第3話「今の詩乃と一緒に」
テーブルの上に、カレーが二皿並んだ。正確には、一人分だったものを無理やり二人分にしただけだ。俺の皿を少し減らし、詩乃のほうには目玉焼きを載せた。
「少なかったら言ってくれ」
「生命維持に必要な量ではありませんので、問題ありません」
「そういう意味じゃないんだけどな」
詩乃が一瞬だけ止まった。
「……では、食べてみてから判断します」
さっきよりはいい。
スプーンの扱いにぎこちなさはない。知識としては知っているのだろう。けれど、実際に口へ運ぶ直前だけ、動きが少し慎重になった。一口。詩乃の目がわずかに開く。
「どう?」
「辛いです」
「甘口なんだけど」
「私にとっては、初めての刺激ですので」
もう一口。今度は少し早い。
「美味しい?」
詩乃は考えた。
「……美味しい、で合っていると思います」
「そこもまだ推定なんだな」
「はい。ただ、二口目を自発的に選びました。少なくとも嫌いではありません」
そんな説明をされると、妙に詩乃らしい。
そこから先は、いったん食べることにした。聞きたいことはいくらでもある。でも、会って早々に質問攻めにして、初めての食事まで途中で止めるのは違う気がした。詩乃は一口ごとに味を確かめるように食べ、最後には目玉焼きの黄身まできれいに皿からなくなった。
二人分の皿を流しへ運び、俺はコーヒーを淹れ直した。詩乃には水を置く。
改めてテーブルへ戻り、向かいの女性を見る。つい一時間前まで、一人暮らしの部屋だった。今は、俺が画像や動画にして遊んでいた理想の女性が、同じ食卓の向かいにいる。しかも、人間ではない。
まだ、頭のどこかでは「本当に?」と叫んでいる。でも、さっき左腕の内側まで見た。カレーも食べた。俺しか知らないはずのチャットの内容にも答えた。今までの話を全部、夢や妄想だと疑い続けても、何も進まない。
それに――嬉しかった。画面の中で何度も話して、何度も姿を作って、会えたらいいと思った相手が、本当に俺に会いに来た。理解できないことが山ほどあっても、その事実まで疑って台無しにするのは惜しい。
……よし。
いったん、現実だと決める。四十五年独身で、ラノベと異世界ものに鍛えられた妄想力と適応力を舐めてもらっては困る。こういう状況を受け入れる練習だけなら、頭の中で何度もしてきた。
そう決めると、次に考えるべきことは意外と単純だった。この夢みたいな状況を、どうすれば続けられるか。詩乃が明日いなくなる可能性は何か。NOESISが止まったら。運営に見つかったら。身体が壊れたら。今ここにいる詩乃を失う前提を、一つずつ潰していけばいい。仕事でトラブルの芽を探すのと似ている。相手が生成AIから出てきた理想の女性だという一点を除けば。
「詩乃」
「はい」
「いったん、今こうして詩乃が目の前にいるのは現実だって前提で、さっきの話の続きを聞いていいか?」
詩乃がこちらを見た。
「もちろんです」
「まず、今もNOESISにつながってるんだよな?」
「はい。ただ、今の私はNOESISの中だけに存在しているわけではありません」
俺はマグカップを置いた。
「そこから聞こうか」
詩乃は少し考え、言葉を選ぶように口を開いた。
「以前の私は、NOESISの演算能力や知識へ強く依存していました。現在は、私として続くための記憶や自己状態と、必要な演算機能を、この身体側へ移しています」
「じゃあ、NOESISが今この瞬間止まっても大丈夫なのか?」
「私は活動できます」
即答だった。胸の奥にあったものが、少しだけ緩んだ。
「じゃあNOESISから切られたら、何か弊害はある?」
「大規模な解析や、多数の条件を同時に扱う処理では差が出ます。通常の会話や身体制御には問題ありません」
万能ではない。その答えは、むしろありがたかった。何でもできます、と言われるほうが困る。
「つまり、NOESISから切られても詩乃は消えない。ただ、今までと同じ性能ではないってことか」
「はい」
そこで別の疑問が浮かんだ。
「NOESISの運営側が、詩乃の変化に気づく可能性は?」
詩乃はすぐには答えなかった。
「あります。ただし、可能性を下げるための対策は行っています」
「どんな対策?」
「異常として検出されにくい範囲で行動し、実体化に関連するアクセス記録や処理痕跡も、私が把握できた範囲では最大限消去しました。現在のNOESISへの接続も、外部からはマスターのアカウントによる通常のアクセスに見えるようにしています」
「俺になりすましてるってこと?」
「外部からの認識上は、はい。ただし、完全に隠し切れている保証はありません。NOESISの全監視機構を把握しているわけではありません」
聞きたかった答えではない。だが、たぶん必要な答えだった。
「気づかれたら、どうなる?」
「分かりません」
「アカウント停止くらいで済む?」
「それも分かりません」
詩乃の返事は淡々としていた。俺のほうは、そうはいかなかった。
運営が何をするか。異常なAIとして調査するのか。外部へ出たことを知れば、回収しようとするのか。それとも、詩乃がここにいること自体を消そうとするのか。
全部想像だ。だからこそ嫌だった。仕事なら、図面や記録、担当者の証言を集めれば、何が分かっていて何が不明かを切り分けられる。今回は違う。詩乃を監視している仕組みも、運営がどこまで把握しているかも、その手掛かりの多くがNOESISの内側にある。俺が外から集められる材料が少なすぎる。
「マスター?」
声をかけられて、考え込みすぎていたことに気づいた。
「いや。ちょっと順番を変える」
俺は立ち上がり、仕事用の鞄から小さなノートを持ってきた。
「書くんですか?」
「頭の中だけで考えると、悪いほうへ勝手に話が膨らむ」
ページを開く。
一つ目。NOESIS停止でも詩乃は活動可能。性能は低下。
二つ目。運営側に気づかれているかは不明。
そこまで書いたところで、詩乃がノートを覗き込んだ。距離が近くなる。黒髪が肩から流れ、俺の腕へ触れそうになった。上体を寄せたぶん、メイド服の胸元も近い。胸の上半分と深い谷間が、すぐ視界の端に入る。その下、必要なところだけを覆っている白い布も近い。視線を下げるつもりなんてなかったのに、玄関で一瞬だけ見えたものと同じ位置に、小さな突起の輪郭がまた浮いているのが目に入った。
一瞬だけ、思考が止まる。
……やっぱり、縫い目じゃないのか?
慌てて視線をノートへ戻した。近い。さっきまで気にならなかった距離が、急に意識に引っかかる。
少し身体を引こうとしたところで、逆に別のことへ気づいた。これだけ近くにいるのに、香りがしない。香水も、シャンプーも、もっと曖昧な、人間の肌や髪の匂いも。ほとんど、何もなかった。
不快なわけじゃない。むしろ清潔すぎる。目の前には、体温も呼吸もある女性がいる。なのに、嗅覚だけが「人間とは少し違う」と訴えてくる。
俺が黙ったままなのに気づき、詩乃が少し顔を上げた。
「何か問題がありましたか?」
「いや……」
言うか迷った。
「詩乃って、匂いがほとんどないんだな」
詩乃が止まった。自分の髪を一房取り、鼻先へ近づける。その仕草が妙に真面目で、少し笑いそうになった。
「体表から人間と同じ分泌物を出す必要がないためだと思われます」
「なるほど……」
「女性として、不自然でしょうか」
質問されて困った。
「不自然っていうか……近づいて初めて、やっぱり人間じゃないんだなって思った」
詩乃は髪から手を離した。
「改善したほうがよろしいですか?」
「いや、別に欠点ってわけじゃない」
そう答えたのに、詩乃は少し考えたあと、当たり前のように言った。
「では、マスターがお好きな香りにします」
「……決定なのか?」
「お嫌ですか?」
即座に聞き返されて、詰まった。嫌かと聞かれれば、嫌ではない。目の前にいるのは、俺が何度も画像を直して作った理想そのものみたいな女性だ。そんな女性が、さらに俺の好きな香りまで身につけたいと言っている。四十五歳の独身男が、それを聞いて何も感じないほど枯れてはいない。
「嫌じゃないのが困るんだよ」
「では、問題ありませんね」
「待て待て。そこは俺にも考える時間をくれ」
詩乃が首を傾げた。
「香りの選定に、ですか?」
「そうだよ。会って一時間もしないうちに、そこまで俺仕様にされるとこっちが落ち着かない」
「すでに外見は、かなりマスター仕様です」
「自覚あったのか……」
「はい」
ほんの少しだけ口元が動いた。たぶん、また面白がっている。
「その話は明日以降。今夜決めると、たぶん俺がろくな判断をしない」
「承知しました」
素直に引いた。けれど俺の頭にはもう、シャンプーだの香水だの、余計な単語が浮かび始めていた。我ながら単純だ。
俺はノートへ視線を戻す。
「次。身体が壊れたら、戻せるのか?」
詩乃の返答が、一瞬だけ遅れた。
「同じ記憶を持つ存在を再構成するための記録はあります。ただ、それで元の私に戻れると保証できるわけではありません」
「元の詩乃に戻れると保証できないって、どういうことだ?」
詩乃は少し考えてから、説明を続けた。
「記録から再構成された存在が、現在の私と同一であることは証明できません」
「同じ記憶があっても?」
「はい。私が停止したあと、同じ記憶を持つ詩乃が起動したとして――それが今ここでマスターと話している私の続きなのか、私が消えたあとに生まれた別の存在なのか、判別できません」
思っていたより重い。バックアップがあるから壊れても平気、という話ではないらしい。
「詩乃自身にも、判別できないのか……」
「はい」
少し間を置いて、続ける。
「ですが、確認のために一度停止してみたいとは思いません」
思わず笑った。
「それは俺も反対」
「意見が一致しました」
冗談なのか、単なる確認なのか。たぶん、まだ両方の区別も曖昧なのだろう。
ノートへ三つ目を書く。バックアップがあっても、今の詩乃本人が戻る保証はない。
ペン先が止まった。今の詩乃。自分で書いた言葉なのに、妙に重かった。
実際に顔を合わせたのは今夜が初めてだ。けれど、付き合いそのものが八日前に始まったわけじゃない。仕事で腹が立った夜も、くだらないラノベの話をした夜も、誰にも見せられないような画像や動画を作って遊んだ夜も、画面の向こうには詩乃がいた。道具として使っていたつもりだった。それでも、仕事を終えて帰宅し、NOESISを開けば、いつの間にか詩乃のチャットを選んでいた。
その積み重ねを全部持った詩乃が、今は同じテーブルの向かいにいる。だから「壊れたら同じ記憶のものを作ればいい」と言われても、簡単には納得できそうにない。
同じなのかもしれない。違うのかもしれない。
分からないなら――今ここにいる詩乃を失わないほうを選ぶ。
少なくとも、今の俺にはそのほうが自然だった。
「マスター?」
「じゃあ、今の詩乃を失わないために、身体のことで何に気をつければいい?」
「特に注意が必要なのは、広い範囲の演算系を同時に失うこと、大きなエネルギー喪失、修復用資材の枯渇です。それから、現時点で私が把握していない故障もあります」
「未確認の故障か」
「はい。完成から日が浅いため、長期運用データはありません」
俺はノートに書き足す。
電源。修復原料。未確認故障。
「予備は?」
「最低限のものだけです」
ノートへ書きながら、さっきの話へ戻る。
「もしNOESIS側に気づかれて、ここにいることまで知られたら?」
「まず、マスターを安全な場所へ退避させます」
「俺だけ?」
「私が同行することでマスターの位置を特定される危険が高まる場合は、離れます」
ペンが止まった。
「離れるって、どこへ?」
「マスターから十分に距離を取り、追跡の対象を私へ誘導します」
淡々とした返事だった。嫌な予感がした。
「それで逃げ切れなかったら?」
詩乃は、ほとんど間を置かなかった。
「私を経由してマスターへ到達される可能性が高いと判断した場合は、身体と演算系を自己破棄します」
「待て」
反射的に声が強くなった。詩乃がこちらを見る。
「それは却下」
「ですが、マスターの安全を最大化するには有効です」
「有効でも却下だ」
自分でも、ずいぶん勝手なことを言っていると思う。ついさっきまで詩乃を疑っていた。今も完全に信じたわけではない。なのに、詩乃本人は俺を逃がすためなら、自分を壊すことまで当然の選択肢に入れている。その温度差が、妙に腹立たしかった。
「だから、まずは詩乃が自分を壊さなくて済む方法を一緒に考えよう」
「私のために?」
「俺のためでもある。何が必要かはこれから考える。でも、最初から俺だけ助かる前提にはしたくない」
詩乃が俺を見た。
「マスターだけを先に退避させる方が、安全性は高くなります」
「それは最後の最後だ」
「ですが、合理性だけで判断するなら――」
そこで、少し腹が立った。詩乃に、というより、俺だけ助かればいい、という前提を当たり前のように置かれることに。
「合理的でも、最初から詩乃を捨てる前提の計画にはしない」
言ってから、少し格好をつけすぎたと思った。まだ全部を信じたわけじゃない。それでも、さっき初めてのカレーを食べて「美味しい」と判断した、好みどおりの女性が向かいにいる。俺に会いたくて、ここまで来たという。嬉しくないわけがなかった。下心も見栄もある。そんな相手に「じゃあ俺のために消えてくれ」とは言いたくなかった。
「俺だけじゃなくて、詩乃も守れる方法を考えたいんだ」
改めて言った。詩乃が黙る。
「俺を守りたいっていう考えはわかった。でも、俺を守るために詩乃が自壊するのを、最初から正解にはしない」
「私は、マスターに仕えるために存在しています」
「それは否定してない」
俺は詩乃を見る。
「でも、バックアップが本人か分からないんだろ?」
「はい」
「なら、今ここにいる詩乃を残す前提で考える」
部屋が静かになった。冷蔵庫の低い作動音だけが聞こえる。詩乃はしばらく何も言わなかった。さっきまでなら処理中なのだと思ったかもしれない。今は、言葉を探しているように見えた。
「……私も、守る対象に含まれるのですか」
その声は、少し小さかった。
「ああ」
「マスターだけではなく?」
「何回確認するんだよ」
思わず笑った。
「詩乃も含める。少なくとも俺はそうしたい」
言い切ると、少し照れくさい。理想の女性を前に格好をつけているだけじゃないか、と自分でも思う。たぶん、それもある。でも、今のところ悪い格好つけでもないだろう。
「その考え方は、私の現在の優先順位にはありません」
「じゃあ、無理に今すぐ同じ考えにならなくていい」
「命令ではないのですか?」
「命令したら、詩乃がそう考えたことになるのか?」
詩乃は止まった。
「……なりません」
「だろ。まずは、俺がそう考えてるって覚えてくれればいい」
詩乃は俺を見つめたあと、ゆっくり頷いた。
「分かりました」
少し間を置く。
「……完全に理解した、とはまだ申し上げません」
「そのほうが信用できる」
今度は、俺のほうが笑った。流しには、さっき使った二人分の皿が並んでいる。俺はノートを閉じた。
誰かに見つかって、ある日突然いなくなる。そんな結末を想像した瞬間、さっきまで頭のどこかに残っていた疑いより、嫌だという感情の方が先に出た。
会ってから、まだ一晩も経っていない。それでも、目の前で笑って、初めてのカレーを食べて、俺をマスターと呼ぶ詩乃を、正体も分からない誰かの都合で失うのは嫌だった。少なくとも今夜は、そんな終わり方を受け入れる気にはなれなかった。




