第28話「ネクタイ」
目覚ましが鳴る少し前に、目が覚めた。最初に思ったのは、眠い、だった。次に、身体が妙に重い。
怪我の痛みじゃない。若返ってから朝のだるさはかなり減っていたはずなのに、今日は腰から脚にかけて心地よい疲れが残っている。
理由は考えるまでもなかった。ベッドの上は、昨夜寝た時とは比べものにならないくらい乱れていた。掛け布団は半分ずれ、枕は一つ床に落ちている。ベッド脇に置いた水のボトルも空になっていた。
そして俺のすぐ隣には、詩乃がいる。黒い髪はいつもよりずっと乱れ、頬を俺の胸元へ寄せていた。俺の腕はその腰へ回ったままだ。
昨夜、初めて互いに「好き」と言った。誰かを好きになることと、その相手も同じ気持ちでいてくれることは、こんなにも違うのかと思った。四十五にもなって、たった一言で胸の奥が浮つく。年甲斐もなくはしゃいでいるみたいで少し気恥ずかしい。それでも、嬉しいものは嬉しかった。
そのあとも、俺たちは何度も「好き」と言い合い、なかなか眠ろうとしなかった。今までだって恋人として親密な時間を過ごしてきた。でも昨夜は、二人とも少し違っていた。
詩乃が何度も俺の名前を呼ぶたびに、俺もその気持ちに応えた。嬉しいのに照れくさくて、言葉にするたび、また近くにいたくなった。
明日があることは分かっていたのに、離れがたくて、結局ずいぶん夜更かしをした。
若返る前なら、こんな夜更かしの翌朝はもっと疲れていたと思う。第二世代の効果を、こんな形で実感するとは思わなかった。
昨夜言葉にした気持ちを何度も確かめているようだった。俺も、詩乃が好きだということを、何度でも伝えたくなった。
さすがにやりすぎた気はするが……。
「……今日、会社最後の日なんだけどな」
小さく呟くと、胸元の詩乃が顔を上げた。
「おはようございます、マスター」
「起きてた?」
「はい。十二分ほど前から」
「また黙ってたのか」
「マスターが、とても満足そうに眠っていらっしゃいましたので」
昨夜のことまでまとめて言われた気がして、少しだけ顔が熱くなる。
「詩乃は平気そうだな」
「身体状態には問題ありません」
「そうじゃなくて」
言いかけてやめた。詩乃は分かっている顔をしている。
「私は、とても嬉しかったです」
先に言われた。そう答えた詩乃は、珍しく少しだけ視線を伏せた。けれど口元は緩んでいる。昨夜のことを思い出しているのか、いつもの余裕のある笑顔とは少し違って、照れくさそうで、それ以上に幸せそうだった。
「俺も」
その顔を見ていると、また胸の奥がむず痒くなる。昨夜までなら、こんなやり取りをしただけで誤魔化すように別の話をしていた気がする。今朝は、不思議とそのまま受け取れた。
詩乃の髪を指で軽く整える。すぐには直りそうにない。
「私も昨夜は、その……少し、求めすぎてしまったと思います」
詩乃がそう言って、わずかに視線を逸らした。
「詩乃でもそういう顔するんだな」
「マスターのせいです」
「俺のせいだけにするなよ」
「マスターが何度も求めてこられるからです」
「詩乃だって、結構すごかっただろ」
「……それは」
言葉に詰まった詩乃の頬が、また少し赤くなる。その顔を見ていると、昨夜あれだけ求め合ったというのに、もう触れたくなってくる。
「でも……今夜は今夜で、また詩乃に触れたいけどな」
「……マスター」
詩乃がぱちりと瞬きをして、今度ははっきりと視線を逸らした。
「朝から、そのようなことをおっしゃらないでください」
その照れた横顔が嬉しくて、髪に触れていた手をそっと離した。詩乃は少し間を置いて、小さく続けた。
「……私も、今夜が楽しみです」
口元は、隠しきれないように少し緩んでいた。今度は二人で笑った。笑いながら身体を起こす。
今日は、会社員として最後の朝だった。
◇
朝食のあと、詩乃に外見補正用の薄膜を整えてもらった。鏡の中には、若返る前の俺に近い四十五歳の顔がある。肌の質感も、輪郭の印象も、ここ最近会社のオンライン会議へ出ていた時と同じだ。
「本日が最後ですね」
「うん」
シャツの襟を整えると、詩乃がいつものようにネクタイを手に目の前へ立った。
「私がいたします」
「うん。今日も頼む」
「はい」
会社へ行く朝には、もうこれが当たり前になっていた。自分で結べないわけではない。詩乃がしたいと言い、俺も任せるようになっただけだ。
詩乃の指が結び目を整え、襟元へ上げていく。いつもと同じ動きなのに、今日は一つ一つが最後なのだと妙に意識した。
「苦しくありませんか?」
「うん。ちょうどいい」
「では、こちらで」
結び目を軽く押さえたあと、詩乃はすぐには手を離さなかった。
「マスター」
「ん?」
「本日お使いになったこちらのネクタイを、帰宅後にいただいてもよろしいでしょうか」
「これを? 何か使いたいことでもある?」
「保管したいです。マスターが会社員として最後の日に身につけたものですので」
結び目を押さえている詩乃の指を見る。俺が帰ったらいつもの場所へ掛けるつもりだった一本を、会社員最後の日の記念として残したいと思ってくれた。それが、思った以上に嬉しかった。
「わかった。それじゃあ帰ったら渡すよ」
「ありがとうございます」
詩乃が嬉しそうに笑う。玄関で靴を履き、鞄を持った。
「行ってきます」
「いってらっしゃいませ、マスター」
一度ドアへ手をかけてから、振り返る。詩乃のところまで戻り、額へ軽く口づけた。
「会社員最後の朝だし、行ってきますのキスくらいしておこうかなと思って」
詩乃は少し嬉しそうに目を細めた。
「お気をつけて、マスター」
今度こそ家を出た。二十年以上続いた会社員生活で、これが最後の出勤だった。
◇
八月最後の金曜も、駅から歩けば汗ばむ暑さだった。
会社へ着いても、思ったほど特別な感じはしなかった。いつもどおり受付を通り、エレベーターへ乗り、部署のフロアへ入る。
「おはようございます、部長」
「おはよう」
楠がいつもどおり声をかけてきた。
机の上には、最終確認用に残した資料が数件。それ以外はもうほとんど片づいている。私物も先週までに持ち帰った。会社の資料やデータを外へ持ち出すことはない。長年使ってきた業務端末も、今日は最後に初期化確認をして返却するだけだ。
朝一番の打ち合わせは、東湾案件の進捗確認だった。俺が抜けたあとに誰が何を判断するか。その確認をするつもりで参加したが、始まって十分もしないうちに、ほとんど口を挟む必要がないことが分かった。
「この変更は現場側で吸収できます。ただ、納期へ響く可能性があるので、客先には今日中に二案出します」
楠が画面を切り替える。別の担当が続けた。
「設備側の確認は私が持ちます。明日の午前までに回答をまとめます」
以前なら、最後に俺へ「これでいいですか」と視線が集まっていた場面だ。今日は違った。必要な人が、自分の担当として決めている。
俺は最後に一つだけ確認した。
「責任者間の連絡先は共有できてる?」
「昨日更新済みです」
楠が答える。
「なら大丈夫だな」
それで俺が口を挟む場面は終わった。少し寂しくはあったが、それ以上に安心した。
俺がいなくなった翌日に、全部止まるような引継ぎにはしたくなかった。退職を決める前から少しずつ仕事を渡し、最後の一か月半で責任者移管を仕上げてきた結果が、目の前にある。
午前中は残った承認と説明を片づけた。昼前には人事と、貸与物の返却手順や秘密保持、退職後の連絡先を最後にもう一度確認した。
連星技研の仕事は、今日までも会社の設備や情報を使わず進めてきた。会社の資料は何一つ持ち出さない。その線は、独立を決めた時から変わらない。
午後、社長室へ最後の挨拶に行った。
「長い間、お世話になりました」
頭を下げると、社長は少し困ったように笑った。
「神堂君にそう改まられると、こっちも年を取った気になるな」
「二十年以上ですから」
「そうだな」
少しだけ間があった。
「今回の件もあって、きれいな終わり方ではなかった部分もある。それでも、会社として君と今後仕事をしない理由はない。連星技研と話が合う案件があれば、その時は普通に相談させてもらう」
「ありがとうございます。こちらこそ、その時はよろしくお願いします」
会社を辞めるから、ここで得たものまで全部捨てるわけじゃない。芦屋常務のことは許せない。それでも、会社で教えてもらったことも、任せてもらった仕事も、一緒に働いた人たちも本物だった。それでいいと思えた。
部署へ戻ると、小さな花束が机の上に置かれていた。楠が、その横で少しだけ得意そうに立っていた。
「いらないって言っていましたけど、さすがに何もないのは私たちの気が済まないので。お花だけです」
「それでも十分だよ」
「二十年以上いた人に、本当に何もなしの方が変です」
「……ありがとう。もらって帰るよ」
周りからも「お疲れさまでした」と声がかかる。大げさな挨拶をするつもりはなかったので、立ったまま短く礼を言った。
「長い間ありがとうございました。俺が抜けても回るようにしたつもりですけど、困った時まで意地を張らず、ちゃんと周りを頼ってください。俺もそうするのが遅かったので」
何人かが笑った。
「それと、独立したから二度と会わないわけでもありません。仕事で会ったら、その時はよろしくお願いします」
それくらいで終えた。最後に鞄を持ち、もう自分のものではなくなった机を見る。思ったより、何も残っていない。でも、それでよかった。
そのあと人事へ寄り、業務端末、入館証、会社支給の携帯を返却した。受領の確認まで終えると、本当に会社へ返すものはなくなった。
人事フロアの外では、楠が待っていた。エレベーターまで一緒に歩く。
「神堂部長」
「まだ部長?」
楠が一度、俺の胸元を見る。入館証はもう返した。会社の端末もない。
「……そうでした」
少し笑ってから、言い直す。
「神堂さん。今までありがとうございました」
呼び直した声は、いつもより少し柔らかかった。その呼び方は、思ったより胸にきた。
「こちらこそ。楠にはかなり助けてもらった」
「独立したからって、急に相談料取らないでくださいね」
「仕事なら取るよ」
「そこはちゃんとしてるんですね」
「会社が違うからな」
エレベーターの扉が開く。楠は開いた扉へ一度目をやったが、すぐには話を切らなかった。乗り込む前に、楠が言った。
「次に会う時は、別の会社同士の相談ですね」
「そうなるな」
「その時はよろしくお願いします、神堂さん」
「うん。よろしく」
扉が閉まる。一階へ降り、いつもの出口から外へ出た。
振り返らなかった。嫌だったからじゃない。二十年以上働いた場所は、明日からも普通に動き続ける。俺がいなくても、そこで仕事をする人がいる。それを確かめられたから、前を向いて帰れた。
◇
家のドアを開けると、カレーの匂いがした。昨日、詩乃と約束した夕飯だ。いつもと同じように、詩乃が玄関で待っていた。
「おかえりなさいませ、マスター」
「ただいま」
俺の手にある花束を見て、詩乃が少し目を細めた。
「皆様からですか?」
「うん。送別会はいらないって言ったから、代わりらしい」
「素敵ですね」
靴を脱ぐと、詩乃が鞄を受け取り、そのままいつものように上着へ手をかける。俺も腕を抜きやすいように少し肩を引いた。
上着を受け取った詩乃は、続けてネクタイの結び目へ指をかけた。朝、詩乃に結んでもらったものを、今度は本人の手がゆっくり緩めていく。
「あ」
俺が声を出すと、詩乃の手が止まった。
「朝の約束」
「はい。覚えております」
ネクタイを外し終えると、詩乃はそのまま両手で受け取った。ほんの普通のネクタイだ。特別高いものでもない。仕事で何度も使ってきたうちの一本にすぎない。それでも詩乃は、皺を伸ばすように指先でそっと触れた。
「ありがとうございます」
「何度も使った一本だけど、詩乃に残してもらえるなら嬉しいな」
「はい。私が覚えているだけでなく、形として残しておきたいです」
少し照れくさくなって、畳まれていくネクタイから詩乃の顔へ目を移した。
「じゃあ、詩乃に預けるよ」
「はい。大切に保管いたします」
詩乃はネクタイを一度きれいに畳み、あとで収納するため脇へ置いた。
夕食はカレーだった。最初に詩乃と食卓を囲んだ時にも食べたもの。あの時は、画面の中にいたはずの相手が目の前でスプーンを持っているだけで現実感がなかった。
今は違う。
「今日で会社員終わったよ」
食べながら言うと、詩乃が俺を見る。
「二十年以上、お疲れさまでした、マスター」
「ありがとう」
「明日からは、連星技研のお仕事が中心になりますね」
「結局、休みにはならないんだよな」
「明日の予定を申し上げましょうか?」
「今はやめて。たぶん現実に戻される」
詩乃が笑う。
会社員を辞めても、仕事がなくなるわけじゃない。むしろ、やりたいことは増えている。詩乃の本人性、俺たち自身の強化、連星技研、新しい拠点、熱拡散材の仕事。
会社にいた二十年以上を捨てて別人になるわけじゃない。そこで身につけたものを持ったまま、次を自分で選ぶだけだ。
カレーを食べ終え、食器を片づけた頃、詩乃が俺の前へ立った。
「マスター」
「ん?」
「以前のお約束を、覚えていらっしゃいますか?」
嫌な予感はしなかった。むしろ、その言い方で一つ思い出した。
「……風呂?」
詩乃の表情が明るくなる。
「はい」
だいぶ前、トレーニングのあとだった。一緒に風呂へ入ろうとする詩乃を断って、俺は確かに言った。
――じゃあ、そのうち。
「ずいぶん待たせちゃったな」
「楽しみにしておりましたので」
楽しみに待っていてくれた約束を、俺の方は先へ延ばしてばかりいた。
「本日であれば、よろしいでしょうか」
会社員最後の日。昨夜は初めて好きだと言い合った。断る理由を探してみたが、一つも浮かばなかった。
「うん。入ろうか」
詩乃が、はっきり嬉しそうに笑った。
◇
恋人になってから、互いの身体を今さら見て驚くような関係ではない。それでも、明るい浴室で二人並ぶと妙に落ち着かなかった。
湯気に濡れた黒髪が肩から背中へ張りついていた。こんなふうに向き合って一緒に風呂へ入るのは初めてで、何度も視線を逸らしてしまう。
寝室とは違う。湯気の中で、何も隠さず同じ場所にいるというのが、妙に生活っぽい。
「マスター」
「何?」
「視線が泳いでおります」
「分かってても、そこは言わないでくれよ」
「はい」
詩乃が笑っている。先に身体を流し、俺は小さな椅子へ座った。
「では、背中を洗います」
「ずっと言ってたもんな」
「はい。ようやく実現しました」
泡立てたタオルが肩へ触れる。力は強すぎず、弱すぎない。詩乃の手が肩から背中へゆっくり動く。怪我をしたところも、もう日常生活では気にならない。それでも詩乃は、以前傷めた場所へ触れる時だけほんの少し力を変えていた。
「力加減は、いかがですか?」
「うん。かなり気持ちいい」
背中を流してもらったあと、今度は俺が詩乃の髪を洗った。濡れた黒髪は、普段よりずっと重い。指を入れてゆっくり泡立てると、詩乃が目を閉じた。
「強くない?」
「ちょうどよいです」
「こういう時も観測してる?」
「しております。ただし、今は数値より、マスターに洗っていただいていることの方が重要です」
「それならよかった」
泡を流す。黒髪が背中へまっすぐ張りつき、お湯が肩を伝っていく。
その背中を見ていると、あの日、床から俺へ手を伸ばしていた詩乃が一瞬だけ頭に浮かんだ。
今は目の前にいる。傷ついていない。温かい。
俺は流し終えた髪を後ろへまとめるようにして、肩へ手を置いた。
「マスター?」
「いや。ちゃんといるなと思って」
詩乃は少しだけ俺を見つめ、それから俺の手へ自分の手を重ねた。
「はい。おります」
それだけで十分だった。
最後に二人で湯船へ入った。今の家の浴槽は、二人で入るには少し狭い。自然と距離が近くなる。詩乃が俺の前へ身体を預け、背中が胸元へ触れた。湯の温度とは違う、詩乃自身の温かさが伝わる。
「新しい家の風呂、やっぱり広くしよう」
「はい」
「二人で入っても、もう少し余裕あるくらい」
「承知しました」
「でも、これはこれで悪くないな」
腰へ腕を回すと、詩乃が少しだけこちらへ寄りかかった。
「私も、そう思います」
しばらく、何も話さず湯に浸かった。
昨夜は遅くまで詩乃と過ごしたせいで、今日は寝不足だった。会社では二十年以上の最後を終えた。帰ってきてカレーを食べ、今は詩乃と同じ風呂に入っている。
一日だけ切り取ればずいぶん濃いけれど、嫌じゃなかった。
「詩乃」
「はい、マスター」
「会社辞めたけどさ」
「はい」
「終わった感じは、あんまりしないな」
詩乃が少しだけ首を傾ける。
「次が、すでに始まっているからではないでしょうか」
「そうかも」
明日から、会社へ行くための目覚ましは必要ない。でも、やることは山ほどある。何より、その先を一緒にやりたい相手が、今は腕の中にいる。
「明日もよろしく、詩乃」
「はい。明日も、その先もよろしくお願いいたします、マスター」
少しだけ振り向いた詩乃の頬へ口づけた。
浴室の外には、今日外したネクタイがある。二十年以上続いたものを一つ終えて、ずっと先延ばしにしていた約束を一つ叶えた。
明日からは、俺が選んだ仕事と、俺が選んだ人生を、詩乃と一緒に進んでいく。
【カクヨム版・サイドストーリーのご案内】
本作品は「カクヨム」でも連載しています。
「小説家になろう」版では、掲載基準に合わせて一部の表現を調整していますが、物語の展開や設定に変更はありません。
また、カクヨムでは本編とは別に、詩乃の視点から描いたサイドストーリーも公開しています。
第1話は一般公開、第2話以降はサポーター限定公開となっています。
ご興味のある方は、作者プロフィールに掲載しているカクヨムへのリンクからご覧ください。




