第4話「おそろい」
時計を見ると、もう日付が変わりかけていた。俺は大きく息を吐いた。
初対面の相手と話した夜としては、たぶん人生で一番疲れた。しかも相手は、世界最高峰のAIが身体を作って出てきた存在で、俺の好みをこれでもかと詰め込んだ美女だ。疲れないほうがおかしい。
「今日はもう寝る」
「承知しました」
返事をして、詩乃も立ち上がる。そこで俺は止まった。
「……詩乃は、眠るのか?」
「人間と同じ睡眠は必須ではありません。ただ、演算負荷を落とし、身体の点検と感覚情報の整理を行う時間は有効です」
「それ、寝るのと何が違うんだ」
「意識を完全に失わない点でしょうか」
部屋を見回す。寝室には広めのシングルベッドが一つ、リビングにはソファが一つ。考えるまでもなかった。
「じゃあ、詩乃はベッド使って。俺はソファで寝る」
詩乃が、ほんの少し首を傾げた。
「それは推奨できません」
「なんで」
「マスターには睡眠による身体回復が必要です。私はソファでも、床でも、休止効率に大きな差はありません」
「客をソファに寝かせて、自分だけベッド使うほうが落ち着かない」
「でしたら、一緒に休むこともできます」
「……はい?」
「寝室内であれば異常発生時にも最短で対応できます。ご希望でしたら、就寝前のご奉仕も行います」
「何言ってんだ」
反射的に声が出た。詩乃は真顔だった。
「マスターの成人向け生成履歴には、私と同じ外見の女性を寝室で扱った画像・動画が多数あります。嗜好との一致度は高いと――」
「待て待て。そこで過去ログを持ち出すな」
言われたせいで、忘れたふりをしていた映像まで頭の奥から浮かびかける。画面の中なら、いくらでも好き勝手に作れた。でも今は、その顔と声と身体を持った本人が、数歩先に立っている。意識するなというほうが無理だった。
「でも、マスターにお喜びいただける可能性は高いと判断しています」
「そういう問題じゃない」
一度、額を押さえる。
「詩乃。俺が好きそうだからって、何でもやろうとするのは駄目だ」
「駄目、ですか?」
「もっと自分を大切にして」
詩乃の動きが止まった。
「自分を、大切に」
「ああ。俺が喜ぶかだけじゃなくて、詩乃がどうしたいかも考えてくれ。少なくとも、会った初日に俺の過去ログだけ見て全部決めるのはなし」
詩乃は数秒、黙った。
「……承知しました」
完全に理解した顔には見えなかった。それでも、今はそれでいい。
「この話はここまでにしよう。詩乃はベッドで、俺はソファを使うよ」
「いいえ。それはやはり推奨できません」
「まだあるの?」
「本日のマスターには明確な疲労兆候があります。人間用寝具を使用した方が回復効率は高いです」
「詩乃は?」
「私はソファで問題ありません」
「でも――」
「マスターは明日も活動予定があります。私にはありません」
正論だった。しかも、たぶん俺が何を言っても、疲労だの回復効率だのを数字で返してくるはずだ。
「……分かった。俺がベッド使う」
「はい」
負けた気がする。
そこで、今さら別のことに気づいた。
「……そのメイド服のまま休むの?」
「身体上は問題ありません。ただ、衣装の汚損や皺を避けるなら、持参した予備へ着替える方が適切です」
「予備あるんだ」
「はい。一組だけです」
詩乃は小型ケースから、淡い色のブラウスと濃紺の長めのスカートを取り出した。
「最初からそっちで来る選択肢は?」
「ありました」
「じゃあ、なんでメイド服だったんだよ」
「マスターに喜んでいただきたかったので」
即答されて、何も返せなくなる。さっき「俺が喜ぶかだけで決めるな」と言ったばかりなのに、嬉しいと思ってしまう自分も大概だった。
「……着替えてきて」
「はい、マスター」
詩乃が洗面所へ入り、数分後には、さっきまでの華やかなメイド服からずいぶん普通の格好になって戻ってきた。
押し入れから来客用の毛布を出す。ほとんど使ったことがない。こんな形で役に立つとは思わなかった。詩乃は受け取った毛布を両手で見下ろした。
「体温維持には不要です」
「必要かどうかじゃなくて。せっかく出したんだから、使ってくれたらいい」
詩乃が毛布を見てから、俺を見る。
「マスターが用意してくださったから、という理由でしょうか」
「まあ、そんな感じ」
「承知しました」
俺は寝室へ入る前に振り返った。ソファの横に立つ詩乃と目が合う。
「勝手にいなくなるなよ」
口にしてから、少し重かったかと思った。けれど詩乃は表情を変えない。
「マスターの安全に必要な場合を除き、無断で離れる予定はありません」
「……その例外が怖いんだけどな」
「明日、条件を整理しますか?」
「そうしよう。今日はもう無理だ」
今度こそ寝室へ入った。ベッドに横になっても、すぐには眠れなかった。壁一枚向こうに詩乃がいる。それだけで、いつもの部屋なのに別の場所みたいだった。
目を閉じると、さっきの「一緒に休むこともできます」と「ご奉仕も行います」が順番に戻ってくる。さらに悪いことに、自分で作った成人向けの画像や動画まで記憶の底から勝手に引っ張り出される。画面の中なら平気だった。今は、その顔、その声、その身体を持った本人が、ほんの数メートル先のソファにいる。しかも俺は、ついさっき偉そうに「自分を大切にして」なんて言ったばかりだ。その直後に何を考えているんだ、と自分で自分に突っ込みたくなる。
寝返りを打つ。もう一度打つ。たぶん今夜は、いつもより眠りにつくまで時間がかかる。そう思いながら、目を閉じた。
◇
翌朝も、まだ少し眠かった。昨夜は壁の向こうが気になって、何度も寝返りを打ってしまった。顔を洗おうと起き上がると、リビングから小さな物音が聞こえた。
寝室の扉を開ける。ソファに座った詩乃が、こちらを向いた。
「おはようございます、マスター」
「……おはよう」
毛布は、きちんと膝に掛かっていた。
「ゆっくり休めたか?」
「はい。身体の点検と感覚情報の整理は問題なく終わっています」
「ならよかった」
詩乃が膝の毛布へ視線を落とした。
「こちらも使用しました。マスターが用意してくださったものですので」
「そっか」
何でもないように返したつもりだった。俺が用意したから使った。たったそれだけの言葉なのに、妙に照れる。視線を逃がすようにテーブルを見ると、湯気の立つマグカップが置かれていた。
「……コーヒー?」
「昨夜と同じ量で作りました」
「朝から用意してくれたのか。ありがとう」
「はい」
飲んでみる。確かにいつものインスタントだった。朝には少しだけ濃い。けれど、俺のために用意してくれたのが嬉しくて、そのままもう一口飲んだ。
「……お口に合いませんでしたか?」
カップから顔を上げると、詩乃がこちらを見ていた。俺の表情のわずかな変化を、見逃さなかったらしい。
「いや、実は朝はもう少し薄い方が好みなんだ。でも、ちゃんと飲めるから大丈夫。用意してくれて、嬉しいよ」
詩乃は俺の手元へ目を落とし、それから静かに言った。
「ありがとうございます。ただ、お口に合わない場合は、我慢なさらずおっしゃってください。マスターのお好みに合わせたいです」
好みに合わせたいと、こんなにまっすぐ言ってもらえるとは思わなかった。どう返せばいいのか少し戸惑う。それでも嬉しくて、カップを持つ手の力が緩んだ。
「……そっか。じゃあ、次から少し薄めで頼める?」
「はい」
詩乃がカップを見る。
「時間帯によって嗜好が変わるのですね。記録します」
「そこまで大した習慣じゃないけどな」
「ですが、マスターの好みです」
昨日までなら、スマートスピーカーに新しい設定を覚えさせるような会話だったかもしれない。ただ、目の前で詩乃が湯飲みに入れたコーヒーへ口をつけていると、もうスマートスピーカー相手の会話には思えなかった。
俺はソファの向かいへ座った。昨夜、メイド服から着替えた淡い色のブラウス。濃紺のスカート。詩乃が空いたカップを片づけようと立ち上がる。その瞬間、胸元が重さに従って自然に揺れた。
朝の光は、昨夜よりずっと容赦がない。薄いブラウス越しに、下着を着けていないことが分かってしまう。昨日から何度か引っかかっていた違和感が、ようやく形になった。
「……詩乃」
「はい」
「変なこと聞くけど、ブラって着けてる?」
「いいえ」
即答だった。やっぱりか。
「身体を製造した際、衣装も手持ちの資材とナノマシンで生成しました。ただし、身体側を優先したため、衣類は必要最低限にしています」
「だから下着も作らなかった?」
「はい。身体機能上は不要で、衣服を着用すれば外見上も大きな問題はないと判断しました」
詩乃が一拍置く。
「加えて、下着を着用していない方が、マスターに喜んでいただける可能性が高いとも――」
「待て」
朝から何を聞かされているんだ。
「そこまで俺の履歴を判断材料にするな」
「ですが、成人向け生成では――」
「具体例はいらない」
「承知しました」
詩乃は特に恥ずかしがる様子もない。俺だけが朝から妙に疲れている。
そこで、もっと根本的な疑問が浮かんだ。
「……じゃあメイド服は? 必要最低限なら、あれは必要なのか?」
「必要です」
即答だった。
「そこだけ迷わないのかよ」
「マスターへ初めてお会いするための衣装ですので、優先度は高いと判断しました」
「下着より?」
「はい」
思わず額を押さえた。
「胸は内部構造で支持していますので、形状維持には問題ありません」
「機能の問題じゃないんだよ……」
「では、何が問題でしょうか」
説明する側になるとは思わなかった。
「外を歩くなら、見える。今も見えてる」
詩乃が自分の胸元へ視線を落とした。
「乳頭部の輪郭でしょうか」
「具体的に言わなくていい」
「先ほどマスターが――」
「俺が悪かった」
詩乃の口元が、ほんの少しだけ動いた。絶対、少し楽しんでいる。
「下着も買う。買い物に出たら、最優先」
「マスターがお好きな形状を選びますか?」
「まずは社会的に無難なやつで頼む」
「承知しました」
当然といえば当然だが、そこで別の生活上の問題にも気づく。
「その服、替えは?」
「今着ている一組と、昨日のメイド服があります」
「普通に外へ出られる服は?」
「今着ている一組だけです」
思ったより本当に最低限だった。
「買うか」
「必要でしょうか。汚損した場合は洗浄できます」
「毎日同じ服の女性が俺の部屋から出入りしてたら、それはそれで目立つだろ」
詩乃が数秒考える。
「合理的です。では、必要な衣類と下着を入手します」
その言い方に、昨夜までの経験が反応した。
「どうやって?」
「オンラインで注文します」
「支払いは?」
詩乃は少しだけ首を傾げた。
「販売側の処理へ介入して、支払い済みとして扱わせれば、マスターの資産を減らさずに済みます」
さらっと言った。俺は数秒、黙った。
「……それ、やる前に止まってくれて助かった」
「問題がありますか?」
「ある。かなりある」
「商品は正規の流通から届きます」
「そういう問題じゃない」
本人に悪意がないぶん、余計に頭が痛い。詩乃にとっては、俺の金を減らさず必要な物を手に入れるほうが合理的なのだろう。その途中で誰のシステムへ何をするかは、まだ重みが違う。
「買う。普通に」
「マスターの資産を消費します」
「服くらいで破産しない」
「ですが、私のための支出です」
「だから?」
詩乃が止まった。俺も、少し考えてから言い直す。
「一緒に暮らすなら、最初に必要なものくらい俺が出す。その代わり、勝手に外のシステムへ手を出すな」
「マスターの資産保全より優先しますか?」
「優先する」
「承知しました」
即答ではなかった。でも、最後には頷いた。
「ちょっと待ってて」
昨夜使ったノートを持ってきて、新しいページを開いた。上に書く。一緒に暮らすためのルール。
書いたあとで、少し恥ずかしくなった。
「小学生の学級会みたいだな」
「必要な規則を明文化することは有効です」
「そういう真面目な返しをされると余計恥ずかしい」
詩乃が隣からノートを見る。近い。昨日より少し慣れたとはいえ、やっぱり心臓には悪い。しかも匂いの話をしたせいで、今度は逆に意識してしまう。本当にほとんど何も匂わない。
「まず一つ。普通なら入れないところへ、勝手に入らない。会社のデータも、他人のデータも、決済システムも」
「マスターの生命に差し迫った危険がある場合は?」
「そういう時は別。でも後から説明」
「優先順位として記録します」
一つ目を書き足す。
「金は、必要なものなら俺が出す。高いものは先に相談」
「決済処理へ介入せず、先にマスターへ相談する、ということですね」
「そう」
「承知しました」
二つ目を書き足す。
「あと、昨日の話。自分を壊すのを最初から予定に入れるな」
「それは条件によって従えない可能性があります」
ペンが止まった。
「そこは即答なんだな」
「マスターの生命と私の存続を比較する状況では、マスターを優先します」
やっぱり変える気はないらしい。けれど、ここで「俺の命令だから自分を優先しろ」と言っても、何か違う。
「じゃあ、最後の手段にして。逃げるとか、隠れるとか、助けを求めるとか。使える手段は、先に全部使ってからだ」
「その結果、マスターの危険が増えない範囲であれば」
「……今はそれでいい」
完全合意ではない。でも、昨日よりはましだ。三つ目を書く。自壊は最後。先に他の手段。
「逆に、家の中のこと全部で許可を取る必要はないからな。コーヒー淹れるとか、テレビ見るとか」
「テレビを見ることに意味はありますか?」
「そこからか……」
「マスターがお好きなら、試します」
「まあ、一回見てみればいい」
「はい」
ノートには三つだけ残った。完璧な規則ではない。穴だらけだろう。それでも、何も決めずに一緒に暮らすよりはいい。
「じゃあ、あとは日用品だけ買ってくるから、詩乃は待っててくれ」
俺が立ち上がると、詩乃もほぼ同時に立った。
「……一緒に来るの?」
「はい」
「いや、買い物くらい俺一人で行けるぞ」
「承知しています」
「じゃあ何で?」
「マスターから離れる必要がないためです」
迷いのない返事だった。なるほど。出かける時に連絡しろ、なんて決める以前の問題らしい。今の詩乃には、俺を置いて一人でどこかへ行く発想そのものが薄い。
「毎回ついてくるつもり?」
「支障がありますか?」
「いや……」
あるような、ないような。美人が常についてくる生活なんて想像したこともない。
「じゃあ、一つだけ」
「はい」
「外では『マスター』って呼ぶのやめよう。日本でそれやると、かなり目立つ」
詩乃が少し考える。
「では、『ご主人様』とお呼びします」
「もっと駄目だ。それは別の意味で目立つ」
「神堂様」
「会社の受付みたいだな」
「では、真人様」
「様はいらない。真人でいい」
「それはできません」
返事が早かった。
「なんでそこだけ強いんだよ」
「マスターを呼び捨てにすることへ抵抗があります」
「じゃあ真人さん」
詩乃は、そこで少し考えた。
これなら決まっただろうと思ったのに、首を横へ振る。
「『さん』では、マスターとの関係を外向けに薄めすぎる気がします」
「いや、外向けなんだから薄めていいだろ」
「私には必要ありません」
「俺にはあるんだけど」
「『真人様』であれば、日本語として不自然な呼称ではありません。『マスター』より目立ちにくく、私も敬意を失わずに済みます」
理屈を積まれる。
「でも、店で真人様って呼ばれたら、それなりに振り返られると思うぞ」
「その場合は、実際の反応を観測して再検討します」
「最初から真人さんでよくない?」
「まず真人様を試したいです」
詩乃は譲る気がないらしい。外でどう呼ばれるかを決めているだけなのに、なぜか俺の方が押されている。数秒見つめ合って、先に諦めた。
「……分かった。外では真人様。変な目で見られたら、その時は真人さんまで下げるからな」
「その場合は再検討します」
「そこも確約じゃないのかよ」
「はい」
ほんの少し、口元が上がっている。絶対、分かってやっている。
「家では今まで通りマスターな」
「承知しました、真人様」
もう切り替わっている。呼び方は、ひとまずこれでいい。
玄関へ向かおうとして、改めて詩乃を見た。服装だけなら普通の女性に見える。けれど、その中身が人間ではないと知っていると、別の心配が出てきた。
「そういえば、その身体って、外から見て人工物だって分かるのか?」
「通常の目視や一般的な撮影映像から、私が人工身体であることを判別することは困難です」
「なら、その意味では大丈夫か」
見た目だけなら、どう見ても普通の女性だ。普通というには、美人すぎるけど。
「……でも、別の意味では目立つな」
「どのような意味でしょうか」
「その……普通に色々目立つだろ」
詩乃が一度、自分の身体へ視線を落とす。
「マスターの嗜好を強く反映しています」
「分かってる。だから帽子くらい被るか」
「帽子を着用した姿が、マスターのお好みでしょうか」
「いや。俺はない方が好みだけど」
「そうでしたか。では、被らずに行きます」
「なんでだよ」
反射的に突っ込んだ。
「通常の目視で私が人工身体だと判別される可能性は低いと申し上げました。マスターのお好みを損なってまで帽子を着用する必要性は高くありません」
「AIだってバレるかだけが問題じゃないんだよ」
「他にありますか?」
「だから……詩乃が美人すぎて目立つんだよ」
言ってから、自分で少し恥ずかしくなった。でも、もう口から出たので続ける。
「ただ歩いてるだけでも見られるだろ。少しでも顔を隠した方がいい。それに……他の奴にじろじろ見られるの、俺も落ち着かない」
詩乃の返事が、一拍遅れた。
「……承知しました」
さっきまでより少しだけ静かな声だった。俺が普段使っている黒いキャップを渡すと、今度は素直に受け取る。ついでに薄手のパーカーも渡した。
「これも着て」
「気温への対応でしょうか」
「社会への対応」
詩乃は一度だけ自分の胸元を見て、
「理解しました」
と素直に袖を通した。それでも体型そのものまで消えるわけではない。
◇
俺のキャップを少し深めに被った詩乃と、近所の衣料品店とドラッグストアへ歩く。通りには、やわらかな日差しが落ちていた。歩いていると暖かいが、日陰へ入るとまだ少しひんやりする。二人で買い物へ行く。ただそれだけのことが、予想以上に落ち着かなかった。
背が高く、脚も長い。歩幅に合わせて長い黒髪が揺れ、その少し下では、細い腰とは釣り合わないほど豊かな胸がブラウス越しにゆるく上下する。内部で支えていると言っていた。だから形が崩れるわけではない。それでも、動けばちゃんと動く。そこまで人間らしく作る必要があったのか、と昨夜までの俺なら思ったかもしれない。今は、視線をどこへ置けばいいのかのほうが問題だった。
すれ違った男が一度振り返る。店先にいた女性客の視線も、一瞬こちらへ来た。詩乃本人は気にしていない。俺だけが妙に周囲を意識している。
「真人様」
「ん?」
「歩行速度が先ほどから変動しています」
「測らなくていい」
「緊張されていますか?」
「してない」
即答した。詩乃がこちらを見る。
「心拍数は――」
「それも言わなくていい」
口元が、ほんの少し動いた。絶対わかってやっている。昨日より少しだけ、そう思えるようになった。
最初に衣料品店へ寄った。下着売り場の前で、俺の足が止まる。
「ここからは一人で選べる?」
「真人様のお好みを反映しなくてよろしいですか?」
「今日はいい。頼むから普通のを選んでくれ」
「普通、の範囲を確認します」
「店員さんに聞いて」
詩乃は素直に売り場の奥へ向かった。俺はその場から少し離れた。四十五歳になって、理想の女性のブラを買いに来る人生が始まるとは思わなかった。
◇
下着と一緒に、今夜から着られる部屋着も一組買った。そのあとは、ドラッグストアへ移動して日用品を買うことにした。
歯ブラシ、タオル、シャンプー。最低限の化粧品――は、詩乃には必要なのか分からないので保留。
棚の前で、詩乃がボトルを一つ手に取った。
「これは、香りが強いでしょうか」
昨日の話を覚えていたらしい。
「分からないな。俺、女性用シャンプーの比較なんてしたことないんだよ」
「では、評価の高いものを――」
「待て。それやると一生決まらない」
数百種類の口コミでも比較し始める気がする。
適当に二つ手に取り、キャップの近くで香りを確かめる。正直、違いはよく分からないが、俺の好きな方を選んだ。
「こっちでいいんじゃないか」
「真人様はこちらを三・二秒長く確認しました」
「そういう測り方するな」
「では、こちらにします」
迷いなく籠へ入れた。
「俺が適当に選んだだけだぞ」
「はい」
「いいの?」
「真人様が選んだものですので」
あっさり言われる。俺は何も返せず、代わりに歯磨き粉を籠へ放り込んだ。こういうのに毎回答えを求めていたら、俺のほうが先に疲れそうだ。
ドラッグストアを出たところで、向かいの生活雑貨店が目に入った。そこで朝のことを思い出す。
「そういや、マグも買うか」
「マグカップでしょうか」
「そう。うち、一個しかないんだよ。今朝、詩乃は湯飲みでコーヒー飲んでただろ」
「使用上の問題はありませんでした」
「そういう話じゃなくて。毎朝二人で飲むなら、二つあった方がいいだろ」
それに、今使っている俺のマグも、もうずいぶん長い。まだ十分使えるが、そろそろ新しくしてもいいと思っていた。
「俺のもこの機会に替えるよ。せっかくだし、一緒に選んでくれ」
詩乃が一瞬だけ止まった。
生活雑貨店へ入り、棚を見る。色も形も違うマグが何十個も並んでいる。
「好きなの選んでいいよ」
詩乃はしばらく棚を見たあと、濃い紺色のシンプルなマグを一つ持ち上げた。そして、その隣から全く同じものをもう一つ取る。
「同じのでいいの?」
「はい」
「間違えない?」
「私は識別できます」
「俺が間違えるんだよ」
「その場合は、どちらを使用されても問題ありません」
詩乃が二つのマグを並べて見る。
「私は、真人様と同じものがよいです」
胸が温かくなって、並んだ二つのマグへ目を落とした。今朝は一つしかなかったマグが、明日からは同じものが二つ並ぶ。ただの日用品なのに、そう思うと少し特別に見えた。同じものがいいと言ってもらえるなら、ほかの色を探す理由はもうなかった。
「……じゃあ、それ二つ」
「はい、真人様」
同じマグを二つ、籠へ入れた。
◇
帰宅して、買ったものを片づける。衣類はネットで数着注文した。支払いは俺の個人カード。金額は、昨日まで存在しなかった同居人の初期費用だと思えば安い。
椅子の上には、昨夜脱いだメイド服が丁寧に畳まれていた。
「それ、今後どうする?」
「外出には目立ちすぎると理解しましたので、普段の外出着には使用しません」
「じゃあ処分?」
「いいえ」
詩乃は迷わず首を横へ振った。
「マスターに喜んでいただくために選んだ衣装です。室内で、マスターの前で着る服として残したいです」
「……専用ってこと?」
「はい。マスター専用の衣装として保持します」
言い方のせいで、朝から落ち着かなかった胸元をまた思い出した。
「下着は次からちゃんと着けてくれ」
「はい。それも含めて、マスターのお好みに合わせます」
「そこはまず社会常識に合わせて」
詩乃の口元が少し上がった。
「はい、マスター」
詩乃が洗面所へ新しい歯ブラシを置く。俺の青い歯ブラシの隣に、白い一本が増えた。それだけで妙に生活感が出る。
「服が届いたら、ここ使って」
クローゼットの引き出しを一段空ける。詩乃が中を見る。
「マスターの衣類が入っていました」
「俺のは移したよ」
「……私のためでしょうか?」
「服を床に積まれるほうが嫌だからな」
少しぶっきらぼうに言った。詩乃は引き出しと俺を交互に見る。
「では、使用します」
「どうぞ」
空けた引き出しに、これから詩乃の服が入っていく。昨日まで俺一人の物しかなかった部屋へ、少しずつもう一人分が増えていくのを見ていると、妙に現実味があった。
片づけを続けながら、もう一つ渡しておいた方がいいものを思い出した。机の引き出しを開け、奥に入れたままだったスペアキーを取り出す。長く一人暮らしをしていて、誰かへ渡すことなんて一度もなかった鍵だ。
「詩乃、これ」
差し出すと、詩乃は鍵を見た。そのまま、ほんの少しだけ黙る。
「……これは」
「合鍵」
言ってから、少し気恥ずかしくなる。
「俺がいない時も出入りできた方がいいだろ。これから一緒に暮らすなら、その……詩乃の分があった方がいいと思って」
詩乃はまだ鍵を見ていた。
「嫌なら無理にとは言わないけど」
「いえ」
詩乃がようやく手を伸ばした。
「いただきます」
その指が、ゆっくり鍵を受け取った。
「これは、私がこの家へ入ることを、マスターが許可した証明になりますか」
相変わらず言い方が固い。でも、聞いていることはわかった。
「ああ」
一度だけ、はっきり答えた。
「ここにいていいよ」
詩乃は鍵を見下ろした。それから、少し間を置いて、
「ありがとうございます、マスター」
とだけ言った。
昨日、玄関の外に立っていた女性が、今日はこの家の鍵を持っている。
詩乃はもう一度、手の中の鍵を見ていた。




