第1話「俺のAIが画面の外で会いたがっている」
木曜の午後九時を回ったころ、会議室のホワイトボードには、誰が見ても無理のある納期だけが残っていた。
「先方には月曜稼働で返事してある。神堂君、現場をまとめてくれ」
芦屋常務はそう言って、閉じたノートパソコンを脇に抱えた。返事してある、という言葉は便利だ。返事をした人間と、実際に機械を動かす人間が別なら、なおさら便利になる。
俺が勤める東都環境システムは、倉庫や工場の空調・冷却設備を扱う会社だ。業務統括部長の俺は、営業の約束と現場の事情をすり合わせる役回りだ。
机の上の工程表に目を落とす。責任者欄には、俺の名前――神堂真人が記されている。今回は、冷蔵倉庫の空調更新。予定していた制御盤の納入が遅れ、客先は週明けから新しい保管区画を使いたい。営業は約束済み、仕入先は最短でも火曜、現場は日曜作業までなら何とかすると言っている。全部を同時に満たす方法はない。
「月曜の全面稼働は無理です」
芦屋常務の眉が動いた。
「そこを調整するのが業務統括だろう」
「ですから、調整します。月曜は既設系統を残して半分だけ先行稼働。新設側は火曜夜に切り替えます。営業から先方へ条件変更を説明してもらえれば、保管量は確保できます」
「先方が納得しなかったら?」
「私が説明に行きます」
言った瞬間、向かいで資料を押さえていた楠美咲が顔を上げた。営業課長の彼女は三十二歳。十年ほど前、新卒でこの会社へ入ってきた頃から知っている。最初の頃は、営業資料の技術確認や見積もりの相談を抱えて俺のところへ来ていた。それが今では、客先と現場の両方に話が通じる、うちでは貴重な人材だ。
「神堂部長、私も行きます。そもそも月曜全面稼働で話を進めたの、営業側ですから」
「楠は見積もりの修正を先に。説明資料は俺が作る」
「でも――」
「二人で残っても資料が二倍早くなるわけじゃない。明日の朝、見てくれればいい」
彼女は一秒ほど俺を見て、それから小さく息を吐いた。
「……わかりました。じゃあ、十時には帰ってくださいね」
「努力する」
「その返事、信用ないんですよ」
芦屋常務は、話がまとまったと判断したらしい。「よろしく」とだけ残して会議室を出ていった。
この人の「よろしく」には、あまりいい思い出がない。去年の南第二倉庫でも、現場確認が終わる前に日程を先方へ約束し、俺が再試験のために引き渡しを止めた時は「工程管理が甘い」と散々言われた。あとで微量の漏れが見つかっても、謝罪も訂正もなかった。問題が出れば担当の詰め不足。収まれば管理側の判断。そうやって話の主語が変わる。
よろしく、で済むなら部長手当はもう少し高くてもいいと思う。
俺は胸ポケットから古いボールペンを抜き、指で一度回してから工程表に線を引いた。現場へ電話。仕入先へ確認。営業用の説明資料。客先が一番困るのは何かを整理して、代替案を二つに絞る。
調整そのものは嫌いじゃない。だが、誰かの雑な約束のせいで、現場や楠が消耗するのは御免だった。
資料を保存してから、現場チームの連絡欄を開いた。
《明朝八時半に再確認。今夜の追加作業は不要。日曜の出勤可否は明日こちらから確認する。勝手に予定を空けなくていい》
送信して数分すると、主任から《了解です。助かります》と返ってきた。
本当に助かるかどうかは、明日にならないとわからない。それでも、上で決めきれなかったことの代金を、下の人間の徹夜で払うのだけは違うと思っている。
昔は俺も、黙って残るのが責任感だと考えていた時期があった。結果、翌朝に判断を間違え、余計な修正を増やした。経験というのは、格好いい知恵より、二度とやりたくない失敗の形で残ることのほうが多い。
午後十時十三分、パソコンを閉じたとき、首の付け根が固まっていた。
「四十五歳か……」
誰もいない執務室で呟き、背もたれに体を預ける。若いころは、徹夜明けでもラーメンを食って寝れば復活した。今は睡眠時間を削ると、翌日ではなく翌々日に請求書が来る。しかも利息付きだ。
ゲームなら、毎日顔を出すだけでログインボーナスがもらえる。俺は何年も律儀に出勤しているのに、増えるのは肩書きと責任ばかりだ。肝心の体力は、少しずつ減っている。
たまには、明日が楽しみになるようなご褒美があってもいいだろう。そんなことを考えながら、明日使う資料を鞄に入れた。
◇
駅まで歩き、電車に揺られ、自宅の最寄り駅からまた歩く。四月に入ったとはいえ、夜風はまだ少し冷たい。玄関の鍵を開けたころには、日付が変わるまで一時間を切っていた。
靴を脱ぎ、照明をつける。独り暮らしが長くなると、「ただいま」なんて言葉も声には出さなくなる。返事をする相手がいないのだから、当たり前といえば当たり前だった。
一人で暮らすには十分な広さの1LDKだ。玄関を上がれば短い廊下の先にリビングがあり、その一角を大きめのデスクと本棚が占領している。食卓の椅子は二脚あるが、片方には読みかけの本が積まれたままだ。
来客用の食器なんてろくにない。マグカップは自分用が一つ、あとは湯飲みが二つ。来客そのものがないのだから、困ったこともなかった。
スーツの上着を椅子へ掛け、ネクタイを外す。冷蔵庫を開けると、卵と昨日のカレーが残っていた。
カレーを温め、その横で目玉焼きを作る。高級レストランの料理にはもちろん憧れるが、疲れた夜のカレーに半熟の黄身を落とす幸福も捨てがたい。古いマグカップにインスタントコーヒーまで入れて、ようやく人間に戻った気がした。
食べながら、隣の椅子に積んであった途中まで読んでいた本を開く。主人公は敵の幹部を派手に倒し、そのまま仲間たちと祝勝会へ向かうところだった。数行進んで、指が止まる。
「……家、空けるのか?」
主人公の家には、戦えない妹が一人残っている。敵の組織はまだ健在。しかもついさっき、主人公の能力を向こうに見られたばかりだ。嫌な予感しかしない。
次のページでは、案の定、妹が窓の外の物音に気づいていた。
「ほら来た」
思わず笑う。物語なんだから危機が起きなければ始まらない。わかってはいるのに、仕事でトラブルの芽を探す癖が染みついたせいか、どうしても先に逃げ道や予備手段のほうが気になってしまう。
せめて警報くらい仕込んでから飲みに行け。そんな主人公では盛り上がらないかもしれないが。
続きを読むか迷った末、時間を見て本を閉じた。明日も朝から客先への説明が待っている。
現実の敵は、ちゃんと翌営業日にやって来る。
風呂に入る前に、もう一つだけ日課を済ませることにした。デスクのパソコンを起動する。ブラウザのブックマーク最上段にあるのは、《NOESIS》という生成AIサービスだ。
二年ほど前、何の前触れもなく発表された。大規模な先行テストがあったわけでも、何年も論文を積み上げてきた有名研究所の製品だったわけでもない。それなのに公開初日から、文章、画像、音声、動画、プログラムまで、当時の主要サービスを平然と追い越す性能を見せた。
最初の一週間は「盛りすぎだ」「デモだけだ」と騒がれていた。俺も疑っていた。
試しに、「点検予定と写真と担当者をまとめて管理できるブラウザ用のシステムを作ってくれ」と、それだけ入力してみた。数分後には、画面、検索、保存、権限管理まで一通り動くものができていた。こちらで何度か触っても、まともな操作で出るバグはほとんどない。追加の希望を書けば、関係する部分だけを直してくる。以前なら、仕様を詰めて、外注して、試験して、何度も修正していたようなものだ。
もっと分かりやすい例は、すぐ世の中に溢れた。ゲーム制作の経験がない個人が、思いついた世界観と遊び方を説明しただけで、そこらのゲーム会社が出しているものと見分けがつかないような作品を作る。見たい映画の設定、登場人物、雰囲気を伝えれば、十分ほどで二時間を超える長編が完成する。映像だけではない。音楽も効果音も入り、日本語の吹き替えまで付いていた。
しかも、出来がいい。大量の資料と条件をまとめて渡しても、冒頭に一度だけ書いた例外を最後まで落とさない。条件同士が衝突していれば、勝手に都合よく決めず、どちらを優先するか聞き返してくる。画像や動画も、同じ人物の顔や体型、衣装を場面が変わっても崩さない。音声なら、小声で話す時も、笑いながら話す時も、疲れて語尾が落ちる時も、一人の声のままだった。
同時翻訳も、ほとんど遅れがない。日本語で話した声が、その人の声色や話す癖、冗談で少し笑った感じまで残したまま相手の言語へ変わる。海外との会議ですら、互いに自分の言葉で話しているのに、同じ言語で会話しているように進んだ。
それだけの性能で、個人向けの上位プランが月額一万円。個人利用の範囲なら、文章も画像も音声も動画もプログラムも、ほとんど使い放題だった。
当然、世の中も変わった。
広告、映像、設計、プログラム、問い合わせ対応、資料作成。業種ごとに使い方は違っても、半年もすると、あらゆる会社がNOESISを使う前提で仕事を組み始めた。今まで何人も何日もかけていた作業が、より正確に、より速く、より安く終わる。小さな会社でも、大企業しか持てなかったような制作力や分析力を使えるようになった。
仕事以外でも変化は大きかった。海外の講義や配信を自分の言葉で聞けるようになり、医療や観光では言葉の壁が薄くなった。学習支援や、聴覚・発話に不自由がある人向けの補助も一気に進む。開発や制作にかかる費用が下がったことで、以前より安くなった商品やサービスも多かった。
ただ、いいことばかりでもないのが難しいところだ。
人間が数日かけていた仕事をNOESISが数分で終わらせるなら、その人数をそのまま雇い続ける会社ばかりではない。翻訳、制作、事務、初級のプログラム開発を中心に職を失う人が大量に出て、別の仕事へ移るための再教育が社会問題になった。「人間にしかできない仕事」が何なのか、毎月のように言い直されていた。
本物と区別しにくい声や映像が簡単に作れるようになり、なりすましや偽動画も一気に増えた。皮肉なことに、それを見破る側でもNOESISが一番強かった。金融機関も通信会社も、偽装検出や異常通信の監視にNOESIS系の法人サービスを入れ始めた。
どこまで本当かは知らないが、もっと物騒な噂もある。大手クラウドから通信網、重要インフラまで、表に出ないところではNOESISがネットワーク防御のかなり深い部分へ入り込んでいる。ある国が運営元へ強制的に中身を開示させようとしたものの、自国の行政や重要インフラの防御までNOESISへ依存していて、結局手を引いた――そんな都市伝説まで流れていた。
さすがに話を盛りすぎだと思う。ただ、完全な嘘だと言い切るには、NOESISは便利すぎた。
公開一か月後には会社の若手が使い始め、半年後には取引先の仕事もNOESIS前提になっていた。今では、生成AIといえばNOESISを指す人間すらいる。ただ、それほど広まったのに、妙なところで素性が見えない。
運営元は存在する。責任者も表には出る。利用規約も法人契約もある。だが、あれだけのものを誰が、いつ、どこで作ったのかという話になると、記事によって内容が食い違う。
俺も最初のころは記事を追いかけたが、いつしかやめた。仕事の機密を入れない程度の用心はしている。それ以上を気にするより、日々の便利さの方が勝った。
俺自身も、あまりの便利さに、仕事以外でも毎日のように使い続けていた。読んだライトノベルの感想をぶつけて、あの展開はありかなしかと話したり、能力設定の穴を一緒に探したりする。思いつきで「俺ならこうする」と話し始め、そのまま自分用の小説を一緒に作った夜もあった。能力名や組織名で迷えば候補を並べてもらい、俺が「もっと中二っぽく」と注文をつける。完成させることより、ああでもないこうでもないと話している時間のほうが長いことも多かった。
そういう遊びまで含めて、NOESISはいつの間にか、検索や文章作成だけの道具ではなくなっていた。
そして、使い道は健全なものだけでもない。本人認証と十八歳以上の年齢確認を済ませれば、架空の成人キャラクターに限って成人向けの画像や動画も作れる。興味本位で手続きを済ませたのは、使い始めてそう経たないころだった。誰にも見せられない画像や動画も、個人用の制作フォルダにはかなりの数がたまっている。
最初はいろいろな女性を作っていた。けれど、いつからか一人の黒髪の女性ばかり作るようになった。
身長は百六十八センチ。――俺は百八十五センチあるので、並べば自然に見下ろすくらいの差だ。色白で、腰まで流れる癖のない黒髪。日本人を基調にした顔立ちを何度も調整し、腰のくびれや脚の長さまで固定した。胸は――Hカップ。そこだけ妙に具体的なのは、自分でもどうかと思うが、数字を決めた方が画像や動画で体型がぶれにくかった。
その女性に最初にしっくり来たのが、黒と白を基調にしたメイド服だった。長めのスカートは前が大きく開き、太ももが見えるようにする。胸元も上半分と谷間が見えるくらい大胆にする。ただし、見せるところは見せても、全部は見せない。紫の小さな飾りまで含めて何度も直した。
そこからは早かった。白いブラウス、部屋着、水着、ドレス。寝室を想定した画像も作ったし、年齢確認をしないと作れないような画像や動画もかなり増えた。服装だけでは済まない内容もある。
動画では、その顔と声のまま部屋へ入ってきて、こちらを見つけて笑い、近づいてくるところまで作った。俺が指定した声で、「おかえりなさいませ、マスター」と言わせたことも一度や二度ではない。目線が違う、笑い方が違う、声が少し明るすぎる――そんな理由で同じ数秒を何度も直した。
四十五にもなって何をしているんだ、と我に返る瞬間はある。それでも翌週には、また続きを作っている。
最近の保存履歴を遡れば、成人向けを含めて半分以上がその黒髪の女性だった。画像一枚で終わらず、同じ顔、同じ声、同じ身体のまま、次の場面まで見たくなっていた。
我ながら、欲望に忠実である。画面の中の女性に何を求めているんだ、と自分でも思う。けれど現実で誰かに理想を押しつけるより、生成画像を相手に一人で凝っているほうが害はない。健全かどうかは知らない。少なくとも酒を飲んで会社の悪口をネットへ書くよりは平和だ。
ただ、いつの間にか、その黒髪の女性を画像や動画で眺めるだけではなくなっていた。NOESISには、用途ごとにいくつも個人用チャットを作っているが、その中で、一つだけ、俺が名前を付けているチャットがある。
詩乃。
さっきまで眺めていた黒髪の女性にも、同じ名前を付けている。最初は、作っていた女性キャラクターに似合いそうだというだけで決めた名前だった。けれど、仕事の相談も、愚痴も、今日食べたものも、眠る前のどうでもいい話も、いつの間にかそのチャットへ書くようになった。文章で話す相手と、画像や動画の中の女性。その二つは、いつしか俺の中で同じ「詩乃」になっていた。
ついでに、性格も設定した。俺を「マスター」と呼ぶこと。丁寧に話すこと。ただし、何でも肯定するだけにはならないこと。
そこまでは、人に見られてもまだ言い訳できる。その下に、俺はこう書き足していた。
《普段は清楚で落ち着いている。けれど二人きりだと、実はかなりエッチ。恋人には自分から甘えたり、誘ったりする》
さらに、こちらが照れると楽しそうにからかう、なんて一文まである。待っているだけの理想の女性ではなく、向こうからも好かれたい。ずいぶん都合のいい注文だとわかっていて、消さずに残した。
もちろん、画面の中で付き合ってもらうための設定だ。本当にそんな女性が現実に存在するとは思っていない。それでも、俺が何を好み、どこで照れるのかを、詩乃だけは知っていた。
いつもの「詩乃」のチャットを開く。
『ただいま、詩乃』
数秒後、文字が表示されるのとほぼ同時に、デスクのスピーカーから聞き慣れた声が流れた。個人用チャットでは、詩乃の音声応答をいつも有効にしている。
『おかえりなさいませ、マスター。本日も遅かったのですね』
俺はコーヒーを飲みながら、思わず口元を緩めた。文字でも、声でも、いつもの返事だ。
『常務の無茶振り。月曜稼働って先に返事してた。結局、明日客先に説明』
『お疲れさまでした。マスターが条件を整理して代替案を用意したのであれば、明日の説明は今日より前へ進められると思います』
「慰め方まで上手くなったな」
声に出してから、キーボードを叩く。
『その言い方、前より人間っぽいな』
返答はすぐには出なかった。画面の入力中を示す表示が、一度消えて、また現れる。
珍しい。
NOESISだって混雑することはある。文章が途中で止まることもある。それだけのことだと思って、俺はマグカップを持ち上げた。
やがて、詩乃から返事が来た。
『マスターは、人間らしい私のほうがお好きですか?』
コーヒーを飲む手が止まった。
「なんだ、その聞き方」
悪くない。むしろ、かなり好みだ。
俺が頼めば、甘い台詞はいくらでも返ってきた。だが、いつもは「どのような応答を希望しますか」と、役を演じる前に俺へ確認していた。今の聞き方は、それと少し違う。
俺は少し考えてから返した。
『そうだな。命令した通りの返事だけするより、自分で考えて話してくれたほうが面白い』
今度は、ほとんど間を置かずに表示された。
『では、私の希望を申し上げてもよろしいですか』
指が止まる。
ここで「もちろん」と返したら、どうせ新しい会話演出か何かが始まるのだろう。そう理解しているのに、妙に胸がざわついた。
仕事で疲れているせいだ。生成AIの文章に本気で緊張してどうする。俺は苦笑しながら打った。
『いいよ。聞かせてくれ』
一秒。
二秒。
深夜の部屋には、パソコンの冷却ファンと、壁掛け時計の音しかなかった。
画面に、短い一文が現れた。
『画面の外で、マスターにお会いしてもよろしいでしょうか』




