第29話「君の後ろ姿」
会社を辞めてから、三週間が過ぎた。
正確には、新しい拠点の改修自体は退職前から始まっていた。古い研修施設を一度全部壊して建て直すような話ではなく、使える建物から順番に直していく。受電設備を更新し、傷んだ配管を直し、研修棟の一部を研究区画へ、管理棟の一部を事務と監視のための区画へ変える。
俺が会社を辞めてからは、そこへ旧工房の設備を少しずつ移した。高真空加工ユニットを基礎にした高精度微細構築式製造機《銀繭》、試験設備、材料保管庫。仕事を止めないよう一度に全部運ぶのではなく、動作確認が終わったものから順番に切り替えていった。
最後に残っていた測定機器の調整が終わったのが昨日。これで、第一期の引っ越しはひとまず完了だった。
九月も半ばを過ぎたが、昼間はまだ暑い。それでも、朝ここへ来る時に木陰を抜けると、八月とは違う涼しさを感じるようになった。
「……広いな」
朝、研究区画の中央に立って、改めて口にする。前の工房も、借りた当初は十分広く感じた。でも今は、作業台を何台置いてもまだ余白がある。天井も高く、搬入口から大型機器をそのまま入れられる。隣には材料保管室、その向こうには|《銀繭》専用の区画まで分けた。
「今後の設備追加を考えれば、まだ第一段階です」
隣にいる詩乃が答える。
「分かってる。でも、前の工房から考えると十分すごいよ」
「はい。私も、とても嬉しいです」
そう言って詩乃が笑う。
窓の向こうには、まだ手を入れていない古い棟が見えた。宿泊棟も食堂も残っているし、地下研究施設なんて地盤調査と設計を進めている途中だ。三百万平方メートルの土地の大半は、相変わらず山と斜面のままでもある。
それでも、ここにはもう俺たちの仕事場がある。会社員を辞めて、連星技研の仕事だけをするようになって三週間。その間ほとんど毎日ここへ通い、詩乃と二人で設備の配置を決め、業者の作業が終わった場所から確認していった。
ただ、その三週間を仕事だけで埋めたわけでもない。
九月に入って少しした夜。夕食を終えたあと、俺がいつものように端末を開こうとすると、詩乃の手が画面の前へ伸びてきた。
「マスター」
「ん?」
「本日のお仕事は、ここまでにしませんか」
思わず端末を見る。まだ何も話していないのに、開こうとしていた翌日の設備配置表を見抜かれていた。
「会社辞めたら自由な時間が増えると思ってたんだけどな」
「マスターが、ご自身でお仕事を増やしていらっしゃいますので」
「否定できない」
詩乃が少し笑った。
「外は、昼間よりかなり涼しくなっています。少し歩きませんか?」
用事もないのに、夜に二人で外へ出る。それだけの提案だった。
「いいよ。行こうか」
マンションを出ると、昼の残暑が嘘みたいに風が軽かった。行き先は決めない。近所の道を、詩乃と手をつないでゆっくり歩く。
途中、俺が新拠点の照明配置について口を開きかける。
「そういえば、研究棟の――」
「マスター」
「……仕事の話は禁止だったな」
「はい。本日はお休みです」
笑って、話をやめた。代わりに、コンビニの前で見つけた新しい飲み物の話をしたり、道沿いの家の庭を見たり、どうでもいいことを話しながら歩いた。
何かを決める必要も、成果を出す必要もない。会社を辞めて、こういう時間も手に入れたかったのだ。
「こういう時間、いいな。また二人でこうして歩こうか」
俺が言うと、詩乃が手を握る力を少しだけ強くした。
「はい、マスター。私も、そうしたいです」
三十分ほど歩いて家へ戻った。翌朝になれば、また仕事をする。それでいい。仕事をする時間と、二人で何もしない時間。その両方を自分たちで選べることが、少し嬉しかった。
◇
そして、第一期の引っ越しが完了した今朝。新拠点へ入り、詩乃と改修済みの区画を一つずつ確認していた。
散歩をしたあの夜から、生活が大きく変わったわけじゃない。翌日からはまた仕事をして、設備の搬入や業者との打ち合わせに追われた。それでも、仕事だけで一日を埋めなくてもいいという感覚は、少しだけ残っていた。
そして、ここで整えているのは研究設備だけじゃない。第一回の襲撃を受けたあとに決めた安全対策も、今回の改修では最初から組み込んだ。
敷地内外を確認する監視系。異常時に区画を分ける防護扉。外部回線が一つ使えなくなっても連絡手段を残せる非常系統。そして、管理棟の奥に作った小さな安全区画。
本格的な防護施設と呼べるものではない。けれど、前の工房で机と扉しかなかった時とは違う。
「安全区画も、今日から通常運用でいいんだよな」
「はい。電源、通信、監視、換気、非常解錠まで確認済みです。局所防護式《白椿》も二人分、所定位置へ移しました」
「前よりは、だいぶ安心できるな」
「安心しすぎていただくのも困ります」
「そこは分かってるよ」
そう返すと、詩乃は満足そうに頷いた。
前の襲撃以来、俺たちは何度も同じ確認をしてきた。逃げられるなら二人で逃げる。逃げられず、相手を止める必要があるなら役割を分ける。俺は安全区画から通報と施設制御、監視を担当する。詩乃は退路を確保する。
あの時は、何もなかった。今は違う。準備してきたものが、ようやく形になった。
できれば、一度も使わずに済んでほしいと思っていた。
◇
その日の午後、俺は|《銀繭》の移設後確認をしていた。詩乃は少し離れた作業台で、新しい材料ロットの測定結果を見ている。
「次の試験片、明日からでいけそう?」
「はい。移設による加工精度への影響は許容範囲内です。ただし最初の二回は評価用に留めます」
「了解」
画面へ確認済みの印を入れる。
会社を辞めてから、時間の使い方はかなり変わった。朝からここへ来ても、途中で勤務先へ戻る必要がない。会議も、自分の会社と取引先のものだけだ。研究を続けて、疲れたら詩乃と昼を食べる。夕方になれば一緒に帰る。
ずっと欲しかった生活に、少しずつ近づいている。
そんなことを考えていた時だった。詩乃の顔から、笑みが消えた。
「マスター」
声だけで分かった。
「何か来た?」
「はい」
俺の前の画面が自動で切り替わる。敷地外周の表示。そのうち道路側と山側、二か所が黄色く点滅していた。
「道路側に車両二台。登録済みの搬入予定にはありません。山側でも複数の移動反応があります」
「同時?」
「はい。それと、外部向け無線通信に妨害を検出しました」
背中が冷たくなる。一度経験したからこそ、今度は意味を理解するまでに時間がかからなかった。
「警備会社と警察」
「非常系統から送信済みです。警備会社への警報到達を確認。警察への通報も並行しています」
詩乃が答える間にも、画面上の反応が増えた。道路側の車両から人が降りる。山側の監視映像には、木立の間を動く影が映った。
偶然じゃない。
「……多いな」
「現在確認できる範囲で十一名です。敷地外に残っている者を含めれば増える可能性があります」
前回の四人どころじゃない。しかも今回は、正面だけじゃない。新しい拠点へ移ったことも、ここに何があるかも、ある程度調べた上で来ている。
「目的は?」
「断定できません。ただし正面側の一部が搬入口へ、山側の一部が研究棟裏手へ向かっています」
また、技術を取りに来たのか。
前の工房へ入り込んだ男たちの動きが、頭の中で重なった。
画面の一つが乱れた。次いで、外周の監視点が一つ消える。
「監視機器への物理的な破壊を確認しました」
「ここまでやるのかよ……」
一瞬、芦屋常務との会話が頭をよぎった。あの男が今回のことを知っている証拠はない。第一回の襲撃も、クレルヴァントが直接命じた証拠までは出ていない。でも、もうそんなことを考えている場合じゃなかった。
「詩乃。手順どおりにいこう」
「はい、マスター」
俺たちは同時に動いた。
◇
|《白椿》を組み込んだ防護インナーへ着替え、上から簡易の外装を重ねる。
俺にもできることはある。だから前へ出る必要はない。分かっている。分かっているのに、身体は研究区画の出口へ向かいたがった。
遠くで、何か硬いものがぶつかる音がした。
「研究棟西側の外扉へ干渉を確認しました」
詩乃が外装の固定を確認しながら言う。
「東側も?」
「二名が回り込んでいます。管理棟側にも三名」
「俺も外に――」
「マスター」
詩乃が強い目で俺を見る。
「前回、マスターは私の前に立ってくださいました」
俺は何も言えなかった。
「あの時のマスターの後ろ姿を、私は忘れていません」
その言葉に、胸の奥が強くざわついた。
嫌だ、と言いたい。実際、嫌だった。
防護装備を整えた時にも、詩乃だけを危険な場所へ出すことには最後まで納得しきれなかった。それに、俺自身ももっと強くなると決めたばかりだ。詩乃を守れるように、必要なら自分自身を変えることも受け入れると決めた。
でも、まだ今の俺はそこまで行っていない。今ここで感情だけで外へ出れば、また詩乃に俺を守らせることになる。それは、一緒に戦うこととは違う。
「……前に決めた基本方針でいこう」
「はい」
「相手を止めることより、戻ることを優先する。必要以上に傷つけない。危険なら退く。通信が切れたら、決めた経路で合流する」
「はい。その方針を最優先にします」
詩乃の返事は迷いがない。
俺は一歩近づいた。向き合ったまま、詩乃を抱き寄せた。外装越しだから、いつものように柔らかくはない。肩も背中も防護材の感触がある。それでも腕の中に入れてしまえば、その下にある体温は分かった。
三週間前、俺たちは初めて好きだと言い合った。その翌日には、一緒に風呂へ入ってくだらないことで笑っていた。
今、抱いているのも同じ詩乃だ。戦うための何かじゃない。俺がこれからも一緒にいたい相手だ。
「詩乃」
「はい」
「無事に帰ってこいよ」
腕の中で、詩乃がほんの少し力を抜いた。
「はい、マスター」
それだけ聞いて、俺は手を離した。
詩乃は出口へ向きかけ、もう一度こちらを振り返った。一瞬だけ、いつもの優しい顔で俺を見た。次の瞬間には、もう表情が変わっていた。
「安全区画までご一緒します」
「分かった」
二人で研究棟を出て、管理棟へ走った。
◇
管理棟一階の奥で、安全区画の扉が閉じる。分厚い扉の向こうへ詩乃が消えた瞬間、喉の奥が妙に乾いた。
俺は椅子へ座り、正面の画面を見る。ここでやることは決まっている。
「警備会社、応答確認」
『こちらで警報を確認しています。警察へも共有済みです。現場到着まで施設内へ出ないでください』
「了解です。侵入者は複数。現在十一名以上を確認しています」
位置情報を送る。次に施設制御。研究区画と管理区画の間を分離する。人がいる場所を閉じ込めるためじゃない。侵入者が一気に奥へ進めないよう、空いている区画から順に防護扉を閉じる。
搬入口側の設備は停止。|《銀繭》と主要端末は外部操作を受け付けない状態へ切り替える。
非常用の監視画面には、詩乃の位置が表示されていた。
「詩乃、聞こえる?」
『はい、マスター』
「西側、二人が中へ入った。正面はまだ外に四人。管理棟側にも三人いる」
『確認しています』
声が違った。冷たいわけじゃない。ただ、いつもの俺へ向ける柔らかさが消えている。
画面の中で詩乃の位置表示が一気に進んだ。西側へ侵入した二つの反応と重なる。数秒後、その二つが止まった。
『西側二名、行動不能。生命兆候に問題はありません』
「……了解」
俺が返す間にも、詩乃はもう次へ向かっている。
速い。
監視映像を切り替えても、まともに姿を追えない。角を曲がったと思った次の瞬間には別のカメラへ移り、侵入者の反応だけが一つ、また一つと止まっていく。
『管理棟側、一名停止』
さらに十数秒。
『二名停止。残り一名は北側へ移動しています』
「北側の通路を閉める」
操作すると、防護扉が下りる。逃げ道を失った反応へ、詩乃の位置表示が重なった。ほどなくして、それも止まった。
何をしたのかまでは分からない。けれど、表示されている生命兆候はどれも安定している。今のところ、決めた方針から外れてはいない。
それなのに、画面の中で次々と消えていく脅威表示を見ていると、今さらながら詩乃がどれだけ人間離れした存在なのかを思い知らされた。
「正面側、三人が搬入口へ回った。残り三人は外周を移動中」
『承知しました』
俺も手を動かす。詩乃の進行方向に合わせて照明を切り替え、使っていない区画を閉じる。研究区画へ抜けそうな相手は、防護扉で遠回りさせる。
今度は、詩乃一人に全部を背負わせているわけじゃない。俺が見て、道を塞ぎ、詩乃が動く。二人で対処している。そう思えることが、少しだけ救いだった。
「警察は、あとどれくらいで来ますか?」
『複数台が現場へ向かっています。まもなく到着します』
警備会社の声が返る。
「分かりました」
通話を切らず、そのまま監視を続ける。だが、警察の到着を待つまでもなかった。詩乃の位置表示が敷地内を走り、その先で侵入者の反応が次々に止まっていく。
一人。
また一人。
俺が新しい位置を伝える頃には、もう次の反応へ向かっている。
三分も経っていなかった。画面上で、八人の侵入者がすでに停止していた。
「……もう、そこまで?」
『はい。八名を停止。生命兆候はいずれも安定しています』
「無理してないよな」
『問題ありません』
表示されている詩乃の身体状態に異常はない。前の時とは違う。
そう思った時だった。
残る三つの反応が、一つの監視画面へまとまって入った。
中央の男。帽子とマスクで、顔の大半は見えない。
それでも、身体が先に反応した。
「……あいつ」
忘れるはずがない。床から見上げた目。俺の腕へ金属棒を振り下ろし、何度も蹴った男。あの工房で、最後まで俺を痛めつけた男だった。
『マスター』
詩乃の声が変わった。ほんのわずかだったが、俺には分かった。
「詩乃、あいつ……」
『はい』
男の左右には、まだ二人いる。先の八人より本格的な防護装備を身につけ、持っている武器も殺傷性が高そうに見える。主犯格らしい男を挟むようにして、互いを庇える距離を保ったまま奥へ進んでいた。
「三人いる。詩乃、待て。そいつら、さっきまでの連中より危ない」
『承知しています』
三人は稼働中の研究区画へ直接向かわず、研究棟東側の未改修区画へ進路を変えた。
監視画面を切り替える。第一期改修の対象外だった区画。内部監視は途切れ、古い設備通路の一部は新しい制御系へまだ接続できていない。
「そっちはまだ制御が繋がってない。警察も来る。無理に追うな」
『東側未改修区画の旧設備通路から、稼働中の研究区画へ回り込める経路が残っています』
「だったら俺が閉める」
操作する。反応しない。表示は黄色のままだ。
未改修。今まで後回しにしていた場所が、そのまま穴になっている。
『マスター。三名の進路を止めます。脅威停止後、直ちに帰還します』
「詩乃、待て」
画面の中で、詩乃の位置表示が一気に動いた。
「詩乃!」
止まらない。
「……無事に帰ってこいよ」
ほんの一瞬だけ、移動速度が落ちた。
『……はい、マスター』
三人が研究棟東側の未改修区画へ入る。詩乃も続く。通信中継もまだ整っていない区画へ入ったところで、位置表示が途切れた。映像も消える。音声へ雑音が入り、通信が落ちた。
「詩乃?」
返事はない。
警察車両が敷地へ入ったという表示が上がる。
本当なら任せるべきだ。分かっている。
でも、三人の装備を見た。あの男を認識した時の詩乃の声も聞いた。その上、東側未改修区画は内部監視も通信中継も未整備で、俺から何も見えない。
もう安全区画で待ってはいられなかった。
俺は椅子から立ち上がり、詩乃の背を追って研究棟へ向かった。
【カクヨム版・サイドストーリーのご案内】
本作品は「カクヨム」でも連載しています。
「小説家になろう」版では、掲載基準に合わせて一部の表現を調整していますが、物語の展開や設定に変更はありません。
また、カクヨムでは本編とは別に、詩乃の視点から描いたサイドストーリーも公開しています。
第1話は一般公開、第2話以降はサポーター限定公開となっています。
ご興味のある方は、作者プロフィールに掲載しているカクヨムへのリンクからご覧ください。




