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第10話「おまじない」

木曜日の朝、スマートフォンの予定をもう一度見ているあいだ、詩乃《しの》が俺の首へネクタイを回していた。先週の月曜の朝、一度曲がりを直してもらってから、出勤する日はいつの間にかこれも詩乃の仕事になっている。自分でできないわけじゃない。それでも詩乃がしたいと言うので、今では素直に任せていた。


午前は社内確認、午後は客先との最終打ち合わせ。十日前に引き受けた、東湾低温物流センター更新計画の一次案を出す日だ。


詩乃が結び目を襟元まで上げ、俺の顔を見る。


「緊張されていますか?」


「少し」


詩乃が俺の右手を取る。


「指先の温度が、普段よりわずかに低下しています」


「そこまで分かる?」


「はい。ただ、異常のある範囲ではありません」


そのまま手を離さず、俺の顔を見ていた。俺が鞄を取ると、詩乃が一歩近づく。


「本日の予定が終わりましたら、早めにお帰りいただけますか?」


「終わればな。俺も早く帰りたい」


「はい」


それだけ言ったあと、詩乃は俺の胸元へ身体を寄せ、両腕を背中へ回した。突然だったので、反応が一拍遅れる。


「……どうした?」


「抱擁には、緊張や不安を和らげる効果が報告されています」


なるほど。理屈としては分かる。でも、朝から理想の女性に抱きつかれて、心拍まで落ち着くかは怪しい。それでも肩の力は確かに少し抜けた。俺も腕を回す。


「ありがとう。ちょっと落ち着いた」


「よかったです」


数秒してから、詩乃が俺の肩口へ頬を寄せたまま続ける。


「それと、私がしたかったという理由もあります」


「そっちを先に言ってくれよ」


「科学的な根拠も重要かと思いました」


「朝から俺の心拍を上げてどうする」


「現在は少し上昇しています」


「測るな」


詩乃が笑った。結局、俺の方から離れるまでそのままだった。


「行ってくる」


「お気をつけて、マスター」


玄関を出る。さっきまでより、少し呼吸が楽になっている。朝のハグが本当に効いたのか、それとも単に詩乃に抱きしめられて機嫌がよくなっただけなのか。どちらでもいい気がした。


◇


会社へ着くと、楠《くすのき》がすでに会議室で資料を広げていた。


「おはようございます。部長、最後の一枚だけ変えました。昨日の夕方に先方へ確認したんですけど、やっぱり一番嫌なのは『全部新しくならないこと』じゃなくて、『繁忙期に止まること』です」


「だよな」


この十日で一番大きかったのは、そこだった。最初に渡された計画書は、冷凍機、制御盤、監視系、主電源まわりを全部一度に更新する前提だった。だから主電源側の機器一つの納期が合わないだけで、全体が動かなくなっていた。


「設計は?」


「もう来てます。現場もオンラインで入れます」


「じゃあ九時から十五分だけやろう」


楠が笑う。


「最近ほんと短いですね」


「長くやっても部品は早く来ない」


「はいはい」


会議室へ入る。全員の前に、同じ一枚の表を出した。今日決めること、客先確認済み、まだ確認が必要。その横に担当者と期限が入っている。


主電源側は、現物測定の結果、負荷上限を決めて温度監視を追加すれば繁忙期後まで継続使用できる。現場側も、監視点の追加は夜間作業一回で対応可能。新しい主電源機器も、繁忙期後なら納期が間に合う。


全部を一度にやらない。第一段階では故障影響の大きい冷凍機と制御・監視系を更新し、まだ使える主電源側は監視条件付きで残す。繁忙期後に第二段階で交換する。


「じゃあ、この案で午後出します」


設計主任が少し渋い顔をした。


「技術的には成立します。ただ、古い部分を残すので、見栄えはよくないですよ」


「見栄えで冷蔵庫は動かないですから。……これ、私が先方に言います?」


楠の一言に、会議室で小さな笑いが起きる。


「やめて。図面の正式版も明日でいい。今日は成立条件と切り替え順が分かれば足りる。午後の打ち合わせが終わったら修正点だけ残して、清書は明日に回そう」


若手の設計担当が、ほんの少し顔を上げた。


以前の俺なら、今日中に全部揃えたくなっていたかもしれない。でも、客先が今日判断するために必要なのは、きれいな完成図じゃない。判断できる材料だ。


◇


午後二時、オンライン会議には、先方の設備責任者と品質担当が入った。こちらは俺と楠、設計主任。芦屋《あしや》常務も途中から参加する予定になっている。説明は楠から始めた。


「今回、全面更新を一度に実施する案ではなく、二段階での更新をご提案します」


先方の設備責任者が眉を寄せる。


『前より工事が長くなるということですか』


「全体期間だけを見れば長くなります。ただ、繁忙期前に必要な故障リスク低減は第一段階で完了できます」


そこから先は俺が引き取った。


現在の主電源設備は、条件を限定すれば繁忙期後まで継続使用できる。第一段階では冷凍機と制御・監視系を優先して更新し、主電源側は監視を追加する。


品質担当から、古い設備を残した状態で温度管理を保証できるか聞かれた。


「無条件の保証はできません。ただ、本日お示しする負荷上限と監視条件を守っていただけるなら、繁忙期が終わるまでの運用は可能と判断しています」


監視を増やし、負荷上限を決め、異常時の切り戻し手順も残す。確認できていることだけを説明する。


夜間停止を一回にできないかとも聞かれたが、設計主任が首を横に振った。


「一回にまとめることはお勧めしません。作業量が増え、復旧確認の時間が不足します」


俺も続ける。


「停止回数は少ない方がよいです。ただ、今回は回数より、一回ごとの復旧確度を優先させてください」


先方が短く相談する間、黙って待つ。少し前なら、沈黙が怖くて何か言葉を足していたかもしれない。


今朝、玄関で詩乃に抱きしめられた時の温かさを、ふと思い出した。無意識に上がっていた肩を一度落とす。大丈夫。条件は十日かけて揃えてきた。


『……分かりました。二回で進めましょう』


そこから費用、工程、責任範囲を順番に詰めた。最後に設備責任者が聞く。


『神堂《しんどう》さん。この工程で、繁忙期前までに第一段階を終えられますか』


「本日お示しした条件が維持される限り、完了させます」


根性論じゃない。必要な人員、メーカー回答、現場の停止枠。十日間で、言い切れる条件まで持ってきた。


『お願いします』


「承知しました」


会議が終わった。時計を見ると、三時十二分だった。楠が椅子にもたれる。


「終わった……」


「まだ社内報告あるけどな」


「今それ言います?」


「俺も帰りたい」


「部長、最近それ隠さなくなりましたね」


「いいことだろ」


「たぶん」


楠が笑った。


◇


画面には、途中から参加した芦屋常務が残っていた。


『よくまとめたね、神堂君。私も、最初に責任者を一本化して正解だったと思っている。こういう案件は、やはり指揮系統だよ』


もう、自分が最初から決めていた話になっている。十日前、担当固定と権限の明確化を条件にしたのは俺だ。芦屋常務は最初、『必要な範囲』で済ませようとしていた。


「関係部署が条件どおり動いてくれましたので」


俺はそれだけ返した。


芦屋常務は満足そうに頷く。


『役員会には、私から報告しておくよ。担当配置を見直した管理側の判断が効いた、と説明しておこう』


一瞬だけ、言葉が喉に引っかかった。議事録には残っている。誰が何を条件にしたかも、担当表を見れば分かる。ここで成果の主語まで争って、また時間を使う必要はない。


「……お願いします」


自分でも、少し間があったのは分かった。失敗していれば現場の詰めが甘い。成功すれば管理側の判断が良かった。昔から、芦屋常務は結果に合わせて主語を選ぶのがうまい。腹が立たないわけじゃない。今は、それより帰りたかった。


芦屋常務が退出すると、設計主任が小さく息を吐いた。


「神堂部長。今日、もう帰っていいんですよね」


「今日中にやる必要がある仕事が残っていないなら、上がっていいですよ」


「清書と反映だけです。明日で大丈夫です」


「じゃあ今日は終わりにしましょう」


即答すると、楠が吹き出した。


「部長が一番帰りたいだけじゃないですか」


「否定しない。十日付き合ったんだから、今日はいいだろ」


設計主任まで笑っている。


午後六時前にはチームの席がほとんど空いた。俺もパソコンを閉じる。


帰り際、楠が「今回、助かりました」と言った。客先へ無理だと言うところも、社内へ明日でいいと言うところも、だそうだ。


「楠が客先の本音拾ってくれなかったら、そもそも組めなかったよ」


「じゃあ、お互い様ですね」


楠は少し嬉しそうに笑った。視線を落としたあとも、その笑みがしばらく口元に残っていた。


「そういうことで」


誰か一人が全部やった仕事じゃない。それでいい。むしろ、その方がいい。


◇


帰りの電車で、詩乃へ短く送った。


『終わった。今日は早く帰るよ』


返信はすぐ来た。


『承知しました、マスター。夕食を温めてお待ちしております』


たったそれだけで、座席へ深くもたれたくなるくらい力が抜けた。車窓の向こうには、まだ夕方の明るさが残っていた。仕事帰りに外を眺めて、日が長くなったことをようやく実感する。家に帰る理由があるって、こんなに楽だったのかと思う。


◇


玄関を開けると、詩乃が待っていた。


「お疲れさまでした、マスター」


「ああ。終わった」


靴を脱ぐ間に鞄を渡す。


夕食は、朝に仕込んでいたらしい煮込み料理だった。先方が二段階更新を受け入れたこと、夜間停止も無理に一回へ詰めず二回にしたことを話す。


「皆様は、まだ会社に残っておられますか?」


「いや。明日でいい仕事しか残ってなかったから、今日は帰した」


詩乃の表情が少し柔らかくなった。


「それは、よかったです」


「あと、朝のおまじないも効いた気がする」


「抱擁でしょうか」


「うん。会議中、一回思い出して肩の力抜けた」


詩乃の目が少しだけ明るくなる。


「では、今後も実施します」


「毎朝の業務にするなよ。会社遅れるから」


「時間は調整できます」


「そこまで本気で検討しなくていい」


笑うと、詩乃も小さく笑った。


◇


食後、俺がソファへ座ると、詩乃も隣へ来る。


「今日は、私からお願いがあります」


自分の太腿を軽く叩いた。


「こちらへ」


「……膝枕?」


「はい。今日は、マスターを甘やかしたいです」


それは断りにくい。


「じゃあ、お言葉に甘えて」


横になり、頭を預ける。思った以上に柔らかい。詩乃の指がゆっくり髪へ入る。


見上げると、長い黒髪の向こうに胸元の丸みがある。近い。かなり。視線を少しずらすと、詩乃が笑った。


「今、視線を逸らしました」


「そこは見逃して」


「はい」


絶対見逃していない。


しばらく撫でられてから、今日の仕事の話をした。


「詩乃なら、今日の整理もっと早くできた?」


「情報整理だけなら可能だと思います。ただ、それだけでは成立しません」


詩乃は、楠が客から何を聞き出せるか、設計担当がどこまでなら責任を持って使えると言えるか、客が誰の説明なら二回の停止を受け入れられるか――そういうものは計算だけでは置き換えられない、と話した。


「マスターにしかできないことは、たくさんあります」


「持ち上げすぎじゃない?」


「いいえ」


髪を撫でる指が、一度止まった。


「マスターは、私を優先し、大切にしてくださいます。本来、私はマスターに仕える存在として、私自身よりマスターを優先したいと思っています」


そこで少しだけ言葉を選ぶ。


「ですが、マスターが私を大切にしてくださることを、私は嬉しいと感じています。優先順位だけを考えれば矛盾しているはずなのに、その気持ちをなくしたいとは思いません」


今朝より効いた。膝枕されたまま言われると、逃げ場がない。


「……そういうこと、さらっと言うなよ」


「申し訳ありません」


「いや、謝らなくていいよ」


俺は詩乃の手を軽く握った。


「じゃあ、その詩乃の心配事も早くなくさないとな」


「はい。マスターのためにも、早期解決を目指します」


「詩乃のためにも、だろ」


ほんの少し間があった。


「……はい。私のためにも」


その返事が嬉しかった。


「演算核は第一歩。次は製造設備と材料。そのためには資金も、まともな作業場所もいる」


「はい」


「なら、明日はそこを詰めよう。どう稼ぐか、何なら外に出していいか、何を絶対に出さないか」


「承知しました、マスター」


詩乃が少し身をかがめ、額へ柔らかい感触が触れた。


「これは?」


「私も嬉しいので、キスしたくなりました」


思わず笑う。俺も身体を起こし、今度は詩乃の頬へ触れた。


「じゃあ、俺も」


唇を重ねる。一度離れても、詩乃の腕は俺の首から離れなかった。


「もう一度、お願いします」


「そこは素直だな」


「はい」


二度目は、さっきより長かった。一度離れて息をついても、詩乃の腕は俺の首に回ったままだった。すぐ近くで黒い瞳が俺を見ている。


「……まだ離れない?」


「マスターは、離れたいですか?」


そんな聞き方はずるい。


「いや」


答えると、詩乃の口元がわずかに緩んだ。今度は俺から顔を寄せる。唇が重なり、詩乃の身体が少しだけこちらへ傾いた。肩に触れていた手を背中へ回すと、服越しでも分かる体温がさっきより近くなる。詩乃の吐息が頬へ触れた。


「マスター……」


普段と同じ呼び方なのに、声が少し違って聞こえた。それだけで、胸の奥が熱くなる。首筋へ唇を移すと、詩乃の指が俺のシャツを掴んだ。小さく息を呑む音がする。


「……そんな声で呼ばれると、俺まで照れるよ」


顔を上げると、詩乃は頬を赤くしたまま俺を見ていた。


「私も、恥ずかしいです。でも、もう少し……このままでいたいです」


その答えに、今度は俺の方が言葉に詰まった。こういう時だけ妙に素直なのは、本当に反則だと思う。


俺がもう一度抱き寄せると、詩乃も今度は待たずに身体を寄せてきた。唇を重ねたままソファへ深く沈み込む。どちらから先だったのかは分からない。背中に回った腕が強くなって、触れる場所が少しずつ増えて、気づけば考える余裕なんてなくなっていた。


「……マスター」


耳元で呼ばれる。


「ん?」


「寝室へ、行きませんか」


聞き間違えるような距離でもなかった。それでも一瞬、返事が遅れた。詩乃の頬が少し赤い。恥ずかしそうなのに、目は逸らさなかった。


「行こうか」


「はい」


立ち上がっても、つないだ手はそのままだった。寝室まで数歩しかないのに、途中でもう一度立ち止まる。どちらからともなく唇を重ねた。


ベッドへ入ってからも、つないだ手はそのままだった。普段より素直な詩乃の表情を見ていると、俺も自然と笑ってしまう。


その夜は互いの気持ちを確かめながら、いつもより遅くまで一緒に過ごした。



【カクヨム版・サイドストーリーのご案内】


本作品は「カクヨム」でも連載しています。

「小説家になろう」版では、掲載基準に合わせて一部の表現を調整していますが、物語の展開や設定に変更はありません。


また、カクヨムでは本編とは別に、詩乃の視点から描いたサイドストーリーも公開しています。


第1話は一般公開、第2話以降はサポーター限定公開となっています。


ご興味のある方は、作者プロフィールに掲載しているカクヨムへのリンクからご覧ください。

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