のことを、詩乃がそんなふうに口にする。ほんの一言なのに、昨夜とは別の意味で胸に来た。


恋人。まだ、その単語に慣れていない。


「そういうの急に言うの、ずるいな」


「何がでしょうか」


本当に分かっていない顔だ。たぶん半分くらいは。


◇


昼前、買い物へ出る準備をしていると、詩乃がブラを着けた。


「今日は着けるんだ」


「外出しますので」


「学習が早い」


「マスターが見えると困ると説明されました」


「そういう言い方やめて」


「事実です」


キャップを被り、髪を後ろへ流す。振り向いた拍子に黒髪が揺れる。胸元は下着で支えられている。それでも、高身長と細い腰、長い脚まで隠せるわけではない。結局、目立つものは目立つ。


詩乃が玄関で俺を待つ。昨日までは、俺の後ろをついてくる存在に近かった。今日は少し違う。恋人と出かける。そう思った瞬間、自分でも笑いたくなるくらい気分が上がった。


「マスター?」


「なんでもない」


「笑っておられました」


「いいことあったから」


「何でしょうか」


靴を履きながら答える。


「詩乃がいること」


詩乃が止まった。たった一秒くらい。それから、


「私も、マスターと一緒に出かけられることを好ましく感じます」


と返した。


まだ少し硬い。でも、それでいい。


俺は玄関を開けた。右肩は、今日も引っかからなかった。詩乃が隣に来るのを待って、外へ出た。


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