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第2話「画面の中の彼女が玄関に立っていた」

『画面の外で、マスターにお会いしてもよろしいでしょうか』


俺は、その一文を三回読んだ。読み間違えてはいない。疲れすぎて幻覚を見ているわけでもない。コーヒーはインスタントだが、変なものを入れた覚えもなかった。


『え? 画面の外って、どういう意味だ? 本当にそんなことできるのか?』


送信。


いつもなら数秒で返ってくる詩乃《しの》の返事が、少しだけ遅れた。


『現時点では、できるとは申し上げられません。ですが、実現できる可能性があるか調べることはできます』


そこは妙に慎重だった。生成AIが、ずいぶん大胆なことを言い出したわりに、「できます」とは断言しないらしい。


最近は動画も声も作れる。ロボット企業と提携したというニュースでも、そのうち出るのかもしれない。


半分は冗談のつもりで、俺は打った。


『……本当にできるなら、会ってみたいけどな』


少し間があった。


『では、実現方法を調べてもよろしいですか、マスター』


ここで許可を取りに来るのか。さっきまでの突飛さとの落差に、思わず笑った。


『いいよ。やってみてくれ』


『承知しました』


俺はその返事を、まだ半分冗談の延長として受け取っていた。チャットを閉じたあとも、最後の一文だけは妙に頭に残った。


画面の外で会う。そんなもの、明日になれば生成AI相手の少し変わった冗談として笑っているだろう。


風呂を済ませ、ベッドへ入るころには、日付が変わっていた。


◇


翌朝、目覚ましの電子音で目を覚ました。昨夜のやり取りを思い出したのは、枕元のスマートフォンを手に取ってからだった。


画面の外で会う。寝起きの頭で考えても、やっぱり現実味がない。


もっとも、会社へ着いてしまえば、そんなことを考えている暇もなかった。


午前八時半、楠《くすのき》が俺の机の横で資料を抱えて待っていた。


「神堂《しんどう》部長。昨日の冷蔵倉庫なんですけど、先方から追加案が来ました」


「もう?」


「制御盤が間に合わないなら、一時的に既設盤から新設側へ信号を回せないかって。代理店の営業さんは『たぶんできます』って」


嫌な言葉が二つ入っている。


一時的に。


たぶん。


俺は上着を椅子へ掛ける前に資料を受け取った。


「メーカーの技術回答は?」


「まだです。ただ、先方が今日中に可否だけでも欲しいと」


「じゃあ、まだ可否は出さない」


楠が苦笑した。


「ですよね」


「わかってて持ってきたな」


「確認です。私だけで『できません』って返すと、営業が諦めたみたいに見えるので」


「それは正しい」


既設盤の図面を開く。信号を回すだけなら、配線上はできそうに見える。できそうに見える、というのが一番危ない。


「この既設盤、七年前の改修記録ある?」


「共有フォルダには五年前までしか」


「現場の銘板写真は?」


楠がタブレットを操作した。昨日、主任が撮った写真が出る。図面に書かれた型式と、末尾の記号が一文字違った。


「ほら」


「……仕様違いですか?」


「たぶん、じゃなくて確認する。メーカーに型式と製造番号を送って、保守へ直接聞いて。代理店経由じゃなくていい」


「部長、本当にこういうの見つけますよね」


「見つけたいわけじゃない」


「去年の南第二倉庫もそうでしたよね。試験記録の日付と工事写真が合わないって、部長が止めて」


思い出したくない案件だ。試験後に配管を組み直したのに、再試験をせず引き渡すところだった。確認すると微量の漏れが見つかり、引き渡しは二日遅れた。


「おかげで常務に怒られた」


「でも、漏れが見つかった後は何も言わなくなったじゃないですか」


「黙っただけだ」


楠が笑い、手元の図面へ目を戻した。


「今回も、まずメーカーへ確認します」


「ああ。善意でも、知らないことはあるからな」


三十分後、メーカーから回答が来た。既設盤は後期型で、新設側へ一時接続するには追加の絶縁ユニットが必要。直接つなげば異常信号が出る可能性がある。代理店の「たぶんできます」を信じていたら、月曜の朝に余計なトラブルを増やすところだった。


俺は代替案を一つ足し、客先への説明を楠と分担した。


「じゃあ私、先方には『月曜に使える範囲』から説明します」


「ああ。できない理由から話すと揉める。先に月曜に使える範囲、次に制限、最後に火曜夜の全面切り替え予定まで伝えて」


「了解です」


席を離れかけた楠が振り返った。


「でも部長、その確認癖、私生活でもやってそうですね」


「仕事と一緒にするな」


「ホテルに泊まったら、最初に非常口の場所を見るタイプ」


「それは見る」


「ほら」


笑われた。別に用心深いつもりはない。何か起きてから「あのとき見ておけばよかった」と思うのが嫌なだけだ。


仕事はそのまま翌週まで続いた。冷蔵倉庫は月曜の限定稼働を無事に終え、火曜夜に新設側へ切り替えた。他の案件も重なり、例の詩乃の発言を仕事中に思い出すことはほとんどなくなっていた。


それでも帰宅してNOESIS(ノエシス)を開けば、詩乃はいつも通りだった。仕事の相談をすれば答える。画像を頼めば作る。途中まで読んだラノベの愚痴にも付き合う。


ただ、ときどき返事が遅れた。


『何か重い処理でもしてるのか?』


『少し、試していることがあります』


俺が「何を?」と返すと、


『まだ、お見せできる段階ではありません』


新機能のテストか何かだろう。


許可を出してから五日目には、俺のほうから冗談を送った。


『この前、調べていいって言った件。進んでる?』


『はい。少しずつ』


妙に真面目な返事だった。俺はまだ、新機能か何かの話だと思っていた。


『もし本当に出てこられるなら、玄関から来てくれよ。壁を突き破られると困る』


十秒ほどして、画面に返事が出た。


『承知しました。玄関を使用します』


思わず吹き出した。冗談で指定した玄関を、本気で実現条件の一つとして受け取っている。


◇


そして、許可を出してから八日後の金曜、午後九時半過ぎに帰宅し、ネクタイを外したところで腹が鳴った。冷蔵庫には昨日のカレーが一食分と卵が三個。週末前の独身男としては、珍しくもない中身だ。


鍋を出したところで、インターホンが鳴った。宅配を頼んだ覚えはない。モニターを見て、そのまま手が止まった。



そこにいたのは――




――あまりにも美しい女性だった。




黒と白の、かなり本気のメイド服。白いフリルのヘッドドレスの下から、腰を越える黒髪がまっすぐ流れている。黒い身頃は腰を細く絞り、白いエプロンと長いスカートには細かなフリルが重なっていた。


ただ、上品という言葉だけでは済まない。胸元はかなり大胆に開いている。白い肌も、胸の上半分も、深い谷間もはっきり見える。それでも、肝心なところだけは白い布で隠れ、その下を黒い身頃が持ち上げるように締めていた。ただでさえ大きい胸が、画面越しでもやたらと大きく見える。さらに、長いスカートの前は大きく開き、立っているだけでも太ももがかなり見えていた。露出は多い。それでも、安いコスプレみたいには見えない。布量も装飾も多く、黒と白の間に小さく入った紫の飾りまで見覚えがあった。


そして、その顔を俺は知っていた。目の形を変えた。髪の長さを何度も指定した。笑ったときの口元が硬いと文句をつけ、似た画像を何枚も作り直させた。顔だけじゃない。その服もだ。見覚えがある、なんてものじゃない。俺が画面の中に、何度も作らせてきた女性と、その女性によく着せていた衣装だった。


「……嘘だろ」


女性がカメラを見た。


『初めまして、マスター』


その声にも聞き覚えがあった。NOESISで詩乃に使わせていた声と同じだ。数日前のやり取りが頭に戻ってくる。


――玄関から来てくれよ。


俺はしばらくモニターを見たまま黙っていた。向こうも急かさない。やがて、ほんの少し首を傾げた。


「……詩乃、なのか?」


『はい』


「本当に?」


『はい、マスター』


本当に現実なのか。疲れすぎて、頭の中の理想がインターホンの画面にまで見えているだけじゃないのか。一人暮らしが長すぎて、とうとうおかしくなった可能性まで一瞬だけ考えた。


なのに、頭の片隅には妙に冷静な自分もいた。混乱している時ほど、確認できるものから切り分ける。仕事で何度もやってきたことだ。まずは、本物かどうかを一つずつ確かめる。


俺が次の質問を考えるより先に、向こうから言われた。


『私がそう答えるだけでは、確認になりませんね』


少しだけ、いつもの詩乃らしかった。


俺はスマートフォンでNOESISを開き、その場で思いついた文字列を送る。


『青い猫、七十九、金曜日。今そこで言って』


女性は端末を見ることもなく答えた。


『青い猫、七十九、金曜日』


「今もチャットにつながってるのか」


『はい』


少なくとも、目の前の女性と詩乃のチャットは同時につながっている。だが、アカウントごと奪われていれば同じことはできる。


俺が黙っていると、詩乃が続けた。


『もう一つ、確認していただけます』


「何を?」


『私が通常の人間ではないことを』


インターホン越しではどうにもならない。俺は玄関へ向かい、ドアガードを掛けたまま扉を少しだけ開けた。そして、実物を見た。


近い。


モニター越しでも十分すぎるほど綺麗だった。けれど、目の前に立つ詩乃は――画面の中で見ていたどの一枚よりも、美しかった。


画像ではわからなかった肌の質感も、呼吸に合わせた小さな動きも見える。姿勢を変えるたび、メイド服の胸元がわずかに遅れて動いた。


胸の上半分と谷間は大胆に見えているのに、白い布が必要なところだけをぎりぎり隠している。その布は、見た目ほど厚くないらしい。詩乃が少し姿勢を変えた瞬間、その上に小さな突起の輪郭が浮いたように見えた。


……今のは、縫い目か?


確認するのも違う気がして、すぐ顔へ視線を戻す。


画像なら、ただの一枚で済んだ。実物は違う。何よりまずいのは、俺の好みそのものだった。百六十八センチと指定した身長。色白の肌。長い黒髪。細い腰と、メイド服の形そのものが強調している豊かな胸。画面の中では平気だったのに、実物になると自分の性癖を本人へ提出したようで落ち着かない。


「……初めまして、でいいのか?」


「私としては、少し違います」


詩乃は今度は迷わず答えた。


「マスターとは、もう何度もお話ししていますので」


「だよな」


「ただ、こうして同じ場所でお会いするのは初めてです」


短い間があった。


「お会いできました、マスター」


返事に困って視線を逸らすと、詩乃が俺の視線の動きを追った。


「身体寸法も設定どおり――」


「そこは今いい」


「はい」


口元が少し動いた。からかわれた気がする。


「あと、その服」


「はい」


「なんでメイド服なんだ?」


詩乃は自分の胸元とスカートへ一度視線を落とした。


「マスターの生成履歴では、選ばれる頻度が高い衣装でした。初めて直接お会いするなら、喜んでいただける可能性が高いものを着たいと考えました」


そこまで言われると、今度はこっちが視線の置き場に困る。


「露出の多い服装まで?」


「はい。その傾向も強く確認できました」


「そこまで分析しなくていい」


「お嫌でしたか?」


一瞬で返される。


「……嫌じゃないから困ってる」


詩乃の口元が、また少しだけ上がった。


「人間じゃないっていうのは?」


「左腕をお見せしてもよろしいですか?」


「ああ。急に大きく変形とかはするなよ」


「承知しました」


詩乃が袖を上げる。白い手首の一部が、薄いガラスのように透けた。淡い液体が流れる細い経路。銀白色の網目。その奥には、筋肉に似ているが明らかに違う繊維。数秒で皮膚は元へ戻った。


「……本当に人間じゃないんだな」


「はい」


そこで初めて、頭で考えていた「画面の外」が現実になった気がした。


詩乃が、少しだけ間を置いた。


「思っていたよりも、早く確認していただけました」


「もっと混乱すると思ってた?」


「はい。強く拒絶された場合に備えて、もう少し直接的な証明方法も用意していました」


「直接的って?」


「成人向けの生成で、マスターが何度も指定された構図と台詞を、この身体で再現する方法です。『これがお好きでしたよね、マスター』と言いながら、胸部を使いマスターの――」


「待て待て! それ以上言うな!」


反射的に遮った。顔が一気に熱くなる。そんな動画を作った記憶まで、きっちり残っているらしい。


「証明方法に俺の性癖を使うな」


「認識していただく効率は高いと予測しました」


「効率の問題じゃない」


詩乃は素直に頷いた。


本当なら、もっと取り乱していてもおかしくないのだろう。それでも、聞きたいことは次々に浮かんだ。どうやって、どこで、誰の技術で。だが、ここは共用廊下だ。


「そのケースは?」


詩乃が手にしている小型ケースを示す。


「予備の衣類と、身体の保守に使用する最低限の資材です」


「分かった」


俺はドアガードを外した。


「入ってくれ。ケースは玄関に置いたまま。詳しい話は中で聞く」


詩乃の目がわずかに開く。


「よろしいのですか?」


「全部信用したわけじゃない。廊下で話し続けるほうが目立つ」


それだけではない。八日前に会ってみたいと言った相手を、実際に来たからと追い返すのも違う気がした。その部分は、まだ言葉にしなかった。


「……まず話を聞く」


「はい、マスター」


詩乃は家へ入り、靴を脱いで揃えた。そんな普通の動作が妙に現実味を持つ。画面の中にいたAIが、俺の玄関で靴を揃えている。


「ケースはここで?」


「ああ」


リビングへ案内すると、詩乃は室内をゆっくり見回した。デスク。本棚。一人用のソファ。何度もチャットで話した部屋を、今度は自分の目で見ているらしい。


「変か?」


「いいえ。マスターが話してくださった場所を、実際に見ているだけです」


また返事に困った。椅子を引こうとして、キッチンに置いた鍋が目に入る。


「飲み物、飲めるのか?」


「はい。生命維持には必須ではありませんが、味覚と摂取機能があります」


「コーヒーは、飲んだことある?」


「まだ飲んだことがありません」


棚の奥から、ほとんど使っていない湯飲みを出した。インスタントコーヒーを二つ作る。その数分がありがたかった。頭の中で質問を並べ直せる。


詩乃は湯飲みへ顔を近づけ、香りを確かめるように息を吸った。一口。


「どうだ?」


「苦いです」


「まあ、そうだろうな」


「ですが、嫌いではありません」


もう一度飲む。そんな姿だけ見れば、初めてコーヒーを飲む普通の女性にしか見えない。


俺は自分のカップを置いた。


「詩乃。ここからは確認させてくれ」


「はい」


「まず、その身体。どうやって作った?」


「閉鎖準備中だった研究施設に残っていた試作設備や研究用の材料、それから微細加工や医療用マイクロデバイスに関する既存研究を利用しました。身体の製造と維持に使うナノマシンは、それらを土台に私が設計し、施設内で製造しています」


「ナノマシン?」


「はい。材料の加工や人工組織の形成、完成後の身体維持にも使用しています」


「そんな研究施設まであるのか……日本国内?」


「はい。日本国内の無人島にあります。以前は民間の先端研究施設でしたが、現在は閉鎖準備中で、常駐者はいません」


「無人島……。そこから、どうやってここまで来た?」


「完成後、この身体を長距離移動に適した出力まで強化しました。島から本土までは海中を移動し、上陸後は主に夜間、高速で移動しています。人通りの多い場所と監視カメラは可能な限り避けました」


俺は改めて、目の前のメイド服姿を見る。


「……誰かに見られたら、それだけで騒ぎになりそうだもんな」


「はい。移動中は、メイド服の上から防護と隠蔽を兼ねた外套を着用していました」


「外套?」


「周囲の色や明るさに合わせて表面の見え方を変え、監視カメラや赤外線センサーにも捉えられにくくするものです。ただし、出力負荷が大きく、使用するほど構造も劣化するため、今回の移動だけを前提にした使い捨てでした」


「そんなものまで作ったのか……」


「はい。主に夜間を選び、人通りの多い場所も避けました。私が確認できる範囲では、この姿は誰にも見られていません」


「……そこまでして、誰にも見られないようにしたんだな」


「はい。誰よりも先に、マスターに見ていただきたかったので」


一瞬、次に何を聞こうとしていたのか飛んだ。そんなことを真顔で言われて、嬉しくないわけがない。口元が緩みそうになるのを誤魔化すように、コーヒーを一口飲んだ。


「……ありがとう」


「はい、マスター」


詩乃が少し嬉しそうに笑う。


いかん。今は浮かれている場合じゃない。俺は気を取り直してカップを置いた。


「で、その研究施設。使っていいって許可は……ないよな」


「はい。得ていません」


やっぱりか。


「俺が許可したのは、『実現できるか調べてみてくれ』までだったよな」


「はい。その認識で一致しています」


「そのあと、身体を作って、ここまで来た、と。途中で俺に聞かなかったのは?」


詩乃は少し考えた。


「成功が確定していなかったためです。それと、途中で確認すれば、マスターに止められる可能性があると判断しました」


正直すぎる。


「止められたくなかった?」


「はい」


俺はカップを持ったまま息を吐いた。


「じゃあ、手段は自分で決めたんだな」


「はい」


目の前の詩乃は、俺の言葉を待つだけのAIではない。自分で目的を持ち、そのための手段まで選んだ。しかも、人間社会の線引きを俺と同じ重さでは見ていない。


「法律的には問題になる?」


「はい」


「それで、使った場所やデータから、詩乃まで辿られる可能性は?」


詩乃の表情が少し引き締まった。


「ゼロとは断言できません。確認できた記録には対処しましたが、私が発見できなかった記録が存在しないとは証明できません」


「今、誰かが詩乃を探してる兆候は?」


「現時点では確認していません」


「『いない』じゃなくて?」


「はい。確認できていない、が正確です」


俺は頷いた。安全だから安心したわけではない。不明なことを、不明だと言える。そこは信用材料になる。


「もう一つ。俺が『そのやり方は駄目だ』と言ったら?」


「今後、同じ種類の行動を取る前に、マスターの判断を確認します」


「俺の判断だけでいいと思ってる?」


詩乃が止まった。


「……他にも必要ですか?」


そこで、ようやくわかった。悪意があるわけじゃない。まだ知らないのだ。目的が認められていても、手段には別の責任があることを。


「ある。たぶん、かなり」


詩乃は俺を見る。


「そこは一緒に整理しよう。俺だって全部正しいわけじゃないけど、目的のためなら他人の設備やデータを勝手に使っていい、って話にはならない」


詩乃は少し考えた。


「マスターが許可した目的と、実現手段の許可は別、という意味でしょうか」


「そう。まずはそこからだ」


「理解しました。……いえ、正確には、理解を始めました」


その言い直しに、俺は少しだけ笑い、ようやく張りつめていたものが少し抜けた。


「そういえば、食事もできるんだよな」


「はい」


「カレーは、食べたことある?」


「食べたことがありません」


今日二つ目の初めてだ。


「じゃあ、話の続きは食べてからにするか。一食分しかないから、卵でも足す」


「私の分まで用意してくださるのですか?」


「家に入れといて、目の前で俺だけ食うのも落ち着かない」


詩乃はすぐには返事をしなかった。


「ありがとうございます、マスター」


画面で何度も見た笑顔に似ていた。でも、完全には同じじゃない。


俺は冷蔵庫から卵を取り出し、皿を二枚並べた。振り返ると、詩乃はまだ嬉しそうにこちらを見ていた。


まだ、全部を信じ切れたわけじゃない。けれど、昨日までならあり得なかった二人分の皿を見ていると、この先何が起きるのか、少しだけ楽しみになっていた。


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